――――汝は人間なりや?

 

 私は自分に向かって何度、その言葉を繰り返しただろうか。

 

 

 山あいにある小さな小さな村。そこの村の中心にある寺にはとてもとても優しい心を持った僧が一人住んでいた。

 僧は村人に慕われ、親しまれ、敬われ、信頼されていた。

 今から二十年と少し昔。僧は山に山菜を取りに入った時に赤子の泣き声を聞いた。

さては魑魅魍魎の呼び声か、狐狸の悪戯か、と僧は訝しげに思ったものの、その哀れを誘う赤子の声に心は揺さぶられた。

 僧は刹那の迷いの後、我が身に災難が降りかかろうとも赤子の声を放って逃げるなどできはしない、と声の主を捜したのだした。

 僧は泣き声を目指して山の奥へ奥へと分け入ると、声の主の元へ辿りついた。

そこにいたのは妖の類でも無ければ狐狸でもなく、れっきとした人の赤子であった、と僧は最初に思った。

 だが、数瞬の後に僧は思い至った。このような場所に居るのが人の子であるわけではない無いという事に。

 見目は人と酷似しているが、やはりこれは人外のものである。

 証拠に、その赤子は生まれてまだ三月もたっていないようであるのに、歯は生え揃い、髪は眉にかかるほどに伸びていた。

 鬼の子は生まれたときから髪と歯が生えているという。

これは鬼の子であろう。僧はそう考え、そして少し躊躇った。

しかし人の子とさほど変わらぬ鬼の子の泣き声は僧の心を強く動かした。

 禽獣であろうとも、真心を込めて接すれば人に懐く。例え鬼であろうとも、自分が愛情を込めてこれを育てれば人の道を歩んでくれるだろう。

そう思った僧は赤子を村に持ち帰った。

 本当に優しい、慈悲深い僧である。

 仮にその赤子の泣き声がいくら人間離れしていようとも、見目が明らかに人外のものだったとしても、結果は同じことだっただろう。

僧が鬼の子を持ち帰った事を聞いた村の者たちはあまり良い顔をしなかったものの、僧の気質を知る村の者たちは渋々とそれを容認した。

もっとも、不満は少なからず抱いたようだが。

 僧は大事に大事に、まるで我が子のようにその赤子を育てた。

 

 

 その赤子が、私だ。人間に育てられた鬼の子、それが私だ。

 私は人間なのか、鬼なのか。

 

 

 私は人間よりも遥かに早く大きくなった。六つにして成人と同等の膂力を有していたし、知力の方も普通の人間よりも早く成長した。

もっとも、私はいらぬ事を言わず、諾々とひたすらに僧のいう事に従って生きていたので、それを知る者はいない。

 僧が禁じたため、私は獣や魚を食べることをせず、僧と同じ食事を取った。

 鬼の身体は人間ほど食料を欲しないようだ。私は人の何十倍も食べることもできたが、飢饉の時は三ヶ月もの間、水だけで生きていられた。

 見目は人間の童に近くとも、長い間の絶食で体力が些かも衰えなかった自分は、紛れもなく鬼だろう。飢饉で自分が鬼だということが再確認できた。

 飢饉が収まってきたころ、私はその事を僧に告げた。

 

――私はやはり鬼のようだ。人間とは違う

 

 それに対して僧はそのようなことは瑣末な事だ、優しい人の心を持つということが大事なのだ、と私に言い聞かせた。

僧は私が人の心を持つ事に期待していたのだ。

 

――身体は鬼であろうとも、心は人であれ。

 

 この日初めて僧の口から零れた言葉が、後の僧の口癖になった。

 

 

 私はその夜、寺の境内に咲く桜を見ていた。噎せるような花の香りに酔い、春風に吹雪の如く舞う桜花に視線を漂わせながら、私は自分に向かって呟いた。

 

――――汝は人間なりや?

 

 その問いかけに答えるものはいない。桜吹雪が自分を嘲笑するかのようにくるくると舞っていた。

 

 

 私は僧の期待に応えようと、僧の望むように成長した。僧は私が既に七つの頃には既に成熟した精神を持っていた事など知るまい。

その人間離れした知能を知れば、僧は喜ばぬだろう。人間と同じように私がしていれば、僧は喜ぶ。

だから私は敢えて人間の子供と同じように成長しているかのように演じていた。

 僧は読み書きを私に教えてくれた。読み書きを覚える事は私にとっては造作も無い事だったが、苦心しながら励んでいるような振りをしていると、私が一つ文字を書くごとに僧は皺くちゃの顔をほころばせて嬉しそうに私の頭を撫でてくれた。

 心地よかった。

 読み書きが一通りできるようになると、僧は私に色々な事を教えてくれた。村の決まり事、年貢の事、自然の事、人倫の事。

そして、仏の事。

 善人も悪人も、仏を信ずれば皆極楽へ行ける。僧はそう言っていた。

 

――僧は何故死のうとしないのか。何故死んで極楽へ行こうとせぬのか。

 

 足腰は衰え、目もかすみ、年々弱って行く僧に私はこう尋ねた事がある。

 

――私はまだまだ村のために働ける。まだ死ぬわけにはいかぬよ。

 

 これが僧の答えだった。僧はもう十分に村に尽くした筈だ。それなのに、老いに苦しみながらもまだ村に奉仕しようとしている。

 これが人間の人間たる所以だろうか。私には理解できない。

早く話に聞く極楽という所へ行って、楽をして欲しいと思った。私がその思いを口にすると僧は軽く笑って言った。

 

――汝も、もう少し大きくなればわかる

 

 今思えば、あの笑いは私のあの発言は幼い故のものだと考えたのだろう。人の心を持っていない事からきた発言で無く、幼さ故の無知だと僧は思ったに違いない。

 私は僧の言葉を、死というものを、私はただの安息としか捉えていなかった。

 後日村人たちを観察してわかったが、人間たちは死を恐れる。だとすれば死というものはただの安息ではないのだろうか。私にはわからない。

 この一事のような事は、幾度もあった。私にはあまり人間の心が理解できない。

 しかし、それは小さな事だ。僧の期待に応える事など、僧を喜ばせる事など簡単な事。僧を見習って僧と同じように生活していれば良かったのだから。そうすればいつかは人間の心を手に入れることができるだろう。

 

 

 私が寺の所有する田畑を耕すようになったのは八つの頃だ。

その二年後、僧はある事を発見した。私が八つの年は雨が降らず、九つの年は逆に雨が多過ぎて、餓死者が出るほどではなかったが村は不作だった。

しかし不思議な事にどんな年でも私の耕した土地は常に豊作であったのだ。鬼の持つ人外の生命力が、草木にまで力を与えているのだろうか。

 

 

 そして、僧は私が十の頃、村人達の家の田畑を耕させた。私が昨年までのように寺の田畑だけに専念せずに、村の家々の地所を毎日回って少しずつ野良仕事をやっていたせいで、私の持つ何か不思議な力が分散したせいか、豊作というわけにはいかなかったが、その年も雨が少なかったにも関わらず、村は不作に悩まされずに済んだ。

 それまでは疎んじられていた私は、そのお陰で村に受け入れられた。

もっとも、受け入れられたといってもそれはただの労働力としての話であり、仲間として、同胞として認められたわけでは無い。

 己に利益のあるのならば、受け入れ、害があるならば拒む。当然の反応だ。

村人たちの私への態度の軟化によって、僧が喜色を見せたのだから私はそれで良い。

 

 

 十二になった頃、私はようやく自分が他の村人とは違う容貌をしている事を気にし始めたように見せかけた。

人間の男ならばこれくらいの年齢で自分の容姿を気にし始めると思ったからだ。

 この頃の私はもう大人が十人集まった程の膂力を有し、背丈もどの村人よりも高かった。

それに私が人外である何よりの証として、肌はうっすらと赤く、爪は刃物のように鋭く、頭には三寸ほどの角があった。

 ある日、私は少し戸惑ったふりをしながら問う。

 

――我は人間なりや?

 

 僧は答える。

 

――他の者と容貌は違えども、汝は人間なのだ。

 

 それが返事であった。その言葉の奥底に、哀情が込められているのを私は見過ごさなかった。

 私はまだ僧に人間と認められてはいないらしい。

何処か感情が欠落しているような私をこの僧はもしかしたら見抜いているのかもしれない。一応は人間と同じように生き、考える事は出来るつもりだったのだが。

 人間というものは、存外に奥が深い。

 

 

 身体的な違いはどうしようもない。別にそれはそれで構わないのだ。私と人間は違う生き物だ。

だが、心は人間と認められたかった。僧と同じになりたかった。僧に同じ人間だと認められなかった。

 自分はまだ、鬼と見られている。

 本当に人間の心を得るにはどうすれば良いのか、と考えながら私はただ愚直にひたすら、僧のため、村のために働いた。

 どれだけ働けば、私は自分が人間だと思えるのだろうか。

私はどれだけ村人たちと交わっても、どこか冷めた目でしか彼らを見る事が出来なかった。同胞とは、仲間だとは思えなかった。

それは私の心だけが原因というわけではないだろう。

 僧と私が一緒にいる時は、村人達も僧を気遣ってか上辺は何も気にしないように私へ接してくるが、細かな所作や言動に、ありありと彼らの本心が表れている。

 僧がいる時でさえそうなのだから、私が一人でいる時の村人たちの接し方は言わずもがなだ。

 

――あれは鬼だ。

 

 彼らはこう思っている。私は疎外されている。それは恨むつもりは無い。彼らにしてみれば当然だろう。私は違う生き物だ。

 鬼が人間になる事は不可能なのだろうか。所詮、鬼は鬼なのか。

村人が私を鬼として扱う時に見せる、僧の私を哀れむような顔はあまり見たくはない。

 

 

 夏の夕暮れ。世界は茜色。ひぐらしの鳴く、夕陽に染められた境内で私は自分に向かって呟いた。

 

――――汝は人間なりや?

 

 その問いかけに答えるものはいない。世界を照らす茜色は少しずつ黒く濁り始める。私の問いを黙殺するかのように、辺りはただ従容と暮れて行く。 

 

 

 この年、私は十五になった。

 村には一人、私と丁度同じ年の娘がいた。

 その娘は私の頭の角を触るのが好きという、妙な娘であった。他の娘等が私を怖がるのに、その娘だけは私の事を恐れなかった。

僧以外では、その娘だけが私の事を恐れずに接していた。

 その娘は病にかかり、やがて死んだ。

 病は人間に伝染る病であった。その娘の家族が看病にあたっていたのだが、僧は私を遣って看病を替わらせた。

私は生まれてこれまで一度も病というものにかかった事が無かったので、鬼は人間の病にはかからぬと僧は考えたのだろう。

 私は看病を続けた。激しい咳と高熱に苛まれた娘は、日に日に弱り、痩せ細り、私が看病を始めて丁度一月目の夜、とうとうその命は消えた。

 静かな最期だった。弱々しい咳を何度かした後、何故か私の方を見て少し笑ってから、緩く私の手を握り締めてから、力尽きた。

 死に際は真夜中で家族はおらず、私が独り、最期を看取った。

 娘の最期の小さな手の感触は、私の掌の中に淡く残ってすぐ消えた。

 娘の家族を起こし、悲嘆にくれる彼らを部屋の隅でぼうと無感動に眺めながら、私は人間とは何なのか、悲しみとは何なのか、死とは何なのかを考えた。

 

 

 夜が明けると私は寺に戻った。僧は既に起きており、息を白く吐きながら境内の落葉を掃いていた。私は僧に娘が寂滅した事を知らせた。沈痛の面持ちでその報告を聞いた僧は瞑目した。

 娘は随分前から、数日置きにこの寺に来て、家事の手伝いをしていた。僧とて、人間だ。親しんでいた娘の死には何か感じ入るものがあったのだろう。

 しかし僧はその役目上悲しんでばかりはいられない。目を開いて大儀そうに立ち上がると、僧は葬儀の段取りを整え始めた。

 寺に戻る前、娘の家の隣家に娘の死を伝えておいた。

もうどこの家も稲の刈り入れは終わっている時期だ。日が昇るとぼつぼつと寺に手伝いを寄越すに違いない。

 私は自分の行動をさらうと、もう寺の外へは行く必要性が無いと判断し、いつものように僧の作業を手伝った。慣れた作業だ。いつものように葬儀の手伝いをしている私を見て、僧は言った。

 

――汝も辛いであろう、今日のところは休んでおれ。

 

 面妖な事を言う――。僧の言葉を聞き、抱いた思いはまずそれだった。私は辛いのだろうか、と自問する。心身共に異常は無い。

 寺への手伝いが無くなったのは、まあ辛いのかもしれない。

だが私は私の仕事が増える事は別段苦とは思わぬし、僧に対する村人たちの慕い方を見る限り、以前の娘の代わりの手伝いを出す家は幾らでもあるだろう。

 娘は私に親しんでいたかもしれないが、それが何だというのか。結局のところ、私にとって何の不都合があるというのか。

 しかし人間ならば、親しくしていた娘を喪った事で心身に異常をきたさなければならないのかもしれない。涙というものを流さなければならないのかもしれない。

 ならば、私を人間にしたがっている僧には辛いと答えるべきなのだろう。

 

――辛いが、僧を手伝う。

 

 それが考えた末に導き出した私の返事であった。

 

――汝は悲しいと思わぬのか。

 

 私は先ほど、辛いと答えた。辛い、という事は悲しいという事だ。だが僧は私に悲しくないのか、と再度尋ねてきている。

 私の先の言葉は人間らしく振舞った方が僧は喜ぶと思っての言葉だったのだが、あてが外れた。

人間の感情というものは、やはり人間で無いと体得できないのだろうか。

僧には、私が悲しんでなどいないと看破されたらしい。

 しかし、それならば悲しいとはどのような意味なのか。

一応は村人が死んだときの僧を真似て、暗い表情で作業をしていたつもりなのだが、それは違うのか。少し混乱する。

他に僧は人が死んでいた時に、どんな事をしていたか、言っていたか。判らない。

 悲しさとはどう表現すれば良いのか。

 

――悲しい。悲しく、辛い。一度は辞退したが、矢張り言葉に甘えて休ませてもらう。

 

 今まで見せた事の無い、憐憫と恐怖と驚愕を混ぜ合わせたような、まるで人間ではないものを見るような僧の視線を避けるため、私は可能な限り、人が死んだ時の僧の物腰を真似て弱々しく言って、私は僧の元を去った。

 

 

 葬儀の前の慌しい喧騒が少し遠く聞こえる。

私は寺の外で一人黙然と考え事をしていた。

 私は、やはり人間の心を持っていない。どうすれば人間になれるのだろうか。僧と同じ人間になれるのだろうか。

 あの、僧の目。僧は初めてあんな目をした。僧は初めて、村人たちのような目を、私を鬼と見るような目をした。あの心優しい僧が。

 僧のあの奇異なものを見たような瞳を私は忘れられない。心が乱れる。平静ではいられない。

 私は何としてでも人の心を手に入れなければならない。

このままでは僧は私を紛れも無い鬼だと考えてしまうだろう。

 私は僧のためだけに生きている。僧に喜んで欲しいがために生きている。僧にはあんな目で見られたくない。

 僧とはその後葬儀が終わるまでに幾度と無く会話を交わしたが、僧の瞳の奥にある感情は、変わらなかった。

 

――この者は鬼である

 

 僧の目は私を見てそう告げていた。

 

 私は僧の元で、僧と共にいつまでも暮らしていきたい。

僧が死ねば、その菩提を弔って静かに暮らそう。

今まではずっとそう思っていた。そうなると思っていた。

 緩々とでも人間を理解して、人間になりきろうと思っていた。

 人間になれず、今までのように村人たちに邪険に扱われる。それならそれで良い。

僧さえ私を人間と思ってくれればそれで私は良かったのだ。

 それなのに、僧にまで私が鬼だと看做されてしまっては、私は何のために存在しているのかがわからなくなるではないか。

 私は鬼ではない。私は人間だ。麻のごとく乱れる心を懸命に押さえつけながら、私は一滴涙を零した。

 早くしなければならない。早く人間にならなければ、早く僧に私を人間だと認めてもらわなければ、私は私でなくなってしまう。

 

 

 通夜が終わり、葬儀が終わり、娘の亡骸が寺の墓地に埋められた夜、布団の中で私は思った。

 あの娘はよく泣き、怒り、けたたましく笑い、まるで禽獣のように浅ましく感情を剥き出しにしていた。

 あの娘は細く、蒼白く脆弱で、家の野良仕事を手伝えぬほどに病弱だった。

その癖少し気分が良い時には、身の程を知らずにはしゃぎまわっていた。

 あの娘は頭が鈍いわけでは無かったのだが、何故か鬼の私の事を恐れなかった。

私の腕力を持ってすれば、娘の首を捻じ切る事くらいは容易な事だ。

自らの存在をおびやかす可能性のある者は、恐怖するのが普通だ。

ましてや私の育ての親である僧と違って、娘と私との繋がりなどは何も無い。

 娘は何を考えて、私と接していたのだろうか。

 あの無学で無教養な娘と博識で思慮深い僧とを比べると、共通点など何も無いように思えるが、僧も娘も私の事を恐れなかったという点では同じだ。恐れず、同胞と看做してくれていた。同じ人間だ、と二人とも思ってくれていたのだ。

 娘は何故私に対して恐怖を抱かずに済んだのだろうか。力でも知恵でも遥かに娘を陵駕するこの私を怖がろうとしなかったのは何故か。

 私は娘の姿をもう一度見てみれば何かわかるかもしれないと考えた。

 私は布団から這い出すと、夜の墓地へと向かった。

 秋の終わりを告げるかのような冷たい空気の中、りん、りん、りんと虫たちが鳴いている。

風がざぁ、と吹き、女の髪のように見える草々を荒々しく棚引かせた。

空は雲が薄くかかっていて、月は朧。星は見えない。薫るのは土の香り。黴と苔と木々の匂い。

 私は人間と違って夜目が利く。暗闇は苦にはならない。幾つもの土饅頭の一つから、真新しいあの娘の土饅頭を選び、地面に這いつくばってさく、さく、さく、と手で穴を掘り始める。

 

 さく、――人間。

 

 さく、さく、――人間になりたい。

 

 さく、さく、さく、――僧に、人間と認められたい。

 

 さく、さく、さく、さく、――僧に、人間と扱われたい。

 

 さく、さく、さく、さく、さく、――私は人間になるのだ。

 

 さくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさく。

 さくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさく。

 さくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさく。

 さくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさく。

 

 私はいつの間にか無我夢中になって土を掻き分けていた。娘の棺を埋めた所は土もまだ柔らかく、掘り出すのに苦労はしない。

 とうとう私の爪は棺の蓋に辿りついた。蓋を無理やりに引き剥がし、中で眠る娘の姿をじっくりとよく観察してみた。悲しむという感情はこれまで生きていた中での村人達の話などから推測されるに、どうも先ほどのように僧が私に向けて暗い哀れみの情を放つときに、私が感じるような情動を指すようだ。

娘の姿を見てもそんな感情は沸かない。そんな感情は判らない。人間ならば、その悲しみとやらが沸かなければならないのだろう。

 触ってみれば何かわかるかもしれない。私は女の体に触れてみた。冷たく硬いだけで何もわからない。

 何故この女は自分のことを恐れなかったのだろうか。判らない。私に近づく事は、あの娘にとって何か利がある事なのか。

 人の心とはどうやったら理解できるのであろうか。私はまた考えた。

 

――五臓、五神を蔵す。

 

――即ち肝に「魂」、心に「神」、脾に「意」、肺に「魄」、腎に「志」を蔵す。

 

――人に五臓あり。五気を養い、以て喜、怒、思、憂、恐を生ず

 

 そういえば何かの書物にそんな言葉があった。要するに人間の臓腑には人間の精神が宿っているという事だろう。

 それならば娘の臓腑を食らえば私は人間の心を得られるかもしれない。僧に肉食を禁止されていたので少し気が咎めないでもなかったが、これは別に食うためにやっているわけではない。言わば、人間が薬を飲むようなものだ。僧も許してくれるだろう。

 私は娘の身体を棺桶から出して娘の死に装束の胸元を開いた。夜闇に光る娘の蒼白い肌。娘の腹の辺りに爪を立て、肌を裂く。

 いつの間にか雲は晴れており、月光が辺りを優しく照らしていた。月光の元に黒く光るのはぬらぬらとした臓物。腐りかけた血と血膿と臓腑の甘く暗い匂いが乾いた空気に漂う。

 どれが人間の精神が宿るといわれている五臓なのだろうか。

 考えてもわからなかったので私は両手一杯に臓物を握ると、どれがどこの部位ともわからぬまま頬張った。

 くちゃ。くちゃ。くちゃ。ぺちゃ。ぺちゃ。ぺちゃ。

 くちゃ。くちゃ。くちゃ。ぺちゃ。ぺちゃ。ぺちゃ。

 私は娘の臓腑を食い尽くしたが、人間の心を得たようには感じなかった。

 物を喋るのは頭だ。ならば、頭にこそ人間の心は宿っているのかもしれない。頭を食べてみよう、と私は思った。

今度は娘の首を力任せに手で引き千切ると、髪の毛を頭皮ごと毟り取って、頭頂部に齧り付いた。骨と皮まで食べたが、相変わらず私の心には何の変化も無い。

 自分を撫でたのは手だ、自分に向かって駆けて来たのは足だ。人間の心とは案外このような末端の部分に宿っているのかもしれない。

 私は手足も胴体から千切りとって食べた。

 しかし私は私のままで、何一つ変化は無い。

 私の目の前には残ったかつて娘だったものが転がっている。

ついでに体中の骨も、胴体の残された部分も、髪の毛も食べたが私には矢張り何もわからなかった。

 私は首を傾げて掘り返した土をもう一度元に戻した。

 

 

 娘を再び埋め終わり、井戸で手と顔とを洗いながら、私は月を見つめていた。月は何者にも妨げられることなく、ひたすらに煌々と輝いている。満月に僅かに足りない十三夜の月に自分を連想させながら、私は自分に向かって呟いた。

 

――――汝は人間なりや?

 

 その問いかけに答えるものはいない。月は無慈悲に光を放ち続けている。

 

 

 私は暫くの間、訝しみながら日を送っていた。寺の書物を読み漁っても、矢張り人の心は五臓にあると書かれている。

 人は五臓が弱り、五気が弱まれば、肝に酸味、心に苦味、脾甘味、肺に辛味、腎に鹹味、それぞれに対応する五味の食を通して気を取り入れ、身体を回復させるという。

足りぬものを食として経口で補うのだ。

ならば私が同じ事を行えば、人間と同じように足りぬものが満たされるはずだ。

 あの娘の臓腑は全て食ったのに、何故私は五神を、人間の心を手に入れられぬのか、と私は苦悶した。

 そしてはたと気づいた。先日の娘は、死んでいたからいけなかったのに違いない。

 なんという簡単な事に気づかなかったのだろう、と私は自嘲した。

人が死ねば五神は抜ける。そう書物にも書いてあったではないか。

生きている人間を食べなければならないのだ。

 私の瞼には、先日の僧の哀情に満ちた顔が思い浮かんでいた。私は僧のそんな顔を見たくはなかった。

同じ人間だと認めて欲しかったのだ。その一心で私は人間の心を手に入れようとしていた。

 誰を食べようか。誰を食おうとも、一生懸命に生きている者ならば、死んでも極楽というところへ行ける。

そして私がその者のこなしている労働を肩代わりしてやれば、誰にも迷惑はかからない。

 しかし食欲に駆られてのことではないとはいえ、私が肉を食ったと知れば僧は喜ばぬだろうから、私は静かに行動を開始した。

 

 

 一日の務めをいつも以上に早くこなし、まだ日も高いうちから私は自由になった。

 

――さて、誰にするか。

 

 村民は皆、野良仕事の真っ最中だ。ぽつりぽつりと寺の門からその姿が見える。

 この辺りの者を食っても良かったが、誰かに見られて僧に告げられないとも限らない。私は村の外れの辺りまで足を運んだ。

 

 

 あつらえた様に、村の外れには木陰で休息を取っている一人の老人がいた。老人がいるのは田から少し離れた、林の入り口にある木の下だ。木々によって視界が遮られているので林の中の様子は外からはわかりにくい。

 私を見ると老人はいつも通りの少し怯えた様子を見せ、次には強気な表情で今日は私が老人の家を手伝う日では無い事を私に向かって言い、早く去るようにと手振りで示した。

 私がいつまでも老人の事をじっとみていると、次は戸惑ったような顔で少し声を大きくして私に向かって同じ意味の言葉を少し乱暴な口調で怒鳴った。

 それでも私が立ち去らないでいると、次には恐怖をその顔に浮かべた。

私が一歩、老人に向かって歩みを進めると、老人は立ち上がって逃げ出そうとする素振りを見せた。

私は老人との距離を詰めると老人の腕を掴んで林の奥へと引きずり込んだ。

 林の奥で老人を解放すると、老人は地面にぺたりと尻餅をついた。腰が抜けて立てないらしい。顔は恐怖に引きつっている。

 

――心配はいらぬ。命を奪うだけだ

 

 私が老人にそう告げると老人はますます恐れおののき、四つんばいで私の元から逃げ出そうともがいた。

 何故これほどまでに恐怖するのだろうか。数瞬の痛みを我慢すれば、極楽へ行けるというのに。

 私は老人の様子を見ていると、不意にその事が気になった。

私と人間たちの死というものに対しての意識の違いは、ひどく重要なもののように思えてきたのだ。死というものの捉え方のせいで、私はもしかしたら人の心を理解できていないのかもしれない。

 私は無表情に老人を見つめながら、問うた。

 

――汝には何か生きる理由があるか?

 

 老人は逃げるのを止め、今度は私に向かって哀願をし始めた。

 息子は既に病で死に、家には幼い孫と、自分と同じく老いた妻と、息子の元へ来た嫁しかおらず、家には自分しか男手が無い事。

妻は既に老いで足腰が弱って歩く事もままならず、自分が中心に妻の世話をしている事。その他様々な事を私に向かって言い、しまいにはどうか殺さないでくれ、と私にひれ伏して懇願した。

 

――それならば私が働いて汝の一家の面倒を見てやろう。

 

――他には無いのか?

 

 老人は言葉にならぬ事をわめき散らした。

 内容は私への罵詈雑言がほとんどだったが、他の意味の言葉も幾分か混じっていた。

それらの言葉から察するに、どうやら死ぬのが怖いらしい。

書物には様々な死後の世界が記されている。僧も死ねば極楽に行けると言っている。この老人は僧の法話を何度も聞いている筈だ。

それなのに死が怖いらしい。私には理解できないが、それが人間だという事なのだろう。

 この死の恐怖も人間になれば理解できるのかもしれない。私はますます人間の心を手に入れたくなった。

 

 鋭い爪で老人の生きたままの腹を裂くと、老人は今までとは桁違いの声量で絶叫した。

あまりにも五月蝿かったので喉を潰した。喉を潰すと都合の良い事に痛みで失神してしまったらしい。

私の作業を妨げようと老人は私の腕を両手で掴んでいたが、その手から力が抜けていった。

 一瞬死んでしまったのかとも思ったが、死んではいない証拠に血管と臓腑はドクドクと波打っていた。呼吸はしていないようだが、暫くの間なら大丈夫だろう。

娘を食らったあの夜の時と同じように私は老人の臓腑を貪り、頭を貪り、四肢を貪り、そして残った胴体も、骨も皮も貪った。

 しかし私の心は今までと変わる事は無かった。相変わらず、鬼のままだ。

 私は近くの小川で血に汚れた腕と顔とを洗うと、次の相手を探しにその場を後にした。

 

 

 先ほどは老いていた者を食べたからいけなかったのだろうか。

老いているという事は、気力も萎えているという事だろう。

次は老いていないものを食べてみよう。

 次に私が向かったのは村の童たちが遊び場にしている野原だ。

 しかし意に反して野原にはまだ誰もいなかった。まだまだ日も高い。

家の手伝いをさせられている時分なのだろう。

来た道を引き返していると、運良く一人の童と出会った。

不意に私が現れたせいで、驚いたように口をぽかんと開けている。

 見覚えのある顔だ。この貧しい村の中でも更に貧しい、自分の土地を持たずに小作をしている家の四男だ。

この童を産んだ時、その家の者は口減らしのためにこれを殺そうとしたが僧がそれを戒めて止めさせた事があったのを覚えている。

 次はこの童を食ってみよう。私は有無を言わさず童を抱え上げ、走り出した。

私の腕の中で童は何かわめき散らしながら必死にもがいている。それを押さえつけながら、先ほどの野原を駆け抜けると村人たちも滅多にやってこない森の中へ入った。

 童は地面に降ろされると身体を丸めるようにして泣き喚いた。

 泣き声が静かになるまで待ち、私は問う。

 

――汝には何か生きる理由があるか?

 

 童はまだ十になったばかりであるという事もあり、ただ恐怖に歯をカチカチ打ち鳴らすのとしゃくりあげるように息をする以外に反応を見せない。

 

――汝が死ねば、家族が楽になるのだぞ。何故死を厭う?

 

 死、という言葉を聞いて童は一層身体の震えを強くした。

 

――生きる理由を言ってみよ

 

 私は再度童に問うた。相変わらず震えるばかりで返答は無い。

 暫く待っても一向に言葉らしい言葉を喋ろうとしないので、私は早々にこの童を食う事にした。

 先ほどの老人と同じように五月蝿い声を静める為に喉を潰すが、童は痛みで悶絶したものの失神には至らなかった。

苦痛に暴れ悶えるのを無理やりに片手で押さえつけると老人と同じように腹を裂いていった。腹を裂くと童は一層暴れまわったので両手で手と足をそれぞれ押さえつけた。

 少し躊躇ったが、両手が塞がってしまっては仕方がない。

私は獣のように顔を直接童の腹部に近づけて臓腑を食っていった。

 

 

 童を食べても私は人間になれなかった。童というのは人として未成熟なせいだろうか。

 老人に、童。結局異なる二種類の人間を食べても私は人の心を理解する事ができなかった。

 気は成熟していなければ使えず、萎えていては使えない。

後から考えてみれば当然といえば当然の事だが、人の心を手に入れた鬼の話など書物には載っていないのだから仕方が無い。何が有効なのかがわからないのだ。

 続いて人を探そうとしたが、冬の陽は沈むのが早い。もう既に陽は赤味を帯び始めていた。そろそろ寺に戻らなければならない。

 

 

 寺に戻ると丁度僧が一人の村人と共に寺を出るところに出くわした。

話を聞くと、どうやら私が食った二人がまだ戻らないので捜しているらしい。寺へ来ていないかと村人が捜しにやってきたところ、僧が手伝いを申し出たようだ。

 捜索に出ている村人たちというのは恐らく体力のある男だけだろう。

僧と同じくらいの老人は皆、それぞれの家にいるはずだ。それなのに老いた身体に鞭打ってまでして僧は捜索に加わろうとしている。

僧らしいといえば僧らしいが、見つからないとわかっている捜索に行かせるのも悪い気がしたので、半ば無理やりに僧を寺へ戻らせると、僧の代わりに私が素知らぬ顔で二人の捜索に加わった

 当然二人は見つからなかった。

 

 

 翌日、また私は早くに自分の仕事を終えて前日の続きを始めた。

 老人と童とを食べたのだから、次は若い男を食べてみよう。若い男を食べれば私は人間の心を手に入れられるに違いない。

昨日の二人の捜索は今日も続いている筈だ。村の外れでも捜してみれば、捜索に出ている若い男が見つかるだろう。

私はそう考えて、普段なら誰も近づこうとしないような村の外れをぶらぶらと歩いた。

 やがて、一人の男が見つかった。

 男は私も二人を捜しているものと考えたらしい。

私の姿を見ると男からこちらへ向かってきた。私は男が口を開く前に当て身を食らわせて気絶させ、近くの山の中へ男を抱えて入っていった。

 

 

――汝には何か生きる理由があるか?

 

 男が目を覚ましてすぐに私がそう問うと、男は一目散に逃げ出した。老人や童と違い、私に身動きが取れなくなる程の恐怖を感じないようだ。

数瞬で男に追いつき、地面に押し付けてから私は問いを繰り返した。

 

――汝には何か生きる理由があるか?

 

 男は憎々しげに背中越しに私を睨みつけ、何事かを怒鳴った。問いには答えようとしない。

 

――汝には何か生きる理由があるか?

 

 三度私が尋ねても男は何も返答しない。ただ自身を地面に押さえつけている私の手から逃れようと暴れるだけだ。

 私には遠く及ばないとはいえ、若い健康な男の力はそれなりのものだ。私は男をおとなしくさせるために、男の腕を逆に捻り上げた。

 始め、男は怒号を上げたが、少しするとその声は苦悶の声に変わり、やがて悲鳴に変わった。そして、男の腕は最後には鈍い音を立ててあらぬ方向へ曲がった。

 

――汝には何か生きる理由があるか?

 

 四度目の問い。

男は苦痛に顔を歪めながら、やっと家族を飢えさせないためだと返答した。

それならば自分が男の家族の面倒を見てやれば問題は無い。それ以外に生きる理由も無いようなので、私は早々に男を食い始めた。

 

 

 男を食っても何もわからなかった。

男は陽気を有し、女は陰気を有する生き物だ。陰陽が結合して子は生まれる。

それならば、陽気を持つ私が男の持つ陽気を取り入れても意味が無いのかもしれない。

足りぬ気を女の陰気から補えば私はきっと人間になれるだろう。

私は女を食う事に決めた。

 

 

 女をこれまでと同じように連れ去り、問う。

 

――汝には何か生きる理由があるか?

 

 女はその問いに答える前に失神した。

仕方が無いので目を覚めてからもう一度問うと、女は声を引きつらせながら死にたくないと言った。

まだ子が幼いので、自分は必要なのだそうだ。

 私が働けば作物が多く取れるようになる。

その余分に取れた作物と交換に、子供の面倒を近くの家の女にでも見てもらえば問題は無い。

 この女にも矢張り、生きているという事に大した理由は無いようだ。

 私は最早四回目になる作業を繰り返した。女は腹を裂いた瞬間に、また失神したので作業はやり易かった。

 

 

 老人、童、若い男女。四人を食っても私は人間の心を手に入れる事は出来なかった。

 だがわかったことがある。人間の生にも確固たる目的などは無いという事だ。

日頃その事に薄々感づいていた私は、四人に問い、それぞれの答えと態度を見てそう結論を出した。

彼らのいう生きる理由とは、どうにでもなる事だ。そのような理由など、あろうが無かろうが大して変わりはない。

 私は漠然と僧と暮らしていき、僧が死んだ後はその墓を守って暮らそうと考えていただけであったため、人間が死を厭うのは何か生きる事に目的を持っているからなのしれないと僅かながらに思っていた。

だが、死を厭うのは生きる目的があるからではない、とはっきりわかったのは一つの収穫ではあった。

 しかしそんな事がわかったところで、私が人の心を持てるわけではない。

 私は些か意気消沈としながら、夕陽が照らす村の畦道を歩いて寺へと戻っていった。

 

 

 寺に戻ってから、昨日と同じように私は消えた村人の捜索に加わった。

 今日で消えた村人は四人になり、村中総出で捜索をしたが、当然誰一人と見つかる者はいなかった。

 

 

 翌朝。外には雪が積もっていた。

 昨夜から空が曇り、雪がちらほらと降っていたのは知っていたが根雪になるとは思っていなかった。

見蕩れた様に外の雪景色を眺めていると、静かな朝にそぐわぬ殺気だった大勢の気配と声が寺の門の方から聞こえてきた。僧がそれに対して応対しているらしい。

 何事かと私もそちらへ向かうと、何十人もの村人が手に手に農具などを武器として持ち、一斉に私を睨みつけた。

 僧から事情をよくよく聞いてみると、私が川で血の付いた口や腕を洗っているところをある童が見たらしい。

私とした事が、落胆のせいか注意をおろそかにしていたのだろう。

 その童は私が怖くて言い出せなかったらしいが、今朝になって両親にその事を告げたのだそうだ。最早隠し通すことはできまい。

 

――本当に汝は人を食べたのか、答えよ

 

 私は僧の問いに正直に答えた。

 

――五人食べた。

 

――僧も薄々気づいていただろうが、私には人間の心が理解できぬ。

 

――貴方と同じ人間になるのならば、人間の心を得なければなるまい。

 

――だが、死人も老人も童も男も女も食べたが、人の心がわからないのだ。

 

 私の言葉に僧は泣きそうに顔を歪めた。

 

――殺生は禁じたではないか。汝は言いつけを破ったのか。

 

 僧はその痩躯からは想像も及ばぬほどの怒号を辺りに響かせた。

 

――食欲に惑わされて食ったのではない。人間になるために食ったのだ。

 

――私が食べたのは人間だ。人間ならば、全員が極楽浄土に行けた筈だ。

 

――僧自身も言っていたでは無いか、人間は死ねば極楽にいけるのだ、と。

 

――死んでも極楽へ行けぬ禽獣や魚を食べてはならないというのは理解できる。

 

――だが、極楽へ行ける人間を食べて何が悪いのかが理解できぬ。

 

――私はちゃんと食った者たちの分も働くつもりでいる。

 

――私は何か悪い事をしたのか。

 

 僧は黙り込んだ。

 村人達は私に詰め寄る。その気迫を見るに、どうやら私はしてはいけない事をしたらしい。

 人間の心が判らぬというのは不便な事だ。だが何が悪いのかは未だに理解できない。

 そんな事を私が考えている間に、村人は私への距離をどんどんと詰めていった。

 先頭の村人が私に向かってその手の鍬を振り下ろそうとした瞬間、村人と私との間に僧は立ち塞がった。

 

――人の道理を知らぬ者のやったことだ、どうか許してやってはくれまいか

 

 僧は泣きながら村人達に懇願した。そんな事では村人達の怒りは収まらない。だが、僧の様子に少したじろいだ様子を見せた。

 僧の自分を襲おうとする村人達を必死で止めようとしてくれている様子を見ながら、私は改めて思った。この僧はなんて優しいのだろう、と。

 村人達の形相はとてもとても恐ろしかった。

この者たちと私が争えば、明らかに私が勝つだろう。武器を持っているとはいえ、数十人程度の人間は物の数ではない。

だが、村人の持つ気迫に私は気圧されている。力では劣っている筈の村人たちが、私を恐怖させている。人間の心の持つ力には、私の考えもしなかったような力があるようだ。

 その村人たちの恐ろしいほどの怒りを前にして、僧は立っている。下手をすれば僧が殺されかねない。何故僧はそのような事ができるのか。これもまた、人間の心の持つ不思議な力の一つだろう。

 それに、何故それほどまでに自分の身を案じてくれているのだろうか。

僧は、身も心も鬼である私の事を好いていてくれるのだろう。だからこそ、これほどまでに私の身を案じてくれているのだ。

 僧の心は鬼をも愛すほどに慈愛に満ちており、人間ならば怖がる筈の死の恐怖を克服できるほどに気力に溢れ、武器を持った多数の者をたじろがせるほどに強い。

 あの娘よりも、老人よりも、童よりも、男よりも、女よりも、僧の心は優しく、勇ましく、強い。

 私は僧のおかげでようやく理解ができた。

 どんな者を食べても無駄な事を。どんなに食べても人間の心を理解する事など出来ないという事を。人間になるにはどうすれば良いのかを。

 

 そう、私は理解したのだ。

 

 人間になるには、この僧のような者を食べなければいけないのだ、と。

 

 

 冬の朝。紅く染まった新雪と累々たる死屍を照らす陽光の下、私は自分に向かって呟いた。

 

――――汝は人間なりや?

 

 その問いかけに答えるものはいない。