金田 治 著 わがイエス
わが奇怪なる信仰の産物たるこの書を、世の神を厭いし者等に捧ぐ
14th feb. 1987


目次

はじめに

第一章  イエスの心


第二章  イエスと神

第三章  イエスとキリスト

第四章  イエスの悟り

第五章  イエスの憤り

第六章  イエスの幸福

第七章  イエスと罪人

最終章  永遠


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第三章イエスとキリスト

わが意(こころ)なり、清(きよ)くなれ ルカ5−13   



イエスが救世主たるキリストとなるのは神の問題である以前に信仰の問題でした。神による救済以前に信仰による救済の必要な人々がいます。信仰が神の国へつながっているとの信心のために、イエスはキリスト=救世主でなけれぱならず、キリストの血によって信仰者の罪があがなわれなければならなかったのです。そこにキリスト教が成立します。

神と信仰の対象たる神は客観的に記述できる事柄ではありませんが、ヨハネ伝福音書ではできうる限り厳密な神の規定と信仰の対象たるキリストの神性の論拠を示そうとしました。ヨハネ伝福音書はマタイ、ルカ、マルコ伝がイエスの温もりと足跡を伝えようとしたのに対し、イエスを救世主キリストとして神学的に定立させようとする意図のもとに表されています。


・ ・・未だ神を見し者なし、ただ父の懐裡(ふところ)にいます独子(ひとりご)の神のみ之をあらわ顕し給へり。  
ヨハネ1-19



ヨハネ伝では神なる神も、イエスをも同じ呼称を用いていています。そして、この呼称の多元性に、後の教会での神学の陥った混乱のもとがあります。教会の神学の混乱とはいっても半可通者の混乱であるのは言うまでもありませんが、彼等の方が多数者であったために神への不信や迷妄を招来したのは否めません。

ところでヨハネ伝では一つの呼称が三、四つの意味をもつような語法を多く用いています。形容詞的に表現された一つの呼称のもとに個別的名詞的なものが同一に扱われる。例えぱ、赤いものをアカと呼び、「そこにアカがあった」と云えば、赤いリンゴの場合、赤い魚の場合、赤く塗られた椅子の場合、赤いフランネルのガウン、赤い花瓶、血のついたナイフ、泣きはらした赤い目と様々在りうるような語法です。

ヨハネ伝では、神と神的なるものとに同一の呼称を用いました。聖書の中では神的なるものとの形容は見当たりません。予言とか、霊とか、奇跡とか、救世主とかであって、神的な言葉とか、神的な直感とか、神的な行為とか、神的な人とは言わないのです。神的なるものとの形容を用いなかったのは、真偽の判断の妨げになるからでしょう。神と神にあらざるものとを峻別しなければならなかったのでしょう。

そこでヨハネ伝では、神の境界を神的なるものにまでおしひろげ、そこに神の領域を定立させたのです。しかも、一神教の教説の中では矛盾を避ける為に神的領域内での均等均一は前提されています。それ故、神と神的なるものとは同一としなければならなかったのです。ヨハネ伝は次の言葉によつてはじまります。


    太初(はじめ)に言(ことば)あり、神は言(ことば)とともにあり、言(ことば)は神なりき。この言(ことば)は太初(はじめ)に神とともに在()り、よろずの物これに由()りて成(なり)り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之(ここ)に生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光(ひかり)なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒(くらき)は之(これ)を悟(さと)らざりき。・・・・・・もろもろの人をてらす真(まこと)の光ありて、世にきたれり。彼は世にあり、世は彼によりて成りたるに、世は彼を知らざりき。かれは己(おのれ)の国にきたりしに、己(おのれ)の民(たみ)は之(これ)をうけざりき。されど之(これ)を受けし者、即(すなわ)ちその名()を信(しん)ぜし者には、神の子となる権(けん)を給(あた)へり。かかる人は血脈(ちすじ)によらず、肉(にく)の欲(ねがい)によらず、人(ひと)の欲(ねがい) によらず、ただ神(かみ)によりて生れしなり。


ヨハネ伝における神の多元性は他の福音書のイエスの教説においても見い出しえるのですが、徹底的にイエスの語法を用いて語り尽くそうとする点で特異です。イエスは詩篇や予言の文章構造と一般的文章構造との違いに早くから気付いていたが故に、容易に律法の内的意味に通じえたのであり、また、その文章構造を自らも応用しえたのです。「・・・あなたは人間であるのに、自分を神としている」とのユダヤ人達の抗議にイエス自ら次の如く答えました。


・ ・・なんじらの律法に「われ言ふ、汝らは神なり」と録されたるに非ずや。かくの言を賜りし人々を神といえり。然るに父の浄め別ちて世に遺し給 ひし者が「われは神の子なり」と言えぱとて、何ぞ「汚し言を言ふ、」といふか。我もし我が父のわざを行わずぱ、我を信ずな。もし行はぱ、たとひ我を信ぜずとも、その業を信ぜよ。さらぱ父の我にをり、我の父に居ることを知りて悟らん。  
ヨハネ10-34



  イエスは神と神的なる言と神的なる行為とを同一の語で捉えます。神的な言とは悟性論理と本質的に区別される理念、概念です。神的行為と地上的行為との区別は、神的理念に基づくか否かです。神的理念は神と全的対応を成すものであり、人の思考上に生ずるので個々人の内にのみありながら神に対応するが故に同一性を保っているのです。イエスにとって律法とは、予言者の個人の内にあった神の理念と、人々の内に隠されてあった埋念との同一を証すものであるべきであったのです。それなれぱこそ、イエスは自分の内なる神的理念と律法の神との同一に気付き、自分の内なる神がイエスが生れる以前からの神であることを疑わなかったのです。


・ ・・よくよく、あなたがたに言っておく。アプラハムの生れる前からわたしはいるのである。   
ヨハネ8-8


イエスは自分の存在のすべてを自己の内なる神に献げます。


・ ・・私は自分からきたのではなく、神からつかわされたのである。
ヨハネ9−42

・ ・ ・・わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしはいつでも神のみこころにかなうことをしている。  
ヨハネ6-59





  ヨハネ伝福音書は救世主としての証明と論理の中にイエスを捉えようとしました。それを徹底させる代価として、イエス自身の理念を希簿とし、イエスの言葉の大半を形式的なものとしてしまいました。それは結果論であるかもしれませんが、内的意味の後退であったのは否めません。

ヨハネ伝では、神=イエス=キリスト=救世=十字架=信仰=愛との図式を用いて、キリストを信仰対象とすることの正当性を証明しようと努力したのです。論理形式に慣れていない者には多分に狂信的に映るでしょうが、種を明かせぱ常軌を逸したものではないことは知れるでしょう。

ヨハネ伝の神学図式は祈りの如く幾度と繰り返される次なる言葉です。

・ ・・わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父が私におられることを信じなさい。もし、それが信じられないならぱ、わざそのものによって信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく、わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。 
ヨハネ14-10 

その執拗さからキリスト信仰が現代同様当時からいかに理解困難な信仰であったかが窺えます。

・ ・・神があなたがたの父であるならぱ、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分から来たのではなく、神からつかわされたのである。どうして、あなたがたはわたしの話すことがわからないのか。 
ヨハネ8-42

内容は正しいのですが、こうした図式ではやはり理解困難なのです。イエスを信じる者に対して、かれの内に神との同一があることを論じることはできるでしょう。しかし、神を直接に信じているとする者がイエスを仲介としなければならない必要が理解できないばずだからです。

ヨハネ伝では、その必然を過去の予言者らのメシヤについての予言と、イエスの生涯との一致から説得しようとします。しかし、その形式的方法はイエスの教説とは相容れない感情上の矛盾を生じます。イエスの正統性は文献、律法に依らずとも、客自の内なる神との対話によって明らかであるとイエスは主張したからです。イエスにとっては神以外のイエスはどうでもよいことだつたのです。


・ ・・わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。 
マルコ9-37、ヨハネ12-44


この言葉には、イエスの真の願いがこめられています。ところが、ヨハネ伝では信仰の論理が次第、次第に過激なまでに混入されてゆきます。真の神なるものへの信仰から信仰自体を信仰する論理的純化が成され、その熱烈なる信仰はイエスの声を掻き消すに至るのです。


・ ・・たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしは真実である。それはわたしがどこからきたのか、またどこへ行くのかを知っているからである。  
ヨハネ8-14   

・・・神からつかわされた者を信じることが神のわざである。  
ヨハネ6-29


この様にして、次第にヨハネ伝は信仰の強化に向い、救済の論理として純化されます。


・ ・・もし、この世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先に、わたしを憎んだことを知っておくがよい。  
ヨハネ15-18

・ ・・わたしにつながっていなさい。そうすればわたしはあなたがたとつながっていよう。  
ヨハネ15-4


この様にして、信仰は勇気を与えられ、信じる者の救済が約束されます。


・ ・・父はだれをもさばかない。さばきのことばすべて、子にゆだねられたからである。それはすべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命をうけ、またさぱかれることがなく、死から命に移っているのである。  
ヨハネ5-22.23


イエスがかくのごとく語ったとは信じられません。意味内容は仔細に見ればイエスの説いたところと一致するが、むしろイエスの教説の解説もしくは要約であって、象徴的な言葉による信徒の析りとしての面が強調されており、もし、神についての勘違いを正しておかなけれぱ、大変な誤謬に陥る危険をはらんでいるからです。

神に愛され、かつ、来たるべきことを予知していたイエスが何故自分の不幸から逃れられなかったかとの問いに対し、それはイエスの秘儀中最大の行為であり、イエスは生前、それへと準備をととのえながら、全人類、全存在を救わんが為に、肉体の消減と霊的復活とを実演してみせたのである、と答える目的にそってヨハネ伝は書かれているのです。

それ故、ヨハネ伝はキリスト教秘犠についての解説としての立場が強いのです。入信儀礼、ミサにおけるパン、プドー酒、聖水などの象徴的小道具の解説から、復活の重要性 に至るまでです。最大の秘儀としてのキリストの死と復活、・・・・これらはみなこじつけに感じられなくもないのですが、信徒にとっては律法に代る重要な信仰の象徹なのです。

しかしたとえ、そこに信仰者の真実があるとしても、イエスの教説からは排すべきであった思います。キリストとイエスとの離反はこのあたりに始まったのでしょう。むしろ、「汝らに模範を示せり、わが為ししごとく汝らも為さんためなり。 
ヨハネ13-1」 とイエスが言っているのに耳を傾けようではありませんか。
















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