十字錫杖地蔵 なぁ〜んにも無い平磯だけど  壁紙にしてみたら少しは見られるかも
那珂湊の象徴も言える海門橋を語るとき其の傍らの天妃山も忘れることは出来ない
              管理人秘蔵の初代海門橋と元来の天妃山の生写真/明治29年頃


 かつて平磯は那珂湊と磯浜(現・大洗町)とを合わせて「三浜/さんぴん」と呼ばれていました。
 その三浜地区を隔てていたのが那珂川の流れでした。
 平磯を語る上で生活圏も重なっていた三浜を語らなくてはならず、
 その隔たれた地域を繋いでいる海門橋について考察してみることにします。
 
  
海門橋-架橋への道程
 元禄八年(1695年)水戸光圀により那珂川対岸の祝町に遊郭が置かれ渡船も設けられた。
 水戸光圀の肝いりで、この渡船の経営権は願入寺の物とされ名称も「願入寺渡船」又は「祝町渡船」と呼ばれた。
 
 那珂湊に立ち寄る東回り廻船の船乗りたちなどが遊郭へ足繁く通ったり
 祝町は那珂湊と生活圏を共有していた為に住民同士の行き来も盛んだったので
 祝町渡船は東海道の六郷の渡しにまけず劣らずに繁盛していたといい、 

 那珂湊の最盛期には渡船の利用者は1日に7.8百人に達したそうです。

 その後、弘化年間(1844〜47年」になると水戸藩が辰ノ口に川番所を設けると水戸藩の管理下になり
 名称も「辰ノ口渡船」、「那珂川渡船」と呼ばれるようになった。
 此の頃の渡船料金は一人、十文で馬は3.40貫の荷を積んだ物で三十六文、軽荷物の馬で二十八文だったという。

 明治時代になると祝町の遊郭の管理をを那珂湊警察署が受け持つなど、
 より地域の繋がりが強くなると那珂川河口への架橋の願いが強くり、
 那珂湊の住人「国松正安」の呼びかけて架橋運動が起こり、
 湊商業銀行頭取「鹿志村亀吉」を組合長として架橋組合が誕生し
 祝町・那珂湊の賛助会員の出資により民間の手で初代海門橋の完成に到った。
                              参考 山形 雄三 著「祝町昔がたり」       

 架橋・流失の繰り返し
 技術不足か地形的問題か海門橋は何度も架橋・流失を繰り返し、現在の海門橋は五代目に当たります。
 五代目はそれまでの海門橋の中で最長の稼動期間を誇りますが、初代の海門橋は驚くほど短命でした。
 「国松正安」の発案より18年の年月を経て明治28年(1895年)10月9日にようやく完成しますが、
 翌29年9月、台風の増水により僅か1年足らずで流失の憂き目を見ます。
 そしてそれは呪われた様に四代目まで繰り返すのです。
  
歴代海門橋架橋地の変遷
 初代と二代目、四代目はほぼ同じ場所へ架橋され、三代目は天妃山を挟んで上流50mに架橋されました。
 そして五代目の海門橋は当に天妃山の其の場所へ架橋されました。
 ↑のMAPは現在の地図に昭和初期の地図を重ねたものです。
 海門橋の架かる両側の町の道路も現在とは多少違っていますし、何より天妃山の位置は全く違っているので
 これから説明する歴代の海門橋の架橋位置を把握する上でも天妃山の事を先に説明しておきます。
 
 
 天妃神社 
(天妃山/てんぴさん)大洗町媽祖神社
 

 天妃山(媽祖神社)とは
 現在の「弟橘比売神社」の古称です。
 古来、同所には由来が分からぬまま「八幡神社」が
 祀られていました。
 ここに水戸光圀が元禄三年(1690年)4月6日に
 媽祖像をご神体に「天妃神社」を祀らせました。
 此の時ご神体となった媽祖像は
 中国の高僧「心越禅師」が中国が明から清への
 政変を逃れて来日した際に持参した
 2体の媽祖像の内の1体であり、
 もう1体は北茨城の磯原に祀らせ、
 ここも天妃山としました。

 心越禅師が水戸に来られた理由にも逸話があり
 来日直後は長崎の興福寺の法座を勤めていたが
 曹洞宗で在ったため黄檗宗の唐僧の排斥を受けて
 幽閉されるという苦境に陥り
 それを耳にした水戸光圀によって救い出され
 小石川水戸藩邸を経て水戸に迎えられて
 天徳寺に住まわせたと云う事です。


 尚、天妃神社が祀られるまで、
 此の地に祀られていた八幡神社は
 大洗磯前神社の境内に移され祭祀が行われている。
 水戸光圀の八幡神社潰しは有名だが、
 此地の八幡神社への処遇はまだ緩やかだったようだ。


 
現在の「弟橘比売神社」 
改宗
 那珂湊沖を行く船舶の安全を祈願し境内に
 大行灯の常夜燈を燈して灯台の役目を果たすなどして
 「天妃山/てんぴさん」と親しみを込めて
 永年慕われていた天妃神社でしたが、
 天保2年(1831年)水戸斉昭が寺社改革を断行し、
 祭神を「弟橘媛/おとたちばなひめ」へ改められた。

 水戸斉昭は「古頭」と呼ばれるほどの純日本主義者で
 当時、攘夷論を唱える代表的人物であり
 地元民の意向など一切聞き入れず、
 日本の海の女神である弟橘媛を祀る様に指示をした。

 それまで祀られていたご神体の媽祖像は
 水戸の祇園寺へ移されたというが、
 現在は行方不明です。

 青森県大間の大間稲荷神社には
 天妃媽祖大権現が祀られていて、
 水戸藩から遷座したとの言い伝えがあり
 祝町のご神体の媽祖像が伝えられた可能性がある。
 
          
媽祖像の模写/侍従2人を従え3体組の像であった
祭事
 祭神が弟橘媛に改められた後も三浜の漁師の守神として信仰は変らず依然「てんぴさん」と呼ばれ親しまれた。
 そのため祭祀は大洗磯前神社と那珂湊の橿原神宮が輪番で執り行っていた。
 毎年旧3月23、24日に祭礼が行われ境内に磯浜村の年番には「鹿島郡」と湊村の年番には「那珂郡」と書かれた
 大幟(おおのぼり)を立てたといい、これは明治2年に磯浜村単独で祭礼を執行するようになるまで続いた。
 天妃山の祭礼は漁師のみのものではなく、天妃山のお膝元の遊女たちの祭礼でもあった。
 遊女達は取って置きの着物を身に纏い絢爛豪華な花魁道中を執り行ったので
 色香を求める男達が集い、祭りを一層賑やかにしたが目に余る不健全さから藩より自粛の要望が在ったという。
 この花魁道中には平磯のおばちゃん連中も着飾って参加していたそうだ。

 また毎年10月1日には神社前広場で花相撲興行が行われ大勢の見物客で賑わった。
 此の日は三浜の漁師は一斉に舟止めになり、それぞれに参拝し遊郭にて祭りを祝うしきたりになっていて、
 祝町の各家では家紋入りの大提灯を軒先に掲げ宵祭りを祝ったそうです。
 
青天の霹靂の那珂川改修計画
 昭和16年後半、太平洋戦争勃発と時を同じくして、突如内務省より那珂川河口大改修工事が発令された。
 那珂川上流で発生する洪水時の水はけを良くする目的で川幅を広くするという。
 その為に、祝町の河口に面した地域を全て切り崩すという無謀な計画だったが、
 戦前の体制では国の厳命に抗する術は無く強制立ち退きに応ずるしかなかった。
 立ち退きの代価は各家あたり1千円で、大工の日当が3円の時代に余りにも安価な金額でした。
 (水戸飛行場用地に田畑山林を接収された際には日本陸軍より手ぬぐい1本しか支給されなかった)

 料亭「那珂川楼」は最後まで移転に反対したが強制執行を仄めかされて移転に応じたという。
 那珂川楼の移転費用は庭木なども含めて1万4.5千円の負担となった。
 代替の移転先は祝町向州台場周辺の松林で、伐採のみで整地などは行われておらず
 その上、取り壊すときとは違って住宅の再建は個人に負かされたのです。
 太平洋戦争突入後は物資の確保もままならず、住宅建設には大変苦労されたようだ。

 移転は一般住宅だけではなく、由緒ある天妃神社にも及び、
 ドンドン山の東端に社殿を移され、旧境内は樹齢300年にも及ぶ老松もろともダイナマイトで粉砕されてしまった。
 (註・ドンドン山とは願入寺領北側那珂川に面した一帯を指す。幕末・天狗党の乱で幕府軍が大砲を放った事から名付けられた)

 改修工事は戦時中も通して行われたが昭和19年頃になると工事用トロッコや小型蒸気機関車が
 米軍艦載機の機銃掃射を受けるようになり作業は頓挫する。
 昭和20年、終戦を迎える前に改修工事の終了を宣言されたが、
 切り崩し作業をしただけで、護岸工事などは施されなかった。
 
 住民を強制移転させてまで行った那珂川大改修工事であったが、その効果は全く無く
 戦後の建設省による水害対策工事まで水戸周辺の水害は収まらなかったのである。

 無駄な工事に莫大な国費を浪費し風光明媚な地形と由緒ある天妃神社を失い
 祝町住民のみならず三浜地方一帯の住民の喪失感は計り知れたものではなかった。 


那珂川改修計画について
 祝町の住民感情とは裏腹に、那珂川における水害被害は甚大で
 戦時中でさえ 工事を行わなければならないほど切迫したものだったらしい。
 那珂川水害年表を用意したので下記をクリックしてみてください。
suigai_nenpyo.pdf へのリンク

 昭和16年、17年と戦争時にも関らず通年総額47万円の工事費が国会で承認されている。
 このほかにも、藤井ダムを計画する等、内務省は那珂川流域全体の本格的な改修計画を予定していた。

 再度現在の地図に昭和初期の地図を
 重ね合わせてみた。

 ピンク部分は祝町側の欠落部分。
 グリーン部分は那珂湊側の欠落部分で
 工事の対象区域だったようだ。

 ピンク部分には「崖地」の地図記号が記載され、
 海門橋の付け根付近は全体的に
 小高い丘になっていたが分かるが
 改修工事により、殆どが削られて平地になった。

 ⇒丘が削られ平地になった現在の祝町川岸
 一方、那珂湊側もかなりの土地が欠落しており、祝町同様に那珂湊側でも強制的な移転を強いられたようだ。
 しかし、那珂湊では江戸時代に小川町から辰ノ口にかけて存在した中州が水害に襲われて
 中州にあった家屋は流され住民にも多大な犠牲者を出した記録が残っているので
 住民感情からしても祝町ほどの工事への反感は薄かったのかもしれない。 
 (因みに小川町の地名はこの中州と陸地の間に小川が流れていた事に由来する)
 
改修以前の辰ノ口(現・海門町)一帯には砂地が広がっており、安全な海水浴場として子供たちがよく使用していたようで、学校単位での水泳実習も行われていた。

再び地図に目をやると、此の付近の那珂川は狭窄しており、当時の役人には那珂川水害の元凶と写ったのかもしれない。

各地でも改修工事に対する
反対意見が出されたが、
住民感情を無視しても
当時の行政として
行わなくてはならない
工事だったのだろうと推測する。
 
 辰ノ口の那珂川の中に取り残されたコンクリート塊。
 もしかしたら、これは戦前の那珂川護岸が川の中に取り残されたものかもしれない。
 こんな大きなコンクリート塊を遺してしまうほど工事は杜撰な物だったようだ。
移転前の天妃山の様子
 当時此の地は独立した小山で在ったそうで、百数十段の階段を昇ると境内は6畝歩(約6アール)程の広さで
 神殿は方二間(3.6平方メートル)、前殿の長さ約10m、横3.6mで屋根は茅葺であり、
 何処となく中国様式を感じられたという。
 昭和12年には大洗磯前神社の大鳥居を寄進した深作貞次氏により此の地にも大鳥居が建てられた。
 神社の周辺は椎・山椿・欅の他に樹齢三百年は経たと思われる老松の大木等が昼尚暗く群生しており
 南の斜面にはそれらの大木の根が地上に累々と横たわり、その根伝いに神社裏の道路へ降りる道が在った。 
 左手丘の上が料亭「清風亭」でその背後の高見に天妃神社が建っており、中央が現在も続くうなぎ料理の「那珂川楼」の旧店舗
後ろの洋風の建物は不明だが、此の付近に現在の「弟橘比売神社」が建ってている
移転前の天妃山周辺の様子
 願入寺前より続く二間道路が天妃神社の
 森の下を抜け那珂川岸辺に辿り着く。
 木造の海門橋の痕の土手下の道を挟み
 大正初期に開業したうなぎで有名な
 那珂川楼があり、一面小砂利を敷詰めた
 川口玄関の左手に調理場があり
 突き当りには桟橋があった。
 その桟橋のすぐ側に御殿風に造られた
 那珂川楼の洒落た風呂場があって、
 その左側にドンドン山の山清水を湛えた
 石の水槽があり緋鯉・真鯉が泳いでいた。
 虹のかけ橋四代目海門橋までは
 30メートル。川沿いに細長く続く
 那珂川楼の裏手南側には、
 天妃神社の森が大きく圧し掛かり、
 そそり立つ岩壁に沿って表道路へ続く
四代目海門橋架橋前
細道があり、途中には神社下の岩肌より
流れ出る岩清水が奇岩・怪岩の渓谷を
流れそこには風雅な太鼓橋が架かっていた。
その道と平行して大きな池の上に架かる細長い
風流な渡り廊下と結ばれた海門橋際の
那珂川楼別館前の表通りに出ると、
天妃山の森と隣り合わせに「コナヤ」があり
駄菓子・稲荷寿司・心太などを商いしていた。
空を突くような石の大鳥居がそそりたつ
天妃神社の前は約20メートルの大広場に
なっていて、中央の電車道(水浜電車)を挟んで
東町と呼ばれた街並が海門橋まで続いていた。

  参考  山形 雄三 著 「祝町昔がたり」
四代目海門橋架橋後
元来の天妃山
 最初に天妃神社が祀られた場所は 現在の「弟橘比売神社/弟橘媛」の立つ処ではなく
 上記の地図の通り、現在の海門橋の架かる処の駐車場脇公園になります。 
海門橋の麓の樹木に囲まれた裸婦像の場所に天妃神社の社が建っていました。
 インターネットで天妃山を検索してみると、媽祖神崇拝団体やスピリチュアル (spiritual) 的な方が此の地を訪れていることが分かります。
 しかし現在の「弟橘比売神社」は移転地であり、現在の場所は一度も「天妃神社」として祀られたことが無いのです。
 今後、天妃神社として訪れる方が居られるのなら海門橋脇の元来の地を訪れる事をお奨めします。

 
この様に天妃山は三浜地区一帯の住民にとって掛替えの無い土地であったので、
 住民の資本出資による海門橋架橋の際には天妃山に影響を及ぼさぬ様に架橋場所が決められたのです。
 
 
「平磯町の懐かしい時代」TOPへ
歴代海門橋解説
  

    このホームページをご覧になったご意見ご感想を掲示板、またはメールにてお寄せください   
 

※Flashを多用しているためFlashPlayerに拠っては一部提示されない場合があります。最新型のFlashPlayerをダウンロードしてください。
※JavaScriptを使用しないように設定してあるPCでも一部提示されない箇所があります。設定を解除してからご来場ください。