| 智導世津翁 逆転の 古代史地動説!!! |
|---|
魏志倭人伝に表れるあの有名な卑弥呼は、記紀には、何故か、名前のかけらすら登場しない。
しかし、智導世津翁の調査では、別名で5名登場する。
その5名の居場所を調べると、全て筑紫の「豊国」であった。
「豊国」とは、魏志倭人伝では、「奴国」「不弥国」「投馬国」「邪馬壹国」を含む大国であることが解った。隋書倭国伝では、最終目的地の「十余国=トヨ国=豊国」である。
さらに、伝承や万葉歌を元に調べていくと、「豊国」に、宇佐島、大隅島、ヒアカル宮、葦一騰宮、カシハラ(香春)、豊浦宮、などがあったことが解った。
そして、万葉歌から、「天の香具山」=「豊国の鏡山」であることを、発見した。
そして、遂に、その「豊国の鏡山」の、鏡のように磨き上げられた岩戸の内に、卑弥呼が葬られていることを発見した、のである。
その「豊国の鏡山」を、「豊国」の中に、遂に特定することができた。
本ホームページは、智導世津翁の尊敬する推理の迷人「迷探偵」と、「智導世津翁」の二人の問答形式で、古代史の色々な問題を研究し、解決してまいります。
研究のターゲットは究極的には、地球的な規模の大異変・大洪水の後の、紀元前の神話の時代から、六六三年の白村江の大敗北が元で、「倭国」が解体するまで、「日本列島を掌握する王朝が連綿として、『筑紫の豊国』にあった」という「命題」です。
「九州王朝」については、今やその存在を疑う人はいません。どこにどういう風に存在したか、その歴史はどのようであったかという事実を、誰が正確に把握することができるか、という問題のみが残された課題です。
「倭国」の「筑紫豊王朝」が、六六三年の、「唐」「新羅」との白村江の戦いで、大敗北を喫し、解体します。
その時に、先に、六四五年のいわゆる大化改新で、大和州の蘇我氏を倒して、「天皇の治める国」としていた大和洲「日本国」へ、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)は避難し、六六七年、近江朝「日本国」を創始します。
国名は「旧唐書」に、「倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲す」とあるように、「倭国」自らが、「日本国」を号しました。
天智天皇が亡くなり、後を天武天皇が継ぎます。
天武天皇は、その国史を編纂するために、太古より連綿と続く「筑紫・豊王朝」の歴史書「帝紀・旧辞」を元に、日本列島全国史「古事記」「日本書紀」に変換しました。地名は「筑紫・豊国」の、元の地名を、列島各地に拡大コピーしました。
何故、国史編纂で、こういう作業をしたか、と言いますと、近畿大和には元々、朝廷の歴史がなかったからという理由と、もうひとつのさらに大事な理由は、「倭国」の事々を後世に伝えていきたいという思いからです。
そこで、「筑紫の豊国」の帝紀・旧辞をソックリそのまま使用して、近畿大和が悠久の歴史を持ったかのように、「古事記」・「日本書紀」に編纂し直し、同時に、「倭国」の事々を和(倭)風文化として永久に伝えていったのです。
よって、記紀に記された地名の、本籍地を探れば、祖先の原郷=筑紫の豊が解ると言うわけです。
勿論、地名をソックリ、コピー移動して、近畿大和に、古代から王朝が存在したように見せかけても、それによって来る矛盾は、いくら上手に隠しても、いかんともしがたく、「近畿大和王権一元史観」から見る限り、記紀は「矛盾」だらけです。
世間では、その「矛盾」を「謎」だと言っていますが、「謎」ではなく、「矛盾」なのです。
そして、これら古代からの貴重な記録を正しく読み解くのが、我々に課せられた使命だと考えます。
title.html