2009/7/9
常陸佐竹氏の金山開発そして砂金掘り

奈良時代
常陸で砂金が発見されたのは奈良時代、茨城県大子町、隣接した栃木県馬頭町での砂金採取から始まります。朝廷への砂金の献上が宮城県涌谷町より少々、遅くなり残念ながら日本最古の産地の称号は逃しましたが、常陸の砂金は、遣隋使や遣唐使の資金としてかなり重要な役割を果たしたようです。砂金は日本でと言うより大陸での貿易に役立ったのだろう。大陸に行っても砂金は、世界共通の貨幣のように目方による取引が出来たのだと思われる。現に金塊は現在も有事に強い。クーデターなどが起これば紙幣などちり紙以下に成り下がるが、金塊は世界中何処にいても普遍の価値を持っている。まさにお金そのものです。
 
安土桃山時代から江戸時代
戦国大名としての佐竹氏の知名度は極めて低く、よほどの歴史通でなければ、ご存じないかも知れません。織田信長や徳川、豊臣、武田、上杉、伊達、前田、真田とスーパースターが乱立するこの時代にあって、あまりにも地味な存在だったからだろう。伊達政宗の小説やドラマには政宗の天敵として、よく登場します。佐竹連合軍の妨害が政宗の小田原参陣遅刻の原因になっているからです。
少し前にNHKの大河ドラマで「独眼竜政宗」が大ヒットしましたがそれを見ていた私は佐竹、芦名、相馬は何という意地の悪い陰険な奴らだろうと思っていましたが最近になって色々な歴史書や資料を見ると政宗の方が裏で忍者や一揆をあやつりコソコソ悪いことをする人物として描かれている物もある。武偏者の政宗だが実は芸達者でゴマスリも相当上手かったらしい。主観を何処に置くかの違いもあるが実際にはやはり政宗は、頭脳明晰で狡猾だったようだ。(しかし、間抜けな失敗も時々やってしまうところ、この時代の人間には珍しくジョークのセンスを持っているところなど何となく親しみが持てるところも多い)
佐竹氏は豊臣秀吉が台頭した時代に徳川、前田、上杉、毛利、島津、伊達につづく第7位、実質80万石の大名です。領地は現在の茨城県全域、福島県南部、栃木県東部と広大な領土を治めていました。一時期は同族同士の争いにより長い間弱体化していた佐竹氏が義重の代になって一気に強力な大名にのし上がった背景には優れた情報収集力と状況判断、金山の開発とそれにより手に入れた多量の黄金により最新型の鉄砲を多く所持していたこと、そして豊臣家や石田三成一派に黄金を献上したことなどがあげられます。
この時代の豊臣に献上された黄金のランキングは一位が越後金山(現在の鳴海金山)、2位に佐渡金山、3位に八溝金山、または伊達領の金山が来ます。
 
佐竹氏の金山は数え切れないほどありますが代表的なものとして、八溝、金沢、洞坂、栃原、大久保、瀬谷、部垂、南郷、木葉下、保内、助川、武茂郷などがあります。武田信玄の鉱山開発は有名ですが佐竹氏の鉱山開発意欲も武田氏に全く劣らなかったようです。
しかしながら、鉱山開発に関する遺物、文書から察すると常陸は日本最高水準である甲州ほど鉱山技術は持ってなかったと推察される。これは甲州が山間部で商業による関税、農業による年貢などの税収に限界があったために資金源を鉱山に求めたためだと思われる。武田信玄の他国への侵攻もこれが理由の一つと言ってよいだろう。
海に面しており温暖で雪の積もることのない常陸は大河と水郷に囲まれた豊穣の土地であり、塩田開発、農業などの税収もあることから、鉱山に真剣に取り組む必要がなかったのかも知れません。しかし豊臣秀吉が黄金を大変好んだことから、この時期急激に産金量が伸びたとみてよいでしょう。
 
佐竹と武田は共に新羅三郎義光(源義光)の血を引く正真正銘の清和源氏である、彼等から見れば徳川家が源氏と言っても主流からは大分はずれた末端でしかない。源氏直系である佐竹は征夷大将軍になれる家柄である。家康にとっては警戒すべき敵であるが、血筋が由緒正しすぎて滅ぼすわけにもいかない。佐竹氏は関ヶ原の合戦のあと石高も知らされないまま秋田に転封になります。
 
※源氏の家系
源のほか土着した土地の名前を名乗った多くの家系に分かれている。清和源氏(清和天皇を祖とする家系)の武田、佐竹の他、足利、新田、多田、京極、他にも南部、勝沼といった庶流もある。安土桃山時代末期になると殆どの家系が途絶え佐竹家が唯一源氏の血が濃い家柄となった。世が世なら武家の棟梁になってもおかしくない血筋である。
 
国換えの理由は一般には東軍に着く意志を明確にしなかったこと、あるいは上杉家への内通が露見したのが原因といわれていますが、詳しい理由は諸説あります。石田三成と個人的に仲の良かった義宣は、西軍に着こうとしましたが、西軍の敗北を予見していた義重は、戦への参加をやめさせたようです。それでも義宣は、関ヶ原に向かう徳川軍の追撃を諦めていなかった節があります。家康は、義宣と大変親密な茶匠・古田織部を説得に向かわせています。
それでも恭順を示したにも関わらず移封になったのは、たとえ味方でも家康にとっては江戸の真上に、これほど強力な財力と武力を持つ外様大名を置いておくことは危険きわまりないことだったからでしょう。佐竹氏の家臣達にとっては戦をしていないのに左遷された悔しさはきっと筆舌に尽くしがたいものだったにちがいない。
 
秋田への国替えの時、八溝の優秀な金山の入り口はほとんど埋めて行ってしまったといわれてますが真偽のほどは明らかではありません。また水戸藩も金山開発を引きついたにも関わらずめぼしい成果を上げられなかったようです。常陸の人々は「金と美人とハタハタは佐竹さんと一緒に秋田へ行った」と噂したくらいだから、あながち嘘では無いかも知れません。
甲斐から来て常陸太田に住み着いた黒川金山衆の永田茂衛門は持ち前の技術を生かした水戸領内の水利工事で後世に名を残すことになりました。鉱山における湧水処理は高度な技術です。これこそが茂衛門の得意分野だったと考えられます。
 
秋田への国替になった佐竹ですが、鉱山開発意欲は凄まじく、小さな鉱山だった阿仁、院内を全国屈指の鉱山にまで育て上げ、他にもあちらこちらで多くの鉱山を開発しました。また現在秋田市にあたるを出羽久保田藩の商業、林業、町づくりに力を尽くして繁栄させ、佐竹の家は幕府につぶされることもなく、幕末までつづくことになります。
八溝の金山は佐竹氏の国替え前に浅いところにある富鉱体は全て掘り尽くしてしまったとされています。しかし、人間のやること、何処かにまだ未探査の鉱床や砂金を含む含金礫層は、まだ人知れず眠っているのかも知れません。
 
明治から昭和
金山は小規模に細々と採掘されたようですが、常陸には金山の数が多い割に大規模な鉱脈がありません。山梨の黒川金山もそうでしたが、やはり中深熱水鉱床の宿命なのかも知れません。歴史に名を残す大金山である佐渡や伊豆の諸金山は、全て浅熱水鉱床です。
昭和18年になると金山整備令により、常陸の全ての金山は、操業を止め消滅することになりました。
 
※金山整備令とは平たく言えば、第二次世界大戦末期、資源の不足により軍需品に必要な鉄、銅、亜鉛、鉛、タングステンと言った鉱山に金山の設備を転用せよという命令のことです。
 
砂金についてはずっと川沿いに住む農家の方により、昭和中期まで、採取されていました。今では、現金収入として砂金を掘られる方は全くいません。
そして昭和後期、東洋金属により佐竹の金山の一つ栃原金山が復活します。現在の鉱業技術により、佐竹時代の坑道より遙かに下に掘り進みました。1トンあたり30グラムと割に高品位だったのですが、平成15年、金価格の低下、坑内の落盤等により閉山をしてしまい、ここに奈良時代より続いた常陸の金山、砂金の歴史は幕を閉じることになりました。
 
平成
最近は常陸が日本屈指の砂金産地であることを地元の人すら忘れています。僅かに古老の方が砂金掘りのノウハウを覚えていますが証人は年々減っており記録として残すことは難しくなってきている。また、年々進む護岸工事により年々の河床が失われつつあり、現在も砂金堀場が年々消滅していっています。
完全に消えていかないうちに何とか記録、標本を保存し、常陸の砂金が歴史上にどのような役割を果たしたかを考えるのが、私のライフワークの一つとなっています。
 

主な常陸の金山
塩沢鉱山
太郎山界隈の代表的な金鉱山です。大沢川支流塩沢上流の大塩沢、小塩沢を中心に展開されいました。現在も残るズリ、コンクリート製の建物の基礎の大きさからも当時は隆盛だったことが伺えます。
大沢鉱山
塩沢の少し南になります。2つほど坑道を掘ったようですが、試し堀程度で終わったものと思われます。
発祥鉱山
箕輪鉱山とも呼ばれていた。鉱区図には試1729と記載があることから探鉱で終わってしまったものと思われる。大沢川沿いに2コほど坑口があったようでそのうち一つが今でも確認できる。
久城鉱山
塩沢と仏沢の間に展開していた。恵比寿坑と大黒坑の2つを中心に盛大に稼動されたようです。昭和初期にこれだけの規模を持っていたにもかかわらず、ごくわずかしか資料が残っていないところが不思議です。
仏沢鉱山
久慈川支流の仏沢源流部付近に展開していた。また、仏沢と久慈川の間には多くの金窪があると伝えられており、佐竹時代に土金を回収した可能性もある。
日永鉱山
久慈川支流藪沢の上流にありました。この鉱山は大子町の金山の中でここだけがアンチモン鉱物である輝安鉱やベルチェ鉱を伴います。
南部鉱山
下津原集落付近にありました。袋田鉱山とも呼ばれていました。ここも一部に輝安鉱を伴い回収をしていたようですが、金山としてはあまり成功しなかったようです。
太郎沢鉱山
太郎山の北側、現在も坑跡は残っているという話しです塩沢に次ぐ地区の代表的な金山でした。部分的にかなりの上鉱も出たため試し掘坑も多くあったようですので転石でもこの地区の石英はよく調べる価値があります。
栃原鉱山
佐竹時代からの鉱山であるが昭和の終わりに東洋金属により再興され本州最後の金山として、高取鉱山の比重選鉱機器を持ち込み数年前まで稼動していた。
久隆鉱山
栃原鉱山の反対側にあった。栃原、塩沢と同じく石英と母岩のビビっているところ、硫化鉱物、あるいはその分解物に自然金が伴う。
薬丸鉱山
日立大宮市(山方町)の久慈川沿いにあった。この地方最大の規模を誇っていたが現在は旧坑2つを残すのみである。
日東鉱山
大子町の初原にあった。一部は高品位であったが全体に品位が一定でなく操業が困難だったようです。
生里鉱山
里美村大中宿の里川に沿って坑が残っている。この地方には珍しく閃亜鉛鉱、方鉛鉱を伴う。また、マチルダ鉱も稀にあるという。
大久保鉱山
佐竹時代、水戸藩時代に盛んに掘られていたため多くの坑跡が残っている。多く残っていると言うことは逆にみればあまり大きな抗体がなかったのだろう。ただ、部分的には肉眼金があったようで日立民俗資料館で現物を見ることが出来ます。
木葉下鉱山
水戸市の金山バス停近くに今も坑口が残っているが、他は不明。硫砒鉄鉱、スコロド石を伴う。
金山澤鉱山
押川流域にあるあまり知られていない金山。押川の砂金はここからの供給である可能性が高くこれが佐竹時代の日立市とは異なる金沢金山である可能性もある。
金川原鉱山
タングステンを掘っていた高取鉱山の近くにある。金よりも銀が多いのが特徴で、佐竹時代は高野銀山と呼ばれていたのはここだと思われる。
 
砂金の産出が見込める川(未確認含む)
久慈川、八溝川、矢祭川、押川、大沢川、初原川、久隆川、玉川、鮎川、里川、桂川
これらの本流および支流や水路内。必ず採れる保証はないが可能性はかなり高い。
 
 
 
 
 
 
常陸の自然金
大子町、山方、水戸の自然金は、粘板岩、砂岩中の石英脈に含まれます。一般に老脈と呼ばれるタイプで比較的大粒の自然金を産出しますが、一般に1トンあたりの品位は5グラム前後と低く、金の価格が低い現在、坑道堀をして採算に合う金山はありません。
ちなみに世界最高といわれる鹿児島県の菱刈鉱山は1トンあたり600グラムの高品位です。しかし、肉眼で確認できるほどの金粒はほとんど産出しません。
金の粒の大きな金山は総埋蔵量が少ないという特性があるようです。
大子町の太郎山は昭和まで稼働された金山の他にも、佐竹藩の時代に開発された多くの旧坑の痕跡が残っています。捨て石にはろくな物がありませんが、転石の中には稀に肉眼で確認可能な自然金がついていることがあります。常陸の金山は採算に合わないだけで鉱脈が枯れたわけではありません。
大子町の砂金
昭和中期まではあちらこちらの川で掘られていましたが、年々進む護岸工事により幻になりつつあります。
また、砂金採取に関しては、草根引き程度の技法ではたかが知れており、技術的なものを要求されます。特にカッチャが無くてはお話になりません。
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