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目次
はじめに
第一章 イエスの心
第二章 イエスと神
第三章 イエスとキリスト
第四章 イエスの悟り
第五章 イエスの憤り
第六章 イエスの幸福
第七章 イエスと罪人
最終章 永遠
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第四章イエスの悟り
人よ、汝の罪ゆるされたり ルカ5-20
イエスの言葉の美しさは生命のほの暗い深淵に響きわたります。夢の中の美しさ、甘味さと同様の響きです。遠い記憶の中にふくらむ緩やかな陽射しがイエスの言葉を包んでいます。それらの言葉のもつ繊細な者にのみ許された幸福感に解説や質問をするのは愚かであるかもしれません。論理の正確さや経験の確実さから生れ、評される言葉ではなく、美くしさ故にかぐわしい言葉だからです。
イエスは直感の人です。その直感は論理を通過せずにイエスの脳裏に神的直観として現れたのであろうことが思われます。その言葉の美しさにイエス自身不可解なるものを感じたことでしょう。こうした言葉との出会いはどんな詩人でも経験することではないでしょうか。どこからともなく現れた言葉はそれが自己の投影であるとは思いついた人自身はじめは信じられなかったに違いありません。すべては憶測ですが、イエスにとってそうした言葉はそれまでの自己の経験と、どの様なる論理的必然によっても結び合せられなかったであろうからです。イエスはその言葉の源泉が神であることを疑いませんでした。
詩的言語の発生の真相はきっとこうだったのでしょう。・・・言葉において繊細な者には、言葉は常に観念を宿し、観念は常に言葉によって現れるのを疑ええない。イエスは自分の言葉の美しさを観察し、そこから、いくつかの教説を思いついたのだろうと思われます。
・ ・・悔い改む一人の罪人のためには、悔い改の必要なき九十九人の正しき者にまさりて、天に歓喜あるべし。 ルカ15-7
・ ・・人の中にて尊ばるる者、神のまえに憎くまるる者なり。ルカ16-5
反語、もしくは逆説は初めは思いつきだけの美しさだったでしょう。しかし、その美しさを経験してしまうと、経験論的言葉や世間的道徳の観念はどうも濁って汚く感じられるようになる。イエスは子供の様に反話を作って、キラキラとした美しさに見入っていたに違いありません。
「目には目を」からは「右のほほをうたば左のほほもうたせよ」。それはなんと言う冗談であろうことか。この愚かなほどに無抵抗を勧める言葉は聞いた者を戸惑わせます。この言葉の背後にある二ユアンスに気付くにはイエス独特の繊細さが必要です。意味は一見ナンセンスなのです、しかし、この言葉を発する者の幸福感は他のあらゆる勝利に勝ると感じられます。それは一つの恍惚です。この言葉の二ユアンスによって彼は全世界を抱擁しました。
イエスの教説は愛の教えだと言われますが、愛とは何であったかを理解する者は多くないようです。「汝の敵を愛せよ」とイエスは言ったと記されています。「汝の敵を友とせよ」とは決して言いません。敵が敵であることには変りがない。その敵を愛せと言うのです。
イエスが愛で意味したことは赦し(ゆるし)です。「汝の敵を愛せ」とは「汝の敵を赦せ」です。赦して、友になれというのでもありません。「右の頬をうたば左をも向けよ」です。依然として敵が敵であることに変りはありません。すなわち、「敵なる彼等が存在することを否定することはできないとの認識をもちなさい」との意味なのです。
こうした存在の苦しみゆえに希望の美しさはいやまさり、自分は超越者へ近づきえると感じたことでしょう。イエスを十字架につけた世の裁きに対して、「父よ、彼等をおゆるしください」と言ったとルカ伝はつたえています。自らが赦されるのをのぞむごとく、人をも赦しなさい。自らが赦しによる救済を求めるごとく、人に赦しによる救済を与えなさい,と。
しかし、イエスは使徒達の如くに楽天家ではありませんでした。赦したからとて、世界が変り、人がすぐに神を見、信仰と愛とを見るのではないことを充分に理解していたが故に、次のごとく教えるのです。
・ ・・もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい.そして、悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して、一日に七度罪を犯し、そして七度「侮い改めます」と言ってあなたのところへ帰ってくればゆるしてやるがよい。ルカ16-4
それがイエスの愛の意味です。罪の意識に縛られて理念から遠ざかろうとする自らの不幸を除き、自らの理念によって生きるという幸福の権利を赦しによって与えること。
そして、その愛は自分へ向けての愛でもあります。他者と共に自分自身をも愛することができなかったという自分自身の罪への赦しでもあるのです。しかし、それは人々を妥協的和解に導くものではありません。見せかけの平和をイエスは否定しています。イエスはイエスの名によって人々に真剣に生きる勇気を与えようとするのです。
・ ・・わたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。 マタイ10-22
・ ・・わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく、そうでばない、むしろ分裂である。 ルカ 12-50
イエスの愛は深刻です。イエスは妥協をことごとく否定するからです。しかし、赦しを肯定します。自己に宿る神的理念を一部たりとも否定することはできません。できないが故に神的なのだからです。その神的理念を抱えた者にとって、他者世界は抜けぬトゲの如く、また荊の冠のごとくに悩まし苦しめつづけるでしょう。イエスは赦しによって他者世界を超越し、抱擁したのです。
・ ・・いと高き者は、恩を知らぬ者にも、悪人にも、なさけ深い。・
・・あなたがたも慈悲深い者となれ。 ルカ 6-35
イエスは自分の教説の中でしぱしば「人の子」という尊称を用いています。「人の子」には「人間」の意味と「救世主」としての意味の二様があったと言語学者はいいます。そして、伝統的キリスト教徒はそれをイエスのことであり、救世主たるイエスだけであるとしています。
誤りであるとわたしは思います。イエスも人の子ではあったが、イエスだけが人の子であったのではない。イエスは「人の子」に人間との意味を与えている。その人間とは「理想的人間」のことでしょう。古代インドでいわれた阿羅漢や仏陀と同じ「悟った人」の意味で用いたのでしょう。
なぜ神ではなくて人間なのであるか。それは、神とは具体的限定的存在ではなく、人間がいかに神を宿しても、すなわち、神を知り神において生きることはできても、神が人間と同一視されてはならないからです。
人間はどれ程に神的であっても、具体的存在として限定的です。すなわち、具体的に存在するためには様々に他者を利用し、存在を確保し、生きてゆかなければならないのです。
しかし、人間はこの世界において単なる存在ではありません。人間には人間としての権威と尊厳がある。一人間も、その尊厳によって、世界をゆるすことができるとイエスは悟ったのです。近世人であるパスカルも人間について類似した意識を語っています。
・ ・・人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴も、これを殺すのに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。宇宙は何もしらない。だから、我々のあらゆる尊厳は考えるということにある。
パスカルのこの言葉の発想はイエスの意識に近いでしょう。しかし、イエスはイエスより1600年後の実証的な時代に生きたパスカルをはるかに超えています。人間は考えるだけではない、世界を、宇宙をゆるすことすらできるとイエスは考えました。何故ならば、神のうちに生きる者は神が遍在することを信じるからです。
・ ・・人の子の地にて罪をゆるす権威あることを、汝らに知らせん ルカ 5-24
・ ・・人を赦せ、然らば汝らも赦されん ルカ 6-37
・ ・・もし、汝等おのおの心より兄弟を赦さずば、わが天の父も亦なんじらにかくの
ごとく為し給うべし マタィ 18-35
ここから有名なイエスの教説が生れてきます。
・ ・・「日には目を、歯には歯を」と云へることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。なんじを訟えて下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。人もし汝に一里ゆくことを強いなば、共に二里ゆけ。なんじに請ふ者にあたヘ、借らんとする者を拒むな。「汝の隣りを愛し、汝の仇を僧むべし」と云へることあるを汝等きけり。されど、我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。 マタィ 5-38〜44
イエスはこの愛、もしくは、この赦しの意識を持つよう勧めることが救済への道であると確信していました。神から遠くへ来てしまったようなこの世界、この歪んだ社会、私をも含むこの世界を赦す勇気。
・ ・・すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい.あなたがたを休ませよう,わたしは柔和で心のへりくだった者だから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 マタイ 11-28
イエスは人々に救いを語り、同時に自己にも語っていたのでしょう。イエスはそれらの瞬間、瞬間に自己が実現されてゆくのを感じ、神と一体化してゆく恍惚を感じたに違いありません。自己の存在と神の力をみつめながら、自分が現に在る如くに、神もしくば偶然、もしくは必然という絶対的存在とゆるやかにおだやかに抱きあう魂の陶酔を知っていました。
絶対的存在は我に存在を与えたのであり、我は我なる存在である。イエスは自己の必然的なるを、また神的秩序に基くを信じながら、神に与えられたる自己の実現に向けてしぶとく生きました。我は我なる者として必然的なのであるから、宿命のままに、最善をつくすべき者として定められたままに生きる。そして、我に対する世界の抵抗も、我にとって必然であり、我の実現を可能ならしめる神の業に違いない。神を知り、我を知る窮極の人間としてイエスは生き通し、永遠のひろがりへと泳ぎゆくのです。
・ ・・イエス大声に呼はりて言いたまう
『父よ、わが霊を御手にゆだぬ』
かく言いて息絶えたまう ルカ 23-46
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第三章 イエスとキリスト ⇔ 第五章 イエスの憤り |
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