つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、こころにう
つりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしう
こそものぐるほしけれ。
「吉田兼好:徒然草より」
2004/01/31 じぃちゃんの膝の中で(祖父のまつりばなし)その1.
おかえり君が幼い頃、じぃちゃんの膝の中でまつりの話しを聞くのが好きで
した。「じぃちゃんの膝の中で」シリーズは昔、祖父から聞いたような祭りに
関する懐かしい話しを紹介していくことにします。
但し、じぃちゃんの思い違いやおかえり君が幼い頃に聞いた為に勘違いがある
かもしれませんが、その場合はご指摘をお願いします。また皆様の貴重な思い
出や祭の昔ばなしもこのコーナーに載せたいと思います。
どうか、okaerikun@yahoo.co.jpまでメール下さい。宜しくお願いします。
1972年(昭和47年おかえり筋末廣町)までは、現在のおかえり獅子とは違う、
中学生が中心の南蛮風衣装を着た舞い方(獅子の相手)の小獅子が神輿の前を巡
行していたと祖父さんから聞いたことがある。この年高校生のいたずらが原因
で濱町の臺車が2日目の巡行前にひっくりかえり、応急処置をして何とか巡行
に間合ったが臺上には子供の姿はなかったということでした。
いろいろ話してくれたじぃちゃんは、もうこの世にいない。
2004/01/31 「 継続は力なり。」
友達の親父が臺車の巡行の順番をノートに何年も何年もずっと記入していた
ことをふと思い出しました。一部の人からは祭馬鹿(地元美川で祭りきちげえ)
とか「好きやねえ」と笑いものにされるネタとなったように記憶しているが・・。
自分もやってみようと写真やビデオを取り出してようやく3年分記入するこ
とが出来きました。当時友達の親父のノートには20年分ぐらいの臺車の巡行の
順が記入されていたと思う。今そのノートが手元にあれば改めてじっくり見て
みたいと思うし、このコーナーに紹介したいとも思う。なによりすごいことだ
と感じます。
ちょっとしたことは短い期間で終わった場合は単なる"物好き"としてしか扱
われないが、継続して何十年も続けるとその関係者からはすごい事をしたこと
になるのではと痛感しました。
単なる"物好き"に終わらない為にもあと15年は記録し続けよう!!
「本当に出来るの? おかえり君!! まあ頑張って!」
2001年5/22火、/23水(両日伴に雨)(平成13年おかえり筋和波町)
1.今町 2.永代町 3.和波町 4.東新町 5.濱町 6.西新町 7.南町 8.北町
9.家方組 10.船職組 11.中町 12.神幸町 13.末広町
2002年 5/22水、/23木(両日伴に晴れ)(平成14年おかえり筋末廣町)
1.今町 2.永代町 3.北町 4.東新町 5.濱町 6.西新町 7.和波町 8.南町
9.中町 10.船職組 11.神幸町 12.家方組 13.末広町
獅子舞(おかえり獅子)復活
2003年 5/22木、/23金(平成15年おかえり筋濱町)
1.今町 2.和波町 3.北町 4.西新町 5.濱町 6.家方組 7.南町 8.末広町
9.船職組 10.神幸町 11.中町 12.永代町 13.東新町
おかえり獅子の子供舞方復活
35年振りに右大臣・左大臣復活
2004年 5/22土、/23日:両日曇(平成16年おかえり筋神幸町)
1.今町 2.和波町 3.家方組 4.濱町 5.神幸町 6.末広町 7.東新町 8.永代町
9.北町 10.西新町 11.南町 12.船職組 13.中町
家方組臺車の前輪を新調した。(美川町として最後)
04/05/23 に追記。
2005年 5/21土(晴)、/22日(夕刻雨)(平成17年おかえり筋今町)
1.今町 2.濱町 3.船職組 4.家方組 5.和波町 6.神幸町 7.南町 8.東新町
9.中町 10.西新町 11.末広町 12.永代町 13.北町
37年振りに申子が復活、第三土日開催となる。(白山市として初めて)
05/06/10に追記。
2006年 5/20土(昼過ぎまで雨)、/21日(晴)(平成18年おかえり筋永代町)
1.今町 2.船職組 3.濱町 4.西新町 5.永代町 6.神幸町 7.家方組 8.中町
9.末広町 10.和波町 11.南町 12.北町 13.東新町
永代町の臺車が30年振りに塗り直しを行なった。
06/05/27に追記。
2007年 5/19土(雨一時雷雨)、/20日(晴)(平成18年おかえり筋新町)
1.今町 2.家方組 3.船職組 4.神幸町 5.南町 6.東新町 7.西新町 8.中町
9.和波町 10.永代町 11.濱町 12.末広町 13.北町
今町の臺車のライトがLED化、濱町の飾人形の衣装換え美川刺繍の三輪さんの
最後の作となった。
08/05/06に追記。
2004/02/01 じぃちゃんの膝の中で、その2.
いつの頃迄かは定かではありませんが、昔は夜になると提灯のあかりには蝋
燭を使用していたそうです。今のようにバッテリーというものがないのでうな
ずけます。バッテリーとなってからも当初は夜の部の巡行の途中でバッテリー
切れになり提灯の灯りを蝋燭に切替える為に各町内ともに予備に蝋燭を必ず準
備していたそうです。
その為か夜の部の巡行は提灯が火事にならないように各町内とも臺車をそれ
はそれは慎重に扱っていたようです。辻々で方向転換の際に行われる「やんさ
ん」も前輪を降ろす際はやさしくそっと降ろしていたということです。必然的
にそのように扱われ傍から見れば臺車を大切しているように見えたことは間違
いありません。
晩年のじぃさんは「最近のもんは、本当に臺車を乱暴に扱う。」が口癖でし
た。そんなじぃさんが死んで十数年が経ちます。
2004/03/21 じぃちゃんの膝の中で、その3.
喇叭(ラッハ゜)を守り続けた男たち。
戦後まもない頃、祭礼前に今と同じ手取川河川敷でラッパの練習を青年団がし
ていた。 汽車に乗っておりその様子を見た者が金沢のGHQへ通報した。
当時、戦争に関するものや類するもの等一切没収されたり禁止されるという厳
しい折、当然GHQは美川のラッパの吹奏の禁止を命じてきた。
美川の青年団員はがっかりし、ラッパがあるから神輿担ぎの力も出るし、勇壮
に担げるのだ。ラッパ吹奏がないのなら担がないと言い出した。神社役員はGH
Qの強い意向を酌んで、青年団が担がないなら別の団体へ神輿の担ぎ手を懇願し
ようかと右往左往するとき、これを聞き付けた新町の『佐々木正儀氏等』が再三
GHQに赴き、祭礼の説明とラッパが戦争と全く無関係であることを説明したが
聞き付けてもらえない。
業を煮やした佐々木氏は進軍ラッパとトランペットをGHQに持参し、トラン
ペットで美川の祭礼で吹奏するラッパ曲をGHQ関係者の前で実演した。
キョトンとしたGHQ、互いに顔を見合せ美川のラッパはこんな曲か「突撃ラ
ッパ」でないのなら許すという運びと相成った。
神輿は当初の予定どおり、青年団が担ぎ祭礼が行われることになった。
米国兵は日本軍を闇くもに進撃させた過去の戦争以来「突撃ラッパ」に警戒心
を強く抱いており、絶対禁止を打ち出していたのであると後日判明し、先人の戦
役での功績を改めて認識したという。
昭和20年代のことだと云うことです。
〜 引用 伊藤博一氏著 『祭礼の益荒猛雄』より 〜
これより以前の昭和10年代にも、神輿御渡でのラッパ吹奏の危機があったよう
です。第二次世界大戦の戦火の激しさが増す中でラッパ吹奏も一時は途切れまし
た。それを復活させたのが永代町の『白井義次氏』(明治44年生まれ)だと云うこ
とです。
〜 引用 伊藤博一氏著 『藤冢山王新記(後編)』より 〜
おかえり君は繰り返し、繰り返しこれらの箇所を読返しました、次第に目頭が
熱くなっていきました。今以上に上の者に対して物申すことが許されない時代に
よくぞ・・・・ 敗戦まもないGHQには絶対服従しかないと思われた時代に。
美川魂!!、美川の心意気!!と感じました、また未来の喇叭手にも機会があれば
語り伝えたいとも思いました。 『白井義次氏』『佐々木正儀氏』の両名及び仲
間の喇叭手の皆様、本当にどうもありがとうございました。
しかしながら、明治生まれのじぃさんは「神輿のラッパの音」より、「小獅子
の太鼓の音」の方が好きだと云っていた。
2004/04/17 じぃちゃんの膝の中で、その4.
喇叭(ラッパ)の創生期
大正時代のことでしょうか?じぃさんが子供の頃には、軍人さんが神輿を担い
だことがあるらしく神輿が置いてある神社迄の行進に軍人さん達は喇叭を吹いて
勇ましく歩いていたようで、少年時代のじぃさんにもこの姿は格好良く映ってい
たようです。また神輿御渡の休憩で、喇叭の上手な軍人さんが余興で喇叭を吹き
鳴らし拍手喝采を浴びていたのを見たこともあるようです。
でも、じぃさんは子供心にもこの喇叭の光景は美川の祭りとは別ものであると
感じていたようです。美川の祭りで喇叭隊が今の形になったのは昭和の初め頃だ
言っていました。
おかえり君にとっての、おかえり獅子(2002年前から始められた)と同じ感じ
だったのかもしれません。おかえり獅子も何年かすると美川の祭りにすっかり溶
け込み違和感のないものになることでしょう。
昭和生まれのおかえり君には子供の頃から喇叭は美川の祭りには欠かせないも
のなのですが、子供の頃のじぃさんにとって喇叭は美川の祭りとは違う別物に映
っていた時期があったようです、自分が知っているじぃさんは神輿の喇叭隊を楽
しみにしていました。じぃさんが好きだった南蛮風の小獅子がなくなったからで
しょうか?
じぃさんが聴いた最後の喇叭の音響は、脚が弱り外に出ることすら出来ず玄関
に座りながらという姿でした。玄関の戸を大きく開けて「神輿はまだか、神輿はま
だか」と呟いていました。神輿が来ると嬉しそうに眺めていたことを今でも思い出
します。
〜 以下 引用 伊藤博一氏著 『藤冢山王新記(後編)』より 〜
起源 昭和5年(1930年)頃(はじめて喇叭が吹き鳴らされた年)
吹奏者 米光 吉雄氏 (明治44年生れ、当時19歳、今町西)
浜上 正治氏 (大正元年生れ、当時18歳、今町西)
山口 正治氏 (大正2年生れ、当時17歳、今町西)
田中 芳次氏 (明治45年生れ、当時18歳、神幸町西)
指導者 金子 亀吉氏 (明治31年生れ、当時32歳、新町東)
発 端
戦火で、全国の例に漏れず、美川でも男手が少なく、老人や婦女子が町内の
大半で、意気消沈の機運がある中、在郷軍人会美川支部の有志達が、『ラッパ
吹奏で景気を付けよう。元気を出して、戦地にいる家族にも安心してもらおう。
』と始められたということです。
米光氏と浜上氏はいっしょに、金沢の第七聯隊へラッパを習いに行ったとい
うことです。
当時の第七聯隊でラッパ長を勤めていたのが「金子氏」で、金子氏から習っ
たということです。
金子氏自身は、美川の春祭りではラッパは吹かなかったようです。
金子氏は、ラッパが上手く、ラッパ兵は出世出来ないとされていた当時に、
伍長にまで出世したということです。
吹奏当初は、青年団と在郷軍人会が一年交替で吹き、祭礼前の練習は、小学
校から先の海岸へ行き、強風や吹雪の中でも練習は続けられ、日本海の荒波に
向かって、ラッパを吹いたということです。
祭礼では、たった4名で1日を吹ききり、御旅所のお着きにあたっては、団
隊長の『最敬礼』の号令の下、ただ1名が『国の鎮め』を吹き、「敬神の礼」
を捧げ、早朝からの部下の労をねぎらったということです。
隊員は勿論のこと、氏子や参拝者一同、仮殿に安置された神輿に、頭(こうべ)
を深くたれたということです。
〜 以上 引用 伊藤博一氏著 『藤冢山王新記(後編)』より 〜
これらを調べあげ記録に残して頂いた伊藤博一氏にも併せて深く感謝いたします。
じぃさんが子供の頃に聞いたあの軍人さんの余興喇叭の吹奏者が、金子氏であっ
て欲しいものです。現在の『集合ラッパ』だったのでしょうか?今となっては誰に
も判らないことだと思いますが、非常に興味が湧きます。
2004/04/24 「 祭り前が祭り 」
我が町、美川校下では青年団により毎年4月初旬よりおかえり祭りの神輿の先導
役を努めるラッパ隊の練習が始まります。4月下旬ともなると野外でラッパの練習
が行われ、夜になると各家々の窓に風がラッパの音色を運んでくれる日も多くなり
ます。5月に入ると「今年のラッパは上手やな。」とか「今年のラッパの仕上がり
はもう一つや。」という言葉が挨拶変わりともなります。歩くには最適な季節であ
ることと、祭り当日臺車(だいぐるまと呼ばれる曳山)の巡行での歩く距離がとても
長いためにその前準備として体を慣らす為なのか町なかで散歩をしている人を多く
見かけるようにもなります。
同じく5月に入ると青年団による神輿の先導役を努める旗手(神輿とラッパ隊の間
で旗を振り祭りを盛上げるのに欠かすことの出来ない役)との息(タイミング)を合わ
せるための合同練習が行われます。ゴールデンウィークにもなると昼間に行進の練
習を見ることもできます。そして各町内における臺車の打合わせにも熱が入ります。
ゴールデンウィークを境に町全体が次第に祭り一色に染まって行きます。祭り一週
間前の日曜にはおかえり筋(10年に一度2日目に神輿が通る道筋の町内には道筋一杯
に提灯が並びます。)には提灯をぶら下げる為の棒が軒下に並びそれらの電灯の配線
の準備が行われ"おかえり筋"は一気に祭りムードになって行きます、さらには臺車
の格納庫が開き清掃が始まります。おかえり君が子供の頃は真鍮磨きを購入し、臺
車の金具を磨くことが小学生高学年の担当でしたが、塗り直しをした臺車の金具は
メッキの為に今は真鍮磨きも必要なく小学生は何もしないようです。格納庫が開き
久し振りに見る臺車に祭り当日の熱い想いを重ね男達は仕事が手に着かなくなって
いきます。

この季節、美川の子供達はラッパの音を子守歌としてすくすくと育って行きます。
子供達は小学生に入学する頃には毎年1.5ヶ月間耳にしたあのラッパのリズムが正し
く魂に刻み込まれ、なかにはおかえり祭りに夢中になり始める子供もいることでし
ょう。自分の子供時代を振り返ると、小学生の頃は祭り前に机を運ぶときや体育の
飛箱を運ぶ時にラッパのリズムを口ずさみながらみんなでタイミングを合わせて移
動させたものです。この「祭りごっこ」は結構楽しい遊びでおかえり君は大好きだっ
と記憶しています。5月には教室の後ろの黒板には「祭りまで、あと15日」など
と誰かが書いてカウントダウンも始まります。祭り1週間前には色チョークで臺車
や神輿の絵が書いてある教室が増えたりもします。放課後には「たかまに行こう!」
と云う声に意見が一致して、高浜のお旅所に向かいます。少しいたんだ格納庫の扉を
力を込めて押し隙間を作りもぐり込んだり、当時は臺車の格納庫は砂地の上に建って
いた為に砂を掘れば体の小さな小学生は格納庫の中に入ることが出来て格納庫の中で
「早く祭り、来んかな。」とつぶやきながら遊ぶことが伝統になっていました。今思え
ば当時の大人も祭り好きの子供に対して非常に寛大だったように思います。

(上はギーギーの様子:軋み音を出すために車軸にこばを巻く作業)
そして、祭りの前日21日の宵宮(美川校下では"よんめ"と呼んでいる)を向かえ
ます。この日には臺車の試し曳きが行われ本番さながらの化粧を施し各々自分の町
内を練り歩きます。美川の祭りをご覧頂いた方はご存知でしょうが、これら臺車が
発するあの凄いきしみ音をだす為の作業(ギーギーとかギコギコと呼んでいます。
)もこの日に行われる町内がほとんでした。宵宮が終わり子供達は家に帰りますが
興奮のあまり布団に入ってもなかなか寝付けません、この日ばかりは子供達も深夜
になるまで寝ることが出来ません。ようやく寝ることが出来きた矢先に朝の"集合ラ
ッパ"で目が覚めます。"集合ラッパ"の威力は凄いもので祭り好きの人間にはどんな
に眠くても一発で目が覚めるようです。もちろん自分などはまだ遠くで鳴り響いてい
るラッパの音で目が覚めます。寝ぼけまなこで台所近くに行くと母や祖母が作ってい
る寿司や赤飯の混じった何とも言えない匂いがして本当に祭りがやって来たのだと実
感したものでした。

しかし無常にも祭りの2日間は事のほか早く過ぎ去ります。おかえり君が生まれ
る前の洒落歌には「正月3日に盆3日、祭りゃ2日じええそんねえ。(愛想もない)」
(正月や盆は3日もあるのに祭りは2日間で何か物足りないという意味です。)があ
ったとじぃさんが云っていた事を記憶しています。祭り好きの皆様にはご理解頂け
ると思いますが祭りが終わった翌日のあの寂しさは何とも言えません。翌日には臺
車の巡行で道路に残った車輪の痕跡を確認しながら登校し名残惜しい祭りの余韻を
味わいました。小学校へ着き、みんなで「祭りまで、あと363日」と後ろの黒板に書
き、「おまえら、いい加減にせー!!」と先生に忠告をうけ、祭りが終わった寂しさを
実感します。この日から新たに子供達は来年の春が訪れることを心待ちにします。
その為か、おかえり君は5月の連休明けから祭り当日までの「祭り前が祭り」の季節が
一番好きでした。
サラーリーマンの転勤族で長い期間味わうことが出来なかったのでここ数年は、「
祭り前が祭り」の喜びを改めて噛み締めています。
利潤追求第一主義の企業戦士の方には理解出来ないようで、祭り当日でさえ「祭り
なんかで、美川に帰らんでもいいやろ!」と言われ続けた長い冬の時代があったから
なお更かもしれません。美川校下で暮らせる今を幸せに思います。
2004/05/07 じぃちゃんの膝の中で、その5.
祭りの日は晴れろ!
祭り好きの美川の男衆はおかえり祭りの10日ぐらい前から当日の天気が心配になり、
普段はあまり気にしない天気予報の番組を熱心に見るようになります。週間天気予報
で5/15前後に雨の日が続くと何故かホッとするのです。また直前の週間天気予報で5/
22,/23が雨になっているとそれはそれはがっかりし、予報が変わり雨から晴れになろ
うものなら天にも登る喜びとなる訳です。
事実、5月15日前後に雨の日が続くと、不思議と美川の祭りは晴れたものです。お
かえり君が幼い頃の祭りに雨が降った記憶は一度だけです。丁度5/15前後に雨の日が
続いたからです。最近は雨の日の祭りが本当に多くなりました。罰が当ったのでしょ
うか?、また5/15前後に雨の日が続いても美川の祭りは雨の年もありました。気象が
変わったのでしょうか? 「何処の祭りも、祭りの日は晴れろ!」がおかえり君の素
直な気持ちであります。
しかしながら「小松のお旅が雨なら、美川の祭りは晴れる。」というのがじぃさん
の口癖でした。じぃさんをかばう訳ではないのですが、10年くらい前までは美川の年
配の方は皆同じことを云っておりました。
小松のお旅び祭り関係者には誠に申し訳ない話しではありますが、この世を去った
じぃさんの思い出として掲載させて頂きました。どうぞお許し下さい。
2004/05/13 じぃちゃんの膝の中で、その6.
随身(ずいしん)の云い伝え
2002年度のおかえり祭りに獅子舞が復活した、2003年度にはその獅子舞に小学生が
参加し、神輿の随身の右大臣・左大臣も復活した。神輿の巡行の際に沿道でご覧にな
った年配の方々は皆、それぞれに喜んでいたということを聴きました。
しかしながらこの右大臣・左大臣についてはおかえり君は全く記憶がありません。
昔、神輿の随身には今の右大臣・左大臣のほかにさる子という役の子供が二名いて
合計4名だったということです。
また昔の右大臣・左大臣は本物の刀を腰に差しており、神輿にいたずらするものが
いたら刀を抜き、「いたずらしないように!」と相手を威圧していたこともあった。
と云うはなしを聞いたこともあります、じいさん以外の数名のかたからも同じはなし
を聞いたことがあるのでアップします。 一体いつの頃なのか?非常に興味が沸きま
す。(単なる云い伝えだけなのかもしれませんが、)
どんな格好をしていたかもよく判らないのですが、さる子も是非復活して欲しいも
のです。
じいさんが子供の頃の美川の祭り(たぶん大正時代)を、もう少し詳しく聞いて記録
に残しておけば何かの参考になり良かったと今頃になって後悔をしています。写真も
普及していない時代なのでなお更です。
着物を好んで着ていたじぃさんは、自分が中学の頃にはまだまだ元気でした。
2004/05/16 時代に流されなかった美川校下青年団?
祭りの直前になると、美川校下青年団の髪の毛が黒くなるという。大切な美川の神
様がに奉仕する身になるからでしょうか?5月の連休中には喇叭隊の中に茶髪や金髪
の頭髪を見かけたのに、祭り当日の喇叭隊の中には茶髪や金髪の頭髪が見られなくな
ります。昨年(2003年)の祭りは確かにそうでした。祭り直前には日本人本来の髪の色
の黒色に戻すからでしょうか?
茶髪などはあたり前の現代の若者の間で「おかえり祭りには茶髪や金髪でもよいで
はないか。」とか「紋付、袴の正装にあるようにやはり頭髪も黒にしよう。」と云う双
方の意見が当然あったかと思われます。しかし美川校下青年団は頭髪を黒髪に戻すこ
とをあえて選択肢として選んだものだと推測します。
もしそうであるとすれば、『美川校下青年団は普段は茶髪や金髪でも、祭りになる
と神に敬意を祓い黒髪に戻して神輿御渡に従事している。』、殺人や自殺等の若者に
関する暗い話題が多いなか、なんとも爽やかな話題に聞こえて気持ちがいいものです。
また若者が茶髪や金髪のまま祭りに参加している地域に対しても神に対する美川の
若者のこの姿勢は誇らしく感じます。良い伝統として受け継いで後世にも伝えて頂き
たいものです。
この姿勢に付いては年配の方も嬉しく感じており、時代に流されず黒髪の頭髪を選
んだ美川校下青年団におかえり君からも大きな拍手を送りたいと思います。青年団OB
と見受けられる一部に茶髪のまま担ぎ手に参加している者もいますが、出来ればあな
た達も頭髪を黒髪に戻し参加して頂たくと更に宜しいのですが、いかがなものでしょ
うか?

日本の祭りだからこそ、紋付, 袴, 白襷という和服姿に似合う黒髪の若武者はやっぱ
りイイ!絶対イイ!。
この話題に詳しい現役の青年団方どうぞメールで真相をお知らせ下さい。誤った文
であればすぐに訂正したいと思います。
何かと厳しいこと云うOBをもつ美川校下青年団の皆様大変でしょうが、他の地域に
青年団に比べると立派なものですよ、影ながら応援しています。チビッコ達に夢を与
えるような祭りに是非して下さいね。
2004/05/19 袴もおしゃれに!
自分が最初に身に付けた袴は無地のものだった。当時は濃紺、濃青や濃いグレイ、
少し薄いグレイの無地の袴を身に付ける者が多かった。今の青年団の多くは少し薄い
グレイに黒の縦のストライプの仙台平(せんだいひら)と呼ばれる袴を好んで身に付け
ている。これは自分から見てもおしゃれだと思う、だから昔、仙台平の袴をはいた伊
達藩の男達をおしゃれで格好イイと思い伊達者(だてもの)と呼んでいたのではないだ
ろうか?

つい最近までおしゃれに気を使う男を伊達男(だておとこ)とか、伊達こきとも呼ん
でいた。伊達男の由来は仙台平の袴にあるのだろうか?
江戸時代の武士達のおしゃれについて少しだけでも理解できたようで嬉しくも感じ
たりする。このように袴のデザインにおしゃれを感じる自分はやはり昔の男の部類に
入るのであろう。
しかしながら、いつの時代にも紋付 ,袴 に白襷の若者達の姿が凛々しくあり、美川
小学校のチビッコ達はその姿に憧れを抱き続けていて欲しいものです。
美川校下青年団の皆様、美川のチビッコ達のためにも、格好イイ晴れ姿をおかえり
祭りで是非とも披露してください!
以上
2004/06/13 じぃちゃんの膝の中で、その7. 一枚の古い臺車の写真

譲り受けたセピア色の『じぃさんの一枚の写真』には昭和初めのいろんな思い出が
詰まっています、昭和10年頃の美川小学生達の様子、当時の南町の児童は臺車修理で
新しくなった自分達の町の臺車が嬉しくて坊主頭に"祝"の字を染めこんだ鉢巻を皆き
ちんと巻いています、もちろん美川小学校の制服も今のブレザータイプのものではな
く襟の付いた学生服タイプのものであったことも判ります。紋付袴姿の頭の上には、
カンカン帽と呼ばれた見慣れない帽子を被っている大人達も見ることが出来ます。当
時では全く違和感がなったのでしょう。
さらに引き綱に目を移すと紅白の撚り込みの綱を使用しており、南町町民の新しい
臺車への思い入れが感じられ、この一枚の写真を見て先代の人達との懐かしい思い出
が蘇ったかたももちろんいることでしょう。
他の町内から見るとやや見劣りした浦島太郎の飾り人形をやめ、中町から譲り受け
たとの言い伝えのある今の蘭陵王の飾り人形を乗せたのもこの時からなのでしょうか?
背景に目を移すと今の格納庫より随分と低い格納庫があるがこれらは傘鉾型の臺車
の格納庫であり、昭和40年後半頃までの傘鉾型の臺車の格納庫は皆この形でした。お
旅所の中で見慣れた鳥居も既にこの時にはあったというこになります。
もしこの写真に写っている当時10歳の少年が生きているとしたら、きっと今では80
歳のおじぃさんになっており、もし彼らがこの写真を目にすることが出来たなら感慨
深いものになることは間違いないことでしょう!
(ご協力:南町在住の蘭陵王さん)
参考まで、おかえり君が物心ついた頃の臺車の格納庫の並びは、今の並びにお旅所側
から
和波町、末廣町、東新町、北町、南町、濱町、船職組、永代町、西新町
で今の今町の格納庫の場所に和波町があり、中町の格納庫の場所に末廣町がありまし
た。 向い側にはお旅所側から
今町、中町、家方組、神幸町(この格納庫だけが道に平行に並んでいた)でした。
下の図を参照下さい。↓

2004/10/13 山王さん(山王権現:さんのうごんげん)
藤冢神社の主祭神(しゅさいしん)が、大山咋神(おおやまくいのかみ)であることは
地元美川校下の氏子達にもあまり知られていません。大山咋神の別名には山末之大主
神(やますえのおおぬしのかみ)、鳴鏑神(なりかぶらのかみ)があります。
明治の時代になって神仏分離令なるものが発令されました。このことにより従来の
本地垂迹説の天照大神(あまてらすおおみかみ)と大日如来(だいにちにょらい)が同一
であるという、日本人にとって長い年月の間、当たり前で有り続けた精神的な拠所に
近いものが完全に否定されたことになりました。当時の人にとって『大日如来さまと
天照大神は今日からは別のものです。』という半ば強制的な命令に何とも合点がいか
ず、戸惑いを隠せなかった人も多かったようです。
この神仏分離令により今まで親しんできた神仏の名前ではなく神道用の名前を使か
うことになりました。さらに神道用の名前が知られていない神に対しては古事記や日
本書紀の中に存在した神の名を従来の神仏の名に割当てました。
これらの経緯で牛頭天王(ごずてんのう)が素戔鳴尊(すさのおのみこと)、山王権現
が大山咋神(おおやまくい)というように・・・。参考までに滋賀県大津市坂本にある
山王総本宮日吉大社には東本宮には大山咋神を祀り、西本宮には大己貴神(おおなむ
ちのかみ)を祀っています。その為か山王権現を大己貴神とした神社も存在していま
す。
そのような理由からでしょうか?美川校下では年配者の口からはあまり大山咋神(
おおやまくい)と云う神の名を聞くことがありませんでした。じぃさんはいつも美川
の神さん(かんさん)と呼んでいました。
青柏祭で有名な石川県七尾市の大地主神社(おおとこぬしじんじゃ)も藤冢神社と同
じ日吉山王社の大山咋神が祀られており地元の氏子からは、いまだに山王さん(さん
のうさん)と親しまれております。ちなみに山王とは比叡山の王という意味で、山王
権現つまり藤冢神社の大山咋神におなりになります、大山咋神は素戔鳴尊の孫に当た
り、鏑矢(かぶらや)を手に持った山の神で方位厄除及び醸造業にご霊験があるとされ
ております。
"日吉"も"日枝"と云う文字もともに比叡山の"比叡"から来ています。比叡(ひえ)→
日枝(ひえ)→日吉(ひえ→ひよし)、ということで日吉神社、日枝神社と名の付く日本
全国の神社には"山王さん"が祀られていることになります。
また、本山の比叡山には多くの猿が住んでいました。この猿と比叡の山の神との信
仰とが結びついて比叡山の猿は、山王の神使「御神猿」として信仰されるようになり
ました。
比叡山における山王の猿には次のような言い伝えもあります、山王の猿は古くから
「魔が去る」→「まさる」と呼ばれ、厄除(やくよけ)・魔除(まよけ)の信仰を受けま
した。そのために農業の守護神とする信仰が強くなって行き「さるまさる」といわれ、
繁殖が旺盛な動物として人々に愛され、犬と共に分娩が容易い、安産の神としても信
仰されてきました。
自分のつたない記憶で申し訳ありませんが『山王さんのお猿は赤い衣服(ベベ)が好
き!』と何かで読んだか、聞いたかしたことがあります。
これらの内容は本当はもっと詳しく難しく書かれていたのですが、自分が理解出来
た範囲のみを頭の中で整理してアップしましたので説明不足な点などはどうかお許し
下さい。
近年おかえり祭りの神輿に右大臣左大臣の随身が復活されましたが、近い将来には
随身の申子?(猿子?)(さるこ)の復活も願って止みません。
参考:司馬遼太郎著『街道を行く』(山王権現)
:時實雅信著 「山王祭」の「猿」が意味するもの
おかえり祭りにおいては、1.昭和40年頃までは神輿の随身に『さる子』が存在して
いたこと、2.船職組の臺車が山王丸であること、3.神幸町の臺車の飾り人形が猿田彦
命(さるたひこのみこと)であること、4.和波町の臺車の飾り人形が豊臣秀吉であり幼
少の頃の名が日吉丸(ひよしまる)であったこと。この4点が何か山王さんに関係があ
ることではないか?と自分もふと頭に浮かびました。
また臺車の後ろ車輪の軸部で音が鳴る部分を美川校下では"カブラ"と呼んでおり、
非常に興味深い点もあります。:山王さんが持っている鏑矢(かぶらや)を放つと凄い
音がする為に合戦の合図に使われた、と云う言い伝えに凄い音が共通点として解釈出
来ることから。
参考:伊藤博一著『轂類集』(こしきるいじゅう)
注)本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)
神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為を、理論付け
し、整合性を持たせた一種の合理論で、平安時代に成立しました。その基礎には仏教
以前の山岳信仰と修験道などの山岳仏教の結びつきがあったといいます。
仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からで
した。
ところが、天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にあり、神様と仏様が歩み
寄る必要が出てきました。その為に必要になったのが神仏習合の信仰でした、平安時
代にはこの神仏習合が日本各地に広まっていったようです、不思議にも歩み寄ったの
は神道の神様の方と云うことでした。
しかしながら、明治初年の神道国教政策により神仏は分離され、本地垂迹説も消滅
していったということです。
参考:長年の間の自分のメモからで不明!(パクリと云われたくなりません、どなた
かご存知であれば連絡下さい。)