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目次
はじめに
第一章 イエスの心
第二章 イエスと神
第三章 イエスとキリスト
第四章 イエスの悟り
第五章 イエスの憤り
第六章 イエスの幸福
第七章 イエスと罪人
最終章 永遠
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第二章イエスと神
人みな神のまえに生きるなり ルカ 20-38
イエスは人間存在を規定するものが、生まれや、慣習、環境から導かれる論理でもなく、生存目的と欲望のほしいままなる合目的性でもないことを言います。
・ ・・イエスは彼等に言われた。「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上から来
た者である。あなたがたはこの世の者であるが、私はこの世の者ではない。だから、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろう、と言ったのである。」 ヨハネ 8-23
イエスは自己の存在を規定するものが神としての自己の理念であり、基本的に、この世界に存在するところの人間がその理念から言葉を語り、かつ行為するのが可能なることを示そうとしました。そして、神の如く生きぬ者はみな、人間としてすら罪ある者だと宣言するのです。何故なら、人間に理念なる能力を与えたのが世界の見えざる絶対者たる神的偶然もしくは神的必然だからです。
別の言い方をすれぱ、地上の全存在中この能力を人間のみが有しているのは、理由は知りえないとしても、全存在に対する役割があることであり、さらにいえぱ、全存在を救う為であって、生存の闘争に明け暮れるためではなかったであろうと言うのです。そうした神を知らぬ者が多くいるとイエスは感じていました。特に、皆が信じているから神はいるとして信仰を儀礼的に済ましている者達が。
神的に行為しない者が神の名を語り、神を知っているとして片付けているならぱ、それは罪です。彼らは神から最も遠い処に神を据えているのです。そしてそれは最も憎むべき背信であります。何故なら、神は知識ではないからです。神とはその人の存在を支えるものであり、その人の行動を規定するものであるはずだからです。
・ ・・もしも、あなたがたが盲人であったなら罪はなかったであろう。しかし、今、あなたがたが「見える」と言い張るところにあなたがたの罪がある。
ヨハネ 9-41
イエスとギリシャ思想との関連は聖書には語られません。しかし、ひとつひとつの言葉の背後に潜んでいる気がします。先ほどの「上から来たる者」における「上」とは、雲間からかいま見る天空から稲妻の如くに下ってきた者、鳥達の行き交う天空の彼方などというお伽話しを本気で言ったのではありません。この世界とは別の世界。そんな世界が何処にあるのでしょうか。「上」でイエスが語ろうとした世界の二元論はギリシャの二元論と重なり合います。アリストテレスが物質世界と観念世界とを分けて、物質をフィジカと呼んだのに対し物質を類別しうる概念をメタフィジカと呼びました。「メター」は「具体的な個々の事物を超越して」の意味です。アリストテレスはそれを説明して、概念が個々性に対して超越的であるのを論じ、「概念とは事物の本質であり、実体をいう、」と言明するほどです。個々の存在よりも概念こそ事物の実体だというのです。
・ ・・人から出てくるもの、それが人をけがすのである。即ち内部から、人の心の中から、悪い思いが出てくる。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、嫉み、誹り、高慢、愚痴。これらの怒はすべて人の内部から出てきて、人をけがすのである。 マルコ 7-21
概念、即ち事物や経験のカテゴリーなくしてはあらゆる経験が微細な感覚としてあるのみで統一的な一経験とはなりえません。いくつかの現象、感覚から一つの経験を構成し、限定するごとき、統合する能力は外界から与えられるのではなく、自己に内在する先験的な能カです。経験に先立って事柄を予期しているのです。それゆえ、未知のカテゴリーが様々の経験だけから帰納されることはないでしょう。
ではどの様にして未知の絶対善たるカテゴリーが我々に知らされるのでしょうか。それは自己に内在する窮極なるものを知る人間もしくは神的人間の存在を信じ、かつ、たづねることによってのみ可能となるとイエスは言います。
・・・求めよ、さらぱ与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。ルカ11・3
「よしんばとうていそれに到達できないにしても、自分をそれと比較し、それによって評価し、かくて自分をより良くするための基準としては、われわれのうちなるこの神的人間の態度以外には、われわれの行為の基準たるものをもたないのである」。カントが「純粋理性批判」のなかでプラトンのイデアについて論じた一文でです。
・ ・・心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。
マルコ12・3
・ ・・ゆけ、なんじの信ずるごとく汝になれ。
マタイ8・3
アリストテレスは「メタフィジカ」のなかで次のように述べています。「我々の求めねばならぬのは窮極原因の知識である。或る事物の窮極原因を認識せりと信ずる時のみ、その事物を知れりとするからである」。しかも、「神は総てのものの原因であり、原理をなすものと考えられる。」ともいい、「認織や理解は経験によりも、むしろ、理論に属するものであると考え、理論家を経験家よりも賢しと信じる。理論家は原因を知るに反し経験家はそれを知らぬからである。」ともいっています。
イエスがこうした形面上学と無縁であったとは考えにくいでしょう。直接の影響がなくとも、ユダヤの律法の諭理よりもはるかにこの形而上学的な傾向の教説を多く成しているからです。しかし、形而上学は神の存在を碓認しても、神の何たるかを見るのは各自に委ねられています。イエスは形而上学に留まらずにその完成たる生の神学に向かうのです。
・ ・・わたしがどこからきたのか、またどこへ行くのか知っているが、あなかがたはわたしがどこからきて、どこへ行くかをしらない。あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしばだれもさばかない。
イエスは神を人格神とは考えていなかったでしょう。イエスにとっての神は自己をふくめての全体であり、なにひとつ欠けることの許されぬ全体としての一者なのです
。
・ ・・わたしはあなたがたに言う。敵を愛し迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぱらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださる。
マタイ1-4
・ ・・あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイ5−48
それは自己の外部に、自己と向い合う絶対者としての神ではありません。イエスにとって、自己は生れながらにして神の内におり、生も死も神の内です。イエスはむしろ自己に対して疑問をもっているのです。
自己という全く独立の存在があると信じるところに悪は生じます。自己の増加がもし他者の減少を前提しているとしたら・・・。イ工スは全体者を代弁する者として、その必然と偶然とを自己の中に取り入れる方法を語ります。
必然的事物に偶然を求めるのも、偶然的事物に必然を求めるのも、ともに迷妄を生むでしょう。必然と偶然とを理解することによって、我々は全体と和解することができます。必然も偶然も神であり、全体も神ですから、神を理解することによって神と和解し、神の内に生きる者となるとの言いかたが理解されるでしょう。
イエスの用語法で神の国とは、自己が一員となった全体世界であり、天国とは、自己の観念の中に構築された神の認識であり、父なる神とは、在るがままなる世界の存在自体であり、人の子とは、これら全てを認識する賢者、もしくは完成されたる人間です。
そこにイエスの捉えた預言者像もあります。預言者を人間の理解を超えた奇跡を行う人,われわれの認識を越えた予言をもたらす人として、理解できないが従うべき人とするのではなくて、みながそれぞれの方法でなりうる理想的な人間の在り方として捉えているのではないでしょうか。
認識という場合,一般にはある事柄を客観的な概念や数値によって捉えることですが、それによって全体ということを説明するのは極めて難しいでしょう。全体は部分の相対としては計れません。
物事を説明するという客観の場では、人は誰でも理性で計れるところまでしか語ろうとしません。理性を越えたことを理性で説明できないのは当然です。しかし、それだからと言って、説明しえない、理性を越えるものがすべて超自然的事柄だとするのも誤りでしょう。
理性とは本来的に説明可能なものによる世界の構築であったのであり、説明可能なるの根拠は客観に基づくとするからです。しかし、客観の何であるのかを考えてみると、客観が真理と結び付くとするのは迷信もしくは特異な信仰の一種であるとも言えるかも知れません。例えば、客観では全体とか、一者とか、瞬間とか,永遠とか,普遍とか,偏在とかを説明できないからです。
人間の理性の歴史を眺めるだけでも、客観の不確かさをみてとることができます。現在常識とされ客観と思われることが不可解とされた時があり、また現在不可解なことが理解されていた時があつたからです。つまり理性における客観とは自己の属する集団における客観もしくは共通意識であり、自分が想定しえる種々の自我像の間における客観もしくは整合性をいいます。これを原因として集団ごとの客観の相違があらわれます。
素人の客親は必ずしも学者の客観とは一致しないでしょう。また、たとえば、戦争体験者の客観は必ずしも未体験者の客観とは一致しません。子を産んだ者と産まぬ者、経験論者と観念論者、躁鬱質と分裂質、もつ者ともたざる者、与えられる者と与えられざる者、救う者と救わざる者、等々いくらでも客観の断絶を見出すことができます。
そして、互いに言い合うこととなれば、一方は主観に過ぎると罵り、一方は無知に過ぎると罵ります。残念なことではありますが、こうした事態は当然でもあります。観念的理性は理性を修した者にしか与えられず、経験的直感は経験した者にしか与えられません。それらは一方的であるので、相手に無いものをもって、客観とすべきか主観とすべきか判断できません。
客観も主観もある主体において漸次形成され獲得されていく観念です。獲得された観念は経験のあらたな地平を示し、それに続く経験は観念の検証とあらたなる材を観念に与え、より高次の観念、より高次の経験へと導いてゆく。常に経験や観念によって,新たな観念が形成され,刷新されて行くのは、それは限りなく上昇する者のみの生き方です。
そこには普通の客観とは異なった真理が共有され,新たな客観として成立していることもあるかもしれません。多くの人は高次の観念に昇る機会を見失って、生活に困らない程度の通俗的な観念によって生きているのではないでしょうか。そしてその生活とは、妬みや怒り、差別や困苦、争いや死の恐怖や不安に満ちています。
人間はその人がつかんだ観念の場において、経験を生きています。・・・・観念などない、生活があるだけだ、と言う者はその人の生活自体が観念の産物であることに気付いていないだけです。
食って寝るだけだ、はらんで生れて死んでそれだけだ、親が子を思い、子が親に従うのは当然だなどなど。そうした人がもし戦争に遭遇したとしましょう。国のために、家族を守るために男は出てゆく。当然ではないか敵は強い。敵は我々の経済進出は正義に反するなどと言い掛りをつけ、商売の邪魔をして我々の生存を脅かしている。すでに我々の仲問が三人殺された、今は家族だけにかかわっている時ではない・・・・。こうして戦争のような大事ですら当然に思われてきます。
その時に初めて、原初的な生活もなんらかの高次の観念に支えられていなければ、当然だ、当然だの大合唱に押し流されてしまうのを知るでしょう。すべては理念が存在するところにのみ秩序をみいだすのだからです。どんな些細なこと、自然と思われることもすべて観念なのです。観念が変われば当然も変わります。観念が経験の場を与え、その花の実りを収獲しているからです。
観念の上昇は、低次の観念を否定してゆく過程ではなくて、内包してゆく過程であるべきでしょう。それは飛躍するのではなく、ゆるやかに膨らんでゆくようです。
もし、ある高次の観念が自然を否定しているとみえる時も、耳を澄ませれぱあらゆる初源的観念が内包されているのを知ることもあるでしょう。しかしもしも、内包するのではなく、否定と対立のみであつたならぱ、その観念を高次元とする根拠はないと言えるでしょう。対立だけでは同次元だからです。
高次の観念をもつ者と、低次にとどまる者、いまだ至らざる者とに同一の客観があるのでばありません。低次観念から高次観念の理知の嵩を計ることばできません。計り得ないが故に主観と呼ばれるでしょう。一方、高次観念は低次観念を内包しているのですから、その人々が高次な観念について無知なることも含めて低次観念を理解することができます。それ故、高次の観念をもつ者は、自らの次元における客観を主親として語るか、黙しているかなのです。彼等においてはその態度が理性的だからです。
かつて、エンペドクレスが、「人間は万物の尺度である」と言いました。アリストテレスはその解を成して、人間が有する概念に対応する事物のみ認識可能であり、概念に完全に一致するものとしての理想との比較において事物を判断し、認識するからである、と言っています。イエスが人を神の住む宮といったのは、神の概念を所有するのは人間の理念なるの意味においてであったでしょう。
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第一章 イエスの心 ⇔ 第三章 イエスとキリスト
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