春。君を知った。
 桜が舞い散る季節。薄紅の花びらを全身に浴びながら穏やかに笑っていた君の姿を見た。

 夏。君と出会った。
 緑が萌える季節。うっすらと額に汗を滲ませ、雨の降る空を泣きそうな顔で眺めていた君は僕の差し出した傘に顔をほころばせた。

 秋。君に恋した。
 木々が色づく季節。絨毯の如く地面に敷き詰められている、赤く朱く緋く染められた紅葉のように君は頬を染めて僕を受け入れた。

 そして、冬。
 僕は幸せだった。愛する君の傍にいられて。

 冬の寒さなどは気にもならない。仄かにぼたん雪が降る空の下。君は白く息を吐きながら、僕に並んで幸せそうに微笑んでいる。
 そう、僕は幸せだった。この瞬間までは。

 待っていた信号の色が変わる。君は僕より少しだけ早く歩き出す。僕が続いて横断歩道を渡りかけたその刹那、事は起こった。不思議と全てがゆっくりに見えた。
 スピードを落とさず突っ込んでくるトラック。彼女を引き寄せようと伸ばす手。届かずに空を掴んだ。一瞬目が合った時に、彼女は少しだけ悲しそうな顔をしていたような気がする。
 鈍い音に続いて、何かが砕けた音。
 僕の視線の先にある電柱に、何かがある。
 頭が割れてゼリー状の透明な脳漿が飛び出している。首が不自然に折れ曲がり、眼は飛び出、舌を突き出している。醜い。今の君の姿だ。
 救急車など呼んでも無駄なのは一目でわかった。不思議と冷静な気持ちで君の元へと歩み寄る。そ、と傍に腰をかがめ、血と肉片ででべたつく君の髪を撫でる。
 君は痛いのが嫌いだった。包丁なんかで指をちょっと切っただけでも大騒ぎしていたのに。
「痛くないかい?」
 そう言ってから、僕の目からは滂沱と涙が溢れ出た。
「できる事なら変わってあげたいんだけどね」
 涙で視界がぼやける。
 何故だろう。何故こんな事になったんだろう。僅か数秒の出来事で、君は動かなくなってしまった。
 暫く泣いているといつの間にか野次馬が僕らを取り囲んでいた。
 僕はただ、頭を垂れてぼろぼろと涙を流すだけ。何も考えられない。だがそんな僕の肩を叩く人がいた。
「放っておいてくれ」
 その手を邪険に振り払う。
「この人は、助けられますよ」
 聞こえてきたのは、不思議な声。高いようであり、低いようであり、大きいようであり、小さいようである。声の方向も定まらない。四方八方から同時に響いてくるような声。妙な説得力がある。
僕は後ろを振り向いた。シニカルな笑みを浮かべ、一人の学生服の少年が立っている。
「何だ、君は」
「私はね――」
 そこで少年は一度口を閉じ、にんまりと笑った。
「――悪魔です」
 少年がそう言った瞬間、周囲の野次馬、行き交う車、悠然と空に漂う鳥、ありとあらゆるものがその動きを止めた。
「どうなっても良いなら、僕がこの人を助けてあげますよ」
 何もかもが静止した世界で、ただ少年だけが声を発している。
「どうします?」
 彼女を失ったショックのせいか、今の状況にも僕は然程驚きを覚えなかった。寧ろこの不可解な出来事に直面し、彼女を蘇らせる事ができるかもしれないという期待感を感じていた。
「頼む、僕はどうなっても良いんだ。本当に彼女を助けられるのなら、是非助けて欲しい」
 少年は返事の代わりに造作の整った顔を歪めて、くっくっくと笑った。
「どうすれば良い?魂でも売り渡せば良いのか?」
「いえいえ、ただ私の楽しみでやってるだけですから。お代は頂きませんよ」
 言葉の後にまた笑い。甲高く哄笑が頭に響く。この少年は何かを企んでいる。笑声に含まれる禍々しさからそれが理解でき、少し僕は躊躇する。本当に彼女は戻ってくるのだろうか。
「ではよろしいですね?」
 少年は人間には出す事が出来ないであろう不鮮明な抑揚と定まらない距離感を持った声で僕に決断を迫ってきた。
 多少の逡巡があったが、僕は決心した。この少年は邪悪なものかもしれないが、一縷の望みを託すには足る存在だ。魂を奪われようが地獄の責め苦に遭おうが、彼女のいない世界に生きるくらいなら大した違いは無い。
 昔話などでは悪魔と取引した者の望みは叶えられるが、何か代償を支払わなければならなかった筈だ。僕が例えどんな代償を払う事になろうとも、彼女が生前の姿のままで戻ってくるのであればそれを厭わない。
「……いや、なんでもない。彼女を助けてくれ」
「良いでしょう。それでは少々お待ちください」
 そう言って再び少年は笑う、嗤う、哂う。
 少年の嘲り声が遠くから近くから四方八方から迫ってくる。声が耳元に木霊し、脳内に響き渡る。僕は苦悶の表情を浮かべた。
 徐々に徐々に徐々にその声は大きくなり、僕が意識を失うと同時に消えうせた。



 冬の寒さなどは気にもならない。仄かにぼたん雪が降る空の下。君は白く息を吐きながら、僕に並んで幸せそうに微笑んでいる。
 目を惹く長い真っ黒な髪も、清楚な美しさがある顔立ちも、女性的な曲線を艶やかに描いている身体も、全てが元通りだ。
―――?
 よくはわからないが、兎に角僕の傍には元の通りの姿の君がいる。事故の前の時間に戻ってきたのだろうか。それとも先程のあれが白昼夢だったのか。しかし、それにしてはあれにはリアリティがありすぎた。
 そんな事を考えながら僕らが歩いていると、あの先程の少年が後ろから僕らを追い越し、振り返って意味ありげに、にい、と赤い唇を引いて笑った。
―――あれは夢では無かったのか
―――ならば、何がどうなったのだろう
 そう思いつつ、君の方をちら、と見やる。君は相変わらず美しいままだ。
 僅かな戸惑いと共に、我慢できない愛しさがこみ上げてきた。もう、あんな思いはしたくない。その感情のままに僕は足を止め、君を抱きしめた。
「……てよ」
 初めは聞き取れなかった。
「…めてよ」
 二度目は聞き間違いかと思った。
「やめてよ」
 君はいつもの慈愛に満ちた目からは想像できないほどのぞっとした目で僕を睨んだ。それに気圧され、思わず君の腰に回した手を振り解く。
「気持ち悪いのよ、あなた」
「ホントは前からずっとキライだったわ」
 汚物を見るかのような、冷たい目。突然の出来事に僕の身体も思考も硬直している。
「どうして今まで貴方みたいな人と一緒にいたのかしら」
「君は―――何を――」
「気持ち悪いから黙りなさい」
 戸惑う僕に君は一瞥をくれ、僕が先程触れた部分を手で、さ、さ、と払うと先に立って歩き出した。
 前を歩いていた筈の少年はいつの間にか呆然とする僕の後ろに立っていた。耳元に顔を近づけ、先程のような不思議な声で僕にささやく。
「ほら、さっきの事故のあった交差点ですよ。早く止めないと――またあの人は死んじゃいますよ」
 彼女は歩く。わき目も振らず、歩く。
「さあ、早く追いついて早く手を引っ張ってあげないと」
「何……を?」
「ん?」
「彼女に…………何を?」
 嘲るような少年の微笑。
「ああ、彼女が貴方を嫌うように少し調整したんですよ。彼女を助ける代償です。でも良かったじゃないですか。これで貴方が少し走って手を伸ばせば恋人の命は助かるんですから。彼女を愛しているんでしょう?ならそれで良いですよね?」
 その言葉を心の中で反芻する。視線の先の君はもう横断歩道の傍で信号を待っていた。
「ほら、信号が変わると貴方の恋人があの横断歩道を渡り始めますよ。早く行ってあげないと、また同じことになってしまいますよ」
 僕は半ば思考能力を失いながらも少年の声に従って、小走りで君に追いついた。
「ねえ」
「馴れ馴れしく話しかけないでもらえる?知り合いだと思われると恥ずかしいから」
 君は僕が肩に置いた手をパンッ、と力強く弾いた。敵意を剥き出した視線に押されて僕は君から少し離れる。後方にいた筈の少年は、また僕の傍にいた。
「……もう元には戻らないのかな?」
 先程の弾かれた手をじっとみつめる。少し赤くなっていた。
「ええ、残念ながら、ね」
 少年は心底面白そうに笑って答える。
 青になる信号。横断歩道を渡り始める君。
「おやおや」
 愉快そうに少年は目を輝かせた。
 一歩、二歩、君は歩みをすすめる。僕はそれを黙って見ている。
 トラックが同じように信号を無視し、君を撥ねた。君は大きな衝撃音と共にゆっくりと弧を描いて空を飛び、電柱に頭をぶつけてまた死んだ。
「良かったのですか?」
「いいんだ。あれは彼女じゃなかった」
 なんとなく空を見上げる。灰色の空のカーテン。舞い降りるぼたん雪。冬の風が身に染みた。

 僕の返事を聞いてから、少年は最後にもう一度だけ甲高く笑った。

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