金田 治 著 わがイエス
わが奇怪なる信仰の産物たるこの書を、世の神を厭いし者等に捧ぐ
14th feb. 1987


目次

はじめに

第一章  イエスの心


第二章  イエスと神

第三章  イエスとキリスト

第四章  イエスの悟り

第五章  イエスの憤り

第六章  イエスの幸福

第七章  イエスと罪人

最終章  永遠


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第五章 イエスの憤り

ああ、エルサレム、工ルサレム、予言者逮を殺し、 おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。  ルカ20−38  





よく見かけることですが、宗教家が平然として神を悟らない人に、安直に、利己心を捨てて利他の心を起こせなどと言うような信仰は安物の信仰であるでしょう。本当に確信を得た人であれば、そうは考えないのではないでしょうか。むしろ自分の為に生きて、ひたすら生きて、利己を極めてこそ真理にふれることができる、と考えるのではないでしょうか。

世の中の利己心などはまだまだ己れを利したことにはならない。むしろ、己れを喪失してゆくだけだ。もっと、もっと、自己を利することを考えて生温い利己心などに止まっているな、というのが本心であるべきではないでしょうか。

くだらないところで自分を主張する者はくだらないことに足をとられる。そのような時はくだらないことを相手にするな、一時の感情の満足の為に一生をなげすてることはない。それは他者に振りまわされていることなのだから。

自分勝手と言われ、自分勝手に生きて、自分勝手の究極が自分勝手に他人を助けたりもするかもしれません。相手がどう思おうと知ったことではないとの覚悟をきめていないと本当に人を助けることはできることではありません。たとえ相手の反撥をはばかって、気付かれないように用心深く助けたりすることもあるとはいえ。(安易な解決に手を貸して甘やかすのではなく真剣に助けようとすれば、本人にはつらく、そう簡単に受け入れられない場合が多いのではないでしょうか。その場合助ける意識は助ける側だけにあります。そんな例を考えてみれば、)・・・結局は主観以上には自分の行為の基準となるものがないことをしるべきであるといえるでしょう。

考える時に、主観以上に考える余地があると思っている者は愚かです。さらに、主観で他人との比較しか考えない者はより愚かです。

我々は知らねばなりません、利己心を捨てては何ものにもならないと。利己なればこそ、叡智を求め、世界を超克せんとするのではありませんか。究極の利己に向かうが故に神とともに生きるのではありませんか。欲望を追い払い、人々や世界に親しむのも、それらを超克せんがためであり、結局は利己を究めんが為ではないのではありませんか。ここではっきりと言いましょう、あなたがたは知っているようで何もしらない、と。



  真の利己心、真の自分、真理のあるところ、そして神と呼ぶところのもの。あなたがたは何もしらない。たとえば、社会的事柄の義のために自己を虚しくせよなどと教えるヒューマニズムの迷妄に安物の神をみます。

社会の義は自分の為に必要だからと感じるような自己を育てなければ本当の意味は出てこないでしょう。そこでやっと社会的義は自分の理念の微笑に棒げる香油のごときものではないかといえるのではないでしょうか。

あえてわたしは言いいましょう、あなたがたは知らない、だから悟りえないのだ、と。自分の中で、自分は知っており、知ろうとするとしなければ、いったい何を知り、何を知りえると思っているのでしょうか。

もしあなたがたが人を裁くなら、あなたがたが自分ではその事柄の正否を知っていると感じているから裁くことができるのです。判断をするということのこんな簡単な事実関係、人を裁く者はその事柄の真の姿を知っているという認識関係の事実すらあなたがたには見えないのでしょうか。


  イエスがあなたがたに、人の教えを教える信仰を諌め神の教えを主張したのに悟らなかった。

  イエスがあなたがたに、自分を失って、世界を得ても何になるのかと言った時にも悟らなかった。

  イエスがあなたがたに、自分は天から来たがあなたがたは地から来たと言った時にも悟らなかった。

  イエスがあなたがたに、神の信仰のために親、兄弟、家族をもすてよと言った時にも悟らなかった。

  イエスがあなたがたに、人は神の住む宮なるを語った時にも悟らなかった。






 社会の主義も、家族、兄弟、隣人への愛も、あなたはすでに知っている。それすらもし感ずることができないとしたら、それはあなたが自分を喪失しているからでしょう。

自分自身の代わりに何者かの判断を鵜呑みにして、様々な他人の知恵によって自分を見失っている。それは世間の知恵がつくと同時に、それとは裏腹に愚かになっているからだろう。

いろいろの愛があったとしても、愛することによって幸福になるのは愛される者以上に愛する自分であるのをいずれ知るでしょう。しかし、それすらも最上の幸福からみれば些細なことです。

カミヘノアイ。イエスを知る者は自らを知るでしょう。 ・・・・イエスが容易に激しやすく、しかも、ふざけたように忍耐強く、自分への礼讃をよろこび、それでもなお、自分は神の前には虚しいと言うほどのゼイタク、最上のものを知っているとの満足を味わっていたことをあなたはいずれ知るでしょう。

イエスがどれ程に、幸福に貧欲であり、自分に関った人々を幸福にして、その生命を自己のものとして刈り入れたかったかをあなた方は知るだろうか。全世界を愛し、全世界を我がものとしたかったかを・・・。


  ・・・神は死にたる者の神にあらず、生きる者の神なり。 
マルコ 12-27


 神は我々を救済し、奪い、支配するのではありません。われわれが神を生きるのです。神に参加するのです。決意としての信仰をイエスは語り続けました。

イエスは生きる力としての神を伝えようとしましたが、信仰の徒はどちらかといえば現実逃避、生からの遁走を信仰に混えたといえるでしょう。人々は時代変革を夢見ましたが、イエスは時代を、人々を、赦すことによってその不条理を乗り越ええたのです。

イエスは神を知っており、神のごとくなす術を心得ています。神は剣によって裁きはしない、しかし、内心のささやきによって裁く。イエスがユダヤ人達と議論したと聖書は伝えるのですが、多分、議論はしなかったでしょう。何故ならば、イエスはひとりひとりのユダヤ人の心の中の神の声をささやいただろうからです。

イエスの事蹟の核心はいつも隠されています。イエスは語りおえると「わたしのことは言ってはいけない」というのが口癖のようだったと弟子達は伝えています。

イ工スは常にひとり、ひとり、に語りかけたのであって、群衆に客観的真理を語るのは稀でした。サマリヤの婦人はイエスがなぜ自分の心の秘密を知っているのか解りませんでした。その驚きのリアリティーは婦人だけが体験できたことです。第三者にはそんなことが自が世界を変える程の教えと結び付くとは思えないような些細なことであったのかもしれません。

マルタの妹のマリヤとは何を語り合ったのか。マリヤが何を考えていたのか我々はしりません、ただマリヤの幸福な時間を否定するマルタの側からしかみえないのです。あたかも、「恋をしてかの色を味わわしめよ」とロココの一詩人が叫んだ時に、人々が黙殺したように・・・。

さらに、マグダラのマリヤとは何をどう語り合っていたのか。裏切りのユダを何故いつも身近においていたのか、そして、何を語っていたのだろうか。イエスの秘密は聖書にも書きえなかったのです。

そこで、世間的に公言できるような、記載する程のたいしたことをしていないのが使徒らには残念であったようです。イエスを教祖とするには余りにも不都合な事柄に満ちていると使徒達は感じたのでしょう。多くの奇跡がイエスの事蹟として述べられていますが、そうした救世主にまつわる固定観念から逃れてイエスの透徹した論理に接してこそ真理はあると思われます。



 イエスは群衆を個々人に分割します。イエスは群衆的人間を否定して、個人に語りかけ、非群衆的個人において本来の人はあるのを示したのです。人が神の宮であるといい、人の中に神がいるとしても、群衆の中に神はいません。

それゆえに、イエスは新教団を作ろうとはしませんんでしたし、必要ともしませんでした。イエスはむしろ裏切られた廃嫡の国をすてる王の如く悠然と荒野を往き来し、律法の真に意味するところを説いていたのです。イエスの律法学者への非難ではユダヤ教の律法を攻撃したのではありません。律法を笠に欺瞞が蔓延っていることと、預言者達の成した律法の動機的意味喪失の危機を訴えたのでした。


・・・汝らの中、罪なき者まづ石をなげうて    
ヨハネ9−7


律法がもし他人を評価し、他人を罰するためのものだとしたら律法にどれ程の天上的意味があるでしょうか。神の言葉は他人の罪を計るためではなく、自分の罪の深さを計るためにある時にのみ天上的義をもつのである、と。

律法は他人を罰するためでなく自分を高めるためにあるべきものなのではないか。律法にあるべきは社会正義ではなくて、高められた個人の内面の秩序であるべきではないか。


・・・「この民は口唇にて我を敬ふ、されどその心は我に遠ざかる。ただ徒らに我を拝む。人の戒めを教えとして教えて」   
マタイ 15-8


イエスは予言者イザヤの言葉を操り返している。イエスはユダヤ教の宮をイエスの神の宮であることをうたぐってはいませんでした


・・・あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国でもっとも小さい者も彼よりは大きい。


女の産んだ者とは生活者としての人間のことです。それに反し、霊は霊によって生れます。神の国に生きる者は神によって生れるのであって、女が産むのではないというのです。しかし、イエスは人間の善意の精一杯の努力をパブテスマのヨハネに認めていました。ヨハネに人々は尋ねました、


・・・それでは、わたしたちば何をすればよいのですか。彼は答えて言った。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物をもっている者も同様にしなさい」  
ルカ 3-8


ヨハネは社会倫理、道徳の正義を人々に訴えました。


・・・ヨハネはほかにもなお、さまざまの勧めをして民衆に教えを説いた。ところが領主ヘロデは兄弟の妻ヘロデアのことで、また自分がしたあらゆる悪事についてヨハネから非難されていたので彼を獄に閉じ込めた。 
ルカ3−16


信仰による救済は決して民族や国家の勝利を意味するものでなく、権力や社会の腐敗を告発するものでもありません。救済とは個人の救済と、救済された帰依者による秩序の自然的、内的な回復の意味でした。

健全な個人の存在しえる小社会から個人を超越してゆく大きな社会へと時間的歴史的に推移してゆくのは、生産性に向上を目指す社会では当然のことです。人は楽を求め、利を求めて、自己喪失の代価をも平気ではらってゆきます。

夢が自己を満たしている間は自己喪失は気にかからないでしょう。しかし、その夢が相対的であり、対人的、対社会的であれば人間などはちっぽけな存在となってしまいます。

個人に本来組み込まれていた杜会制御の機能は大社会の集団エゴによって破壊されてゆきます。大社会は人間の本来の自然秩序とは異なる社会のための徳や、富や、権威や、社会秩序の為の自己犠牲による生産と能率とが組織の存続にそって秩序立てられます。

即ち、報酬であり、金銭であり、いわゆる律法であり、名誉であるところの社会性が個人に優先し、個人から本来の幸福をしる自己を喪失させてゆくのです。正義は社会秩序を守るためのものと化し、個人の幸福とは切り離されるでしょう。

家族的社会から都市国家の如き市民社会へ移行することによって、正義と思われることも移行すると人々は考ます。そうなると客観も理性も社会的秩序にしか味方しなくなります。

しかし、生産性が人間において第一義的なのではありません。生きものがみな光にあこがれるように人間は幸福にあこがれています。そうした人間の希望の意味を見失ったら、それはすでに危機の兆候です。


・ ・・あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたかたも慈悲深い者となれ。人を裁くな。そうすれば自分も裁かれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば自分も罪に定められることがないであろう。 
ルカ 7-36



人々は安易に他人を裁く。自分を群衆社会の化身として、何等疑うことなく人を裁く。その人が個であることを裁き、その人があまりに全体であることを裁きます。

イエスはこの世を裁きはしません。ただ、罪の所在を明らかにし、浄めによって自らに赦しを与え、信仰ある人として生れ変りえることを説いただけです。イエスにとって信仰とは秘しておくべきものであったのは、人と人とを繋ぐのは露な信仰ではなくして、信仰の実りであるところの行為によって生きる人の姿であったからです。イエスは言葉によって裁かなきませんでしたが、彼の生きざまによって裁いたのでしょう。

人は各々、おのおのの世界に生きており、全ての人が自分と同じ世界に属するとの考えでは誤りも多いでしょう。全世界を包括する神的世界を生きる者のみが、すべての人と世界とを自分の世界にみるでしょう。その者のみが信仰によって世界とつながると同時に人とつながり、行為によって人とつながると同時に世界とつながります。即ち、自己と世界とが同一な生命を営んでいると知るのです。



 神的世界における自己とは、自己超克された自己であると同時に自己実現された自己です。他人を裁くことに正義を感じるのではなく、自らを高めることに正義を観ずる自己です。

立ちて行け、汝の信仰汝を救くえり、・・・と。












第四章 イエスの悟り        第六章 イエスの幸福