朝の駅。人々のざわめき。鳴り止まぬ足音。女学生の甲高いお喋り。
 そんな中、僕は俯きながら歩く。黙々と、これまでと同じように、足元だけを見ながら歩く。
 いつものホームで、電車を並んで待つ人々の後尾に加わる。相変わらず目線は下げたままで。
 暫く並んでいると、アナウンスが電車の到着を告げた。そのアナウンスと同時に不意に今日提出する筈であったレポートが鞄に入っていたかふと不安になり、鞄の中を探ると、腕が僕の後ろに並ぶ女のわき腹に軽く当たった。
「すいません」
「いえ」
 この軽い応答の間にふと自分でも気づかぬ間に気を抜いてしまったのだろう。気がついたときにはもう遅い。女と目が合った。その若い女は、僕の目を見ながら、にい、と唇の端を引いて笑った。
 またか、と思う。諦めにも似た気持ち。
 女はふらふらと列からはみ出ると。線路内に身体を躍らせた。駅にいる人々は皆同じように一瞬呆気に取られた後、ある者は意味の無い悲鳴をあげ、ある者は女に対して警告の声を送り、そしてある者は見ないふりをした。その刹那の衝動が入り乱れる中に聞こえてくるのは電車のブレーキの軋む音。
 そしてその喧騒の主役を務めるの肉が圧倒的な重量の鉄の塊に潰される音がそれに続き、その後は、刹那の静寂の後、お祭り騒ぎが始まり、日常の朝を彩る非日常というイベントの幕は引かれた。



 僕は別の路線で大学へ行くルートを考えながら、こう思う。
 またやってしまった、と。
 僕が自殺者と目の合うようになったのはいつ頃だったろうか。
 あの人が首筋から紅を迸らせたあの春からだろうか。
 アイツが首を吊ったあの夏からだろうか。
 彼が薬を飲んだあの秋からだろうか。
 彼女が海に身を沈めたあの冬からだろうか。
 いや、違う。それはどれも違う。
 そう、あれはあの雨の日。高校の屋上からあの子が飛び降りたあの雨の日からだった。
 あの子は儚げにいつも俯いて本などを読んでいる、そんな子だ。物静かな子だったが、かといって陰気というわけでもない、優しい子だった。皆があの子に対しては穏やかな好意を抱いていた。あの子は皆からのそんな好意に対して、相変わらず俯いたままで可憐に微笑んで応えていた。
 それなのに、何故か。あの雨の日、皆から愛されていたあの子は屋上から飛び降りた。
 あの日のあの朝。あの子と同じクラスだった僕は、陰鬱な雨とあの子が病欠するという担任からの知らせに少々面白くない気分でいた。窓際の席に座っていた僕は教壇で喋る担任から目を背け、ただぼうっと雨に濡れる校庭を眺めていた。
 その時だった、彼女が僕の眼前に現れたのだ。彼女は僕の目の前で一瞬制止したように僕には思えた。頭が下を向いて、つま先が上を向いているという逆さの状態で。カッと目を見開き、壮烈な笑顔でガラス越しに彼女はこう言ったように見えた。
「この力、あげるわ」と。
 全ては一瞬のうちの出来事。すぐに彼女は僕の目の前を通り過ぎて地面へと向かった。
 屋上から誰かが飛び降りて教室に面する窓の前を通って階下に落ちていったのは僕だけでなく何人かが確認したらしく、すぐに悲鳴のようなものが上がった。
 あれをあの子と視認し、あまつさえあの子と目が合ってしまったのは僕だけらしい。
 軽く吐き気を覚えたのを覚えている。
 そう、あれを初めとして僕は自殺者と目が合うようになったのだ。
 目が合った者全てが自殺する訳ではない、だが、矢張り偶然では無いと確信を持てるだけ、僕は自殺者と目が合う。
 もう少し言葉を加えると、僕と目を合わせてから突発的に自殺に走る者が稀にいるといった表現の方が正しいだろう。
 これまで何人の命の散りざまをこの目で見てきただろうか。気が滅入る。

 何で僕がこんな思いをしなければならない――。

 何故こんな力をしょいこんでしまった――。

 鬱々とした思いで先程通ったばかりの改札に再び定期を通すと、別の路線の乗り場へ急ぐ。だが、その道中で急速にやる気が削がれた。大して重要な授業があるわけでもなし、先程のレポートの提出期限も別に今日までというわけでもない。
 家に帰って本でも読もう、と思った。
 人との深い関わりを諦めるくらいの屍の山は築いている。これからもそれは変わるまい。
 死のうと思わないでもなかったが、死ぬのは矢張り怖かった。それに死ぬのにもエネルギーはいるものだ。人生には別に大層な労力を使って捨てる程の価値も無い。
 別に良い。ただ諾々と無為に生きていこうと思った。死にたくなれば死ねば良い。
 これからも僕はこうやって目を伏せながら無為に生きていくのだろう。



 だらだらと生きていても年月は過ぎる。
 大学を卒業した僕は、ライターのような事をして生計を立てていた。
 普通の仕事と違い、人との関わりを厭えばそれほど人と関わらずに済ませられる類の仕事だ。一人で生きるためには適しているだろう。
 大学を卒業してからは親とも連絡は取っていない。ただ一人で、生きていた。
 もう僕が力を得てから、目を伏せて生きるようになってから、もう五年が経とうとしていた。
 その日僕は食料の買出しに出かけていた。
 僕が今住んでいるのは田舎という程でもないが、程好く寂れている街だ。人通りもあまりない。
 視界に人がいないときは、僕も前を向いて歩く。
 その日は仕事の原稿を書き終えたばかりで些か疲れもあったろうし、気も抜けていたのだろう。何も考えずぼう、と歩いていた。
 気がつけば目の前には女が歩いて来ており、丁度すれ違う所だった。それに対して慌てて視線を足元に向けた時、何故か心地よい穏やかな快感が電流のように身体を走った。
「あら、貴方。仲間ね」
 その女はすれ違いざまに不可解な事を言い、立ち止まった。
「……?」
 いきなりの言葉と先程の身体の痺れに困惑しながら僕は女の方を振り返る。無論目は伏せたまま。
「仲間?」
「貴方もあるんでしょう?力が」
 長年の習慣も忘れ、僕はまじまじと女の顔を見つめた。
「何でそれを知っている?」
「何でって……。私もその力持ってるもの」
 何を当然の事を、というように女は苦笑する。
「人を――死なせる力か?」
「そうよ」
 突然の事だった。喜色と戸惑いを半々に浮かべたような表情を女に向け、慌てて目を逸らした。もしも、もしもこの苦しみをわかってくれる者ならば死んで欲しくは無い。
「別に目を逸らさなくても大丈夫よ。私は別に死にたがっているわけじゃないから」
「死にたがっている?」
「そうよ、この力は自殺という選択を幾分か真面目に考えながらも、それを実行できない人の背中を押してあげる程度のもの。それ以上でもそれ以下でもないわ」
 女はいとも簡単に言う。
 疑問が氷解した気がした。なるほど、それならば目が合った者の全てが自殺するわけではないという事にも合点がいく。
「仲間に会ったのはこれで五回目だわ」
「他にも同じような力を持った奴らがいるのか?」
「まあ、ね。もう皆この世にいないけど」
「死んだ?」
「ええ。この力に耐えられなかったみたいよ。私が会った時だって、まともな精神状態の人は一人もいなかった。気になった身辺をそれなりに調べてみたけど、大体力を身につけて半年やそこらで自殺してるわね。そういう意味では、貴方が始めての『仲間』という事になるのかしらね」
 女の純粋な笑みに僕は少し気味が悪くなり、一歩後じさりをした。
「君は平気なのか?自分で人を死に追いやっておいて」
「死に追いやるわけじゃないわよ。ただ切っ掛けを与えてあげるだけ。何処に罪悪感を与える必要があるの?」
「それでも最後の一押しをするのは僕たちだろう。自殺を考える人たちだって、僕たちが背中を押しさえしなければ、やがて考えを改めるかもしれないのに……」
 その言葉を聞き、ケラケラと女は笑う。ケラケラケラ、ケラケラケラ、と。身をよじらせて、可笑しくて堪らないというように。
「今のこの社会で自殺を考える者の背中を押さない場所があるとでもいうのかしら」
「それは――」
 僕は絶句する。
「家、近所、職場はおろか中学校でも高校でも大学でも、あまつさえ小学校でさえも、自殺の最後の一押しをしてくれ機会は掃いて捨てる程転がっているわ。彼らはね、誰かが殺さなくてもいつかは死ぬの」
「――――――――そんなもの、か」
 だとすれば彼らを殺した罪は一体誰が背負うのだろう。銃弾を篭めさせた社会か、撃鉄を起こした隣人か、引き金を引いた僕らか。そんな考えが春の雪のように湧いてすぐに消えた。誰もが罪人なのだろう。僕も皆と同じなら別に気に病む必要も無い。
「そうよ、だから貴方はそんな事を気にして、目を伏せて生きていかなくても良いのよ」
 女はそ、と僕の頬を片手で撫でる。
「可哀想にね。今までそんな事を気にしながら生きてきたなんて」
 女の唇がそろそろと近づいてくる。
「これからは、一緒に生きましょう?私だって一人じゃ寂しいもの」
 僕らは、唇を重ねた。
 彼女の身体越しに見える曲がり角を仕事帰りらしいサラリーマンが曲がってこちらへ来るのが見えた。

 目が―――合う。

 そのサラリーマンは慌てたようにネクタイを外すと、近くに生えていた街路樹の太い幹にそれをかけ、首を吊った。
 失禁の水溜りをつくり、舌をだらりと垂らした彼に一瞥をくれてから、僕らは一緒に歩き出した。彼は何処へいても死んていた。それが多少早まっただけなのだ。だから僕は罪はない。言い訳がましくそんな事を考えながら。

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