突然の雨。
 僕は慌てて屋根のあるバス停の中へ駆け込んだ。
 地方都市の外れにある寂れた街。そんな街の平日の昼下がりにバスが何本も通っているはずもない。壁に貼られている時刻表はバスがつい先ほど通り過ぎた事と、あと一時間半はバスが来ない事を示している。僕にできるのはベンチに座ってこのにわか雨がやむのを待つだけだ。

 目に入るのは雨空の下にある片田舎の風景。聞こえるのはさあさあさあという雨の音ばかり。
 雨に濡れる晩夏の緑というのはなかなか綺麗だなあ、などとどうでもいいことを考えていると、不意に雨音以外の音が聞こえてきた。水を跳ねながら走る音。誰かが僕と同じように雨宿りでもしにきたらしい。

 入ってきたのはランドセルを背負った小学生高学年くらいの男の子だった。この辺りに住む子供だろうか。今は夏休みだろうから、登校日の帰りにでも雨にあったのだろう。
 男の子はバス停に入ってきてから僕の姿を認めると一礼をして、僕の座っているところから僅かに距離を置いておずおずとベンチに座った。
 雨が降り出すと同時にバス停へ飛び込んだ僕と違い、男の子の身体はかなり濡れていた。
「これでも使うといい」
 差し出がましいかな、とも思ったが濡れ鼠になっている小さい子供を見て見ぬふりなどできない。僕がハンカチを持った手を伸ばすと、男の子は緊張した声で小さく礼を言ってから素直にそれを受け取った。
「ありがとうございました」
 ハンカチで濡れた手や顔を拭くと、今度は幾分かはっきりとした口調で男の子は礼を言った。いいよいいよと言いながらと湿ったハンカチを受け取る。
 それからは何回か言葉を交わしたものの、話を続ける糸口を上手く見つけられず、それっきりで会話は途絶えた。雨は絶え間なく降り続いている。

 男の子はベンチにランドセルを置き、中に入っている教科書やクリアファイルなどをいくつか取り出した。濡れていないかどうかをチェックしているのだろう。僕がベンチの上に散らばる教科書やノートになんとなく視線を漂わせていると、男の子が小さく声を漏らしたのが聞こえた。
「どうかしたの?」
 男の子は僕の問いかけにちらっと目をやってからベンチの傍に屈みこんでその下へ手を伸ばした。
「傘が――」
 男の子の手には安物のビニール傘が握られていた。誰かが置いていったものだろう。
「良かったじゃないか。それを差して帰るといいよ」
 僕の言葉に男の子は困ったような顔をすると、無言でその傘の柄を握り締めた手を僕に伸ばす。
「使ってください」
「君が見つけたんだから、君が使えよ」
 僕はこの遠慮深い男の子に向かって笑って答える。
「さっきのお礼です」
 ハンカチのことを言っているらしい。いまどき珍しい律儀な子供だ。
「僕は暇人でね。別に雨宿りをして時間を潰してもいいんだ。でも君は宿題やなんかがあるだろう?早く帰ったほうがいいさ」
 だが男の子は僕の言葉にもひるまず、強い意志で僕に傘を使うよう促してくる。僕も負けじと男の子に傘を使うよう諭す。滑稽な押し問答だ。しかし僕がどれだけなだめすかそうが男の子は頑として譲らない。

 傘の譲り合いにもいい加減飽きてきた頃、またパシャパシャという水を跳ねる音が聞こえてきた。
 今度姿を現したのは若い女性だった。その手にあるカラフルな傘は骨が壊れてしまっているようだ。お洒落な感じのするその傘は構成する部品がやたらと細く、見るからに弱そうに見える。今日は風も弱くはない。風に煽られて壊れたのだろう。
 バス停に先客が二人もいるとは思っていなかったらしく、彼女は少しだけ驚いた顔をした。そしてバス停にいる男が僕だということに気づいてもっと驚いた顔をした。僕もその若い女性がよく知った人だったことに対してとても驚いた。
「久しぶりね」
「ああ、久しぶりだ」
 微妙に間の抜けた挨拶を交わす。
「この傘直らないかしら。ついさっき壊れちゃったんだけど」
 相手の出方を伺うような、数瞬の気まずい沈黙の後に彼女が口を開いた。困った顔の彼女から傘を受け取る。一目で骨が完全に折れてしまっているのがわかった。
「完全に壊れてるね」
「やっぱりそうよね。弱ったわ」
 彼女はその言葉の割にそれほど困った顔はしていないように見えるのは気のせいだろうか。
「ところで、その子は誰?貴方の知り合いの子かしら?」
 彼女が登場してからはビニール傘の柄を弄んで所在なげにしていた男の子は顔をあげた。
「いや、さっき一緒になったんだ。雨宿り仲間だよ」
「そう……。さっきから気になってたんだけど、その傘も壊れちゃってるの?」
 男の子の持つ傘へ不思議そうに視線を送る彼女。
「いや、壊れてはないんだけどね」
「じゃあ差して帰ればいいじゃない。それは君の物なの?」
 彼女の問いかけに男の子は首を振り、僕を無言で指差す。
「貴方の物って言ってるけど」
 状況がよく飲み込めていない彼女に、僕は今までの経緯を説明した。
「やっぱり君の物よ、これは。あんまり遅くなると親御さんも心配するでしょうし、早く帰りなさい」
 説明を聞き終わると即座に彼女は言った。
「じゃあ、これ。お姉さんにあげます」
「え?私に?いいわよ。だって君の物じゃないの」
 彼女は弱っちゃったなあ、という顔をしている。男の子からするといつまでも受け取ってくれない僕に押しつけ続けるよりも、彼女に傘を譲るという方法が一番手っ取り早いと判断したに違いない。挨拶を交わした彼女と僕が知り合いなのはこの子にも理解できただろうし、彼女へ傘を渡すことは僕への小さな借りを返すことになると思ったのだろう。
 彼女の顔には『ねえ、どうしよう?』と書いてある。
「急いでるならこの子の言葉に甘えても良いと思うよ」
「そうです。僕もこの人も急いでませんから」
「私だって別に急いでなんかないわよ。暇人よ、暇人」
 平日の日が高い時間帯に良い大人が二人して暇をしているというのもおかしな話だ。
「それにさ、君の身体濡れちゃってるじゃない。早くちゃんと乾かさないと風邪引いちゃうわよ」
「夏だから大丈夫です。傘は一本しかないんですから、女の人が使ってください」
 よくできた子だ。彼女はその純粋な厚意に対してたじたじになっている。
 さてはてどうしたものだろうか。僕が逡巡していると、彼女は何か名案を思いついたようで顔を明るくさせた。
「そう、あのね。私はこの男の人とお友達なのよ。さっき挨拶してるの見てわかったと思うけど。でね、この人とあったの久しぶりなんだし、私たち少しお話したいなあ、なんて思ってるの」
 正直な話、そういう口実で男の子に傘を持たせて帰ろうと思わなくもなかったが、再開した彼女と二人っきりの狭い空間で雨宿りというのは、彼女にとって居心地が良いとは想像し難いので黙っていた。だが彼女はそんな風には感じないらしい。
「君がこれを持って帰ってくれないと、三人揃って無駄に時間を過ごすことになるんだ」
 僕が彼女の言葉を継ぐ。
「ね、それは勿体無いでしょ。どっちにしろ私たち二人はしばらくここにいることになるんだし、それなら君がこの傘を差して帰った方が三人にとっても一番良いんじゃない?」
 男の子は中々納得しようとしなかったが、二人で代わる代わるに説得しているうちにとうとう折れた。

 ビニール傘を開く前に丁寧な可愛らしいお辞儀をすると男の子は去っていった。
 道路の脇をとことこと歩いていく後ろ姿を見ながら僕ら二人は安堵の溜息をつく。
「良い子だな」
「ほんと、良い子ね」
 男の子の後姿が見えなくなると、僕たちはベンチに再び腰を下ろした。 
 どちらともなく口火を切り、ぽつりぽつりとお互いの近況を交換する。時折感嘆の声や笑い声を小さくあげながら、話は続く。
 寂しさとも哀しさとも違った胸を締めつけるような感覚。不意にそんな感覚に襲われた僕は口を閉じて目を彼女から眼前の風景に移す。雨は降り続けている。
 彼女も僕と同じような気持ちになったのか、途中までしていた話を尻すぼみに終わらせて視線を移した。
 雨ねえ、と彼女が呟く。雨だねえ、と僕が答える。
 穏やかな沈黙。あの頃感じていたような、とてもとても気持ちの良い沈黙。
 降り続いている雨もいずれは止むだろう。あの楽しかった日々のように、いずれは終わるだろう。

 楽しかったね、と僕が呟く。楽しかったわねえ、と彼女が呟く。それが先ほどの傘を巡る短い騒動を指しているのか、別のものを指しているのかはわからない。
 
 大きなトラックがバス停の前に走る国道を通り、派手に水たまりを踏みつけた。大げさに驚いて水を避ける動作をする彼女。僕は笑って彼女に言う。水がここまで飛んでくるはずないじゃないか、と。彼女は口を尖らせてそんなことわからないじゃない、と言い返す。懐かしいやり取り。
 このやり取りをきっかけに沈黙は破られた。またお互いに訥々と会話を重ねていく。

 しばらくしてから、ひぐらしの鳴き声が聞こえる事に気づいた。遠くから、近くから、前から、後ろから、左右から。大きく小さくその声は聞こえる。雨の勢いが衰えつつあるのだ。
 雨足は急激に弱まっていき、それに比例してひぐらしの声は強さを増していく。
 そしてとうとう、雨は完全に止んだ。

「雨がやんだわね」
 彼女の声に微かな寂しさが入り混じっていることは、多分僕の思い上がりではないはずだ。
「君はどっちへ行くの?」
「あっち」
 彼女は右側を指し示す。
「そうか。僕はこっちだ」
 僕が指差すのは左側。
 二人でベンチを立つと、彼女が一言だけ呟く。
「さよなら」
「ああ、さよなら」
 僕も同じ挨拶を返す。
 
 夏の終わりを告げるひぐらしの声に包まれながら、二人は互いに背を向け歩き出す。二人の距離はどんどんと開いていく。
 僕は少し歩いたところで立ち止まり、後ろを振り返る。彼女が同じように立ち止まってこちらを見ているのが視界に入った。バイバイ、と手を振ると彼女も照れ笑いを浮かべてバイバイ、と手を振った。
 
 ただ、それだけの話。

 

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