昭和61年に発行された『祭礼の益荒猛雄』は発行部数も少なく、所持している
かたもごくわずかで、幻の一冊となっています。このコーナーは著者のご厚意に
より、ホームページおかえり君に掲載することをお許しを頂きました。
どうか、昭和後期の祭礼における美川校下の青年団活動の貴重な記録をご覧
下さい。また現役の青年団のかたであれば、多いに参考にして今の青年団のあ
りかたと比較して下さい。
2006年1月ようやく、この、『祭礼の益荒猛雄』の連載を開始すること
が出来る環境が整いました。
首を長くお持ちいただいた方には、本当に長い間すいませんでした。

序
北陸の冬は、雪が多く期間も長い。 雪質は水分を多く含んでおり、家屋にも
人々の心の中にも重くのしかかる。 ここで生活する人々は、誰もがこの厳しさ
をいやおうなく毎年思い知らされる。 しかし豪雪とマスコミが呼ぶこの冬将軍
も、3月の声を聞く頃には流石に緩んでくる。
北陸人の春を迎える喜びは大きい。 朝、窓をあけ晴れわたった空を見上げ大
きく一息つき、生活の安堵感を実感する。 そんな中で春の祭礼が各地で始まる。
長かった冬の押え付けられた気持ちを癒すべく、意気はいやおうなく燃え熱気
を帯びる。 石川県美川町もその例外ではない。
私は、美川町の藤塚神社の春の祭礼がやってくるたびに思うことは、この祭礼
にでてくる「神輿」や13台の「台車」の文化的価値や時代の変換は、専門であ
る方々に譲るとして、2日間の祭礼の期間中主役の如く振る舞う青年団の行動等
が町史・近代産業史・分化誌・広報・新聞・テレビ等にとりあげられることのな
かったことを自分が青年団で祭礼の折り「ラッパ手」を務めた頃の経験を踏まえ、
その記憶が薄れないうちにまとめあげたいということで、このたび筆を執りまし
た。
昭和61年 8月26日
著 者
========================以上 06.01.07 アッフ゜分========
祭礼のあらまし
石川県美川町の南西、手取川の河口間近に位置し、同町南町に鎮座する藤塚
(ふじつか)神社は、伊勢の天照皇大神、大山咋神、大己貴神を神祭とする縣社
で本吉(もとよし、旧町名)の産土神(うぶすなかみ)として崇敬され、寛政6
年ごろ山王権現の称号を用いていたものの、創建は定かでない。神位は、正一位
とされている。
例年5月22、23日の両日には、春季の祭礼が行われ、10月には秋季の祭
礼が行われる。特に賑わうのが春季の祭礼である。昔は、4月の申の日と定めら
れていたが、その後変遷し現在は5月22、23日の両日に行われている。
22日は早朝より、意匠をこらした13台の台車(だいぐるま)に先導された
御神体をのせ 紋付き・袴・白タスキと御渡と染められた鉢巻姿の地元青年団に
担がれた神輿が全町を練り歩き、同日深夜、町の北東に位置する高浜(たかはま)
仮宮殿(御旅所)に御着きになる。
男神である同神社の神様が年に一度、平加町に存し女神である安産日吉(やす
まるひよし)神社の神様と一夜の逢瀬にこられるのであるという、ロマンチック
な逸話もある。
翌23日は、御旅所で祭典が行われた後、夜半当年の「おかえり筋」の男衆に
担がれ、一町のみをお通りになり24日暁にかけて神社本殿へ還御せられる。こ
の神輿のお通りになる町筋をその年の「おかえり筋」といい10年に一度巡って
くる栄誉に町筋の各戸は、家を改築したり畳を替えたりし、家紋をあしらった高
張り提燈を軒先にずらりと掲げ灯し、親戚・友人・知人を招き宴を催し、神様を
お迎えする。
以前は、「お旅祭り」と呼ばれていたこともあるが、現在は23日の賑わいを
詠んで「おかえり祭り」と呼ばれている。
小さな町にしては、台車(制作天保年間1830〜1843前後)が各町に一台と多く、
神輿(天保7間完成、叡山坂本の日吉神社の形のいいものを模して地元の職人が
作成)豪華なものが存することは、藩政期末から明治初期にかけて当町が県内屈
指の「北前船」の出入り港として繁栄したことを物語るものであると言われてい
る。
神輿は永久保存のため、昭和49年(神幸町がおかえり筋)から同じ形で小型
軽量化した、新神輿が御渡と還御をすることとなり現在まで継承されている。
祭礼の起源は、江戸時代中期となっているが幾度かの大火で古文書は焼失し、
詳細は定かでないが関西地方へ商いに出かけた地元民が京都の祇園祭りを見て帰
り、それをまねて祭りの概要を創り、台車や神輿も似せたものを財力にものをい
い作らせたものだといわれている。
22日神社本殿から仮宮殿までの「お旅」のことを『本祭り』、23日の「還
御の道中」を『裏祭り』と呼ぶ人もいる。
========================以上 06.01.21 アッフ゜分========
石川県美川町、美川校下青年団の構成
対象となる町 南町(みなみまち) 中町(なかまち)
北町(きたまち) 新町(しんまち)
永代町(えいたいまち) 今町(いままち)
神幸町(じんこうまち) 浜町(はままち)
末広町(すえひろまち) 和波町(わなみまち)
以上、10町の各東西の町内会
年齢 (その年の1月1日現在)
男 18歳〜22歳
(高校を卒業した春から数え5回期)
女 18歳〜20歳
(高校を卒業した春から数え3回期)
その他 町外在住の同窓生、近在の同窓生にも参加を呼びかけている。
湊・蝶屋校下生は、含まれない。然し昭和49年から蝶屋地区の若草
町内会が氏子となったことから新たに加入し、近年同地区の美吉町内会
も氏子になり加入した。
祭礼の役職 団 長 1名、 副 団 長 2名
祭礼委員長 1名、 副祭礼委員長 若干名
旗 手 長 1名、 副旗手長 2名、旗 手 約3名
ラッパ長 1名、 副ラッパ長 2名、ラッパ手 約13名
総務・庶務・会計・進行の各長1名、各副長1名、係員若干名
女子部長 1名、副女子部長 2名、
========================以上 06.02.04 アッフ゜分========
祭礼の準備
[役員の選任]
年が改まると降止まぬ雪を眺めつつも「祭りが近くなってきた。」とワクワク
する青年団団員は多い。
青年団の祭礼準備は、2月下旬から始まる。まず常時の団員が集まり、新しい
役員を互選するべく動き出す。 年長団員のなかから団長等を決めるべき会合の
日取りや場所を決め触れ回る。(但しこの会合には、年長団員だけが寄り集まる。
)20名近くが集うこの会合では、間近に控えた「藤塚神社の春季祭礼」の御渡
奉仕の際の役員として、団長(概ね前年副団長を努めた年長者が昇進する。)・
副団長(年長者から1名と来年年長者となる者から1名)・祭礼委員長・同副若
干名そして旗手長とラッパ長(年長者がなるとは限らない。)・総務・庶務・会
計・進行の各責任者、これも年長者がなるとは限らない。年長者の割り振りが
決まれば後は、選任された役員で細部を煮詰め、あとは人集め(担ぎ手・ラッパ手)
に駆けずり回ることとなる。町外で勤務する者やまだ学生のものに往復葉書を出し
たり電話により祭礼の当日来れるか等連絡をとり記録する。
[ラッパ]
3月20日を過ぎると「ラッパ長」の任を授かった者は、藤塚神社宮司から祭
礼で使用するラッパ約20個を譲り受けて来る。このラッパは、旧戦当時のその
ままの形で復元されたもので、2種類ある。細いパイプの部分が2重巻のもの
(以下2重という。)と3重巻のもの(以下3重という。)からなっている。
(使い分けは、後述する。)
ラッパ長は、まず自分が祭礼で使用するラッパをとる。(必ず2重) そして
4月1日からの練習開始日から寄り集まったラッパ手希望者に自分に合ったラッ
パ(唇が触れる部分が1個1個全部違う)を選ばせ、2重と3重がそれぞれ8人
ぐらいになるように配置させ、音を出す練習から始める。
祭礼が5月29と30日に行われていた頃や自分が青年団になりたての頃は、
4月8日頃から開始していたが、昭和51年から早くラッパを手にしたいという
ことで4月1日からにして、今はそれが定着したようである。
ラッパの練習は午後7時から始まり、しばらくの間は9時頃で1日の練習は終
えているが、5月にはいる頃には10時頃まで続けられ、祭りが間近に迫った頃
には11時、中には自ら12時まで練習している者もいる。
練習場所は手取川河川敷きの鉄道橋と美川大橋の間で行い、雨天のときは小学
校奨健館(体育館の別称)を使用している。昔は(昭和初期)冬に小学校裏の海
岸現在灯台が建っている付近で荒波に向って練習したと聞く。 近頃は練習付近
の一部住民から「騒音でうるさい」と苦情が出ていると聞くが、誠に嘆かわしい
一幕であると思う。
ラッパの練習途中に青年団女子部の用意したお茶とお湯が配られ一端休憩する
お茶は、ラッパ手の喉を潤すためであるし、熱湯は、ラッパにそそぎ込み中に溜
ったツバを流し落とすためである。朝顔の花のように開いた部分から熱湯を注ぐ
(そのときラッパの吹き口を押さえている)湯が溢れそうになったら注ぐのを止
め、吹き口の指を離すとサイフォンの原理により、うまく湯が通過する。そして
くるくる廻してやるとパイプの中の湯がまんべんよくいきわたり、湯は排出され
る。この行程は、ラッパの音色や音の出具合をよくするために、祭礼当日休憩場
所の所々で必ず行われるもので、青年団女子部が最も気を使って湯を沸かすとこ
ろを決めて、そのお宅へお願いにあがったりしている。
新入りラッパ手の音が出だしてくると、高音(唇にラッパを強く押しあてたり、
唇を閉じるようにしたり)低音(高音を出す逆にする)の練習、そして幼児の頃
から覚えているメロディーを吹鳴してみる。そこまでくる頃には、祭りはすぐ目
前に迫っている。音を切る練習(舌でタッ、タッ、タッ、タッと言うように)で
メロディーが生きてくることも大事なことで、更に練習に磨きがかかる。
しかし当時の自分もそうであったように青年団ラッパ手を含め誰しもがその曲
名や経緯を知ることもなく口伝えのまま吹いているだけである。
御渡の際(2重→3重−−−)と吹いているのが軍隊で使われていた『駆足行
進曲』といい、そのなかでも軍人が整列するなかを騎馬隊が入場する際に吹鳴し
た『中丸行進曲』であり、奉迎行進の際(3重→2重−−−)と吹いているのが
昔日の青年兵学校ラッパ鼓隊が用いていた『青年行進曲』であるということを。
音を出すことに気をとられるあまり、胸の力で吹く者多く腹の力で吹くことな
く、ラッパを水平かやや上向きに構えて吹いていれば見好いものを、下向きで吹
く者多いことは誠に残念でならない。
自分が近年入手した 「軍隊ラッパ曲集」 のカセットテープとLPレコードを聞
くと曲名等確かにあるが、軍隊用のものが長い歳月のあいだに誤伝されたためか
幾分異なっているが、私の個人的な見解としては、現在祭礼で使用している曲そ
のものを譜面やテープで記録保存し、後世に伝承していった方が 「美川の祭りら
しさ」 があってよいと思う。
前述の2曲以外にもラッパ手は、祭礼初日の22日早朝と23日夕暮れに祭礼
を触れ回る『集合ラッパ』の吹き方も練習する。
祭礼10日前頃から旗手と合同で旗手の振り付けとラッパとの音合わせをする。
美川大橋(歩行者用)で行進の練習や集合ラッパ、御渡の練習が午後10時過ぎ
まで続けられる。
〔 役 員 〕
役員となった者は、4月1日から諸々の練習会場や祭礼当日の会場の借り受け
の手続、備品の手配、食事の手配、おかえり町との打合わせ、そして一番大切な
担ぎ手団員の招集と確保、町内各戸へ配布する青年団役員名簿の作成や当日の車
の駐車禁止や青年団に対する協力のお願い等を書いたチラシを用意と祭礼が無事
終わるまで気のやすまることなく、仕事中もそのことで頭がいっぱいになる。
祭り好きには、それが嬉しいことであり、職場の先輩や同僚に冷かされること
が、また嬉しいことである。
女子は、ラッパの練習の際のお茶とお湯の用意、22日の3度の食事の用意と
後片付けに、当日は目立たないながらも「おにぎり」をこしらえたり簡単な副食
をこしらえ不足分は仕出し屋へ注文するとはいうものの大変である。
========================以上 06.02.18 アッフ゜分========
〔 旗 手 〕
旗手の練習初めは、ラッパ手よりかなり遅く4月下旬頃からで6〜8名がその
任を担う。
神輿とラッパ手の間に入り、青年団団旗を振りながら担ぎ手とラッパのメロデ
ィーを一致させ神輿を進行させたり止めたりする練習をし、中々体力を要するの
で体力づくりの 「腕立て伏せ」 を期間中欠かさない。
祭礼では、一人の旗手が団旗を振り他の旗手は両手に扇子を持ち、神輿の回り
を飛ぶように回り舞い、旗手長は交代の間を見計らうべく合図を送るためラッパ
と旗手の間で待機している。

日も暮れて旗手の示す合図が見えにくくなってくると、旗手とラッパ手の間に
赤く輝く大型の懐中電灯を持った副団長が入り、「ワン、ツー、スリー」の合図
で旗手は、昼間と同じ動作をして呼吸を合わせ、神輿が前進することとなる。
22日早朝、神社での「お出発」と深夜、仮宮殿の「お着き」の間際の団旗は、
必ず旗手長が振ることになっており、23日夜半、仮宮殿から「おかえり道中」
の「お出発」と24日暁、神社「お着き」の間際のときも同様であり、中程は旗
手長も含めた全旗手で振ることになっている。
神輿「奉迎の行進」の際、列の先頭に立ち団旗を掲げ持つのも必ず旗手長であ
る。
神輿は通常10間前後の距離を、担ぎ上げたり降ろしたりの繰り返しを続け、
練り歩く訳であるが、担ぎ上げるとき旗手は、『お出発(おたち)』と叫ぶよう
に団旗を地面から煽り上げ、神輿が輪棒まできて、降ろすときは『おじぎとう』
と言って、それまで高く振っていた団旗を地面に降ろすことを合図にしている。
「おじぎとう」とは祝儀を下さい、集めに来ましたという意味である。神輿が
家の前に来られたとき当該家人は「初穂料」と「青年団祝儀」と前日より神棚に
上げてあった「御神酒」を盆にのせ差し出す。御神酒は半分を神輿のとっくりに
入れ残りは返される。神輿の次に降ろす地点は、輪棒1対を目印としており、降
ろされるとすぐに役割が当たった進行係2名は、予め地図に記入しておいた地点
へ走っていく。台車の列が詰まっており、神輿が中々進める状態でなく時間が定
刻を過ぎているとき、進行係は台車の1台々々に早く進んでくれるように懇願す
るべく走回るのも重要な任務のひとつである。 旗手は前述の如く体力が必要な
こととそれにもうひとつ陽気さが要求される。神輿は22・23両日とも、その
道中で時々休憩するわけであるが、そのあい間に余興の応援歌や寸劇の音頭とり
を務めるのが決まって旗手の役目なのである。13台ある台車の列が渋滞して神
輿の休憩が余儀なくされるとき、予め青年団が休憩場所と定めたところで彼らは
熱狂的に振る舞い周囲の爆笑を一手にかっている。その様は、見ていて飽きるこ
とがなく、現代青年の一部をかいま見るようで楽しいものである。町民の期待に
応えるべく、旗手は毎年趣向を凝らしている。 出発の時(休憩の終了)が迫り、
役員から出発を促され渡御の備えに就くわけであるが、余興の締括りは必ず『青
年団団歌』を青年団全員が車座になり、その中心に旗手が団旗を左右に振りなが
ら、大合唱することを常としている。 逆に見物の者は、青年団が長く道路で車
座に座り余興をしていても、団歌を歌いだすと「お出発」の時間が迫っているな
と気付くのである。 23日おかえり筋の家では、神輿が御出でになったとき青
年団に自家の宴の中に入ってもらい団歌を歌ってもらうことが、名誉であると解
釈している家々も多い。
========================以上 06.03.04 アッフ゜分========
21 日 ( よんめ )
祭礼前日の5月21日のことを「よんめ」と町民は呼んでいる。
これは「宵宮(よいみや)」が訛って「よみや」→「よんみゃ」→「よんめ」
となっていったと思える。
この日は祭りを迎える町民や台車の当番町内会は忙しいが、青年団員はとにか
く間際になって懸けずり回ることのないよう再度点検して万全を期す。
祭礼直近の日曜日には青年団は「神輿の入替え」という作業をする。これは昭
和49年(おかえり筋は神幸町)から神輿が2台になってから始まった。
祭礼以外のとき、新しい神輿は高浜仮宮殿(御旅所)に、従来からの神輿は、
藤塚神社境内にある専用耐火格納庫にそれぞれ保管されているが、22日に「新
神輿」が神社前から高浜仮宮殿 (御旅所)へ渡御するには、予め藤塚神社へ運ん
でおかなければならないということであり、仮宮殿に新神輿がお着き後「御神体」
を仮宮殿に安置されている従来の神輿に遷座させますためには、これも藤塚神社
の境内から仮宮殿へ運び安置しておかなければならないわけである。その作業を
祭礼前に行い、祭礼の翌日(24日)午後に今度は仮宮殿にある旧神輿と藤塚神
社へ御神体をのせ還御せられた新神輿を逆に入れ替える作業を行う。
2トントラックに手で運び乗せ往復する。安置後ほこりを軽く払うことや仮宮
殿内の掃除は神社の世話役の方々がする。 この時集まる青年団(ほぼ役員)は
旧神輿を間近で見たり、団長が鳳凰を肩に担いでみたりする。22日深夜、晴れ
の舞台で失敗することのないよう。他の者も鳳凰を肩に担いでみたりする。一緒
に奉仕しながら、ただ1名が桧舞台へでれるのだと割り切っていながら、自分が
できない慰めをこのとき細やかながらその感触をあいわうのである。
旧神輿の鳳凰は、大きいが作りは精密でズッシリ重い。新神輿のそれは小型軽
量化されている。神輿本体も同様である。
よんめの日には、旗手もラッパ手も練習はしない。旗手は一人々々に扇子や首
からさげる紐のついた笛、白手袋、白地下足袋(旗手は雪駄を履かない、動作が
鈍くなる)、鉢巻、襷、リボンを支給され明朝の集合を確認して帰宅。
ラッパ手は10分ほど口慣らしをしただけで、青年団の祭礼準備の拠点となっ
ている中央図書館へ行く。7年前頃までは、郵便局前の旧中央図書館を利用して
いた。そこで集合時間、場所を最終点検してラッパを磨く。4月当初にラッパを
手渡されてから濁った色のまま今日まで練習を重ねてきたわけであるが、今夜は
その真鍮製品の艶出しを手を真っ黒にしてする。『21日以前にラッパを磨いて
はいけない。』という仕来りがある。磨き終わった者からラッパの握る部分に白
い包帯を巻付け先輩に朱房を肩からさげれるように紐を長くして付けてもらう。
全員が付け終わったところで、鉢巻、襷、リボン、白足袋を支給され散会。
他の役員も同様、早い時間に散会、帰宅して寝つけないのを解りつつ床につく。
青年団は、役職名を明記したリボンに拘る。団長のそれは大きく、役が下にな
るほど徐々に小さくなって、いつから始まったのか定かでないが、退団の後もそ
のリボンを大切に保存している。
========================以上 06.03.11 アッフ゜分========
22日 (本祭り)
午前4時、青年団ラッパ手は自室で眼がさめる。いつもは幾度となく家人に呼
ばれないと床を離れない者が、この日だけは別である。3時に早、起きる者もい
る。かつて自分がそうであった。
祭礼を知らせる「集合ラッパ」を吹き歩くために、ラッパ手はこんなに早く起
きるのである。起きてしばらくは、唇が強張っているため少しでも体を慣らして
おいたほうがいいと自分は考えていた。
「集合ラッパ」は、相撲興行でいう「ふれ太鼓」と同じ役目である。
紋付き、袴、白襷、白足袋、白鼻緒の雪駄、白地に赤色三つ巴紋章を中心にあ
しらい両脇に「渡御」と黒刷られた鉢巻を後ろで結び、素早く身繕いを家人に手
伝ってもらい、正装の快感を味わう。自分一人で紋付き、袴、白襷を身に纏える
団員はいない。
前夜、寝る前に神棚に上げておいた「ラッパ」を手にとる。「いざ、出陣だ。」
待侘びたこの日のために、毎日休むことなくつらい練習に耐えてきた。神棚の前
で「集合ラッパ」を吹いてみる。また家の前でも吹いてみる。練習期間中は、手
取川河川敷以外で吹くことを厳しく禁じられていたが、今朝のこれくらいは好い
だろうというわけである。
ラッパ手16名(その年により若干異なる。)は、一様に郵便局前に5時迄に
集う。まず晴れたことをお互いに喜びあう。ラッパ手の外に団長、祭礼委員長、
旗手長が集まる。ラッパ手は、そこで少し吹いてみる。唇が強張っており高い音
が直ぐには出ないのが常だ。前夜は嬉しくてなかなか寝つけず、今朝は前述の如
くなら仕様のないところか。
ラッパ長の「さて、そろそろ回り出そう。」の声で打合せ通り、2ないしは3
名一組になり町の辻々で「集合ラッパ」を吹くべく散っていく。
1隊は、藤塚神社前の通りを南から北へ向かうように辻々で「集合ラッパ」を
東西に夫々向って2回づつ吹く。以下、郵便局前の通りを南から北へ、昭和通り、

大正通り、本町通り、中学校前通りと6班に分かれて夫々が北上し集うのは、北
の端に存する小学校前である。
知らせのラッパを聞きこの日のために待機しており遠来の団員をも含めぞくぞ
く寄り集まってくる。集まるまでに旗手は早速「余興」の手拍子、応援歌の音頭
をとり扇子や笛、団旗を左右に振ったりして気勢を上げる。
そこから堂々たる隊伍(別掲)を組んで、神輿奉迎に向かうのである。
6時になって団旗を揚げ持つ旗手長を先頭に3列縦隊に3重ラッパ手、2重ラ
ッパ手が並び「青年行進曲」のメロディーの吹奏で小学校前から和波町を東進、
大正通りに出て中町まで南進、そして中町通りを西進、神社へ向かう。
この「奉迎の行進」は、誠に見事で美川ならではの風物詩ながら、青年団の誰
もが曲名を知らない。昔日の青年学校ラッパ鼓隊用に作曲されたことも現在まで
の多くの団員は知らず、口伝えにメロディーも若干変わり、吹奏の姿勢もラッパ
が下向きと悪いのはとても残念である。
鳥居、山門とくぐり境内に入り本殿前に来た列は、旗手長の右手を上げそして
降ろす合図でラッパが鳴りやみ、と同時に足踏みの歩をとめる。
団長が直ぐに本殿内に登壇し、拝殿に安置されている神輿の前で正座する。
神輿に宮司が「御神体」を奉持し遷座すべく、渡御にあたり「修祓の儀式」を
行い、神官、供奉の氏子総代と団長が参拝する。配下の団員も団長の動作に併せ
て参拝する。
近年は青年団が山門をくぐる前、既に「御神体」は、神輿に奉持し遷座せしめ
あらせられる。
「修祓の儀式」を終えた神輿は、青年団の手により、静かに拝殿を出、山門、
鳥居を出たところで、足や担い棒を前後左右に消防団員が組み立てる。
その間、青年団は余興をして、結びに「団歌」を唄い、祭礼委員長が神輿に鳳
凰を取付けて、神輿前で全員が一堂に記念撮影をして、祭礼委員長が団員整列の
なか出発にあたり一言挨拶を述べて、出発と相成る訳である。
担ぎ手が神輿のまわりに付き、旗手長がラッパ手と神輿の間で団旗を地面につ
け構え、煽り上げると同時にラッパが鳴り響き、神輿が担がれ渡御の巡行に就く。
==========(本祭り前編)========以上 06.03.25 アッフ゜分========

この出発を「お出発(おたち)」と称し、早朝から人々もこの一瞬を見ようと
神社に集まり拝観している。
巡路は往古より大体一定している。神輿が神社から出て、すぐ中町を途中まで
東進、南町に入り鉄道を鳳凰を外してよぎり、本吉町内(南町に含まれている町)
を巡行する間に台車は次々と、南町に東から入り西進、神社前を通り、日本海が
すぐそこに見える手取川大橋端まで出て、中町に入り東進、順番を整えつつ「お
旅」が始まる。神輿が本吉町内から南町に入り、台車と同じように進み中町に入
る頃に台車13台は、既に道中に赴いた後で実によく自然とタイミングを合わせ
られているものだと感心させられる。
午前中は、美川駅前で休憩したりしながらも、正午までには東新町まで神輿を
巡行させることを、団員は伝承事の一つとしている。それまでに、ラッパ手の半
分は若草町へ旗手1名(勿論団旗を持って)とで回って来る。
昼食は浜町公民館で摂り、午後からは時の過ぎるのを惜しむように、神官が午
前同様各家々の前で修祓をしながら、浜町の高浜仮宮殿(御旅所)へ向かう。
小学校へ着いたところで、神輿を敷地内に据えて、今度は同級生単位で神輿前
で記念撮影をする。奨健館(体育館の別称)内で夕食を摂る。その間、神輿には
夜間照明のためのバッテリーが足に消防団員の手によって取り付けられる。
その後、和波町を東進、大正通りとの交差点まできたとき休憩する。
ここで旗手長とラッパ手が「奉迎の行進」と同様隊伍を組んで、後ろには団長
と祭礼委員長2名だけを伴い、前年の最年長団員(OB)達を前年の団長宅(祭
礼委員長宅のこともある)まで迎えに行く。
『先輩、自分達は今年も古式の伝統にのっとり神輿を渡御奉仕いたしました。
これから高浜仮宮殿までの道のりを先輩達も力を貸してくださりながら、どうぞ
見守ってください。さあ、高浜まで一緒に担ぎましょう。』という訳である。
午後3時頃から前年の最年長団員(OB)達は、集まって酒盛りをしており、
呼びにくる午後6時頃には、程よく仕上っており、以前は何回呼んでも聞こえぬ
ふりをして家から出てこようとはしなかったが、最近は巡行順路も増え7時過ぎ
になることも屢々あって、高浜仮宮殿へお着きの時間が差し迫まってきており、
直ぐに出てきて列を組んで、神輿まで「青年行進曲」のもと、堂々の行進をして
いる。
残った団員は、神輿前で余興を手をかえ品をかえして繰り返しているが、ラッ
パの音が間近に聞こえる頃には、道の両脇に整列し、拍手で先輩を迎える。
団長挨拶、前団長挨拶ののちエール交換ともいうべき互いの代表が「3・3・
7拍子」等の手拍子や応援歌で気勢をあげることを常としている。
早朝からの渡御奉仕も先輩を迎え佳境に入り、神輿には電灯が点され、和波町
から末広町に入り西に下り、浜町に入ってからは高浜仮宮殿まで一直線となり、
東進する頃には台車13台は全部高浜に到着しており、夫々の格納庫の前で明る
く提燈を点し神様の御到着を今か々々と待つ。
通路の両側には百近い露店がところせましと立ち並び、人々は道一杯になって
往来しているなかを、勇ましいラッパの音と共に神輿がその姿を現す。
次の御着地を示す2本の輪棒が高浜口に見えると、神輿の到着を待つ数百の見
物客は、仮宮殿前の広場を幾重にも取り囲み、夕方消防団員が打ち水をしたもの
の人々の波でほこりが渦を巻く。
『さあ高浜境内広場で回り舞うぞ。』青年団は意気揚々である。
往年の青年団団員も、今は見物に回っているがそういう人々の中には、台車が
高浜へ到着するときに台車の前輪を高く掲げ担ぎ回っている町内があるが、男ら
しく大胆で勇壮だ、というものの大変危険で台車も傷むし、酔っ払いのおもちゃ
ではないのだということを深く認識してほしいものである。
『台車も神輿も神具である。』
神輿も人波を掻分け高浜口に姿を現される頃には、午後11時を過ぎており午
前0時迄に鳥居をくぐらせることが、昔から青年団の至上命令となっている。
高浜口でこの日最後の余興をし気勢を上げ、結びに団歌を大合唱し終えると、
輪棒1対を鳥居にぴったりと付け持つ。
この高浜仮宮殿(御旅所)の鳥居は、痩身ながらも美形で昭和3年に御大典記
念に美川町出身で東京に在住していた故瀬川吉次氏の寄進なるものである。
==========(本祭り中編)========以上 06.04.15 アッフ゜分========

ラッパの合図で神輿は担ぎ上げられ、鳥居をくぐるのを引き伸ばしたいように、
台車の出迎えを謝るように、一進一退を繰り返す。
輪棒1対が鳥居をくぐり、今度は仮宮殿すぐ前で揚げ待つ。団長、祭礼委員長
もその後逸早く仮宮殿正面に弓張り提灯を高く揚げ、ラッパ手も頃合を見計らっ
てラッパ長の合図でその両脇に吹奏しながら整列する。ラッパ手は、吹奏しなが
ら互いに「音を途切らすな。」を心に念じ鳥居越しに神輿を見つめている。
午前0時数分前神輿は、鳥居にさがる注連縄の中央の下がり房に菊花御紋章の
上に燦然と輝きはばたく鳳凰がするりと触れ揺れて、御入進せられる。
鳳凰が注連縄のさがりに触れ揺れる瞬間に神気で胸の高鳴りを感じるのは自分
一人ではないと確信する。
吹き手の興奮からラッパのメロディーは高鳴り、旗手長の振る団旗で巻き上が
った砂塵や団員の熱気に包まれ、日頃閑散としている高浜広場もこのときばかり
は、見物人等で密度が激化する。
御入進の後さらに灯籠や狛犬があって狭い所をさらに数分回り舞、神輿は仮宮
殿を背に鳳凰が今来た順路の方向を向いてラッパの吹奏停止とともに降ろし据え
られる。 これが『お着き』である。
吹奏した終えたラッパ手が涙が滲む時である。
素早く青年団は、神輿正面に3列縦隊に役員から順次整列する。
神輿に梯子が掛けられ、団長が昇り鳳凰を抜き、掲げ上げ左右にゆっくり回し、
その後肩に担いで梯子を降りる。祭礼委員長の「団長挨拶」の号令の下、団長が
団員と青年団の渡御奉仕に協力した人々に対し、労いの挨拶を一言述べる。
団員や見物客から自然と拍手が沸き起こる。
仮宮殿内では、神輿が高浜口におみえになったときから、太鼓がそれまでとは
様相を変えひっきりなしに打ち続けられていたが、今はそれも止み、挨拶を終え
た青年団が仮宮殿内に整列静座の後、御神体を迎えるべく既に安置されている神
輿と渡御を終えたばかりの神輿の間に白布帯が敷かれ、高浜仮宮殿(御旅所)の
電灯が一斉に消えたその瞬間、神官の『ホー、ホー』と繰り返す声の中、口を白
布で覆った宮司が仮宮殿内部から白布帯の上に現れ、ゆっくり歩を進め神輿から
『御神体』を御搬出され、両手にしっかり抱き仮宮殿内の神輿に御遷座される様
子は恐れ多く、目を開けておれず、唯々頭が下がり誰もが拝殿に額づく。
『ホー・ホー』と繰り返す声が止んで電灯がついたときは、『御神体』は既に
御遷座せられており、宮司は「お着き」の祝詞をあげる。
祝詞が終われば宮司の所作に併せて青年団も拍手を打ち参拝し、仮宮殿より静
かに退出する。
もう台車は格納庫に納められており、高浜広場は暗く、見物の人々も家路に就
いたあとで、先程の興奮の渦が嘘のように森閑としている。
鳥居前で奉迎の行進と同じように整列した青年団は、鳥居前で両脇に並ぶOB
の拍手の中、団旗を先頭に「青年行進曲」のラッパで高浜仮宮殿を後にする。
応援に担いでくれたOB達を今度は、団長や祭礼委員長が礼を述べる。
浜町通りから大正通りを左折した列は、神幸町の消防本部建物前まできて、こ
こで解散する。
年長団員は、団長又は祭礼委員長宅で無事渡御奉仕を終えたことを慶びかみし
めるべく一杯飲んでから帰宅する。
ラッパ手は早朝より「お着き」まで一滴の酒も口にしないのは、昔も今も同じ
で、自分がラッパ手になった1年目は唇の荒れを防ぐ為か、砂糖水を1升瓶に詰
め庶務の係が持ち歩いていて口に含んだりしていたが、あまり需要がなく、2年
目からは女子の庶務は作らなくなった。
==========(本祭り後編)========以上 06.04.22 アッフ゜分========
23日 (裏祭り)
早朝より高浜の格納庫前に各町内世話役の手により飾り付けられた13台の台
車が、青空の下、整然と並ぶ姿は色鮮やかで豪華絢爛、時代絵巻を彷彿させる。
深夜仮宮殿に御着きになった御神体は、『旧神輿』に遷座されており、その前
には大鯛、スルメ、鏡餅それに果実等が幾つもの白木の三方にのって捧げられて
おり、22日の渡御式を終え疲れたように見える『新神輿』は、担ぎ棒を外され、
仮宮殿に安置されている。
仮宮殿(御旅所)内では、午前10時頃から終日参拝者に修祓が行われ、境内
の台車の見物客も多く賑わいをみせる。
さて青年団は、22日の疲労で午前中は寝ている者が多い。しかし団長・副団
長・祭礼委員長・会計長は、祝儀袋を団長宅若しくは祭礼委員長宅で開封して集
計する。 他の者は、午後からボツボツ動きだす。風呂に入り、おかえり町筋の
家の数件から宴に来てほしいと声が掛かっていれば喜んで赴き、青年歌の3つぐ
らいでも歌おうと血気盛んである。軒を連ねての祝宴でボルテージも上がり声が
れしそうな団員は、おかえり筋町内役員との予めの打合せ通り、おかえり筋のほ
ぼ西端に夕暮れ集合する。
この日の「還御」に出席する青年団役員は、次の通りである。
団長、副団長、祭礼委員長、副祭礼委員長(2〜3名)、旗手長、旗手(2〜3
名)、ラッパ長、ラッパ手(全員)である。近年は、他の役の長も出席している。
まずラッパ手が2〜3つに別れて宴たけなわの各戸の玄関先で『集合ラッパ』
を吹いてくる。中には、家人に懇願されて家の中に入って『集合ラッパ』を吹く
こともある。
吹き回り終わって再びラッパ手は西端に集合する。そこから隊伍(別図参照)
を組み、おかえり町内役員・担ぎ手等を従え、おかえり道中を逆のぼうように、
「神輿奉迎の行進」を「青年行進曲」の吹奏とともに高浜仮宮殿(御旅所)まで
する。


先頭が高浜の鳥居をくぐり、仮宮殿前まできた列は、ラッパの吹奏停止と同時
に歩を止める。町内役員の手で新神輿が仮宮殿前に据えられる。前夜の「お着き」
のときと逆に今度は、御神体が旧神輿から新神輿へ白布帯の上を歩く宮司に抱か
れ遷座さられる。電灯が一旦消えて暗闇のなか、他の神官の「ホオー、ホオー」
という声のなかゆっくり歩を進めるのは前夜同様である。
青年団は「お出発(おたち)」の準備が出来上がるまで、鳥居の前で車座にな
り、余興で気勢をあげている。
さあ、準備完了。青年団も全員整列して、町内の祭礼委員長が仮宮殿前で神輿
に鳳凰を取付けるのを拍手と歓声で盛り上げる。
おかえり町内の勇士が担ぐ神輿は、旗手・ラッパの合図で担ぎ上げられて、回
り舞いながら、一進一退を繰り返しながら鳥居を出て「還御の途」につく。
おかえり町筋の両脇には、2間おきに軒先に祭礼前から家紋をあしらった「高
張り提灯」を掲げるための木枠を取り付けてあって、「よんめ」の日に付けた提
燈に電灯が点り、風情を醸し出して『神輿』をお迎えする。家がない空地では、
20年近く前までは、長方体をした堤燈が風流な短歌を書き掲げられていた。今
では、空地には『御神燈』と書かれた堤燈が掲げられている。
23日は午後8時頃今町の台車が高浜を出発し、おかえり町筋東端へ向かう。
あとは順次前日の順番通り、台車が格納庫前から出発するが、当年おかえり町筋
にあたった台車は、前日の順位を度外視して、序列の最後尾につく。しかし今町
がおかえり筋のときでも今町の台車は先頭を行くことになっている。そして新町
に東西各1台の台車があるが、おかえり筋にあたったときは2台とも殿を務めど
ちらが最後尾になる云々でこれまで揉めたことはないという。
今町台車の出発間際に「神輿奉迎の行進」はおかえり町を西端から東進し、お
かえり町筋を全部通って浜町の高浜境内へラッパの音も心地好く入場してくる。
台車13台が高浜を出尽くしたのを見計らうように、神輿は「還御の途」につ
く。境内を一度も降ろすことなく目まぐるしく一進一退した神輿は町内の係が持
つ「輪棒」の印により、高浜口で一旦降ろされ、その後随時おかえり町筋へ台車
の後を追うように入進させられる。
==========(裏祭り前編)========以上 06.05.13 アッフ゜分========
美川校下青年団団歌 作詞(北市屋 与八郎)
1.ああ世は移り時逝けり 意気の青年いつまでも
秋凋落を眺めつつ 保襲の道に従がわん
2.聞かずや我ら青年の 燃ゆる血潮の胸の音
見ずや黎明時の雲 自由と自治の革命を
3.今緑酒の夢やぶれ 新世の叫び地に湧きて
時局に目覚めし我が美川 ああ手取川水澄めり
両半球に類なき 作詞(赤井 美一)
1.両半球に類なき 皇統永く続く国
秀し白峰芳し手取 今永遠に清きかな
2.ああそうなるか美川の地 やよ立つ健児の意気高し
朝に夕べに不断の努力 磨く腕(かいな)に風薫る
3.壮心やまず渾身の 血潮は燃ゆる紅の
極地の氷赤地の熱に みなぎる雄途を試すべし
手取の流れ 作詞(北市屋 与八郎)
1.手取の流れ永遠に 怒涛岸打つ美川の地
ここに立ちたる吾が選手 意気昂然と天を突く
2.ここ幾歳と鍛えきし 五尺の体の鉄の肌
いざや試さん時来たる 立てよ立て立て吾が選手
ラッパの同級生
1.今日も練習してる時 いつもの時間にお茶が来る
あの娘の差し出す熱いお茶 僕の心も熱くなる
よっしゃいっちょう頑張ろか お祭り前の特訓を
唇切って血がにじむ 唇切って血がにじむ
2.ようやく鳥居に着いた時 僕は涙を流してた
苦しかった練習を 思い出すたびまた涙
あともぅ少し頑張れと 互いに励まし励まされ
俺たちゃ美川のラッパ手 俺たちゃ美川のラッパ手
この日この時この為と ひとり河原で男泣き
皆さん見てくれ聴いてくれ 俺達ラッパ手の晴れ姿
ラッパ手音頭 作詞(有川 征次)
1.おかえり祭りに駆り出され 粋なラッパを吹かされて
吹いて吹いてまた吹いて 粋なラッパ手は辛いもの
2.紋付き袴に白襷 お神輿担ぐも辛いけど
粋なラッパ手はなお辛い お祭りまえの苦しさよ
3.よくぞ吹いたぞラッパ手 辛いだろうがもう少し
鳥居くぐれば楽になるぅ さあさぁふこうぜラッパ手