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6/24(土)
◆おっと、今日は7時半には仕事へ出たのに、帰って風呂入って一息ついたらもう1時過ぎではないですか、なんてこった。土曜はハードです。んで、明日(日)も朝から仕事やねんな〜、これが。働けど働けど我が暮し楽にならざるナリ……(詠嘆)。ならサッサと寝りゃいいんですが、そうもいきません。ショックなことがありましたので。
えー、私が家庭教師で見ているある生徒──まあ仮にA君とでもしておきましょうか──に、驚異の現象が起きたのです。二重人格というんでしょうか、まさにあれ。んー、小説なんぞでよくとりあげられてはいますので、知らぬわけではなかったんですけど。まさかあれを眼の前で見せられるとは……。
よくぼんやりするやつだったんですよ、日頃から。いや、「ぼんやり」どころではないな、「起きながらにして寝る」か。常に体がユラユラとゆれる、隙あらば眠る。とにかくそういうふしぎな子だったんです。本来賢い、というかよく勉強できる、そのポテンシャルは十分ある子なんですけど、成績は……とにかくよくゆれてるんで(笑)。
このゆれるってのは、眠気を我慢してもつい寝入ってしまう時、よく「船をこぐ」っていうじゃないですか、こっくりこっくりなる、あの感じです。それが常時なんです。で、まあたまに大きくスイングして体勢をくずし、「うわあ!」となる。一番意識がはっきりするのはその時じゃなかろうか(笑)
でも本人は礼儀正しく真面目な子なんで、それをよくないこと、解決できないし原因もわからないけど困ったこと、先生(私)に対して失礼でけしからんこと、とは思っていたようでした。が、頭ではそう思っていても体がついてこん。当然勉強にも身が入らないし、内心きっと悩んでいたんだろうとは思います。
しかしふとした瞬間スイッチが入って、もう一人のA君(これをα君としましょう)に入れ替わるや、これがすごい。普段とろんとした目はキリリとひきしまり、猛然と問題にアタックしていくではありませんか! その手と口のスピード、集中力、頭の回転の速さ、どれをとっても一級を超えて特級品、ありえないレベルの生徒と化してしまったのです。
ありえん、こんな変身ありえんよ。いや、変身とかありえんというのは失礼か。本来のA君はきっとこうだったにちがいない。私は指導経験もそれなりに長いので、α君と同等のランクに属する生徒も何人か見てきましたし、A君の行っている学校のレベルからしても、失礼かもしれないけれど、そんなぼんやり君では到底入れるようなところではありませんので。
それにしても不思議だ。彼に何が起こっているんでしょう? ちょっと詳しくその症状を追いたいというか記録しておきたいのですが、眠くなってきましたし明日も早いので、近いうちにまた書きます。なるべく記憶が鮮明なうちに。ではその時まで。
6/17(土)
◆(そういうことは珍しいのだけれど、)相手の至らなさによって一方的にこちら(というのは私と私の客)が迷惑をした、ということがありました。それがあまりにレベルの低いミスなので、繰り返されても困るなと思い、私はメールで彼へ抗議とまでいえない程度に言葉を選んで、「お願い」をしたのでした。
それは昨晩のことで、相手(もしくはその上司)から応答はない時点でこれを書いています。そもそもこんなことをこの日記に採りあげること自体が異例ですが、ううむ、難しい。からまりもつれた思考をありのまま書くことで、私の気が済むということがあるのかもしれぬ、と思い書きはじめてみたのでした。
年齢や立場といった外側上の上下を超えて、立っている見地の高低にギャップがあった場合、高みにある者はそれをおごるのではなく、低い者に手をさしのべるのがよい、と私は常々考えています。よって彼に対して非難ではなく、まして嫌味にもならないようできるかぎり配慮し、お願いをすること、それ自体は悪いことではない。先ほども書きましたが、何度もこのようなことが繰り返されていい加減うんざりしていましたし。これ以上やられても正直困る。
しかし私の出したそのメールは、彼だけでなく彼の上司はもちろん、同僚にさえ見られる可能性がある。メールという手段をとればそうなることは知っていたので、それが心に引っかかっているというのが一つあるのです。どう考えても彼の評価は下がるでしょう。そこまでせんでも、という風に思ってしまうのだなあ、むうむう。
だからといって黙ってもいられなかった! 私としてもこれは会社の人に前から訴えたいことでもありましたから。状況をわきまえない極めて不躾で不細工なその行為が引き金となって、最悪客が契約の解除を言いだすことだって十分考えられるのですよ。それは非常に困る。要するに私の足をひっぱり、社に損害をもたらす、そういう種類の不手際だったんです。
とまあそういうわけで、実に困った(その上つまらない)話で、「私はまったく正当で、何も悪くない!」とか「私の言っていることは当然の主張だ!」なんてそう単純に割り切ってしまえる人間だったらよかったんだけど、残念ながらそうではないだけに、クヨクヨしてます。……やれやれ。(これだから疲れる)
で、実をいうとそんなことは心の表層で起ったさざ波、もしくはゆらぎ程度のもので、もっと中心の核の部分からは、こんな風にいう声がわき上がってきて、私のこころを強くゆさぶるのです。「しかしそれらすべてが真実だったとしても、そのすべてを超えて大きく許してやることこそ肝要なのではないか?」
この言葉の意味がわかるのと同時に、小さなことに拘泥するせせこましい自分の存在も嫌になるくらい明確に意識されるため、つらい。これは気がかりなことがあるにもかかわらず、体を休ませなければならない、そんな夜の寝苦しさにも似た感覚ですね。身もだえしますよ。ひょっとすると彼は私にこのことを通じてあれこれ考えさせるため、あんなつまらんことをしたのですよ、誰かに遣わされて……うん、きっとそうだ。
ああ、このようなことにぶち当たると、試されている感じがすごくします。「おまえはどのようになりたいのだ?」と。今回の件でいうと、私のとった答は自己評価で……中の下、大学の試験なら及第ぎりぎり60点、てとこのような気がします(甘いか?)。むう、これはッ、試されているな!? とこう思うこと、前からあったけど最近多いッス、とほ。
1/31(火)
『◆お腹が空いて眠れなかったのでご飯を食べたら、今度は満腹で苦しくなってしまい、よけい眠くなくなっちゃいました。何やってんだか。』という書きかけが去年の8/4(木)という日づけで残っていました。んー、その頃って何してたっけ? 半年もたつと忘れてしまいますね。とにかく言えることは、大して成長してないってことでしょうか(汗)
◆中学入試のシーズンも終り、一段落っていうか、かなり落ちつきました。年末年始は忙しかったもんなあ。大晦日まで働いてましたし。朝から晩までかけずり回っていて、嵐のような日々でした。洗濯する余裕すらなかったという……。まあでも忙しいということは私を必要としてくれる人なり場があるということだから、ありがたく思わなくては、とも考えます。
◆え、ところで久しぶりに本を読んでいたら面白い記述がありましたので写します。
生命とはなんだろう? だれもそれを知らなかった。生命は生命になった瞬間から自分を意識していることに疑いはなかったが、自分がなんであるかは知っていない。刺戟感性という意味の意識は、生命発生のもっとも低い未発達の段階でもすでにある程度まで目ざめていることは疑えなかった。したがって、意識現象の最初の発現を、生命の一般的な、もしくは個別的な歴史の一時期に結びつけ、たとえば、神経系統の出現を意識の先行条件とすることは不可能であった。最下等の動物形態は神経系統などは所有していないし、まして大脳などは所有していないが、だれもかれらが刺戟感性を持たないと断定することはできなかった。また、私たちは、生命が形成する刺戟感性の特殊器官、たとえば神経だけでなく、生命そのものをも麻痺させることができる。たとえば、卵子と精虫は、クロロホルム、水化クロラール、モルヒネで麻痺させることができる。それから考えると、生命の自意識とは、けっきょく生命を構成している物質の一機能にすぎない。そして、この機能は強大になるにつれて、主人である生命に立ちむかい、生みの親である生命現象を解明し説明しようとする。これは生命が自分自身を認識しようとするたのもしい、しかし、はかない欲求であって、自然の自己穿鑿であるが、けっきょくは、むなしい努力である。自然は認識につきるものではなく、生命はついにうかがい知ることができないものだからである。
生命とはなんだろう? だれもそれを知らなかった。生命が湧きでる、生命が燃えあがる自然的基点は、だれにもわからない。この基点からのちは、生命の世界には偶発的な、もしくは偶発的にちかい現象は一つとして存在しないが、生命そのものはやはり偶発的とみるほかはない。生命についてせいぜいいえることは、生命がきわめて高度の発達をとげた構成を持っていて、無生物界にはそれとすこしでも比肩できるものは一つも存在しないということだけである。生命のもっとも単純な形態と、無機であるために死んでいるとさえいうに値しない自然物とのあいだの距離にくらべたら、脊椎動物と偽足アメーバとの距離などは問題にならなかった。なぜなら、死は生の論理的否定にすぎないが、生命と生命のないものとのあいだには、科学が躍起になっても橋渡しのできない深淵が口をひらいているからであった。人々はこの深淵をさまざまな理論でふさごうとしたが、深淵はその理論をのこらず呑みこんでしまい、深さと広さをすこしも減じようとはしなかった。人々は生物界と無生物界とを連絡する連鎖を発見するために、結晶が母液のなかで凝固するように、蛋白液の中で自然に凝固する無構成の生命物、つまり、無機的有機物を仮定する矛盾をさえあえてした。しかし、有機的分化性こそはあらゆる生命の先行条件であり発現条件であって、同種生殖から生まれない生物は一つとして存在しない。深海から原形質をすくいあげた歓声は、やがて赤面にかわった。原形質と考えられたものは、石膏の沈殿物にすぎないことが明らかになったからであった。しかし、生命を奇蹟と考えてしまわないために(無機自然と同一の物質から構成されていて、同一の物質に分解されるという生命は、それが偶発的であるかぎり奇蹟といわざるとえないだろうから)、人々は偶然発生、つまり、無機物から有機物が発生すると信じなくてはならなかったが、これもまた一つの奇蹟を信じることにほかならなかった。こうして人々は中間の段階と過程を考えつづけ、既知のあらゆる有機体よりも下等ではあるが、その下にもまだ自然のもっと原始的な生命の萌芽が存在すると考えられる有機体の存在を仮定した。どんな倍率の顕微鏡によっても見ることができないほど微小な原虫類がそれであって、この原虫類が発生したと考えられる以前に、蛋白化合体の合成がおこなわれたにちがいないというのであった。……
さてそれなら、生命とはいったいなんだろう? それは熱であった。形態を維持しながら一瞬も同一の状態にいないものがつくりだす熱、同一の状態を維持することが不可能なほどに複雑で精巧な構成を持つ蛋白分子が、たえず分解、新生する過程に付随する物質熱である。したがって、もともと存在しえないものの存在であって、分解と新生とが交錯する熱過程においてのみ、甘美に、せつなく、辛うじて生命線の上にバランスを保っていることができるものの存在である。生命は物質でもなければ精神でもなかった。両者の中間物であって、飛瀑にかかる虹のように、または焔のように、物質を素材とする一現象である。生命は物質ではないが、しかし快感と嫌悪を感じさせるまでに官能的で、自分自身を感知するまでに敏感になった物質の恥知らずな姿であって、存在のみだらな形現であった。万有の純潔な冷気のなかにおける敏感なひそかな蠢動であり、栄養摂取と排泄のみだらなひそかな不浄であり、炭酸ガスと素性も性質も明らかでないいかがわしい物質とからなる排泄物的呼気であった。生命は肉と呼ばれるぶよぶよしたもの、水と蛋白と塩分と脂肪とからなり、形、高貴な形像、美ともなりうるが、また、官能と欲望の塊りでもある物質が、転変きわまりない生活の余剰を資本として、あたえられた組成法則にしばられつつおこなう増殖、発展、形態の組成であった。生命が達しうる形と美は、詩や音楽の作品のように精神を素材とするのではなく、また、造形美術の作品の形と美のように、中間的な、精神に浸透された物質、精神を純潔に官能化している物質、を素材とするものでもなかった。むしろ、生命の形と美とは、ある未知の過程によって肉欲に目ざめた物質、分解しつつ存在しつづける有機物質、臭う肉を素材としていた。……
岩波文庫「魔の山(上)」p.471より
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