彼女はいつも夕暮れにマンションの屋上にいる。
 紅い光が降り出し、夜の帳に包まれるまでの時間。ずっと彼女は屋上にいる。
 本当は住民が勝手に屋上に行ってはいけないのだけど、彼女は管理人室からくすねた屋上の合鍵を持っていて、一人屋上にいる。
 僕はいつものように彼女と話をしている。
「世の中はね、『自分』と『他人』の二種類の人種が存在するのよ」
 彼女はいつも世の中を斜めに構えて見ていて、ちょっと哲学的な事を言う。
「この二種類の人種は決して交わる事は無いの。本当の『自分』の事など『他人』が判る筈が無いし、ましてや他人の事などどうあがいても判りっこないわ」
 僕と少ししか年は違わないのに、彼女は変な人だ。
「だから対人関係で悩むのも馬鹿らしいし、それこそ自分がつまらない人間だなんて思ってもどうせ他人はそこまで深い所まで判らないんだから、適当に調子合わせていれば他人は自分を良い方向に評価してくれるわ。それはそれで良いじゃない。だってどう足掻いても相互理解なんて不可能なんだから」
「そんな事考えてたらつまらなくないですか?」
 何回目かになる問いかけをもう一度してみる。
「無駄な努力するよりもそうやって割り切って考えて適当に楽しく過ごした方が世の中楽しいわよ?世界なんて所詮は自分の主観なんだから、それこそ気の持ちよう次第で何とでもなるわ。まあ、実際は世界なんて別につまらなくもなければ楽しくもないんだけどね。何の刺激もない世界なんてごめんだわ。だから、私はこのぬるま湯みたいな世界から出て行きたいのよ。つまりは死んでしまいたいの。ねえ、どう思う?」
 彼女はそんな事を言って朧に笑う。
 でも僕は知っている。彼女はこんな哲学的な事を言って楽しんでいるだけだと。
 だって僕は彼女と違い、本当にずっと物心についた時から本当に死にたがっていたんだから。

 そう、いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも。



 朝。
 いつものように朝の用意を済ませて学校へ。
 マンションの部屋を出るとすぐ目の前に広がるのは地上から二十メートルほどの高さから広がる風景。
 マンションの廊下にぼーっと突っ立ちながら僕は考えるのだ。
 ここから身を乗り出し、地上へと飛び降りたらどんなに気持ちが良いだろうか、と。
 一秒後には五メートル落下。落下スピード時速三十五キロメートル。
 二秒後には二十メートル落下。落下スピード時速七十キロメートル。
 たったの二秒間。
 そんな簡単な事でこのつまらなくも楽しくも無い、無味乾燥とした世界を終わらせる事が出来るのだ。
 飛び降りたらどうなるかな、飛び降りようかな、飛び降りるのも良いかもしれない、飛び降りたいな、さあ飛び降りよう。

「あら、今から学校?」
 隣の部屋にすむ初老の女性の声。夫に持っていってもらうためにゴミをまとめて玄関に出そうとしている。
「おはようございます」
 と、僕は律儀に挨拶を返す。
「ええ、おはよう」
 女性はにこりと笑っていってらっしゃい、と言うと自宅の扉を閉めた。
 僕はため息をついてエレベーターホールの方へ歩みを進めた。



 授業中。
「ハサミ貸してくれない?無いならカッターナイフでも良いけど」
 前の席のクラスメートの女の子に、筆箱に入っているカッターナイフを渡す。
 新しく配られたプリントをノートに貼り付けられるサイズにするためだろう。女の子は器用にプリントの四端にある余白の部分を切り取った。
「ありがと」
 カッターナイフを僕に返すと女生徒は教師の話に耳を傾け始めた。
 カッターナイフの刃を出し入れしながら僕は考える。
 頸動脈が気になるのだ。
 カッターナイフを持っていない左手で耳のすぐ下から首筋までをなぞる。ピクンピクンと脈打っているのがわかった。
 カッターナイフを首筋に突き立て一気に引いて、完全に頸動脈を切断したらどれだけ気持ちが良いだろうか。
 血が教室の端まで飛びクラスメートの顔を濡らしながら噴き上がる。
 五秒後には気を失う。
 十秒後には死に至る。
 たったの十秒間。
 そんな簡単な事でこのつまらなくも楽しくも無い、無味乾燥とした世界を終わらせる事が出来るのだ。
 切ってみたらどうなるかな、切ってみようかな、切るのも良いかもしれない、切りたいな、さあ切ろう。

 キーンコーンカーンコーン。

 チャイムの音。授業終了の合図。
「なんだ、もう終わりか」
 教師はびっくりしたように時計を見た。
「仕方ないな、続きは明日だ」
 学級委員の合図で起立と礼をすると、教師は教室を出て行った。
 僕はまたため息をつくとカッターナイフを筆箱に入れた。



 放課後。
「お前も吸ってみるか?煙草」
 トモダチという種類の人間に判別されている同じ学校の生徒たちと一緒に帰り道にある公園の一角でたむろする。
 煙草を吸っていたトモダチたちは緩く笑うと、それぞれ自分の吸っている煙草の箱を取り出して僕の前に置いた。
「どれが良いか試してみろよ」
 ベンチに置かれた煙草の箱を指先で突付きながら僕は考える。
 マイセンセッター赤ラークマルボロショートホープキャスター……、様々な銘柄。
 これらの煙草を口に入るだけ詰め込んで飲み込めばどれだけ気持ち良いだろうか。
 そんな簡単な事でこのつまらなくも楽しくも無い、無味乾燥とした世界を終わらせる事が出来るのだ。
 やってみたらどうなるかな、やってみようかな、やるのも良いかもしれない、やりたいな、さあやろう。

「こらッ、お前らッッ」

 薄暗い公園に彼らが聞きなれた体育教師の声が響いた。
 一瞬トモダチたちは顔を見合わせたかと思うと、散り散りになって逃げ出した。
 僕も地面に置いていた自分の鞄を掴むとため息をついて逃げ出した。



 帰路。
――カンカンカンカンカンカンカン……
 目の前で踏切がゆっくりと閉まってゆく。
 僕は踏切の少し前で立ち止まった。
 徐々に大きくなってくる列車の姿を見ながら僕は考える。
 バーを乗り越え、線路に身を投げ出せばどんなに気持ちが良いだろうか。
 そんな簡単な事でこのつまらなくも楽しくも無い、無味乾燥とした世界を終わらせる事が出来るのだ。
 飛び込んだらどうなるかな、飛び込んでみようかな、飛び込むのも良いかもしれない、飛び込みたいなー、さあ飛び込もう。

「あれ、さっきは大丈夫だったか?良かったなー」

 先ほどのトモダチの一人だった。そのトモダチは僕の前に立ちふさがると馴れ馴れしく肩を叩いた。
 僕は目の前を電車が横切るのを見て、ため息をついた。



 こんな毎日を僕は送っている。
 哲学ゴッコをしている彼女にはこんな心情は判らないだろう。判りっこない。
「『自分』は『他人』の事など判る筈が無い」
 彼女の言葉の中で、この言葉だけは偽りの無い普遍的な事実として光り輝いている。



 夕暮れ時の屋上。
 彼女は血塗れた色の夕陽に照らされて眼下に街を見下ろしていた。
「こんにちわ」
と僕は呼びかける。
「あら、いらっしゃい」
柔和な表情で彼女は僕へ視線を向ける。
「今日も一日が終わったね」
「ええ、また死ねなかったわ」
 冗談めかして彼女は言う。
「僕もだよ」
 僕も冗談めかして返答する。
「ふふ――――」
 何処か彼女は哀れなものを見る嘲りのような物を感じさせる笑みを僕に向けている。
 どうせ彼女は『色々と難しい事を考えて生きている自分に比べ、彼は適当に何も考えずに生きている。何て気楽なんだろう』とか何とか考えているのだろう。
 本当の僕の気持ちなんて知らない癖に。本当に死にたがっているなんて知らない癖に。ゴッコ遊びの癖に。
 でもそんな事を口にする筈も無く、また上っ面だけの彼女の言葉に暫く付き合ってから僕は自分の家へ帰った。



 そんな日々が続いていたある朝。
 僕が起きると親が死んでいた。
 両親の寝室にある洋服ダンスに釘を打ち付けて二人仲良く並んで首を吊って。
 僕はちょっと首を傾げてから、学校へ行く用意を済ませ、家を出た。
 玄関に出るといつものように地上二十メートルの世界が僕の目に映った。
 いつも僕を誘惑する死へ向かう世界。
 いつも僕は何かしらの理由で死ぬ事が出来ない。
 死ぬタイミングが計れない。一歩のボーダーラインを踏み出す。そんな簡単な事なのだけど。
 しかし今日のこの世界から見える風景はいつもと少し違った。いつも朝を急いでいる筈の人々は男も女も子供も老人も学生も教師も牧師も坊主も神父も泥棒も警官もサラリーマンも社長も、ありとあらゆる人が。

 山で海で川で道路で線路で公園で寺で教会で神社で家で会社で学校で、ありとあらゆる場所で。

 ある者は極寒に身を震わせ、

 ある者は灼熱の炎を身に纏い、

 ある者は血を首から噴出させ、

 ある者は首を吊り、

 ある者は電気で体を痙攣させ、

 ある者は毒物で内臓を爛れさせ、

 ある者は入水し、

 ある者はガス管を咥え、

 ある者は線路に横たわり、

 ある者はビルから転落し、

 皆、皆、皆、皆、ありとあらゆる方法で死んでいた。

そんな世界を見て僕は思う。ああ、『他人』の事など本当に判らないのだなあ、と。
 恐らく彼女もこの狂乱の中にいるのだろう。あの人の言葉もゴッコ遊びなかじゃ無かった。本当に本心から出た言葉だったんだ。
「僕だけじゃ無かった。みんな死にたがってたんだ」
 僕は手すりの上に立つとそう叫ぶ。快活に、明朗に、大きな声で。両目には歓喜の涙を浮かべて。身体は狂喜に震えて。

 そして、僕の足は手すりの上を離れた。

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