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目次
はじめに
第一章 イエスの心
第二章 イエスと神
第三章 イエスとキリスト
第四章 イエスの悟り
第五章 イエスの憤り
第六章 イエスの幸福
第七章 イエスと罪人
最終章 永遠
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第七章 イエスと罪人
栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きようは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ。 ルカ 12-27
イエスがユダヤ教の大祭司カヤパらに捕えられる二日前、ひとりの女がイエスに近付き、高価なナルドの香油をイエスの頭にそそぎかけました。人々はその香油を買う金でどれほどの貧しい人々に施すことができることかと叱って、女をきびしくとがめたそうです。イエスは言いました。「するままにさせておきなさい。なぜ、女を困らせるのか。マルコ 14-6」ひとりの女をも救えぬ者がはたして貧しい人達を救えるというのでしょうか。イエスは人々を見ていました。
・・・どうもこの話の人々とはイスカリオテのユダを筆頭とした弟子たちであったようです。ユダはイエス達の集団の乏しくも貧しい会計係りをしていました。それ故、ナルドの香油が買える金があれば、わずかであれイエスの人望を、ひいては自分たちの教団の信用を買いとることができるだろうと思ったことでしょう。
弟子達は思いました。イエスは第一、約束されたはずの救世主ではないか、それが自れへの礼讃をほしいままにしているとは何と言う自惚れか、何とした堕落か。自分の奢りのために女たちを集め、神をさえ利用していると弟子たちには映ったのでしょう。
こんな救世主があって良いものだろうか、恋人たちが睦まじく愛しあっているような態のイエスに弟子たちは不信をいだきます。イエスとても弟子等の無理解に諦めに似た返答をします。イエスの救済をもたらすその教えをユダは理解しえなかったのでしょう。ユダは信仰に走った動機の片隅に信仰の権力に憧れる自分を自覚していなかったのでしょう。
イエスはユダをみて言いいます、「この女はできる限りのことをしたのだ」。女にとって、イエスは神の化身であることをユダは理解していませんでした。ユダはその女の中に高価なものに対する迷妄をみて、女の神への愛を見てとることができなかったのです。
赦すことのできない者には、人々の真実を見ることはできない。イエスは自らを神の化身もしくは聖なる恋人としておくことで、その女を救いえることを知っていたのです。心の貧しさゆえに、それ以上のカミヘノアイをしらない者を、貧しさ故にとがめるべきか、カミヘノアイゆえに誉むべきか。
盲目ゆえに見えず、病いゆえに汚れ苦しみ、あしなえ故にひとりでは歩めぬ者が門をたたいています。この神を求めている者らを彼等の貧しき罪ゆえにとがめ天を閉ざしてよいのでしょうか。「『わたしが好むのは、憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである マタイ 9-13」とイエスは幾度も言ってきたのです。
ひとりを救えぬ者は何人をも救いえないのではなかろうか。人間というものを理解していないからです。救済が口実ではなく、ひとつ、ひとつ事実としてでなければ、すべては空想と化してしまいます。ひとつひとつが救済を実現しているのでなければならないのです。完全な部分のない完全な全体への希望は幻にすぎません。人々はついにイエスを捉ええなかったのであり、イエスは自らの神を証かさんとキリスト教徒が喝采する犠牲の秘儀へ向けて黙々、ゴルゴダヘと突き進んでゆきます。
・・・自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。 ルカ 10-27
律法にしるされたこの言葉は絶えず誤解を招いてきました。「あなたの隣人を愛せよ」は教訓的で注意を引きやすいのですが、「自分を愛するように」が無視されがちなのです。
実は、意味が解りきっているようでいて「自分」を知らぬ者には解りえないはずの言葉であり、しかも「自らを知れ」はもっとも深い知性への問いかけとなります。イエスの教説は、「自分を愛する」者たちに向けられているのです。
もし、自分を愛せぬ人がこの言葉を実行しようとしてもこの律法は何の意味をももたらさないでしょう。「自分を愛せよ」が前提されているのです。自己を喪失し、自らを愛せない者は、はじめからイエスの教説の埒外なのです。
自己を喪失した人間達が、失われた自我の代りに信仰を定植させます。自身を生きる代りに、律法や道徳や儀礼に生きようとします。これはむしろ、多くの信仰の当り前の姿なのですが、イエスはこれを否定しました。自分達の勢力図をひろげようとして多くの自己喪失者をかかえようとする信仰を否定したのでした。
・・・律法と予言者とはヨハネの時までのものである。 ルカ 16-16
神を絶対他者として、自らをそれに帰属させる信仰は、与えられたる自己からの逃避に過ぎない。真の信仰への可能性は彼等にはないとイエスは考えました。何故なら、人間というものを受け入れていないので本来の姿の人間を赦せず、不可能と知りつつ教条主義を押し付け、現実に生きる者としての人間の信仰とはなりえない形式的な信仰を強要するからです。
・・・あなたがた律法学者もわざわいである。負いきれない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとはしない。あなたがたはわざわいである。予言者達の碑を建てるが、しかし、彼等を殺したのはあなたがたの先祖であったのだ。 ルカ 11-46
イエスが先祖と言うのは単に過去の人々について言うのではありません、彼等の初源動機について言うのです。盲目的な権力志向故に信仰の座につこうとする者、自らに救済を願わず、人々にもそれを与えない者、幸福へただ乗りさせてくれる犠牲者と死しか信じようとしない者、こうした社会的信仰者の蔓延が人々のカミヘノアイを、閉ざしている、と。
・・・人々の間で尊はれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。ルカ 16-15
イエスは罪人を救わんとて、神より遣わされたと言いました。正しき者のために来たのではないと言いました。正しき者とは、自らを正しとし、杜会も彼等を認め、社会的にもなんら恥じることのない者達です。信仰への動機が社会の秩序と節度ある日常の延長である人々はイエスとは苦悩を共有しえないでしょう。人々を愛するには余りに社会に加担しすぎています。
ある青年にイエスは言いました、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と。青年は答えました、「それは守ってきました。でもほかに何が足りないのでしょう」イエスは言いました、「もし完全になりたいなら・・・・貧しい人々に施しなさい、そして、私に従ってきなさい。」青年は悲しみました、資産を多くもっていたからです、と。イエスは言いました、「富んでいる者が天国にはいるのばむずかしい。らくだが針の穴を通るようなものだ」と。
日常に多くのめぐまれた富を持つものは、信仰の呼び掛けには応じ難い。このたとえ話は、自らを正しとし、智恵も、才覚もある者が、心貧しき者らを導く者として、その才智を傾けて、彼等を愛してゆくことの稀れなるを説いているのではなでしょうか。
このたとえ話は、正しき律法に生きているとする者、神を知れりとする者がいかに信仰の心と生とに乏しいかを言っています。「哲学者は神をしれども、人の悲惨を知らず」とパスカルが言ったことと同様です。
イエスはかくなる正しき者らのために来たのではないと言います。人間的悲惨を知る者らのため、その苦悩からの救済を願う者のために来たのだと。
神以外には救いきれない罪に堕ちている者、自分以外には信じるものをこの世界に見いだせない者、理想を知るがゆえに地上に枕するところなき者、不可能なる希望にのみ安らぎを見いだす者らの人間の悲惨。天から生れ、地に堕ちた飢え渇きかつ貧しき神の子。「人は落ちたる神にして、天つ御空を偲ぶなり」とラマルチーヌに言わしめたその哀しみ。一度たりとも神を垣間見た者、神を感ずるが故に自らを罪人とせし者らを救え。彼等に、天を生きるを教えよ。
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第六章 イエスの幸福 ⇔ 最終章 永遠 |
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