金田 治 著 わがイエス
わが奇怪なる信仰の産物たるこの書を、世の神を厭いし者等に捧ぐ
14th feb. 1987


目次

はじめに

第一章  イエスの心


第二章  イエスと神

第三章  イエスとキリスト

第四章  イエスの悟り

第五章  イエスの憤り

第六章  イエスの幸福

第七章  イエスと罪人

最終章  永遠


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第六章イエスの幸福

すべて求める者は得、探す者は見いだす  マルコ7−9





生きるを求めて、イエスは他者世界を超越しました。しかし、それが最終目的であろうはずがありません。他者を超越するのは自己の自由を可能にする手段です。しかし、その自由も最終目的ではありません。

自由は自己を享受し、自己を味わい尽くすための条件となるだけです。目的とするところは自己実現であり、相対価値の繋縛から逃れて、絶対価値のもとに自己実現することです。それは難しいことではないとイ工スは言ったのです。


・・・我は柔和にして心卑くけれぱ、我がくびきを負いて我に学ベ、さらぱ霊魂に休息を得ん。我がくぴきば易く、 我が荷は軽ろけれぱなり。 
マタイ11・29


しかし、そればパリサイ入らの厳格な戒律に比較してのことであって、のんびりと怠けていても所詮は神の内だというのではありません。それではやはり他者世界に自己が呑み込まれてしまっているのです。

イエスは易しいと言いますが、行為において易しいだけで、清澄な知性の要請にどれだけの人が答ええるでしょうか。真の知性こそ最も貴いのだとするイエスの密かな皮肉であるかもしれません。

しかし、まあ難しくないということにしておきましょう。それは、この世の王になろうとか、征服者になろうとかするのではなく、年寄りが孫の前で見せるあの自分勝手な満足とほぼ同様だからです。自覚を求めなければ、あるいは易しいのかもしれません。

我々は神から愛されたいと望み、人々から、事物からさえも愛されたい救われたいと望みます。世界が優しく包みこんでくれるのを侍っています。しかし、待っているだけならそれは夢想にすぎません。神はそのようなものではなく、人々も事物も裏切りと苦渋に満ちた顔しかむけないでしょう。

なぜなら我々は愛されたいと望むだけで、あらゆる努力を他者に強要し、自分の幸福を他者に委ねていることとなるからです。





  相対を離れ絶対に生きるとは、都市を去り、人々を厭い、自己を厭い、生活や存在の全てを厭うことではありません。もしそうであるなら、それは単なる自己否定であって自己実現ではないからです。

絶対において生きるとは、自分の方から、世界を愛することによって、もしくは救済することによって、世界を引き寄せてくることです。相手の愛の嵩で自分の幸福を計るのではなく、自分の幸福は自分の愛の嵩で計ることなのです。

人々も、事物も、世界も、自分が愛するがままの姿でたち現れ、それ以外の姿は他者世界として超越されるでしょう。人々に、事物に、世界に、わが愛によって築かれた神殿をみる時、真の自己実現の近かづいたことを知ることになります。幸福に満ちた献身、奉仕、祝福、感謝の時が訪れるのです。信仰を告げ知らせた時と同じように、あの鐘の音が再び響きはじめ、幸福の時を告げるのです。


・・・求めよ、然らば与えられん。たづねよ、さらば見出さん。 門を叩け、さらば開かれん。・・・さらば、凡ての人にせられんと思うことは、人にも亦その如くせよ、 これば律法なり、予言者なり。 
マタイ 7-7


求めよ、・・・求めることそれ自体が幸福となるだろう。
たづねよ、・・・たづねることそれ自体が幸福となるだろう。
愛せよ、・・・愛することそれ自体が幸福となるだろう。
赦せよ、・・・・ゆるすことそれ自体が幸福となりえるだろう。
イエスの黄金律はかく告げるのです。  















第五章 イエスの憤り    ⇔    第七章 イエスと罪人