ここがどこなのかわからない。

 左右には黒い林が広がっている。

空には星が散りばめられ、真円を描く月が妖しく輝いていた。

 私は何かに導かれるかのように、胡乱な纏まらない思考と共にその坂を歩いた。

 僅かな街灯をたよりに、私は歩く。

 歩きながら考える。私は何故ここを歩いているのだろうか、と。

 耳元を撫でる音がある。何処からか、遠くから、近くから、その音は絶え間なく聞こえる。

 私はその音に導かれて歩いている。

とても人を惹きつけて止まない音。美しい音。

音というよりも寧ろ唄と形容されるべきなのかもしれない。音の何処からも拾える歌詞のようなものはなかったが、何故かそう思う。

 そして、強く感じるのだ。私はその唄の元に行かなければならない、と。私は求められている。私は喚ばれている。

 恐怖心は無い。寧ろ恍惚としたような、快感に毒されたような、そんな感覚が気だるく全身を包んでいる。

 

 

 やがて視界の隅に、闇にあって淡く光る不思議な空間が見えた。

そこにあるのは小高い山。

 ざくり。ざくり。ざくり。

私は山道を歩く。足元にあるのは白いもの。それはどこかで見たようなもの。

 唄の主の下へはせ参じるため、幾千のそれを踏みしめて、幾万のそれを乗り越えて、幾億のそれを通り過ぎ、幾兆のそれを横切って。私は歩く。

 ああ、これは骨なのだ。不意に気づく。

尖ったもの、丸いもの、長いもの、短いもの、大きいもの、小さいもの、艶々と輝いているもの、見る影もなく朽ちたもの。様々な骨だ。

 うず高く積まれた白骨の上を私は歩く。彼らも私と同じように唄に誘われたのだろうか。

 

 

 山を越えて見えてきたのは、古びているけど美しい洋館。

 大きく開け放たれた門を通り洋館の敷地内に足を踏み入れた瞬間、不意に強い風が吹いた。思わず眼を閉じて、その疾風をやり過ごし、再び瞼を開いた。

淡い光の中、秋の彩りを深めた紅葉が舞っていた。幻想的な光景だった。赤、紅、朱、緋、赫。様々な『あか』が舞っている。

その風景の隅には、白いベンチがあり、二人の男女が歓談をしているのが見えた。その女の姿に私は目を見張った。女はただただ美しかった。長い、碧の黒髪とでも呼べる豊かな髪も、ほっそりとしたシルエットも、何処までも続く深淵を連想させる瞳も、男との歓談で時折見せる何気ない仕草も。何もかもが美しく見えた。

「おなかが、すいたわ」

 ふらふらと二人に近づく私に、その清廉な容貌に似合わぬ妖艶な笑みを見せて女は男に言った。

 横の男は何も言わず、ただ微笑んでいる。

「さあ――」

男が私の目の前に立つ。そして、私に腕を伸ばし、頬にそっと手を触れる。

それから、私は柔らかく抱きしめられた。

先ほどの気だるい快感を一気に増幅したような感覚が襲ってくる。

全身の毛穴から精気が抜け出るような、恐怖すら感じる快楽が声と共に駆け巡る。自分という存在が消し飛んでしまう、そんな気がした。

 時間の感覚すら失ってしまう未知の陶酔は、数分か数時間か数日続き、私の身体はやがて開放された。

「もう、生きていなくていいんだよ」

 そして、彼の一言。

 彼の囁き声は私の全てを蹂躙するかのように、身体の内側で激しく反響した。

彼の言葉で、自分がずっと何がしたかったのかが理解できた。

私は耳元で囁く声をずっと待っていたのだ。

辛いこと、煩わしいこと、嫌なことも時間が経てばやがて過ぎ去り、それなりに幸せに過ごせる未来が待っているのかもしれないが、そんなことは瑣末なこと。

私は辛い『今』からこれで逃げ出したいのであり、そのための手段を知ってしまったのだから、仕方がない。

 いつの間にか握らされていたのは、銀色にぴかぴかと光るナイフ。

 朦朧とする頭で、男と女の方へ視線をやる。

 男は私にしたように、女を抱きしめようとしているようだった。

 その短い行動の間にも、私の時とは違う、愛情がこもった抱擁。

 ああ、綺麗な二人だな、と思いながら私はごく自然にナイフを自分の喉元に突き刺した。温かな血が全身を伝わる。

 溢れ出す血液は、やがて私の膝から力を奪うほどの量になった。私は地に倒れ伏す。

少しずつ身体の感覚が失われていく。指先が動かなくなり、腕が動かなくなり、身じろぎすらできなくなる。

私は今、意識を失おうとしている。

 瞼は耐えられない程に重い。

私の視界はゆっくりと、確実にぼやけていく。

目の前に広がる美しい光景が消え去ってしまうことだけが心残りだ。

 そろそろ、眼を開くのも限界に近づいている。

 ゆるゆると、瞼が下りていく。赤い水溜りの中、私は一人、朽ちていく。

 もうこれからは頑張らなくていいんだということに気づいて、私は最後に少しだけ笑った。

 

 

 

 

 

 テレビをつけているとアニメが始まったのでなんとなく観ていた。

 それにはくびれ鬼という妖怪が出てきていた。

 人の絶望につけこんで死に追いやるという、そんな妖怪だった。

 そのアニメを見終わった後、こう思った。

 ああ、これは僕のことだと。

 けれどもその事で自己嫌悪も感じなければ、良心の呵責も感じなかった。

 何故なら、死にたがりの耳元で囁くものは僕だけではないからだ。

 それは人々のすぐ傍にいる。

 小学校にも、中学校にも、高校にも、大学にも、会社にも。

 限界までグラスに注がれた水を溢れさせる一滴。

 熟しきって腐り始めた果実を枝から引きちぎる風の一凪。

膨れ上がった風船をぱちんと弾けさせる針の一突き。 

 そんな役割を担うものたちが必ずいるのだ。

 いつか水は溢れ出す。

いつか果実は腐り落ちる。

いつか風船は破裂する。

 僕がやらなくても結果は同じなのだと思う。

 いずれ彼らは自ら首を縊る。

だから別に罪の意識を感じる必要はない。そう思った。

 

 

 月。

まん丸な月が僕らを見下ろしている。

 電気を消した部屋からだとよく見える。

夜の支配者たる月は自信たっぷりに燦然と輝いていた。

 この街は田舎というほどでもないが、都会というほど栄えてもいない。

田舎にある悪いものを包み込む柔らかさも、都会にある悪いものを弾くような堅牢さもない街。

要するに中途半端なのだ。だから何かもやもやとした悪いものが溜まっているのだろうと思う。

行方不明者や自殺者が多い陰気な街。僕らの住む街。

 月に照らされた街はとても不吉に感じられた。見えないところで幾百幾千幾万幾億の悪鬼が蠢いているような、そんな感覚。そしてその感覚は僕にとっては悪いものではなかった。この禍々しい街は僕の好きな人によく似ている。 

 僕が視線を並んでソファーに座っているアヤメさんに目をやると、アヤメさんは小さく声を立ててころころと笑った。

「こんな夜に我慢しろだなんて無理な話よね」

 アヤメさんは愉快そうに手に持ったものを僕に手渡そうとする。それはアヤメさん愛用の銀色にぴかぴかと光るナイフ。用途はリストカット。

「ねえ、私のこと嫌い?」

 僕が受け取るのをためらっていると、猫なで声でアヤメさんは言った。

「そりゃ好きですよ」

「なら良いじゃない。私の言うことを聞いてよ」

 アヤメさんは僕の方へしな垂れかかり、左手を僕に掴ませた。

初めの頃は戸惑ったがもう慣れた。僕はただその望みに応えさえすればいい。

 アヤメさんの手首を握った瞬間、どこか鋭さを感じさせるような冷たさが皮膚を通して全身に伝わった。

「手、冷たいでしょう?悪い血が溜まるせいで私はいつも凍死寸前なの。だから、ね。悪い血を抜いて頂戴」

 仕方なく僕はカッターナイフを握り、震える手でまだ傷跡の残るアヤメさんの手首へ刃の先を当てる。

「は――」

 刃が肌に触れた瞬間、アヤメさんは艶っぽい吐息を漏らした。気にせず思い切って刃をつき立てた。ぷつん。肌が破れる感触。そのまま刃を横に滑らす。

 ぴりぴりぴり。肌が裂ける感触。

 一旦肌から刃を離しもう一度その傷痕の少し下に刃を当てて、また刃を横に滑らす。

 アヤメさんは満足そうに目を閉じている。口元には微笑み。

 ぴりぴりぴり。

 ぴりぴりぴり。

 ぴりぴりぴり。

 ぴりぴりぴり。

 ぴ。

 六度目の傷を付けようとしたところでアヤメさんは目を開いた。

「ありがと」

「……いえ」

 自分に好意を寄せる年下の男に自らを傷つけさせながら、アヤメさんは笑う。

多分僕の嫌がる姿を見て喜ぶサディストで、切りつけられて悦ぶマゾヒストなのだろう。父親を偏愛しているし、リストカッターでもある。

どうしようもない。ただまあ、そんなアヤメさんを心の底から愛してしまっている僕も随分と変人だと思う。

「きれいよね」

 アヤメさんはうっとりと自分の眼下にある左手首を眺めている。

 五筋の傷痕。それぞれの傷痕から血が流れる。手首を伝って掌へ。掌を伝って指先へ。血は流れる。

 アヤメさんのほっそりとした指には紅の雫がぶら下がっている。白い指と紅い血。紅と白のコントラスト。

「血ってさ……」

「はい?」

 不意の問いかけ。

「血ってよく『鉄の味がする』って言うけど実際はそんなこと無いよね。血は血の味でしょ?」

 アヤメさんは僕から身体を離してソファーから離れると、僕の正面に立った。そして僕の方に腕を向けた。

 今にも落ちそうな血の雫が微かに震えている。

「舐めてみて」

 人差し指、中指、薬指に溜まる、雫。

 アヤメさんの目を窺う。有無を言わさない、まっすぐな目。仕方なく軽くアヤメさんの指を口に含む。

 不愉快な味が口腔に広がった。塩辛くて微かに苦味があり、不味い。

「血は、血の味ですね……」

 眉をしかめながらアヤメさんの言葉を反芻する。

 わけがわからないが、とりあえずアヤメさんの言葉に同意しておいた。

別にそれに対してアヤメさんは何を言うでもなく、また自分の傷跡をうっとりと眺めている。

ただの思いつきを口にしただけで、そのこと自体に意味はないのだろう。

「もう良いですか?僕は明日も学校なんですけど」

「ああ、そっか。ごめんね。夜中に起こしちゃって。私はもう少し起きているけど、先に寝ててね」

「アヤメさんこそ早く寝てくださいよ。明日も仕事やらなきゃいけないんでしょう?」

「だいじょうぶだいじょうぶ」

 アヤメさんのいい加減な返事を背に僕はアヤメさんの寝室へと向かった。そしてシングルベッドに倒れこむ。

後で来るであろうアヤメさんのことも考えて、布団の中をもぞもぞと動いて端に寄る。そして目を瞑った。

布団にはアヤメさんが染み付いていた。アヤメさんの匂い、アヤメさんの汗、アヤメさんの涙が染み付いている。

僕はアヤメさんに包まれながら眠りに落ちていった。

 アヤメさんが苦しんでいるのはわかっている。

それを僕が和らげることができることもわかっている。

好きな人と共にいられ、好きな人に役に立てる。

それなりに幸せな毎日。

 

 

 夢。

 夢を見ている。

 あの時の夢。

 遠くから、近くから、無責任な同情の声が聞こえる。

 

 可哀想に……

 

 誰が引き取るのかしら……

 

 まだ中学生にもなってないのに……

 

 相手は居眠り運転のトラックで……

 

 何が起こったかは理解している。だが、不思議と涙は出てこなかった。

 

 乾いた視界の隅に、伯父さんが自分の方へ近づいてくるのが見えた。

 

「明彦君。これからはうちで暮らそう」

 その後ろには一人の死を思わせる黒い制服姿の女が静かに佇んでいた。鴉の濡羽に似た黒髪を腰まで伸ばしている、彼女を見た瞬間、電光に打たれたように僕は身体を震わせた。それはきっと一目惚れに類する何かだったのだろう。

「パパ、この子とこの子のせいでママは死んじゃったんだよ」

 女の子は刺々しい言葉を放った。以前は伯父さん伯母さんと別々に暮らしていたとかいう、僕の従姉にあたる女の子だ。顔くらいは見たことがある。

当時はまだその程度の関係だった。

――死んだ……。

 不意にあの時の記憶が鮮明に蘇る。ブレーキの音。衝撃。そして僕を抱きしめた伯母さんの感触。

――ああそうだ、運転席には父さん。助手席には母さん。後部座席には伯母さんと僕。

――対向車線からトラックが突っ込んできて、父さんは避けようとして、それで……

「そんなことを言うものじゃないよ、アヤメ。あれは不幸な事故だったんだ。アヤメの気持ちもわかるけれど、明彦君はお父さんとお母さんを同時に喪ってしまったんだよ。お姉さんだから優しくしてあげないといけない。明彦君はうちで育てる。これはもう決めたことなんだ」

 伯父さんは戸惑った顔をするとその女の子にやんわりと、だが有無を言わさない口調で語りかけた。

「アヤメはわかってくれるだろう?」

 女の子は残念そうな顔をしながら俯いた。

――隣の人がクッションになってあの子は助かったんだ。病院で目覚めたときに聞こえた言葉。

 さあ、と伯父さんは言って僕の手を取った。

 僕は言われるがまま、手を取られて歩いていく。隣を歩く女の子さんと目があった。

 女の子は僕を無遠慮に見つめる。夜の森を思わせる瞳孔と淡褐色の虹彩は、僕を震え上がらせるほどの威圧感と、被虐的欲望をかき立てられる魅力を兼ね備えていた。

女の子歩きながら僕に身を寄せ小声で「人殺し」と言った。

その僕の耳に触れるほどに近づけられた口から発せられた言葉は今でも僕の頭の中でこだまし続けていた。

 

 

――アヤメさん……

 朝の到来を告げ、急速に夢から現へと僕を引き戻し、瞼をこじ開けた。

 目元が冷たい。僕は指を自分の目元へと持っていた。流れているのは涙。

――僕は人殺し?

 あの時僕が死んでいれば、伯母さんは助かったのかもしれない。そうすればこの家は平穏なままだったのかもしれない。アヤメさんの実の父への特異な感情もいつかは消えうせて、極々普通の幸せな家庭が続いていたのかもしれないのだ。

――伯父さんとアヤメさんを狂わせたのは、僕?

 ひとごろし。ヒトゴロシ。人殺し。

 狂おしいほどの愛情を伯父さんに抱いていたアヤメさんのことだ。伯母さんが死んだということに対して、喜ぶ気持ちがまったくなかったわけではないだろうと思う。

 けれども、人の感情は足し算引き算では量れない。

大好きな人を独占できるという喜びと、母親を失った悲しみというのは並立するものだと思うし、そんなことで喜んでいる自分に対する嫌悪感と、伯父さんとの蜜月を過ごす上で障壁にしかならない僕の存在に対する疎ましさ。そういったもの全てがないまぜになって『ひとごろし』という言葉を発させたのだろう。

 伯父さんには何度も会っていたし、伯父さん夫婦に一人娘がいるということも聞いていた。こちらへアヤメさんが引っ越してきてからは何度か顔を合わせる機会はあったものの、極端に内向的だったこの頃のアヤメさんは僕と交流を持とうとしなかった。

アヤメさんとまともにコミュニケーションを取ったのはあれが始めてだったはずだ。

 あの時のアヤメさんの声。あれに縛られているとは思わないし、思いたくもない。僕のアヤメさんに対するこの感情は後ろ向きなものではないのだ。

しかしそれは愛だの恋だのといった感情なのかというと、どうも少し違うような気もする。

 恋には恋に違いないのだが、僕はアヤメさんの一番になろうとは思っていない。無論、一番になるに越したことはないのだが、アヤメさんが伯父さんを好きならば、僕はそれで良いと思っている。

いつも一緒に夕食を食べて、よくお喋りし、たまに肌を重ねるといった関係は恋人のようなものだし、実際にアヤメさんに接している時間は伯父さんより僕の方が長いのだから、それでいいのだ。

 そんなことを考えていると、不意に枕元にある目覚まし時計が、どこか間の抜けたアラーム音を響かせた。

目覚まし時計の頭を少し強く叩いて黙らせると、半身を起こした体勢のまま数分ぼうっとした。

――学校行く用意してアヤメさんを起こさなきゃ

 僕は思考が纏まらない寝覚めの頭でそれだけを考え、ベッドを出て身支度を整え始めた。

 

 

 私は今日もうめき声を上げ、苦しみながら目覚める。醜く呻きながら。ガタガタと震えながら。 

 パパが傍にいないというだけで、私は苦しみでどうにかなりそうだった。

パパはそれを知りながらこの家を出て行った。

私はこんなにもパパのことを愛しているというのに。恋焦がれているというのに。

「大丈夫ですから。大丈夫ですから」

 私の目覚めと同時に部屋に入ってきた明彦くんはいつも通り苦しむ私を背後から強く抱きしめた。

「ずっと傍についていますから」

 震えが収まってから、ぜいぜいと荒い息をしながら明彦くんへもたれかかる。

 息を整えると、私はいつものように口を開く。

「どこにも行っては駄目よ、明彦くん。私の傍にいなければ駄目よ」

「大丈夫です。大丈夫ですから」

 明彦くんは私の頭をそっと撫でる。

 パパが私から離れていってからの目覚め。

鬱々とした感情が湧き出してくる。こういうときはロクな考えが湧いてこない。

 明彦くんは確実に私を好いている。そんなことはわかっているのに、今は後から後から不安が身体中から噴き出してきている。

明彦くんは学校で何をしているのだろうか。私へかける愛情のこもった言葉は偽りで本当は好きな子がいるんじゃないだろうか。

 私の頼りは明彦くんしかいないのだ。明彦くんが私から離れていくのだとしたら、私はどうしようもない。だってパパは私を嫌いになったのだから。

パパは私が嫌になったのだ。睡眠薬を蒐集したり、手首を切っていたりする女がやっぱり嫌になったのだ。

以前はそれでも好きだと言ってくれたのに。私は悪い血のせいで眠れないだけなのに。悪い血を身体から出そうとしていただけなのに。それがいけなかったのだろうか。

 これも皆悪い血のせい。私の身体に流れる悪い血のせい。

 血。血。血。血。血は嫌い。

「――落ち着きましたか?」

 数分の後、明彦くんは私の身体を離した。

「ええ」

 心配そうな明彦くんの顔。

「明彦くんはどうして私に優しくしてくれるの?」

 慣れたやり取り。

「僕はアヤメさんが大好きだからですよ」 

 明彦くんの唇が私の口を塞ぐ。伝わってくるのは快感を具象化した上から糖衣したような、甘ったるい陶酔。 

 死のうという気持ちはすっと治まる。

「じゃあ、学校へ行ってきます」

 恍惚とした私へ暖かい眼差しを投げると、明彦くんは部屋から出て行ってしまった。

 暫くベッドの上でぼうっとする。

明彦くんが玄関から出て行く音を最後に、家の中からは音がなくなった。

 静かだ。通りの朝の喧騒がはっきりと聞こえる。

 リビングで、車の通る音やら女学生の笑い声やらを聞きながら朝ごはんを食べた。何故か朝ごはんは血の味がするような気がして不味かった。

 

 

 死にたいな、死んでみてもいいかな、なんてことを人は誰しも思う。

そう、絶望に打ちひしがれる人間はもちろん、毎日をそれなりの充実感を持って過ごしている人間も、自らの幸福に酔い痴れている人間も。

 駅のホームで電車を待ちながら、我が身を線路上に投げ出す妄想をしない人間などはいない。

ビルの屋上から遠景を眺めながら、安全柵の向こう側に身を躍らせる空想をしない人間などいない。

ふとした時に頭をよぎる、死という言葉。大なり小なり、人は自分の死に魅力を感じるようにできている。

何故かという理由はない。そういうものなのだ。自殺因子などというものもあるらしいし、生物が生物として存在する上でそれは必要なものなのだろう。

だから時折死にたいと考えることなど、特別なことではない。

誰もが持つ、極めて自然な感情だ。死について考えを巡らす時間は多すぎると不健康なのはいうまでもないが、少なすぎても良くないに違いない。

人は何かちょっとしたきっかけで、自分で自分の命を絶つことを少しだけ考える。そしてすぐに忘れる。それが自然な姿なのだ。

 だが世の中には心の底から死を望む人間もいる。

死を望みながら生きているという、矛盾した人間もいる。

苦痛ある生より逃れ、死という安息を得たいと思いながらだらだらと生きる彼らに足りないのはきっかけだ。

 朝方の駅。人々のざわめき。鳴り止まぬ足音。女学生の甲高いお喋り。

 そんな中、僕は仏頂面で黙々と歩く。

 いつものホームで、電車を並んで待つ人々の後尾に加わる。

 暫く本を読みながら並んでいると、アナウンスが電車の到着を告げた。

僕が文庫本を一旦しまうために鞄に手をやると、腕が私の後ろに並ぶ女のわき腹に当たった。「すいません」と言って女に謝意を示すと、女は「いえ」とだけ返事をしてそれに応じた。

 それから僕は僕の力でその女に一言だけ声をかけた。女は僕の目を見ながら、にい、と唇の端を引いて笑って、僕のメッセージに対しての返事をする。

 女はその不自然な笑顔のままふらふらと列からはみ出ると線路内に身体を躍らせた。

駅にいる人々は皆同じように一瞬呆気に取られた後、ある者は意味のない悲鳴をあげ、ある者は女に対して大声で警告を送り、ある者は目を覆った。

 肉が圧倒的な重量の鉄の塊に潰される音の後は刹那の静寂。そしてお祭り騒ぎが始まり、日常の朝を彩る非日常というイベントに人々は酔い痴れ始めた。

 やがて電車の下からは輝く光の粒のようなものが立ち昇り始める。

断末魔のエネルギーというか、ローソクが燃え尽きる寸前に見せる輝きというか、そんなものがきらきらと、陽光を受けて輝くガラス片のように中空で明滅している。漂うそれらはやがて指向性を持って動き出し、やがて僕へまとわり付くように集まり始めた。

手のひらをかざすと、それらはするりするりと僕の体内に入り込んでいく。全ての光の粒を回収し終えてから僕はその場を立ち去った。

 死という概念の、生肉を思わせる触感と妙な感じの生暖かさがずっと手のひらに残った。

 

 

「死にたいならば死んでもいいんだよ」

 先ほどの女にかけた言葉だ。

 僕の唇から発する言葉は、何か人を狂わせる力がある。

 僕が人に投げる特定の意味をもった言葉は人の表層意識を突き抜け、一気に深層意識にまで浸透するのだ。

 この力は両親を事故で亡くしてから段々と備わっていった。

まず人に死にたい気持ちがわかり、次にその度合いがわかるようになり、そしてどういうキーワードを発せばその人物が死への行動を起こすのかがわかるようになり、最後には死の概念を目視できるようになった。

 時々この力は何なのだろうと思うことはあるが、肝心なのは僕にその力が備わっているというその一事だけだ。

 僕の力の影響で人が死ぬ事に罪悪感は覚えない。

僕のこの力には人を殺すほどの力がないと言い換えてもいい。

先ほどの女も、別にぼくが無理に殺したわけではない。女との短い接触で、死にたいという願いを感じ取ったので、背中を軽く押してあげただけだ。

 死にたくても最後の一歩を踏み出せない人間は世に溢れている。世も末だなあ、と思う。

  

*

 

 その夜、僕の身体の下で嬌声をあげ、ひとしきりのことを終えたアヤメさんと布団に潜り込んだ。

アヤメはさんは僕の手のひらに頬を撫でられると恍惚の顔でそれに応えた。安心しきった顔。

「今日はとても気分がいいの」

 そうですか、それは良かった、と軽く聞き流す。

 今朝のようなパニック状態に陥ることはしばらくないだろう。まあ程度の差はあれ、寝起きの悪さは変わらないだろうとは思うが。

 アヤメさんにとって、死は惹かれるのではなく引かれるものなのだそうだ。いつか本人が言っていた。死に向かって引きずられるという感覚は陰鬱なものに違いない。

 伯父さんが家を出ていってから慢性的に眠りの浅いアヤメさんが今はぐっすりと眠っている。理屈はわからないが、死を回収した僕から死を流し込まれることで、アヤメさんは自身の死への願望を抑制することができるようだ。

 僕の力がだんだんと進化していき、死という『モノ』に触れられるようになったのは一昨年のことだ。

そしてそれに触れられるようになってからしばらくすると、僕が望めば、それを身体の中に貯蔵することができ、肌と肌を合わせれば他人に死を流し込むことができるというのもなんとなくわかった。

機械に強い人間は説明書など読まなくても、感覚だけで新しい機械をなんとなく扱っていきながら、徐々にその効率的な運用方法を構築していけるらしいが、それに似ているような気がする。

そして僕はアヤメさんに溜め込んだ死を流し込んでみよう、流し込めばいいに違いないと漠然と思い、ある日実行に移した。

そしてその行為はアヤメさんの精神に平穏をもたらすようだという、自分の形而上の奇妙な力を元にした仮説ともいえない推論を検証するため何度も同じことを繰り返した結果、それは確信に至った。

死を流し込むことがアヤメさんの昂りを鎮めることに繋がるのであれば、死を採取することはアヤメさんのためにもなる。

 それが明らかになった時、僕は積極的に人の死を蒐集しようと思った。

自殺の最後の一押しをしてくれ機会は掃いて捨てる程転がっている。

彼らのうちの大多数は誰かが殺さなくてもいずれ死ぬのだ。ためらう理由などない。どうせなくなるものなのだから、僕に使わせてもらう。どこに罪悪感を抱く必要があるだろうか。

アヤメさんが寝ついてから、渇いた喉を潤すためリビングに行って水を飲んだ。

何の気なしにつけたテレビではキャスターが抑揚のない口調でニュースを読み上げていた。

 毒ガス騒ぎがありました。人が死にました。

 それでは次のニュースです。

 芸能人が離婚しました。とても残念ですね。

 それでは次のニュースです。

 飛行機が落ちました。人がたくさん死にました。

 それでは次のニュースです。

 政治家が漢字を読み間違えました。とてもけしからんことですね。

 それでは次のニュースです。

 外国で大きな地震が起きました。人がたくさんたくさん死にました。

 それでは次のニュースです。

 動物園でパンダの赤ちゃんが生まれました。とてもおめでたいですね。

 ニュースは死も戯言も等価値に弄ぶ。

当然だろう。誰が死のうが生きようが、基本的には関係ないのだ。そこに価値の差異はない。

 自分に影響がなければ他人の命など無価値なのだから。

 外国でテロがあっても自国民が死ななければ関係ない。

 他府県で大火災が起こっても友人が死ななければ関係ない。

 近所で乱射事件が起こっても家族が死ななければ関係ない。

 つまるところそういうこと。

 基本的に人が傷ついても自分は痛くない。人が死んでも自分は死なない。だが自分に近い人間が傷つけば、自分に近い人間が死ねば、自分も傷つく。

 『近い』という距離がどれほどのものかは人それぞれ差異があるだろう。

 僕にとってアヤメさんは自分に重なるほどに近く、それ以外は億万光年の彼方にいる存在だ。

 だから倫理観も罪悪感も僕にはない。

他者に興味がなければ他者がどうなろうとも気にしなくて済む。他者が傷ついても僕とアヤメさんは痛くない。他者が死んでも僕とアヤメさんは生きている。その事実があれば十分だ。

 

 

 私は一人でいる。

 薄暗い部屋でただ一人座っている。

 片手にカッターナイフを持ちながら、冷たいフローリングの床で一人。たった一人で。

 いつものように自分を傷つけている。

 悪い血は、出て行け。

 血が溢れる。腕を伝い、肘の先からぽたりぽたり滴り落ちる。私はそれを見ながら気だるくため息をついた。脱力感のようなものが身を包む。

「ふふ……」

 私はぼんやりと立ち上がり、ソファーに倒れこんで意味もなく笑い声を上げた。

 けらけらけら。けらけらけら。

 当たり前だが本当に死にたいわけじゃない。死にたいのならばとっくの昔に死んでいる。

 火に水に車に縄に刃に薬。日常は死に満ち溢れているのだから。

私が自分を傷つけるのはパパのため。パパが私を段々と嫌いになっていったのはこの血のせい。パパが帰ってこないのはこの血のせい。この血が悪いから。血を出せば――身体から悪いものを出せばパパはきっと私の元へ帰ってくる筈。

 だから、悪い血は出て行け。身体から出て行け。血。血。血。血。全て血が悪いのだ。

 手首からはまだ血がたらたらと染み出している。私はそれをぺろりと舐めた。

 完全に血を舐めとると消毒液を脱脂綿につけて傷口に当てた。ぞくりと手首に電流が走る。それからガーゼを当ててテープで止めた。

 ふ、と息を吐く。なんだかひどく疲れた。

 ソファーに倒れこんでいると自然に眠気が増してくる。

 そして、私はゆっくりと緩慢に眠りに落ちた。

 

 

 夢。

 夢を見ている。

 あの時の夢。

 

 パパが私にママが死んだ状況と明彦くんを引き取る理由を説明している。

 明彦くんの一家三人と私のママが一緒に買い物に行って、居眠り運転のトラックが対向車線から突っ込んできたらしい。

それで生き残ったのは明彦くんだけで、一番近しい親族が私たちだから引き取ってあげなきゃかわいそうだ。そういった意味のことを延々とパパは言う。

パパとの二人きりの生活というのに憧れていた私は、嫌がったのだが押し切られてしまった。

 夢の場面が変わる。

 ママが死んだことを聞いたその日の夜、私はパパの部屋に行ったときのことだ。

「ねえ、パパ。心細くて眠れないの。一緒に寝てくれる?」

「ああ、いいよ。おいで」

 ベッドに入ってから暫くして私は呟いた。

「パパ――」

「なんだい?」

 そしてパパに無言で抱きついた。

 パパは私がいつの間にかベッドの中で一糸纏わぬ姿になっていた事に気づき、私が絡めた手を振りほどいた。

「どうして……?」

「馬鹿なことをやっていないでさっさと服を着なさい」

 パパは怒ったように言った。

「そんな……。私はママもパパも好きだったからずっとずっと我慢してたのよ。ねえ、抱いてよ。抱いて。抱いて。私をママみたいに抱いてよ。ママがいなくなったんだから良いじゃない。私の事最近ママに良く似てきたって言ってたでしょう。ねえ、抱いてよ」

 私の勢いに気圧されたのか、金縛りにあったように動かなくなったパパ。

「やめなさい……」

 パパの弱々しい言葉に耳を傾けず、私はパパの体を貪った。最初は弱々しく抵抗をしていたパパも、やがてパパも私の愛情に応えてくれた。

 一通りのことを終えた後のパパの目には恐怖の色が浮かべられていたのを覚えている。

 明彦くんは私との緩衝帯のつもりだったのかもしれない。最近私からパパが離れていくようになって、そんなことを思うようになってきた。

 明彦くんのことを最初はそのような役割だとパパが見なしていたにしても、私が想いを伝えた直後にパパが見せた恐怖の色は日を追うごとにどんどん色褪せ、パパはママに似ている私を欲し、私はその欲されているという充足感を欲した。

自分が代わりの人形だとは判っていたけれど、私のパパに対する想いには微塵の陰りもなかった。

明彦くんがその期待された役割を果たすことはなかったのだ。それなのに、今では私は明彦くんなしでは生きていけなくなっている。少し悔しい。

 

 

「また切ったんですか?」

  苛立つ明彦くんにへらへらとした笑みを返す。

 最近はどうも憂鬱だ。自分を傷つけることは僅かながらにその負の感情を紛らわすことができる。

死のうとは思わない。死のうとは思わないが、弱々しい希死観念が私を薄い皮膜のように包んでいた。それは身動きすればすぐ剥がれてしまうようなものではあるけれど。

 パパがいて明彦くんがいて、歪ながらにバランスが取れていた毎日。それが崩れてもう数ヶ月。もう冬も半ばを過ぎた。

 日が出ている間はやることもあるし、まあ気も紛れる。

けれども夜はダメだ。眠れれば楽なんだろうが、もう誘眠剤もほとんど効かない。あまりきついのを使えば翌日がつらいし、どうにも仕方がない。

「明彦くんの帰りが遅かったから」

 もう夜の十時。アルバイトを頑張ってる明彦くんに対して悪いなと思いながらも憎まれ口が出る。

 私がお金を使う機会はあまりないが、それなりに収入はある。明彦くんがアルバイトなんてしなくても二人の生活費とデート代くらいは十分にあるわけだ。

 けれども明彦くんは、デート代は男が出さなければならないとか、いくらかは家にお金をいれなきゃいけないとかなんとかで、アルバイトに時間を割く。

嬉しくないわけでもないし、気持ちはわかるが、そんなことをする暇があるなら傍にいて欲しいと願うのはいけないことなのだろうか。

「少し、長引きました」

 嗜虐心をそそる明彦くんの顔。

「いいのよ別に。好きにすれば。私も好きにするから」

 明彦くんはナイフを握る私の手を優しく掴む。

「お願いだから、やめてください」

 明彦くんから流れ込んでくるのは脳髄が溶け出しそうな安息。五体全てが液状化しそうな安心感。

「……うん」

 力ずくで抑えつけられて悦びを与えられている時のような、被虐の快楽に少し似たものを感じながら私はうなずいた。

 

 

 しばらく前に社宅を借りて家を出て行った伯父から電話があった。

実印やら普段使っていない預金通帳なんかを持ってきて欲しいとのことだった。あとは衣類なんかも。

一時的ではあるが、生活の拠点を完全に移すということだそうだ。

 僕は基本的にアヤメさん以外の人間に価値を見出さないが、伯父さんだけは唯一の例外に入るだろう。伯父さんのことは少なくとも家族であるとは思っている。

 親を亡くした時に引き取ってくれたことは感謝しているし、それなりの愛情を与えてくれたとも感じている。

僕は一般的尺度からすると、まあ健全ではない育ち方をしているようだが、少なくとも選択肢はあった。

アヤメさんのことなど気にせずに真っ当に生きる道もあったのに、アヤメさんのことだけを気にして生きる道を選んだのは自分だ。

 伯父さんは多分アヤメさんが自身のことを恋慕していることを知っていたはずだ。

その歪んだ愛情から目をそむけることができない自分に気づいた伯父さんが、その愛情の避雷針として僕を活用しようとしていた節もあるとは思う。

 でもそんなことがなくても伯父さんは僕のことを引き取り、同じように遇してくれていたであろうということはわかる。優しい人なのだ。

 だから伯父さんのことは嫌いではない。

 とはいえ、もちろん僕にとって至上の存在であるアヤメさんの価値と比べられるほどの存在ではないのもたしかだ。

 アヤメさんにとって伯父さんは様々な意味で大事な存在だ。当然僕よりも。

それがアヤメさんの目の前から完全に消えてしまうのだから、アヤメさんは悲しむだろう。

 それを容認すべきかせざるべきかを寸時考えた。しかし伯父さんがアヤメさんの気持ちを受け止めることはもうない。

僕が大学生活に慣れてきたのを見計らってわざわざ引越しまでしたのもその意思の表れだろう。

ずるずると続いていた実の娘との関係に終止符を打つ気になったのだ。

 だとすればアヤメさんの恋が実ることは未来永劫ありえない。

つまるところ、伯父さんの存在はアヤメさんの心をかき乱す存在以外の何者でもないわけだ。結論は決まっている。

 

 

 僕が用意を整え、家を出ようとする時に、自分の部屋で眠っていたと思っていたアヤメさんが僕の前に現れた。

「何処へ行くの?そんな大荷物持って」

 持っていたスポーツバックを取り落としそうになった、

「いや、ちょっと――」

「さっきの電話、パパからでしょ」

 どうも僕が電話を受けているところを立ち聞きしていたらしい。会話の応酬から内容を大体把握したのだろう。電話の内容をある程度推測しながら僕の行動を止めなかったのは、僕が伯父さんの言いつけを守るつもりなのかを確かめたかったのだと思う。

アヤメさんは無表情に僕との距離を詰めた。

「それが頼まれたもの?」

「え、ええ。まあそうです」

 アヤメさんは僕からスポーツバッグを取り上げると、その中身を探った。

「明彦くんは私の味方じゃないの?」

「――味方ですよ。味方に決まってるじゃないですか」

「じゃあ何で私の嫌がることをするの」

「仕方ないじゃないですか、伯父さんがそうしてくれって言ってるんですから」

 僕の言葉が終わるとほぼ同時にパン、と音がした。アヤメさんはいきなり僕の横っ面を叩いたのだ。痛みはあまりなかったが、少し驚いた。

「アヤメさんにとってこれが一番いいと思ったんです」

「嘘つき」

「伯父さんはアヤメさんから離れようとしています。僕がどうこうしたってそれは変わりませんよ」

 僕の言葉にアヤメさんの身体はひどく震えた。

「……わかってるわよ。それくらい」

 か細い声。

「すいません、とりあえず僕はこれを持って行きますね」

「勝手になさい」

 スポーツバッグを再び持つと眼前のアヤメさんの身体を避けて玄関に向かう。

アヤメさんまったくの無反応だった。

 僕は自分に言い聞かせる。自分は間違っていない。これでいいのだ、と。

 

 

 指定された場所に荷物を持って行く。伯父さんの会社のある駅だ。駅前の広場にある噴水。よく待ち合わせに使われる場所だ。

日曜日の夕方だというせいか、いつもより人が多い。

 ルビーの輝きに似た光に、葉が落ちた冬の木は紅染められている。柔らかで、冷たく、そして優しい寒風に、梢は揺れる。

暗闇や月や星は僕らを労わってくれる。それらをもたらす前兆である斜陽は何よりも優しい存在に思えた。

 僕は傍に柱に持たれかかり、うっとりと目を閉じた。夕暮れ刻。

世界が全て紅く染まる。紅く、紅く、紅く。冬の終わりの夕日はとても紅い。まるで――血の色。

僕は血が降り注ぐ中、広場で一人佇んでいた。血が頭に、体に、手に、足に、身体中に降り注ぐ。血塗れの夕暮れ。

生暖かい夕日と季節相応の寒風とは、アヤメさんを連想させられる。

――ああ、心地良い

 アヤメさんに包まれているかのような恍惚とした感覚が頭から湧き出てくる。

三魂に、四肢に、五臓に、六腑に、七魄に、体中の隅々に、皮膚を通して血の夕焼けが浸透する。体中に張り巡らされた血管から血管へ、皮膚から吸収されたアヤメさんが駆け巡る。頭がぼうっとし、身体が熱くなる。

「やあ、明彦君」

 声が聞こえた

うっすらと目を開ける。目の前には長身痩躯で目つきの鋭い男の姿があった。

「ああ、伯父さん」

 夕日の抱擁感は消え去った。

「これ、頼まれてたものです」

 足元に置いているスポーツバッグを指差す。

「有難う。わざわざすまんね」

「別に構いませんよ」

「どうも君には苦労をかけるね、私は」

 伯父は煙草に火を付け、それを咥えながら苦笑した。僕は曖昧な笑顔を返す。

 暫く黙ってから不意に伯父は大きく息を吐いた。煙がぷかりと浮かんで消えた。

「暫くしてから私の口でアヤメに、もう元のようには戻らないと伝えるよ」

「――そうですか。悲しみますよ、アヤメさん」

 元には戻らない、と伯父は言った。そのうち家に帰りこそすれ、もう元のような関係には戻らない、ということか。

「仕方あるまい。でも君も最近はようやくアヤメにとって大きな存在になってきたみたいだしね。私がいなくなった穴は上手く埋まるだろう」

「どれくらい時間が経てば戻ってくるんですか?」

「さあ、ちょっとわからないね。本当に今は仕事の方も忙しくてね。それが一段落ついたら考えるよ。その時にはもうアヤメの心は君のものになっているだろうし」

 僕がアヤメさんを好いているのは確かだし、アヤメさんも僕を多少は好いているとは思うが、そんなに上手くいくとは思えない。

あのアヤメさんの感情がそう簡単に消えるものなのだろうか。

「まあなんとかなるさ」

 伯父が僕の考えを見透かしたように言った。

 実の娘と関係を結んだ伯父。この人も歪んでいる。いや、歪んでいるとわかっているからこそ、その歪みを元に戻そうとしているのか。

「何故僕がアヤメさんを好いていると確信できるのですか?もしかしたら別に好きな人がいるかもしれませんよ?」

「君はアヤメを好いているよ。見ていればわかるさ。これでも君の父親役を10年以上してきたんだから」

 伯父は冗談めかしてそう言うと携帯灰皿を取り出して煙草をもみ消した。

 わかっている。伯父さんはそこまで情に薄くはない。きっと考えに考えた末の決断だろう。

伯父さんなりにアヤメさんを、実の娘のアヤメさんを女性として愛したことを僕は知っている。今まで生活を共にしてきたのだから、それはよく知っている。

 それだけに、伯父さんの決心は固いのだということもわかった。 

「ああ、悪いがあまり長話をしている時間もないんだ。せっかく足を伸ばしてもらったのに愛想がなくて悪いが、私はそろそろ会社に戻るよ。何かあれば電話してくれ」

「はい、伯父さんも何か足りないものでもあれば電話してください。また時間のある時に持ってきますから」

「悪いね。それじゃ、また」

 伯父は僕に背中を向けて人ごみの中に紛れていった。

 辺りを染める茜色は少し黒に濁り始めた。ただ辺りは従容と暮れてゆく。

 

 

 アヤメさんに死を補給する回数が増え、間隔は短くなってきた。

 僕は三日に一回くらいの頻度でアヤメさんと同衾する。

 だが、アヤメさんは僕と一緒に寝た後、朝に少し泣くようになった。痛いのだろうか、悲しいのだろうか、寂しいのだろうか、苦しいのだろうか。何を聞いても、アヤメさんは何も答えずに首を振って泣き続ける。

 そして泣いた後はいつも一人になりたがる。

「あなたは代わりなのよ」

 アヤメさんは時々ぽつりと僕にこう漏らす。

「わかっていますよ」

 僕は肩を震わせて泣いているアヤメさんの豊かな黒髪をそっと撫でて、妖精の涙は宝石になる、という昔話を脈絡なく思い出しながらそう答えた。

 愛しいアヤメさん。僕の大好きなアヤメさん。弱くて儚くて、まるで繊細なガラス細工のように綺麗なアヤメさん。

 ガラス細工は簡単に壊れやすいからこそ美しい、と誰かが言った。簡単にその美しさが失われるからこそ美しいのだ、と。精巧なガラス細工はたしかに美しく、壊れやすい。

しかし、壊れてもなおその美しさは損なわれず、別個の美しさを放つことだろうと僕は思う。

 アヤメさんが壊れたところを見てみたいと思わなくもない。ふとそんな考えが頭をよぎる。

 そんな愚かな思考を振り払う為、泣いているアヤメさんをきつく抱きしめた。

 

 

 駅なんかに飾られているモニュメントは変わった形で大きなものが多い。そのデザインが奇抜であるほど、それが巨大であるほど、接合部に行く負担は大きくなる。

 恋愛は前衛的なモニュメントに似ている。そのモニュメントが作品として成り立つかどうかは、デザインと大きさの兼ね合いだ。

普通とは違う形にするならば小さなものにしなければならないし、デザインもなにもないただの箱のような形であればいくらでも大きくできる。

 私の恋愛の形状は歪なもので、想いは巨大だった。作品として成立するはずがない。

歪であるから負担が偏り、巨大であるからその負荷に耐え切れず、接合部を起点として音を立ててガラガラと崩れていった。

 カレンダーに目をやり、パパが出て行ってからどれだけ経ったかを数えて、ため息をつく。

 不安と焦燥が恐怖を生成する。生成された恐怖は悪い血を生み出す。

 小さな蜘蛛が全身を這い回っているような痛痒が私を苛む。

――だから血を抜かなくちゃ

 もうこの間から何度も何度も繰り返している行為を、もう一度繰り返そうとした時、

――プルルルルル……

 不意の電話の音が響いた。私は慌てて電話機の方へ向かう。ディスプレイに表示されているナンバーは、パパの携帯電話のナンバー。受話器を持つ手が震えた。

「はい」

「やあ……アヤメか」

 久しぶりに聞くパパの声は少しかすれていた。

 私にとって、以前パパと相思相愛の状態でいたという事は、シャングリラにいたという事。桃源郷にいたという事。華胥氏の世界にいたという事。

 それは理想の世界。だが、その理想の世界は消えてしまった。それが消えてしまうものだったのならば、いっそ相思相愛の甘さなど知らなければ良かった、と思う。理想郷を見た事がなければ、それに憧れる事なんてなかっただろう。

 だが、私はその甘い世界を知ってしまった。だから、私はパパを諦める事など出来ない。

 私はどうしようもなくパパが好きなのだ。

 

 

 本を読むでもなく、テレビを見るでもなく、ただ虚ろにソファーに座っていたら物音がした。

「あら、明彦くん。おかえり」

「ただいま」

 明彦くんは挨拶に応えながらも、私の顔を見て何かがあったと感づいたらしい。少し狼狽気味だ。

「今ね。パパから電話があったのよ」

 笑ってしまう。受話器を通して聞いたのは謝罪の言葉、別離の言葉。

パパは私が望んでも二度と私を抱くことはないだろう。

 パパにとって私との関係は、面と向かって話をする必要すらなく、電話一本で解消できる程度の関係だったらしい。

「何を言っているのかしらね。あの人。私とのことは『全部間違いだった』とかなんとか言っていたわ」

「――そう、ですか」

「明彦くん。嬉しい?嬉しいでしょ?嬉しいわよね?」

 気だるいが乾いた笑い声だけは出てくる。

「何故ですか?」

「私のこと好きなんでしょ、明彦くん。なら私が捨てられて嬉しいでしょう?」

「嬉しくはないですよ。だってアヤメさんが悲しそうですから」

「嘘ばっかり」

「本当です」

 背を向けて寝室に向かおうとするが、その肩を明彦くんは優しくおさえた。

「離しなさい」

 不快ではなかった。でも拒絶した。パパがダメだったから次は明彦くんという気分にはなれない。少なくともすぐには。

 明彦くんは私の心中を知ってか知らずか追いかけてこなかった。 

 寝室に入ってひたすら泣く。はらはら。はらはら。涙が落ちる。

 

 

 いつの間にか家から物音がしなくなった。

明彦くんは自分の部屋にこもって学校の課題でもやっているのだろう。

私は一人になった。不安の波がどんどん押し寄せてくる。明彦くんに冷たくしなければ良かった、と思ったが、今更どうにもならない。

 明彦くんがいなければ、私の暗澹とした気持ちを慰めるものは何もない。ひたすらにパパのことだけを考えてしまう。

 パパは私から離れてしまった。あれだけ好きといってくれたのに。ママの代わりの人形でも良かったのに。

 いつから私はパパの心の中で疎んじられていたのだろうか。私はいつでもこんなに想っているというのに。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 パパは何故私の事を嫌いになったのだろうか。

やはり私が毎日毎日毎日毎日手首を切っている事や、睡眠薬やら抗鬱剤を複数の病院に通って溜め込んでいるのが嫌になったのだろうか。

それもこれも、パパが私に冷たくしたせいなのに。

 私の存在理由は物心ついた時からパパだけだったのに。

 存在理由を何処に見出せば良いのだろうか。

 

――いっそ死んでみようか

 

 電車にでも飛び込もうか。

 全身の骨が粉々になって脳味噌は飛び出し服が車輪に挟まれて引きずられながら何回も何回も何回も何回も体の各部位が切断されるのだ。

書置きを残して、私は線路に横たわる。そこに電車がやってくる。

手足は勿論、首や腹、胸でもレールに乗っている部分が切断される。ばらばらになる。

臓器や血や肉や骨が織り成す世界。考えただけで快感が身体を走る。

 服や髪が車両に巻き込まれるのもいい。体は車両に引きずられて、次々と何回も車輪に体の各部位を切断されて、バラバラになった肉や臓器の断片が散らばる。

数百メートル続く肉片が創る道を見て、パパは泣きながら後悔するのだ。

 

 それとも何も言わずに田舎に行って首でも吊ろうか。

 舗装されていない道で、両脇には鬱々とした森が広がっている。そんな場所で私は一人書置きを残して首を吊ろう。

手足の先から皮膚が紫色に変化していく。紫色は徐々に全身に広がり、腐臭を発し始めた死体は、次第に肉がぐずぐずに、ぶよぶよになっていく。

肉の色は紫色に黒を混ぜたような色になって、雨が降っても風が吹いても、ひたすらにただぶらぶらと体は揺れて、そのうち腐った体の重みに耐えかねて、首と背骨だけを残して体はどさりと落ちる。

焼き魚の小骨を奇麗に取って、頭と背骨だけにしたような形になる。

そして書置きと腐れ果てた私を見て、、パパは連絡を受けて泣きながら後悔するのだ。

 

 それとも灯油でも被って焼身しようか。

 できれば人の多いところが良い。私は頭から灯油をざばざばざばざばざばざば浴びて、マッチで火をつけるのだ。

ぼぼう、と音がして火柱が立つ。周囲に肉の焼ける悪臭を撒き散らしながら、私は炎の中で灼熱感と激痛に包まれ、パパへの想いを叫ぼう。

そして、病院に運ばれ、肌の表面が真っ黒に炭化していたり、水泡ができていたり、皮膚がはじけて赤い肉が覗いていたり、目が白く濁っていたり、舌を突き出したりしている私を見て、パパは泣きながら後悔するのだ。

 

 それとも――。

 暗鬱なアイディアはにこんこんと湧き出てやまないが、とりあえず私は手っ取り早い方法をとることにした。

 ふらふらとソファーから降りて自分の部屋へと向かう。

隠してある薬箱を出して、そこから蒐集していた薬を取り出し、リビングに戻って、オレンジジュースで中に入っている薬を飲み始める。

 プチプチプチプチプチ…………………………………

 どれだけ飲んだだろうか。お腹が一杯だ。

 なんとなく飲んだ薬を数えてみるが、途中でよく判らなくなった。

 リビングのソファーに座って曖昧とした意識を虚空に向ける。

 虚脱感が私を蝕んでいっている。

――眩しい。

 窓から漏れる夕陽に私は目を細くした。カーテンを閉めに行くのも億劫だったから、そのまま目を細めながら太陽を見続けた。

太陽はどろりと溶けて、円をぐにゃぐにゃと崩した形になっていた。薬のゴミの銀色が陽光を反射して鈍く光っている。

――パパが悪いのだ。

――後悔すれば良い。

 陰鬱な部屋で陰鬱な夕陽を浴びていると、だんだんと脳髄が痺れて何もかもがわからなくなってきた。

 意識が遠のく。意識が消える。

 

 

 しばらく読みかけの本を読んでいたが、どうも集中できない。

 アヤメさんの様子を思い出し、眉間に皺を寄せる。

あの時は僕が傍にいたところで、激昂させるだけだっただろう。

僕がアヤメさんに何もしてあげられない以上、こうして時間を潰さざるを得ない。

 とはいえ、少し前には何やら階段を上り下りするような音もしたし、最悪な状態は脱しているはずだ。

アヤメさんが本当に憂鬱な時はうろうろと動き回ったりせず、ただただ膝を抱えてじっとしているということを僕は知っている。

そろそろ様子を見に行ってもいい頃だろう。

 部屋を出る前に先ほど払われた右手を左手で軽く擦って嘆息する。アヤメさんに会うのが少し怖かった。

 しかしいつまでも佇んでいるわけにも行かない。

僕は胸に広がっている暗澹とした靄を無理やりに振り払うと、自分の部屋を出てリビングへ向かう。

 アヤメさんはソファーで横になっていた。ぴくりとも動かない。その周りには濁った血の色をした日の光を反射して光っている銀色の残骸。

 アヤメさんをゆらゆらと揺り動かす。

動かない。意識もない。

 不思議に落ち着いた気分で僕は電話に向かった。

意識が無い事と多量の睡眠薬らしき包み紙が散乱している事を告げると、その包み紙を集めておき、到着を待つ事を指示された。

応急処置らしいことはできないのかと聞くと、意識がないならやめておくようにと言われた。

 仕方がないので、僕は昏倒しているアヤメさんの隣に座り、手を絡ませて救急車の到着を待っていた。

 窓から差し込む西日が眩しい。

何故か目を背ける気にもならなかったので、僕は目を細めてその血のような夕日を見ていた。

そして、夕陽を反射して光る銀色を見ていた。

墓標のように散在し、存在感を放っている銀色の塊を見ていると何か可笑しくなってきた。

片手で顔を覆いながら、笑う。哂う。嘲笑う。

 この時まで、僕はアヤメさんと過ごす時間はいつまでも続くものだと思っていたのだ。

それはこの世に空気が存在するのと同じ意味で、僕が生きるということはアヤメさんが生きるということと同義だと思っていた。

 涙を流しながら、何が可笑しいのか、僕は笑う。

 少しの間笑い続け、我に返ってから玄関まで行ってドアを開けて救急車が来るのを待つ。

 何も考える気にならなかった。

 

 

 夢を見た。

 私が作った料理を二人が食べる。

 ぱくぱくぱくぱくぱく。ぱくぱくぱくぱくぱく。

 一生懸命二人は食べる。その様子を見て私はくすり、と笑う。

 ぱくぱくぱくぱくぱく。ぱくぱくぱくぱくぱく。

 美味しい美味しいと言って二人は私の作った料理を食べている。

――ちゃんとゆっくり食べなさいな、ご飯は逃げないんだから。

 ぱくぱくぱくぱくぱく。ぱくぱくぱくぱくぱく。

「いや、美味しいね。本当に料理が上手だよ、アヤメは」

 パパは手を止めるとそんなことを言った。

「ママよりも?」

 私の言葉でパパも明彦くんも動きを止めた。

「え、あ……、どちらも美味しいよ」

 パパは馬鹿みたいに狼狽した。ママの話題を出すとパパは馬鹿みたいにうろたえる。パパは好きだけどうろたえるパパは馬鹿みたいだから嫌い。

 馬鹿みたい。

「あ、そう」

 私がそっけなく不機嫌に答えると、パパも明彦くんも何を勘違いしたのか、急に押し黙って申し訳なさそうな顔をした。私がママよりも料理の腕が上なのだということを認めて欲しかったとでも思ったのだろうか。

 ママと私の料理の腕の差なんて別にどうでも良いことなのだ。私はパパに私だけを見て欲しいだけ。パパがママのことを未だに思い出したりすることを再確認して不愉快になっただけ。なんでパパは私だけを見てくれないのだろう。なんで――。

――馬鹿みたい

「ふふ」

 笑みが零れた。それをどう解釈したのか、二人はまた笑顔に戻った。

 ぱくぱくぱくぱくぱくぱく。

 あの頃の夢。私と明彦くんとパパとが仲良く暮らしていたときの夢。

 目が覚めて、私はまた笑った。

 

 

 薬を飲んでから割合すぐに明彦くんに発見されたみたいで、私は一日入院しただけで退院になった。

 夜中にパパがちょっとだけ見舞いに来たとかいう話を明彦くんから聞いた。本当なのかどうかわからないが、本当だとしてもなんだかむなしかった。

 あの時はたしかに私は死を意識した。いつものごっこ遊びとは違う、本当の死を意識した。

けれども積極的に死を望んだわけでないのもまた事実。死んでもいいかな、程度の認識だったように思う。

 本当に死のうと思ったのならもう少しやり方があったはずだ。

薬は錠剤のまま飲んだりせず砕いてジュースか何かにでも溶かして飲めばよかったのだし、何より明彦くんが家にいない時を見計らってやれば良かったのだ。

仮に家にいたとしても自分の部屋でやれば明彦くんもしばらくの間は気がつかなかったに違いない。何故わざわざリビングなんかで。

 結局のところ、私は生きたくもなければ死にたくもなかったのだろう。

私は生きながらにして死んでいる。死にながらにして生きている。

 退院のときは身体がふらふらして歩きづらかった。

 タクシーを待っているとき、明彦くんにもたれかかると、明彦くんは悲しそうな困ったような妙な顔をして私の体重を受け入れてくれた。

気持ち良かった。明彦くんの感触は心地良い。

 

 

 帰ってきてからずっとソファーに身を沈めて、目を瞑っているアヤメさんの前に立つと、口を開いた。

「何であんなことしたんですか?」

 語気を少し荒くし、軽くアヤメさんを睨む。

「パパを心配させようと思って」

 アヤメさんはうっすらと眼を開けた。

「あの人のことは僕よりも知っているでしょう?そんな事で伯父さんの気持ちが戻るとでも思ったんですか?」

「わかってるわよ」

 アヤメさんの語気も少し荒い。

「心配する僕の身にもなってください」

「心配……してるの?」

「ええ」

「そう」

 突然アヤメさんは立ち上がって僕に顔を近づけた。感情を感じさせない目からは妖しい光、奇麗な唇の隙間からは艶やかな紅い舌先が見え隠れした。

「ねえ」

 アヤメさんはその骨まで透き通って見えるような白くしなやかな腕で僕の腕をひっぱりながら僕の方に倒れこんだ。アヤメさんの身体に押されて僕はアヤメさんの身体と一緒にリビングの床に押し付けられる。

 端正な顔が、温かい胸が、しなやかな足が、僕に埋められた。アヤメさんの鼓動が伝わる。僕の胸にアヤメさんの顔が押し付けられている。

呼吸が僕の胸を熱くさせている。

暫くそのままでいるとアヤメさんは身体をずり上げ、自らの頬を僕の頬にぴたりと付け、僕の両手に手を絡みつかせた。

肌の触れ合っている部分からアヤメさんの体温が直に伝わる。

「明彦くんは私を見捨てないよね」

 頬と頬を触れ合わせ続けながらアヤメさんは言った。視界の端に移るアヤメさんの素肌は蒼までに白い。

「パパと明彦くんは違うよね」

 半ば絶叫のようなアヤメさんの声。

「もしそうじゃないなら――」

 アヤメさんは上体を起こすと、絡めていた手を解き、その手を僕の首に持って行った。両手が僕の首にかかる。

「殺すわ」

 きゅ、と力が僅かに込められた。苦しいという程の力ではない。

 僕はアヤメさんの瞳の深淵を見ていた。

どこまでも、どこまでも、どこまでも深いその暗がりを。その暗がりの底にある妖しく艶やかな光を。

「別にそれならそうで構わないの。けれど、私はもうこれ以上傷つきたくない。だから私だけを見てくれないのであれば明彦くんを殺す」

 力が徐々に強まっていく。

「これからも私の傍にいて、私のことだけを見てくれる?」

 アヤメさんの力が強まるにつれて僕の中に多幸感が広がっていった。

 徐々に徐々に徐々に力は強まっていく。アヤメさんの白く冷たい指が僕の喉に食い込む。アヤメさんの爪が僕の皮膚を僅かに破ったのがわかった。痛みが心地よい。

このまま殺されたいとさえ思う。

「ああ」

 アヤメさんに殺されるという空想は、予想以上に僕にとって魅力的で、思わず快楽の声が漏れる。その肯定とも呻きともとれる声を聞いて、アヤメさんの力が少し緩んだ。

 圧迫が緩んだおかげで、快感は薄くなり、まともな思考能力が戻る。

そして自分を恥じた。アヤメさんを遺して、自分がただ自分の快楽のために死ぬことを考えるのは、アヤメさんに対する裏切りに他ならない。

僕はアヤメさんのために生きなければならないのだから。

「私のことだけを見ていてくれる?」

 僕の曖昧な返事の真意を確認するための再度の質問。答えは決まっている。

「はい」

 今度の声は、明確な意思の表示。腕の力が完全に抜けた。

「僕はアヤメさんの傍にずっといて、アヤメさんのことだけを見ていますよ」

 アヤメさんはその言葉を聞き、自嘲とも愉悦とも安心とも取れないような曖昧な笑い声を上げた。それは少し痛々しく、禍々しく。

 言葉だけではアヤメさんの心に平穏をもたらすことができないのはわかっている。

だったら態度でそれを示していくようにしよう。

 

 

 私の平衡を崩しやすい精神は、徐々に環境に順応していった。パパの存在をまったく感じられない環境。

手を休めていた仕事もそれなりに進み始めた。

パソコンの画面を眺めてキーボードを叩くという作業はそれなりに熱中できるものだったし、要らぬことを考えずに済む。考えようによっては、仕事をすることで私は自分自身を保っていたのかもしれない。

 今日は他人と顔を合わせなければならない面倒な案件の打ち合わせがあった。

 心が疲弊していない状態であっても、私という人間の精神は、仮面を被るという行為を難なくこなせるほどの協調性は有していない。

社会に出ている誰もが日常的に仮面を被って他人と顔を合わせて就労していることが、私にはとても信じられない。そんなことを続ければ私は狂って死んでしまう。

パーソナルスペースが極端に広い私にとって、差し向かいで他人と会話するという行為自体が既に体力のいるものなのだ。

 一日を終えて、帰路につく。とても疲れている私は歩きながらなんとはなしに思う。今日は明彦くんに肩を抱いてもらって寝よう。

本当に自然に、無意識に、脳髄よりも脊髄から発せられたかのような想いの意味を自分で再確認し、心身が粟立った。

 異常も、続けば日常と変わる。パパがいないのが日常。明彦くんだけが私の傍にいるのが日常。

もちろんパパがいないのは嫌だけれど、それはそれとしたリズムが出来上がりつつあった。

それに慣れてきて、私は徐々に明彦くんへの依存の度合いを増していっている。

特にあの服薬以来、私の魂を染め上げていたパパの色が明彦くんの色に染まっていきつつあることを、どこかで厭っていない自分が何よりも恐ろしかった。 

 そんなことを考えながら駅前の繁華街を通りかかった時に目に入ったのは変哲もない、おそらく学生であろうグループだった。みんなきらきらと輝いている。

 その五六人のグループの中に、明彦くんがいた。

道路の反対側からなので詳しい様子はよくわからないが、明彦くんは同い年くらいの女の子となにやら喋っていた。

女の子が軽やかに笑っているのがわかった。

 私はあんな風には笑えない。私はうつむきながら、口元を歪め、目元を和らげて笑顔を創ろうとしてみた。顔の筋肉はぎこちなく動く。

だが、鏡を見るまでもなく、それが笑顔となど到底呼べない表情だというのがわかった。

私は笑うのがひどく苦手な女だ。快活な笑い声や、優しげな微笑みというのが浮かべられない。

 いたたまれなくなって、早足に家路を急ぐ。

 煩悶している私の前で明彦くんが笑っているのが許せなかった。

私が悲しんでいる時は明彦くんも悲しみ、私が惑っている時は明彦くんも惑っていなければならない。

 それが自然の摂理だというのに、何故。

 

 

 明彦くんは何故他の女の子と喋るの?

 明彦くんは何故他の女の子を見るの?

 明彦くんは何故他の女の子と同じ空気を吸うの?

 明彦くんは何故他の女の子と同じ空間にいることができるの?

 左腕の傷口が疼く。汚れた血が溜まってきている。

 瘡蓋を掻き毟る。早く、早く。血を外に出さなければ。

 半ば走るように家に帰って来た私は、玄関で靴を脱ぐのももどかしく、まっすぐに自分の部屋に行き、机の上のナイフを手に取った。そしてベッドに腰掛けると、自分の腕を傷つけ始める。

 ガリガリガリ。瘡蓋と肌が裂ける音。

 もっともっと。

 ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ

 肌を裂く感触が繰り返し右手に伝わる。

ふと気がつくと、左手は手首から二の腕の辺りまでが切り傷で一杯になっていた。

瘡蓋の上から更に傷がついている。滅茶苦茶だ。醜い腕。気持ち悪い腕。

 でも仕方ない。私は悪い血を外に出さなければならないのだから。悪い血を出さなければ、明彦くんまでもが私から離れてしまうかもしれないのだ。

 明彦くん。明彦くん。明彦くん。

 私以外と仲良くしては駄目。

 私以外と口を利いては駄目。

 私以外を見ては駄目。

 私以外と同じ空間に居ては駄目。

 明彦くんの手、明彦くんの足、明彦くんの目、明彦くんの鼻、明彦くんの口、明彦くんの耳、明彦くんの腹、明彦くんの胸、明彦くんの背中、明彦くんの臓器、明彦くんの言葉、明彦くんの心、明彦くんの愛情、明彦くんの命。全て私の物なのだから。

 

 さっきの女の子は笑っていた。

 

 私は立ち上がると、鏡の前に立ち、また笑顔を創ろうとしてみる。予想通り奇妙な表情が出来ただけだった。

「ふふ……」

 自嘲の笑みを漏らす。こういう笑みだけは上手くできる。

 鏡の中の自分がとても厭らしく見え、顔の部分に血だらけの手を押し付けてそれを隠す。

 鏡についた血を暫く見ていると、血がゆっくりと流れていくのがわかった。

鏡の中の世界を、紅い線が走っていく。どの雫が一番下まで進むだろう。見ていると中々楽しい。私はそれを見て、微笑を浮かべた。

 血を見れば、笑えた。我ながら妙な女だ。

明彦くんはこんな女よりも、さっきのような普通に笑えるような女の子が好きなのかもしれない。

――馬鹿みたい

 湧き出た考えをすぐに打ち消す。

明彦くんは私の物なのだから、そんな心配はしなくてもいいのだ。

心配しなくていいに決まっている。

「明彦くんは……私のものよ」

 そんな呟きと共に私はベッドに倒れこんだ。

 

 

 表と裏や表層と下層などといった言葉で人間の精神を表すことに僕は違和感を覚える。人間は多面体なのだ。サイコロと同じ。日常ではあまり日の目をみない面もあるだろうが、そんな面をたまたま見せている人間がいても、その人が自分を偽っているとか表面を繕っているなどとは、僕は思わない。

 アヤメさんと一緒にいる時の自分、独りでいる時の自分、そして他人といる時の自分。これらは全て偽りない僕だ。

 週に三回のアルバイトに従事する時の自分もまた自分であることに変わりはない。

軽口を叩いて笑顔を作る自分は別に好きでもないが嫌いでもない。

 僕は個別指導塾で講師をやっている。

 その日もいつものように僕はアルバイトに従事していた。少しいつもと違っていたのはアルバイトが終わった後だ。

 受け持ちの生徒たちのテスト期間が終わったので、駅前まで出て軽い打ち上げをしようじゃないかという話が持ち上がったのだ。

当然僕は断った。僕にはアヤメさんがいるのだから。

相手に不快感を与えない程度の断り文句を即座に練るのは僕の十八番だ。

彼らは僕の拒絶を笑顔で受け入れた。

 次に飛んできたのは、僕の帰り道にあたる道筋なのだから、せめて駅前までは一緒に連れ立って歩こうじゃないという提案。

コミュニケーションの過度な拒絶は、結局のところ自分の居心地の良いポジションを奪い去ってしまうだけであるというのを、僕はこれまでの経験で知っていた。

 顔に微笑を貼り付けている時間が少しだけ長くなる。ただそれだけのことだと思った。

 

 

  僕が帰ってきた時間にはアヤメさんはもう帰ってきていて、既に床についているようだった。

シフトや時期によっては、僕のバイトが終わるのが深夜に近い時間になることもある。そんな時はアヤメさんが僕の帰りを待たずに寝ていることもなくはなかった。

 最近はずっと夜型だったアヤメさんにしては珍しいなという程度の感想はあったものの、特に僕は気にすることもなく学校の課題なんかをやっていた。

 だから、ノックもなしにいきなりアヤメさんが僕の部屋に入ってきた時はとても驚いた。

 アヤメさんは壊れていた。

「もっと、もっと、もっと」

 アヤメさんは哀願する。命令する。血を出せ、と僕に命令する。

 僕はアヤメさんを膝の上に乗せ、その肢体から鮮やかな紅を創り出し続ける。指から、掌から、手首から、腕から、肘から。

 突然の出来事に多少動じながらも、黙々と作業をこなす僕も当然まともではないのだろう。

 僕のとってアヤメさんは世界にも等しく、世界を傷つけるという行為は愉快なことではない。

だから、心を凍てつかせる。感覚器を鈍化させる。精神を沈滞させる。

そうすれば自分の意にそぐわない世界の要望に従いながらも、傷つかないで済む。矮小な世界の卑怯な処世術。

「まだまだ足りない」

「悪い血が溜まってるの」

「全部外に出さなきゃ」

「血が悪いのよ。この血が悪いのよ。血が無くなればパパは帰ってくるのよ」

 全てはアヤメさんの望むがままに。

 やがて血を流すことにも飽きたのか、僕をベッドに押し倒して、首をきりきりと締めつけながらアヤメさんは睦言を繰り返す。

「大好きよ明彦くん。本当に大好きよ、明彦くん」

 僕も何か返答しようとするが声が出ない。

「とても楽しそうだったわね、明彦くん」

「私以外の人といる時はあんな顔するんだね、明彦くん」

その言葉でアヤメさんの不安定さの原因を理解する。

見られていたのだ。アヤメさんも今日は帰りが遅くなると言っていたし、時間的に考えられないことはない。

アルバイト先の人間と一緒にいる僕の顔はアヤメさんに見せる顔と違っている。

それを見たアヤメさんが傷ついたというのは理解できた。

 女性でも馬乗りになって首に全体重をかければ、男を窒息死させるのは難しくはないと聞く。死ぬわけにはいかない。

 手を伸ばしてアヤメさんの唇にそっと手を触れる。

あの人がビルから飛び降りた時のもの。

あいつが首を吊った時のもの。

彼が薬を飲んだ時のもの。

彼女が水に沈んだ時のもの。

 今あるだけの薄暗いものを、全てアヤメさんに流し込んだ。

 セメントを流し込んだように、それはアヤメさんというモノに空いていた隙間や穿たれた穴を全て埋めてまったいらにしてしまった。

 アヤメさんの身体から急速に力が抜ける。そして陶然とした顔で僕へ体重を預けると、そのうちに寝息をたてはじめた。

 僕にはアヤメさんがいる。他はどうでもいい。僕はアヤメさんさえいれば十分なのだ。

 アヤメさんも似たようなもののはずだ。だがアヤメさんは現実肯定のできない人だ。

アヤメさんが思うのは、僕『が』いるではなく、僕『しか』いない。かつては伯父さんがいたし、代替品としての僕もいた。でも今は僕『しか』いない。

 それが不安なのだろうと思う。

僕が死をアヤメさんに感じさせれば、アヤメさんは安心する。死をずっと身近に感じていないと不安がるアヤメさんに、ずっと笑顔でいてもらうためには、飽和するほどの死をアヤメさんに流し込み続けばいい。

 アヤメさんが安心して眠れるひと時のためなら、塵芥と同じ他人の命をいくら使ってもなんら問題ない。

 

 

「僕がアヤメさんをどれだけ想っているか、それを証明してあげますよ」 

 明彦くんは言った。

「アヤメさんが得る『安心』をこれからはもっと積極的に集めてあげます」

 明彦くんはその通りに行動した。

 

 

「楽になっていいよ」

 明彦くんの言葉に、レジを打っていたアルバイトの男は目を丸くし、そして気持ちが悪いほどの喜色を浮かべ、近くのテーブルにあったフォークを首筋にずぶりと突き立てた。そしてぐりぐりと捻りながらそのフォークを抜く。あっさりと彼は死んだ。

釣銭を受け取る前だったが、明彦くんが面倒だというのでそのまま店を出た。

 振り返ると野次馬が遠巻きに死体を囲んでいた。

きらめく光の欠片が野次馬たちの隙間からあふれ出ている。

明彦くんがその光へ視線を投じると、それは細く長くなってこちらへ向かってきた。

 明彦くんは空中を漂う光の粒を口内に吸い込んで嚥下する。

明彦くんの喉が軟体動物のように艶かしく動くのを私はじっと見ていた。

 

 

「貴方は十分に頑張った」

 すれ違いざまに明彦くんはくたびれた中年のサラリーマンに声をかけた。

 彼は慌てたようにネクタイを外すと、近くに生えていた街路樹の太い幹にそれをかけ、首を吊った。

 彼が舌をだらりと出して失禁の水溜りをつくるまでを見届けてから、明彦くんは何事もなかったようにその場を通り過ぎた。

 彼の身体から無数の光の粒子が立ち昇り、明彦くんの身体をやわやわと包んでやがて消えた。

 

 

「ほら、今ですよ」

 明彦くんが声をかけるとその女の人は一直線に線路に向かって走り出し、そして赤い花を咲かせた。

 その轢死体周りには一瞬にして人だかりができてしまった。

少し離れたところにいる私たちにはもはや野次馬たちの中心にあるものの姿は見えない。

 しかし湧き上がったものは明彦くんに向かって一直線に向かってくる。主に向かう犬のように、まるでそうなるのが当然だといわんばかりに。

 明彦くんのかざす手に、輝く小さなものは全て吸い込まれていった。

 

 

「どうぞ」

 数十メートル移動して人気のない裏路地で私たちは唇を重ねる。

私の身体を何かが駆け巡り、死にたいという気持ちが治まってくるのがわかる。

 大丈夫。これで私は大丈夫。頑張れる。まだ頑張れる。

 つい最近になってから、私はこの絶対的な心の平安をもたらすものが何なのかを明彦くんに教えられた。言葉だけではなく、実演という形で。

以前から、明彦くんに触れられると驚くほどに心休まることがあるのが不思議だったのだが、その疑問が氷解した。

同じ出来事でも、それがどういったものなのかを知覚すれば受け取り方も変わる。

 改めてそれを認識したせいか、まずはあのきらきらと明滅する埃のようなものを視認することができるようになった。

次に『それ』が流れ込んでくる時にはっきりとしたイメージが頭の中に描かれるようになった。

それは『死』というもの。勘違いでもなければ思い込みでもなく、たしかな確信が持てる薄暗いイメージ。

 明彦くんの献身は背筋が凍るほどだ。

 自分のやっていることは悪いことではないのだと明彦くんは言う。

弾丸を弾倉に篭めて安全装置を外して自らのこめかみに銃を押し当て、引き金を引こうとしている人間に『引いていいんだよ』とささやくだけ。

引き金を引くのはいつでもその人だ。明彦くんではない。

 だから自分は悪くない。明彦くんはそういう。

 それはそうなのかもしれない。けれども明彦くんがそう言わなければその人の死にたいという気持ちはいずれ治まるかもしれないのだ。

 そのことを明彦くんに質問した。

 他人が死んでも、私と明彦くんは傷つかない。他人が死ぬことにより、私の傷は癒され、私が癒されれば明彦くんは喜びを感じる。だったらそれでなんら問題はない。

明彦くんは私の疑問に対してそう答えた。

他人の命というのは無価値なもので、仮に私のいうように明彦くんが関わらなければ失われなかった命があるにしても、それは取るに足らないことだと考えているようだ。

 普通ならその発想は誤りであると断じるべきなのだろう。そんな発想の持ち主はなじられるべきなのだろう。

 けれども私は純粋に嬉しかった。それほどまでに私のことを想っているのだ、それほどまでに私が大事なのだ、と。

 私も明彦くんも狂っている。でもそれはとても素敵なことに思えた。

 

 

面倒な思いをせずに特定のコミュニティの中で日常を送るために、友人という枠にカテゴライズされた人間の存在が不可欠であることたしかだ。

僕とっての『友人』は日常生活の場であるコミュニティという歯車を回すための潤滑油でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。回す歯車が変われば以前の潤滑油は不要になる。

中学校では中学校の友人。高校では高校の友人。卒業すればもう関わる必要などない。

人との繋がりなど、必要なときに必要なだけあればいい。

 アヤメさんにとって友人と呼べる存在も、学生時代にはいたようではある。

けれども中学校の頃の友人は中学校を卒業するとそれっきり、高校の頃の友人は高校を卒業するとそれっきり。

共有していた空間がなくなれば関係もなくなる。その程度の友人しかアヤメさんは持っていなかった。

 アヤメさんは大学を卒業してからは、パソコン関係の仕事を伯父さんの会社から紹介してもらって収入を得ているようだ。

パソコンに疎い僕にはアヤメさんが何をやっているのかよくわからない。仕事の電話をしているところは見るが、まあ直接人と関わることが少ないというのだけは確かだ。

つまり、今は空間を共有する者すらいない。

 アヤメさんと僕は違う。僕は不要になった人との繋がりをあえて絶つことにしている。多分アヤメさんは人との繋がりを保つ術を知らないだけだ。

アヤメさんはいわゆる学生らしい遊びなどに興をもよおすタイプでなかったものの、僕ほどに割り切った考えはしていない。

 アヤメさんは友人という存在に一定の価値を見出していた。だから学生時代はごく稀に以前のクラスメートなどとショッピングなんかに行っていたこともあったようだ。

ただそれはアヤメさんにとって至高の存在である伯父さんの価値と比肩するほどのものではなかったため、徐々に顧みられなくなった。

 僕にとって世界はアヤメさんと同義だ。他の存在に価値はない。

しかしアヤメさんは数ある価値の中から伯父さんという存在を選んだに過ぎない。アヤメさんにとって伯父さんは最も大きな価値、僕はその次に大きな価値、あとは有象無象だ。

けれども無価値ではない。いや、無価値ではなかったと表現するべきか。

 以前は多少なりとも価値を見出せていた他人の命で自分を保っていることに、アヤメさんが何も疑問を感じていないことは喜ばしいことだ。

 

 

 私の目の前には若いパパ。

 パパは地平線の彼方まで延びるアスファルトの道を無表情に独りで歩いていた。

 私の身体は幼児の身体で、懸命にパパに追いつこうと走っている。

 パパ。パパ。パパ。何故離れていってしまうの。私は手を伸ばす。手を伸ばしながら駆ける。

 こけては起き上がり、こけては起き上がり、私は駆ける。追いついたと思った途端、すぐに引き離される。いたちごっこ。パパは待ってくれない。

 どうして止まってくれないのだろうか。

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして?

 終わりのない問いかけ。答えのない問いかけ。

 

 

――どうして

 私は最近ずっと繰り返し続けている無限の問いかけから抜け出し、涙を拭った。

夢から醒めても涙は後から後から湧き出てくる。

 明彦くんは私が好き。私も明彦くんが好き。

でも、明彦くんでは駄目。明彦くんはやはり代用品だ。私はパパが好きなのだから。

 パパは何故私の傍に居てくれないの。何故何故何故何故。

 そんな事を考えていると、また悪い血が溜まってきたのを感じた。悪い血は抜かなければ。悪い血が全て悪いのだ。

 私はいつものようにナイフを煌めかした。瘡蓋や皮膚を切り裂く。悪い血が流れる。そうして私は清浄になった。

 血を出してから、意味もなく携帯電話を手に取り、パパの電話番号へかけてみた。虚ろなコール音が鳴り響くだけ。最近はずっとこうだ。いつ電話をかけてもパパは出てくれない。もう、本当に、駄目なのだろうか。

 どうすればあのパパが傍にいる時に感じられる陶酔感を僅かなりとも味わう事が出来るのだろう。

 私は鈍く光る刃を虚ろに眺めながら私は考える。

 少しずつ溜まっていく澱のように、私の心には願望が生まれ始めた。少しずつ少しずつ、その願望は確実に溜まっていっていた。

 

 

 毎日のように死を流し込んでもらえるようになって、私は死についてほとんど考えを巡らせなくなった。死にたいなどとは思わない。死について何も感じない。

 最近の私はいつも前向きだ。パパのことについても前向きだ。  

 パパに会おうと思えばいつでもできた。会社の住所も、今いる社宅の住所も知っている。

けれども、私はどんな時も会社に押しかけたり、社宅に押しかけたりはしなかった。電話だって繰り返しかけたりはしない。

いなくなってすぐの頃は、出てくれないとわかっていても毎日のようにコール音を響かせていたものだが、最近では電話も三日に一回かけるかかけないかだ。公衆電話や非通知設定で電話をすれば出てくれるだろうが、それもしない。

 当たり前だ。そんな騙まし討ちみたいなことはパパの美意識の対極に位置する行動なのだから。

それをした段階でパパの私への愛情は完全に終わる。それがわかっているが故に苦悶していた。

 暗い気持ちが明るい気持ちになったところでそれは同じことだ。

ただ、手紙を書いてみようかなと思った。気分の良い今ならパパの心に届く文が書けると思った。

 手紙を、訥々と書いた。あまり生々しい感情を入れず、一見すれば子供から父親への手紙と思えるような文章。けれどもパパがそれを読めば私の気持ちが看破できるよな文章。

 寂しいから帰ってきて欲しい。内容を要約するとそういうことだ。

 

 

 部屋のベッドの上に放り出していた携帯電話が震えて着信を知らせる。ディスプレイには伯父さんの名前。

「突然どうしたんですか」

「手紙が届いたんだ」

 アヤメさんから、それはもう胸を締めつけられるような、あらゆる意味での愛情がこめられた恋文が届いたらしい。

アヤメさんが手紙を出したというのは初耳だった。アヤメさんの伯父さんに対する未練は徐々に薄くなっていっているように思ったのだが、それは勘違いだったらしい。

「とにかく、一度帰ろうと思う」

 アヤメさんの喜ぶ姿が脳裏に浮かぶ。

「少し話し合ってみるよ」

 それはとても良いことですね、是非そうしてください、と適当な返事をしてから電話を切った。

 伯父さんの持つ、アヤメさんとの決別の気持ちは固い。少なくとも僕にはそう思える。

だとすれば、たとえアヤメさんが望んでいる話し合いが実現したところで何になるのか。

今は比較的安定しているアヤメさんが、ここでまた心がかき乱されるだけに終わるのではないか。

 それだけが不安だった。

 

 

 アヤメさんにも伯父さんからの電話があったらしい。

 一点の曇りも無い、満面の笑み。その伯父以外に向けられることのない笑顔は完璧だった。

「どうしたの?気分でも悪い?」

 僕が感じているのはやるせなさ。アヤメさんが伯父さんにどれだけ愛情を向けようが、それが一方通行にしかならないことを僕はわかっている。あの夕暮れの伯父さんの決意はたしかなものだった。

「いや、何でもないですよ」

 微笑する。無理やり目元を和らげ、唇の両端を吊り上げて笑顔を創る。僕の特技。

「そう。ならいいんだけど」

 僕を案じる顔は一瞬だけで消えて、またアヤメさんの顔には晴れやかな笑顔に戻った。

「でも本当に良かった。パパが帰ってきてくれることになって」

 そうですね、良かったですね、僕も嬉しいですよ。二人がまた元通りになることを祈ってますよ。

 僕の心のこもってない言葉にもアヤメさんは大げさに反応し、飛び切りの笑顔を見せてくれた。

 少し胸が痛い。

 

 

 私は玄関の方へ意識を集中させながら、リビングのソファーに座っている。静寂が続く中、ドアに鍵を差し込む音が聞こえる。

玄関に走る。目の前にはパパの姿。

「パパ。お帰りなさい」

 パパを前にすれば練習などしなくても笑みが創れた。

笑うのが苦手な私も、パパにだけは笑みを創ることができるのだ。

 パパと目が合ったが、パパは何故か目を逸らした。

「……ただいま」

 パパはぎこちなくそう言うと靴を脱いだ。そして一緒にリビングに行った。

 ソファーに座り、パパは深いため息をついた。

「お腹すいてるでしょう?ご飯にしましょ」

 私はキッチンへ向かう。高鳴る胸を落ち着かせて。

 気を利かせたつもりだろう。明彦くんは出かけていて、今夜は帰ってこないらしい。

私とパパの二人きり。

 

 

 幼い頃、ひどい喘息持ちだった私は田舎で母方の祖父母と共に住んでいた。

ママは毎週会いに来てくれたが、仕事が忙しいパパと滅多に会えることはなかった。

それを不幸せだと感じたこともない。私にとって父親は祖父と同義だったのだから。父親のぬくもりというのは祖父が与えてくれた。

 私にとってパパは、時々ステキなお土産を持ってきてくれて私を喜ばせてくれる、格好の良いお兄さんという認識でしかなかった。

 幼い頃はそうでもなかったが、小学校高学年くらいになってからは、抱きかかえられたりされると、異性を意識して変な気持ちになったことは覚えている。

 物心についた頃からほとんど顔を見ることのできない人間。それを肉親と認識できるように人間はできていないのだと思う。

 中学に入った頃から私の健康状態は好転し、街で両親と一緒に暮らせるようになっていたが、友達と別れるのが嫌で、私は祖父母と一緒に暮らしていた。だが祖父母が相次いで他界したのを転機に私は引っ越すことになった。

 私にとっての生活の中心だった祖父母を亡くした傷を癒す間もなく、新しい環境に放り出された私は、ひどく陰にこもるようになった。

 私の心を救ってくれたのはママと、私にとっての異邦人だったパパだ。

パパは忙しい中、時間を見つけては私を色々な場所に連れて行ってくれた。多分長い間放っておいた娘への罪滅ぼしのようなつもりだったのだろう。

けれども私はパパに対して含むものなど何もなかったわけだし、単純に嬉しかった。

 ママは私の母親だ。だから愛情を与えてくれる。それは嬉しいけれども、私にとって日常的なこと。

 パパは私にとって他人だ。愛情を与えてくれる。他人から与えられる愛情は、私にとっては新鮮なもの。

 私はたちまちパパに魅了された。初恋は父親だったと臆面もなく言い放つ同級生はちらほらといたが、私ほどの強い情熱は持っていなかっただろう。

逆にいえば、実の父親にそこまでの恋情を向けるだけの環境を持った人間はいなかったといっていい。

 それはパパも理解していた。そしてパパにとっても私は娘でありながらも娘とは見なせない存在だったに違いない。だからこそ実の娘と関係を持つような真似ができたのだ。

 

 

 私たちは色々な話をした。夜中になるまで、ずっとずっと。

 そしてお互いの言葉が尽きた頃、私はあらゆる意味をこめて私はパパに尋ねる。

「私を愛していますか?」

 パパは弱々しく目を伏せる。口を開こうとしてまたやめて、また開こうとしてまたやめて。

 何度もためらい、何度も唾を飲み込み、何度も何度も瞬きを繰り返し、でもやっと決意を固めて真剣な目になるパパ。

「アヤメは、僕の大事な娘だよ」

 ここ数年パパが私を抱くことをためらっていたことも知っている。でも私の愛情には応えてくれていた。いつまでも応えてくれると思っていた。

一時の気の迷いで私から離れていっても、やがて戻ってくれるのだと思っていた。

でも、なんだ。そうなんだ。

今さら普通の関係に戻るつもりなんだ。

戻れるつもりなんだ。

これだけ手を尽くしても、まだそんなつもりなんだ。

傷ついて傷つけられて出てくる言葉がそれなんだ。

 死に支配されて常時痺れる頭。拡散していく意識。

いつの間にか忘れていた、漠然とした希死観念。

 パパが帰ってくると聞いて鎮まっていたものがまたその存在を主張し始めた。

 ああ、そうか。

 ならもう仕方ないか。

 そこで私の意識は途切れた。

 

 

 大好きな人を殺す夢を見た。

 月が泣き腫らした目のような赤い色をしていた夜。

 やまない頭痛。大好きな人の口から聞こえる、乾いた呻き声。血泡と共に零れるその声は世界中に反響する。

 そう。これは夢。これは幻。現とは違う世界。

 とめどなく流れる血も、涙も。パパの開かない瞼も、薄いピンク色をした肉も。全て現実のものではなく、架空のもの。

 だから何も気兼ねはしなくていい。我慢をしなくていい。

 掌。手の甲。手首。腕。二の腕。肩。胸。腹。背中。下腹部。太腿。脹脛。脛。足首。足の甲。爪先まで。

体中いたるところに傷をつける。傷を。瑕を。疵を。創を。一心不乱に傷をつける。歓喜にむせび泣き、狂喜に身体を震わせ。

 そう、これは夢なのだから。これは幻なのだから。現とは違う世界なのだから。

 溶けていく世界。融けていく世界。鎔けていく世界。

 

 

 

 

 

 一晩を大学の同級生たちと適当に遊んで過ごし、朝方に帰ってきた僕を迎えたのは静寂だった。

 伯父が家にいた時の出勤時間には早すぎるし起床時間には遅すぎる。

伯父さんは早く出勤して、それを見送ったアヤメさんはまた寝なおしたのかもしれないと思い、アヤメさんの部屋をのぞいてみた。そこにもアヤメさんの姿はない。

僕の部屋にもリビングにもいない。残る部屋は一つ。

 伯父の部屋のドアを開けるとアヤメさんの姿が目に入った。

慈悲と慈愛に溢れたそのたたずまいは、天使かと見まごうほどのものだった。

 人を越えた美しさ。人を越えた存在感。人を越えたモノになったことにより身につくもの。

「パパは気分が悪いから今日は会社に行かないんだって。一人じゃご飯も食べれないみたいだから今食べさせてあげてるの」

 寒々としたおぞましい部屋。

神聖ささえ感じられるアヤメさん。

ベッドの上で壁に寄りかかりながら座っている伯父の姿。

伯父は薄く笑いながら目を瞑っていた。

「あれ、おかしいわね。好きだったでしょう?肉じゃが」

 僕が呆然と立っているのをまったく気に留めずにアヤメさんは伯父の口の中に料理を押し込もうとする作業に没頭していた。

そしてそれが報われそうな気配はない。

「あんまり食欲が無いのかしら?お味噌汁なら飲める?」

 脇に置いてある盆の上に乗っている椀を手に取ると、伯父の口に無理矢理、椀に入っている味噌汁を流し込む。それは流し込んでいる先から流れ出し、伯父の服を汚していた。

「こぼしちゃ駄目じゃない」

 笑いながらアヤメさんは伯父の口元を拭う。

似たような不毛な動作を繰り返したあと、アヤメさんはやっと満足したらしく、立ち上がった。

「伯父さんに、何を?」

 こんな時も僕の心は震えていない。

考えるべきは善後策。アヤメさんのために僕はどうするべきなのか。

「何もしていないわ。眠っちゃってるだけよ」

 アヤメさんは不思議そうな顔をして僕の顔を見た。

「先にリビングへ行ってるわ」

 いつまでも突っ立っている僕にアヤメさんはそう告げると部屋を出て行った。

 取り残された僕の眼前にあるのは、死体。

伯父は死んでいた。

その死はもう一目見れば明らかなほど。

念のため伯父に触れてみるとやはり息はなかった。伯父の身体はひどく冷たい。それに出血のせいか、ひどく青ずんでいる。

 アヤメさんがやったのだろうか。

どういう経緯があったのかはわからないが、伯父さんはアヤメさんを拒絶して、それにアヤメさんは絶望したに違いない。

 アヤメさんは僕から死を流し込まれると、死にたいという気持ちが治まるらしい。

しかしそれは死にたくなくなるというよりは、死に対して無頓着になるという表現が近いように感じる。死ぬことがどうでも良くなるから、死にたくなくなる。

そういうことではないだろうか。それは自分の死に対してだけでなく他人の死にも同じことがいえるのではないか。

 自分でも理解できていない形而上の力で、アヤメさんを狂わせてしまったのは僕かもしれない。

 だがそんなことを考えてもそれは詮無きこと。アヤメさんの心はもうどうにもならないところまで来ていた。僕が死を流し込まなければ、もっと最悪なことになっていたのかもしれないのだ。

それにアヤメさんと伯父さんの関係の破綻は既に確定事項だったことも事実だ。それが最悪の形になったのは予想外ではあったが。

 伯父の身体中に刻まれた、明確な意思と熱烈な想いがこめられた深い傷の数々。今はただそれが羨ましくて仕方がなかった。

 ほの暗い部屋の中で、蛍のように『死』の粒子が瞬いていた。伯父さんの身体から出てきたものだ。指先でつつくとそれは僕の身体にするりと入り込んだ。

 

 

 リビング。僕はアヤメさんと二人、何をするでもなく一緒にソファーに座ってぼうっとしている。

徹夜明けだが眠気はない。それなりに事態を飲み込めてきた僕の頭はこれからどうすればいいのかということだけを考えていた。

 トゥルルルルル。トゥルルルル。

 不意に聞こえる無機質な電話の呼び出し音。僕が反応する前に、アヤメさんが立ち上がり、その電話を取った。

「はい、さようです。はい?はい。私は娘のアヤメと申します」

「……ええ。連絡が遅れて申し訳ありません。父はまだ寝ておりますが」

「食欲もあまり無いようですし……、ずっと眠っています」

「いえ、病院には行っておりません。どこかが苦しい、というわけでも無さそうですので。私の素人目の判断で何なんですが、どうも疲労が溜まっているんではないかと思うんですが……」

「働きすぎ……ですか?はい。そうかもしれませんね。ここしばらくは仕事に熱中して、家に帰っておりませんでしたから。久しぶりに家に帰って気が抜けたせいかもしれません」

「ええ。……ええ。はい。どうもご丁寧に有難う御座います。……ええ。それでは」

 アヤメさんは電話を切り、ため息をついて僕の方を見た。

「パパの会社の人だったわ。朝、パパが会社を休むってこと電話したんだけどね、心配してかけてきたみたい」

――ああ、壊れてる

 背筋にぞくりと電気が走った。性的快感にも似た感覚。

 そして気づく。アヤメさんが全霊をこめて愛した存在はもういないということに。

その愛情を受け取る資格のあるものはこの世でただ一人僕となったことに。アヤメさんは僕だけのものになったということに。

 僕はアヤメさんのために生きてきた。自分の中にある、アヤメさんを独占したいという、醜悪なエゴは見ないふりをして。

心の奥底に潜む欲望はどうあれ、僕の想いと行動は一致していたという自信がある。

 しかしこの現実を目の前にして今、僕の純白の忠誠心は別の色に染まりつつあった。

 アヤメさんは僕の主で、僕はアヤメさんの従僕だ。その想いに変わりはない。変わりはないはずだ。

しかしアヤメさんを支配できる状態にあることをどこかで悦んでいる。両立する矛盾した感情。

 

 

 アヤメさんは気分が悪いと言って先ほどベッドに入った。今僕がいるのは伯父の部屋。

 動かない伯父。傷の裂け目から見えている紅い肉。血の匂い。死の匂い。

 人は死ねば肉塊となる。タンパク質の塊以上でも以下でもない。ただそれだけの、無味乾燥な物体。

 人間が生命活動を停止して成るものは『死んだ人間』である『死人』では無く、『死した物体』である『死体』なのだから。

 そんな詭弁で立ち向かおうと試みるも、僕は死の存在感に屈服して口元を押さえた。

 猛烈な嘔吐感が。

 僕は慌ててトイレに走った。胃の中の物が逆流し、内容物全てを吐き出した。酸っぱいような苦いような胃液が吐き出されるまで、嘔吐は続いた。

 涙が出てきた。具象化された死の概念は美しくさえあるのに、何故こうまで現実の死というのは忌まわしいのか。

 息切れをしずめ、深呼吸をする。

 でも、アヤメさんのためだ。これはアヤメさんのためなんだ。

アヤメさんのことを考えると、気分はややマシになった。気を取り直すと伯父の部屋に向かい、伯父の死体を見つめ直す。

 嘔吐感はもうない。だが何故か涙は零れ続けた。

 死を認識したことによって認識できた現実。

 ああ、伯父さんが僕の世界に占めていた割合はそう少なくもなかったのかな。そう思った。

 

 

 夜。恐怖を感じる程の静寂。風の鳴き声だけが時折聞こえる。

 さくり。

 さくり。さくり。

 さくり。さくり。さくり。

 穴を掘る。穴を掘る。穴を掘る。

 さくり。さくり。さくり。さくり。

 シャベルに足をかけ、力を込めて、さくり。

 土を掻き出して積み重ねていく。

 綺麗な程に静かな夜。寂しい程に静かな夜。厚い雲が月光を、星の輝きを覆っている。

ただひたすらに暗い夜。僕は庭の桜の樹の下で。

 桜の樹の下には、一つ一つに屍体が埋まっているという。

だから桜はあんなに奇麗な花を咲かすのだという。

昔の文豪の一文が頭をよぎる。

 僕は伯父さんの為に花も手向けられない。

だから、せめて伯父さんが好きだったこの桜の樹の下に。

 さくり。

 暫く穴を掘り続けていると柄の先から自分がシャベルに入り込んでいくような錯覚を覚える。

 柄と指が溶け合って一つになる。柄と指の混合物が両腕を溶かし込んでいく。

柄と指と両腕の混合物は僕の肩を、胸を、腹を、足を、溶かし込んでいく。

 僕とシャベルは一体になった。僕の神経が通ったシャベルは土を掘り返していく。

僕の身体には、まるで臓腑を掻き分けるような生暖かく柔らかな感触が伝わってきていた。

 さくり。さくり。

 無心に同じ作業を繰り返す。

動悸が激しくなり、頬が上気する。肩で息をしながら、がむしゃらに土を掘り返す。

「アヤメさんがいてくれるなら僕は大丈夫です」

 萎えかける心気を励ますために誰ともなしに呟く。

「アヤメさんアヤメさんアヤメさん」

 その名を呟くたびに、僕の心は平静になっていった。

 ひたすらに掘り返す。深く深く深く。

 さくり。

さくり。

さくり。

 

 

――ガツン。

 シャベルに石が当たり、その反動で手からシャベルが滑り落ちる。

 既にある程度の深さを持つようになった穴に入ると石を取り除き、再びシャベルを握ろうとする。

その瞬間。ふ、と気が抜け、急に手が震え出した。

「ッッッッッッ……」

 またひとしきり胃液を吐き出した後、乱れた息を整え、目を閉じてこう呟く。

「アヤメさんアヤメさんアヤメさんアヤメさん」

 呪文のように唱え続ける。

「アヤメさんアヤメさんアヤメさんアヤメさんアヤメさんアヤメさんアヤメさんアヤメさん」

 この言葉をひたすらに唱えていると、震えは少しずつに収まった。

 再び作業開始。

 さくり。さくり。

 さくり。さくり。さくり。

 さくり。さくり。さくり。さくり。

 先ほどと比べて雲は随分と薄くなっていた。

薄雲を通して朧げに月は存在感を放っている。

 その爛れた月の発する、ねっとりとした粘度の高い光を受けながら、僕はただただ穴を掘る。

 

 

 さくり。

 最後に一回土を掻き出すと、穴から出た。

桜の樹に寄りかかりながら荒い息を鎮める。

 穴はかなり深くまで掘れた。ここまで掘ればとりあえずは大丈夫だろう。

僕はシャベルを置いて家の中に戻った。

 伯父の身体を取りに行くために。

 伯父は相変わらず暗い部屋に鎮座していた。

まだそれほど時が経っておらず、気温が低いせいか、腐臭はしない。だが、ただ漠然と『死の匂い』としか表現できないものが部屋には立ち込めていた。

死後硬直のせいで伯父の身体は硬い。

 物言わぬ伯父を見て、ガラにもなく感傷のようなものが湧き出てくる。

 そっと伯父の頬に手を触れた。

「今まで有難うございました」

 それだけを、一言。

 アヤメさんの事では恨みに思ったりもしたが、今では感情は嘘のように鎮まりかえっている。

思い出、というほどの甘ったるいものではないが、それに近いものが脳裏を横切って眼前の伯父から目を逸らす。そのままでは感情が吹き出てしまいそうで怖かった。

 少しの間だけ目を閉じる。そして伯父の身体を運び出す事にした。

 伯父の身体をなるべく静かに庭へ運び、穴へ横たえる。

 穴を埋める前に、鋏を持ってきて一房だけ伯父の髪を切り取った。

 アヤメさんが元に戻れば、一緒に伯父の供養の真似事みたいな事が出来ればいいなと思う。

 

 

――これで良い。僕は最善の行動をした

――これで、終わりだ

――これでアヤメさんは幸せだ

 汗にまみれた服を脱ぎ、洗濯機に放り込んでシャワーを浴びる。

 そしてアヤメさんの部屋に向かった。すやすやと無垢な顔で眠るアヤメさん。

「……あれ?」

 アヤメさんの顔を見ると、涙が湧き出てきた。後から後から。そして身体も震え出す。

震えはいつまで経っても収まらない。

「寒いの?」

 いつの間にかアヤメさんは眼を覚ましていた。

アヤメさんは寝ぼけ眼を摩りながら布団の端を捲る。

「寒いんなら入りなさいな」

「……有難う御座います」

 ベッドに入ると、アヤメさんが僕を抱きしめた。暖かい。

「身体。冷たいわね」

「悪い血が溜まってるんですよ」

『悪い血が溜まっているからいつも凍死寸前なの』

 アヤメさんのこの言葉を聞いたのはいつだったか。

アヤメさんが伯父さんと同じ血が流れることに悩むことはもうないのだろう。

「ふ、ん」

 アヤメさんは興味なさげに僕の言葉を聞き流した。

 昨晩からほとんど寝ていなかった僕は、アヤメさんに抱きしめられて泥のように眠った。

 そして夢を見た。

 僕はバスルームに立っている。手は血塗れだ。僕はその手の血を取ろうと手を擦る。

しかし擦っても、擦っても、どんなにどんなに擦っても、手についた血は取れないのだ。

どろどろと血は絡みつく。擦っても擦っても取れない血。

 擦っても擦っても。その真っ黒な血は、取れない。それどころか血はどんどん増えて、手に絡みついていく。

後から後から絡み付いていく。ぼたぼたと床に血が落ちる。床はどんどん血で溢れかえっていく。

 血の水溜りが出来る。僕はその水溜りを夢中で擦る。ただただ、擦る。

 擦っても。擦っても。その真っ黒な深淵は消え去ることは無かった。

 

 

 朝起きるとパパがいなくなっていた。

 ついさっきパパの会社から電話がかかってきて、『今日もまたお休みですか?』なんてことを聞かれた。会社にも行っていないみたいだ。

 パパは消えてしまった。

 お昼前に明彦くんが起きてきたのでそのことを報告すると、明彦くんはちょっと驚いたような顔をして何か言いかけると、口を閉じた。

なんだかよくわからなかったけれど、明彦くんも何も知らないらしい。

 このままではラチがあかないので、自分の部屋に行って服を着替えた。

 明彦くんは慌てたように私に何処へ行くのかを尋ねた。

パパを探しに行くのだと返答すると、何か考えるような顔をしてから自分も一緒に行くと明彦くんは言った。

 私は明彦くんと一緒にパパがいそうな所へ足を延ばした。

 

 パパが毎朝歩いていた駅までの道。

 

 パパがよくぶらぶらと歩いた家の近くにある公園。

 

 パパがよく行っていた大きい本屋。

 

 パパはどこにもいない。どこへ行ってしまったのだろうか?

 

 夕方になってしまったので家に帰った。

 夕飯を作って明彦くんと二人でそれを食べてテレビを見てお風呂に入って髪を乾かして体が冷えないうちにベッドに入って寝る。いつも通りの生活。

 パパがいなくても過ぎるいつもの生活。

 

 

 なかなか寝つけないのでパパを探しに行った。

 冬の夜は特に好きだ。都会の空と言っても冬の深夜というのはやっぱり空気は澄んでいる。

星と月が綺麗で、厚着している身には寒風は心地良い。

 そんなことを考えながら私はパパを求めながら歩いた。

 闇雲に歩いているわけではない。時々聞こえるのだ。パパの私を呼ぶ声が。

 夢か現か幻か。遠くから近くから。大きく小さく。優しい声で私を呼ぶ声が。

 

 

「あ……」

 街角でパパを見つける。

 パパのいつもの後ろ姿。真っ黒いスーツを着て、蒼い月の下にたたずんでいるパパ。

「待ってよ……」

 私が追いかけるとパパの姿はすっと闇に溶け込んでいった。

 

 

 帰宅直後。

 コツ、コツ、コツ。玄関で扉を叩く音がする。

 玄関のドアの覗き窓を覗く。小さいレンズの先にはパパの姿。

 慌てて私はチェーンを外して、鍵を開ける。そして胸をどきどきさせながら言う。

「おかえりなさい」

 目の前には誰もいない。ただ冬の夜が震えているだけ。

 

 

 就寝。

 ベッドの中へパパの体が入り込む。

震える指で私のパジャマのボタンを外すと、キスをして。それから自分もパジャマを脱ぐと、遠慮深げに、緩慢で不器用に体中を愛撫する。そしてまるでガラス細工を扱うかのように優しく私の体に下半身を沈める。

 私はパパの名を呼ぶ。愛しげに。

 パパは無言で、私の姿にママを重ねている。

 そして目が覚める。私の隣にあるのはパパの背中ではなく、明彦くんの背中。

 涙が溢れた。

 

 

 学校。学校は落ち着く。

講義の開始を知らせるチャイム。淡々とした講師の声。休み時間の喧騒。時折聞こえる誰かの甲高い笑い声。

ゆっくりと流れる時間は今まで快とも不快とも思わなかったが、今は快いと思っている。快いが、それに伴って一人影絵の世界に取り残されているような、そんな気もする。

疎外感。希薄な現実感。

 そこまで考えて僕は軽い笑みを口元から零した。

――どうでも良いことだ

 そう、僕のことなどはどうでも良いのだ。

そんなことを考えてもどうしようもない。僕はアヤメさんの為だけに存在するのだから、アヤメさんのことだけを考えていれば良いのだ。

――アヤメさんについて僕が何かできることはないか?

 何度目かになる自分への問いかけ。

 壊れたアヤメさん。

 伯父は通勤途中で行方不明になっているようだ。伯父の携帯電話は壊したし、通勤用の鞄は僕が自分の部屋に隠している。話が嘘だなんて誰にもわかりっこない。

 連日伯父の会社から電話がかかってくるが、アヤメさんは傍から聞くと『唯一の肉親である父が行方不明になった可哀相な娘』のような応対をしている。

 現実を拒否したアヤメさんの頭の中で伯父は行方不明になったというストーリーできているのならば、今のうちに失踪届でも出しておこう。

前々から家出を仄めかすような言動があった、などと理由をでっち上げて、家出人の扱いにしてしまえばいい。庭には土を掘り返した跡が残っているが、玄関先からは見えない位置にある。

 心配することなど何もない。暫く時間はある筈だ。

――とりあえず今、僕は僕の日常を送っていれば良いのだ。

 何度目かになる自分への結論。堂々巡りの考え。僕はまた同じ事を考え始める。

 アヤメさんに出来ることは何か無いだろうか――と。

 

 無為な思考を続けながら、僕はこのぬるま湯のような日常という空間を愉しんでいた。

 

 

 パパがいなくなってから、私は時々理由もなくおかしくなる。

何かをした拍子に、パパの顔が目にうつるのだ。そのパパの顔は今までに見たことがないほどとても苦しそうで、今までに見たことがないほどとても切なそうで。

 その顔を見ると私は急に自分にパパと同じ血が流れていることを極度に嫌悪するようになる。

 明彦くんと並んでキッチンに立って夕食を作る。

食器棚の中にあるパパが使っていたマグカップの縁に小さな汚れがついていた。

後で洗っておこう、と何の気なしにそれを手に取った瞬間。身体中を流れる血に不純物が混ざった気がした。

「どうしたんですか?」

 顔色が悪くなっているのが自分でもわかった。

心配した明彦くんが声をかけてくれるが、返事をする余裕もない。

「血が。悪い血が。出さなきゃ、はやく。」

 心臓がポンプのように悪い血を体中に流しているのがわかった。

手首が疼く。早く血を出さなければ、私は駄目になる。

 火をかけた鍋を放り出し、自分の部屋に飛び込むと、縦横無尽の切り目を深く浅く腕に刻んでいく。滲み出す真っ黒な汚れた血。

 急に涙が溢れてきた。血と涙が混ざり合って溶け合うと、血の色は幾分かマシになった。

 血。血。血。悪い血は出て行け。

 悪い血は涙で中和すればいい。

 

 

アヤメさんは夜中に出かける。

「どこへ行くんです?こんな時間に」

 衣擦れの音で目を覚ます。アヤメさんは外に出るために着替えていた。時計は午前二時を示している。

「何か用?」

 無表情なアヤメさん。

「パパを探しに行かなくちゃいけないんだから早くしてね」

「なんでこんな時間に?」

「私を呼ぶパパの声が聞こえたのよ」

 アヤメさんはコートを着込んで手袋を嵌めた。

 ベッドの上で呆けたような顔をしている僕に一瞥をくれると、アヤメさんは部屋を出た。

 僕も慌ててそれに続く。

「……いるわけないじゃないか」

 玄関で靴を履いているアヤメさんが見えた。

その姿を見て思わず出た呟きがアヤメさんの耳に入った。アヤメさんは僕の方を睨む。

「どうしてそんなことがわかるの?パパは今寒い思いをしているかもしれないわ?お腹を空かしているのかもしれないわ?怪我をしているのかもしれないわ?苦しんでいるかもしれないわ?」

 感情的にまくしたてるアヤメさん。僕はただ黙ることしかできない。

 僕に怒りの篭った視線を向けながら、アヤメさんは玄関の扉を開けた。

凍りつくような冬夜の風が吹き込んでくる。

「じゃあ。行ってくるからね」

 玄関の扉が閉められる。冷たい風は止んで温かさが戻り、アヤメさんは出て行った。

 ギロチンにかけられた死刑囚が『もう少し刃を落とすのを待って欲しい』と思う気持ちは丁度こんな気持ちなのかもしれない。

 多少時間が稼げたところで、事態が好転するわけもない。だが、今はただもう少しこのままでいたい。

 

 

 夢。

 夢の中にいる。

 気が付けば僕はあの時にいた。

 アヤメさんが冷たい伯父を愛でていた、あの時間に。

 見えるのは血と微笑みと愛情と狂気。

 聞こえるのは笑い声。媚びる声。宥める声。賺す声。

 そして感じるのは驚きでも恐怖でもなく、羨望という感情。アヤメさんに愛でられ、命を落とした伯父が羨ましい。

 ジリジリジリ、と無粋な目覚ましの音が聞こえてきた。夢の終わり。現の始まり。

 眼前の光景が自らに降りかかる事を願いながら、僕は夢の世界から抜け出した。

 

 

 僕は良いとは言い難い気分で目覚めた。

 また夢を見ていた。見ていた夢は、あのときの夢。アヤメさんが死んだ伯父さんを愛でている夢。

 あの時から燻り続けていた陰鬱な嫉妬が、夢のせいで少し燃え上がった。

 伯父とアヤメさんの仲がどれ程深くなろうとも、僕はこんな感情を抱いたことはなかったのに。

 夢の中の情景を思い出す。アヤメさんは何故あんなにも嬉しそうだったのか。何故あんなにも夢中だったのか。

 何故あれを僕にやってくれないのか。

 夢でも現でも、僕はアヤメさんに殺されたがっていた。

それは希死観念などとはまったく別個の気持ち。殺された者が殺した者の一部となるというのは原始宗教ではよくある考え方らしい。

多分人間の理性の奥にある本能がそういう仕組みを肯定しているのだろう。

 アヤメさんに支配されたい。アヤメさんと一つになりたい。

その願望はアヤメさんに殺されることによって達成される。

 しかしそれがどんなに甘美な悦びをもたらそうとも、僕はアヤメさんに殺されてはならない。アヤメさんのために僕は生きていなければならない。

 それがなお嫉妬を深くした。

 朝から気分が悪い。

 僕の傍らで寝るアヤメさんを見ながら、僕は複雑なため息をついた。

 

 

 僕がベッドでぼんやりとしているとアヤメさんも目を覚ましたので、僕らは一緒に朝食を食べていた。

 一緒に起きて、一緒に朝食を摂るということができるようになったのは最近のこと。

それまでのアヤメさんの目覚めは最悪で、朝方はまともに食事を摂れるような体調ではなかったからだ。

 伯父が『いなくなって』以来、アヤメさんは目覚めに苦しむ事はなくなっていた。

自身を苦しめる唯一絶対のものがもうこの世からなくなっているのだと身体は理解しているのだろうか。

「パパは何処へ行ったのかしらね」

 アヤメさんがいつもの様に伯父の話題を出す。

「パパが――」

「パパは――」

「パパに――」

 繰り返される伯父の話。膨らむ嫉妬と苛立ち。

「パパなら――」

「パパだって――」

「パパの――」

 苛々する。苛々する。苛々する。

「あの――すいません。今日は出なきゃいけない講義があるんで、もう行きますね」

「あら。大変。大丈夫?」

 アヤメさんは話を止めてまじまじと僕の方を見た。

「ええ。今すぐ出れば十分間に合いますよ」

「後片付けは私一人でやっておくから、もう学校行って良いわよ」

「有難う御座います」

 表面上は笑顔を繕ってみたものの、僕の胸のうちはほの暗い不快感でいっぱいだった。

 

 

 アヤメさんがたまに陰にこもるのは夜。

 アヤメさんの白い手首を流れる血が僕の身体に絡みつく。

「貴方は私が好き。そうでしょう?」

 アヤメさんが冷たい指を僕に這わせながら囁く。何かを再確認するように

 僕はアヤメさんの傷口に舌を這わす。アヤメさんの味が口腔に広がった。

「はい。僕はアヤメさんが好きです」

「貴方は私が好きなのね?」

「そうです」

「好きなの?」

「……はい」

「そう」

 暫くの無言。

「好きなんだったら私の気に入らない事はしないでね」

「気に入らないことって何ですか?」

「私以外と寝ては嫌。私以外とキスをしては嫌。私以外と肌を触れ合わせては嫌。私以外と仲良くしては嫌。私以外と口を利いては嫌。私以外を見ては嫌。私以外と同じ空間に居ては嫌。私だけと寝て。私だけとキスをして。私だけと肌を触れ合わせて。私だけと仲良くして。私だけと喋って。私だけを見て。私だけと居て」

 アヤメさんの奇麗な目がどろりと濁っている。濁っていてもアヤメさんの目は奇麗だ。

「僕がアヤメさんを嫌うなんて有り得ませんよ」

「わかってるわよ。でも嫌なの」

 アヤメさんは手首を流れる血を見ていた。

「悪い血が、流れて行っているわ」

 ほう、とため息をつくアヤメさん。

「これで私は大丈夫」

 自分に言い聞かせるようにアヤメさんは言った。

 その様子は何年か前にテレビで見た、決壊前の堤防の圧迫感と似ていた。

 

 

 雨が降っている。

 昼の雨は嫌いじゃない。無邪気さを装いながらも、何もかもを見透かしているような青空よりよほど好感が持てる。

薄黒い空が、冷える空気が、単調に続く音が、昼間という穢れた世界を隠してくれる。悪くない気分で帰ってきた僕に対し、いつものような「おかえり」の声はなかった。

 僕の帰宅の気配を感じて出迎えたアヤメさんの表情はとても暗い。

「明彦くん――」

「はい?」

「これ、何?」

 振り向いたアヤメさんと共にそのぬばたまの髪がくるり、と円を描くように宙を舞う。

そんな様に少し見蕩れていると、

「ねえ。これ何?」

 同じ言葉をアヤメさんは繰り返した。その手には伯父の通勤鞄。伯父が通勤途中でいなくなったことにするならば通勤鞄を持っていなくてはならないため、僕が保管していた。

最初はそれを捨てようとも思ったが、上手く捨てられるだろうか、誰かに見つからないだろうか、証拠となってしまうのではないか。そんな事を考えて、捨てる事が出来なかった。

「伯父さんの通勤鞄ですね。どうして見つけたんですか?」

「明彦くんの部屋を掃除している時に、うっかり机に積まれてた本を崩しちゃって。それを拾おうと思って屈んだら机の裏に鞄があるのが見えたの」

 本気で隠すならもっと別の方法を考える。いずれはアヤメさんに見つかるだろうとは思っていた。見つけてもらえればいいなと思っていた。

「何でパパの通勤鞄がここにあるの?鞄が無いから通勤途中にいなくなったんだとばっかり思っていたのに」

「通勤途中にいなくなったのではないから、鞄がここにあるのですよ」

「じゃあ何処でいなくなったのよ」

「それはアヤメさんが一番よく知っているでしょう」

 僕はアヤメさんに言葉をかけながら、机の引き出しにしまっていた袋を取り出した。

「それは?」

 問いに答えずにその袋をアヤメさんに手渡した。袋には、紙に包んだ伯父さんの髪の毛が入っている。

「――?」

「髪ですよ。伯父さんのね」

「――――え?」

「――アヤメさんがが殺して、僕が埋めたんですよ、伯父さんを。その時にその一房だけ切り取ったんです。いずれアヤメさんに渡そうと思ってたんですけどね」

 外から単調なリズムで響いてくる、雨が地を叩く音が妙に耳に心地良かった。

 ちょうど良いと思った。いずれはアヤメさんに現実を見てもらわなくてはならない。

 僕は毎日毎日、唇から、手から、粘膜から、僕はアヤメさんを安んじるため死を送り続けてきた。

今日もいつもと同じようにアヤメさんに手を差し出す。

アヤメさんはよくわからない顔のままその手を取り握り締めた。

僕は身体の奥底にしまってある死の中から、伯父さんの死を抽出する。そして皮膚から皮膚へ伯父さんの『死』そのものをアヤメさんに一気に注ぎ込んだ。幾度となく繰り返した作業。

 絶頂したようにアヤメさんの身体が震え、その双眸からは涙がとめどなく溢れてくる。

 遥か彼方の忘却というほの暗い穴の中から記憶がせり上がってくる音が聞こえてきたような気がした。

 まともな方法でアヤメさんに伯父さんの死を認識させられないのであれば、遺物をつきつけた上で伯父さんの死そのものを直接流し込む。

そうすればアヤメさんは現実を認識できる。僕の不確かな力に基づいた手段ではあり、根拠はない。ただ確信があった。

「ふふ――」

 やがて涙を止めてアヤメさんは笑い出した。

 ゆらり、とアヤメさんは立ち上がる。その目に輝きはなく、ただひたすらに暗い。

 微小な罅の沢山入ったボヘミアガラスのグラスが、粉々に砕けるイメージが頭に浮かぶ。

「思い出したわ」

「そう――ですか」

 何の前触れもなくアヤメさんは不意に僕との距離を狭めると、僕をベッドに押し倒して、首に手を当てた。いつかと同じような光景。

「どうして思い出させたの?」

 声は穏やかだが、静かな怒りを感じさせられた。

 きりきりきり。首に立てられた爪が肌を破る。

「永遠に目覚めずにいられたとでも思っているんですか?」

 その言葉に対する返答はなかった。アヤメさんも、そんなことは百も承知に違いない。ただ、負の感情を持て余しているのだ。

「アヤメさんが現実を是としないのであれば僕を殺して死んでください。なんなら逆でもいい。それとも一緒に死にますか?僕にとっても、それは幸せの一つではありますよ」

 爪に入った力が少し緩まった。

「私と、死ぬのが幸せ?」

 今までずっと抱き続けていた気持ちを吐露する。アヤメさんは奇異なモノを見るような目でそんな僕を見た。

「そうです。大真面目にそんなことを言うほど、僕はアヤメさんのことが好きなんですよ」

「好きだから殺されたい?殺したい?」

「そうですよ」

 アヤメさんは少し首を捻った。

「明彦くんの行動は全て私を思っての行動よね?パパの身体を隠したのも、私にこれを思い出させたのも」

 伯父さんの身体を隠したのは、アヤメさんが現実を受け止めるとさらに壊れてしまうと思ったから。

いつかは見つかる場所に伯父の鞄を放置したのは、そう遠くはない時期にアヤメさんは現実と向き合わなければならないと思ったから。

「そうです。僕の行動理念は『アヤメさん』だけです」

 僕の答えを聞いたアヤメさんの手の力が完全に抜けた。ゆらりと僕の身体にアヤメさんの身体が覆いかぶさる。

「ごめんなさいね――」

 僕の顔のすぐ上にアヤメさんの顔がある。

「泣いてるの?」

 アヤメさんの手が僕の目元に伸びる。僕の目には涙がいつの間にか溢れていた。

 この感情は、アヤメさんを元の世界に引き戻せた喜びか、これからの暗雲立ち込める前途への恐怖か。

「ごめんなさい――」

 アヤメさんは僕の身体に倒れこんだ。アヤメさんの重みが心地良い。

「好きだよ、明彦くん」

 アヤメさんはそれっきり何も喋らなくなった。

伯父さんの死を受け止めたアヤメさんは、きっと今以上におかしくなる。それはわかっている。

だが、覚めない曖昧な悪夢を見続けるよりも、残酷な現実を直視する方が幾分かマシのはずだ。それはどちらにせよ地獄なのかもしれないけれど。

アヤメさんの息遣いが、心臓の鼓動が、肌の感触が、艶々とした髪が、そして鈍い輝きを放つ瞳孔の向こうの世界が、僕に囁く。

これからずっと一緒だよ、と。

 

 

 

 霞のかかる思考のもと、霧のかかる視界の中。私は自らの手であの人を殺す。

 夢の中で反芻される行為。私は快感に全身を蕩けさせながら何度も何度も行為を繰り返す。性交を覚えたばかりの時のように。

 そして迎える最悪の目覚め。

 震える手。嘔吐感。強くなる希死観念。止まらない発汗。

 死にたい。

 

 

 死にたい。死にたい。死にたい。

 

 

 アヤメさんの中の躁と鬱のバランスは日を追うほどにおかしくなっていった。

 ある時アヤメさんは懇願する。

自分を殺してくれと。哀れを誘う声で、涙ながらにアヤメさんは僕に向かって叫び続ける。

もう生きてはいけないのだ、生きているべきでない、自分は死んだ方がいい、死ぬべきである。そんな言葉を紡ぎ続ける。

 ある時アヤメさんは命令する。

自分に口づけをしろと。明るく健康的な色香を漂わせて、弄ぶように僕に向かって囁き続ける。

僕はアヤメさんの身体のいたるところに口づけをし、いたるところに舌を這わせ、粘膜と粘膜を接触させる。そんな時のアヤメさんは何も考えず、ただただ喜悦に咽んでいる。

 そんな繰り返し。

 僕はアヤメさんから離れられなくなっていた。いついかなる時でもアヤメさんは僕を傍におきたがる。

 大学には、もう行っていない。アルバイトも辞めた。当然アヤメさんも仕事はしていない。

 食料品などを買いに行くこともない。貯金はそれなりにあったし、インターネットがあれば家に引きこもったままでも生活必需品はいくらでも手に入る。

 外部との接触など二人だけの生活には不必要だ。

 僕が外出をしなくなると、死を蒐集する機会も当然なくなった。

僕が溜め込んでいた死のストックは既に底を尽きていた。

 アヤメさんの精神は沈静化されることなく、エレベーターのように上昇と下降を交互に激しく繰り返していた。

 

 

 アヤメさんが本当に死を望むならそれでも良かった。

アヤメさんを殺して僕も死ぬ。それはそれで幸福なこと。

 けれども、アヤメさんの感情が死を望むことがあるというのはわかっても、アヤメさんが死を本心から願っているのかどうかが僕にはわからなかった。

 アヤメさんの精神の起伏をなんとかしなければどうしようもない。

 けれども、その手段である死の蒐集は僕にはできない。

 ジレンマ。

 

 

 誰か僕らのために死んでくれないかと願う。

 家の前を通り過ぎる人間が急にナイフで自分の胸を貫いてくれればいい。

車に身を投げ出してくれればいい。

そうすれば僕とアヤメさんは前進できる。

 僕は願う。

是が非でも誰かに死んで欲しい。死んでもらわなければならない。

 能動的でもなければ誰かを限定したものでもない、漠然としたものではあるが、それはたしかに殺意だった。

両親が死んで以来、始めて抱いた『他人』への感情。

 僕は毎日願った。不幸ではないけれど幸福ではない毎日の中で祈った。誰か僕らのために死んでくれと。

 そのうち『死んでくれ』は『死ねばいいのに』に変わり、やがて『死ね』に変わった。

 

 

 何日かぶりに宅配が来た。茶髪の若い男の姿には、たしかな死の影があった。

だが僕の能力の入り込む隙間が、その心にはない。

死にたがってはいるけれど、その気持ちはまだ崖っぷちの数歩手前で留まっている状態であるようだ。

久しぶりの回収の機会を逃すのは惜しい。なんとかならないだろうか。

 笑顔の挨拶に笑顔で応じながらも僕は呪詛を繰り返す。

 

 死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。

 

 男は少し不安そうな顔をする。僕はさらに念じる。

 

 死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。

 

 男は額には冷や汗を浮かべ、目をきょどきょどと動かしながら荷物を僕に押し付けてくる。

 

 死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。

 

 荷物を受け渡しする際に、僕はなんとなくわかった。こういう音を発せば彼は死ぬだろうという音が。

 僕の唇からこぼれ出る音は、声というよりも唄のようなものだった。決められた歌詞も曲もない即興のものだけれど、その唄が彼の精神を支配していくのは見ていてわかった。

 オートマチックに吐き出される唄は、確実に男の脳髄を侵食しはじめていた。

 時間にするほど一分ほど。僕の唄はそれで途切れた。

 目の前の男は全身を弛緩させながら、危なげな足取りで玄関を出て行った。僕は確信を持ってそれを見送った。

 

 

 死の気配を感知した僕はそれを呼び寄せる。

自ずと光を放つそれは僕の望むがままに、開け放たれた窓から飛び込んでくる。

僕は自分の形而上の力がグロテスクに進化したことを感じた。

 男が路上に止めてある車の中に戻ってから、ボールペンで喉笛を突き破って死んだというのを僕はニュースで知った。

 回収した死で精神を鎮静化されたアヤメさんは、実に幸せそうな顔で眠っている。

その髪をそっと撫でながら、僕は実に清々しい気分を味わっていた。僕にアヤメさんを幸せにする力があることが誇らしかった。

 

 

 人の命の燃え尽きる様を見る明彦君の視線は、理科の時間にスチールウールの燃焼実験を見る中学生のそれと変わりはなかった。

 屍の山と血の河を作り続けて私たちは毎日を過ごしていた。

 明彦くんは時折、二階の部屋の窓から遠くを眺めている。そんな時は唄を歌っているのだ。私にそれは聞こえない。けれども感じる。

 死にたがりを視界内に呼び寄せる唄、死にたがりを死なせる唄。明彦くんは私のために死を量産する。

 明彦くんはどれほどの人間を死に追いやっているのだろう。

例えば遠くから急ブレーキの音なんかが響いたり、火柱が上がったりすればわかりやすい。けれどもそんな派手な死に方をするのは、それほど多くはない。

私の感知していない死はどれほどあるのだろう。時々不思議に思う。

 私はイメージする。明彦くんから伸びるグロテスクな目に見えない触手を。

それは街中を這い回って人々を吟味する。死にたい者がいればそれを捕食する。

老いも若いも男も女も、学生も会社員も教師も公務員も僧侶も神父も牧師も等しく死んでいく。

 そしてその明彦くんが捕った死は全て私のものとなる。私の日々の糧となる。

 私はパパを殺したことを思い出してから、前以上に生きることを疎んじるようになった。

生きたくない。けれども死にたくはない。みっともなく無様な感情。それを救ってくれたのはやっぱり明彦くんだった。

 死は私を明るくさせる。死は私に希望を与える。

 明彦くんは言う。

『アヤメさんにとって人間というのは自身と僕のことを指す言葉。僕にとっての人間というもは自身とアヤメさんのことを指す言葉』

『アヤメさんは罪の意識なんて感じなくていいんです。だって誰も人間は死んでいないんですから』

 明彦くんの耳あたりの良い言葉を聞いて、まあそれでいいかと思う。

今はもう、誰がどうなろうと興味はない。

 これから私は明彦くんと二人で生きていくのだから。明彦くんと二人でしか生きていけないのだから。

 私は死を毎日毎日過剰に流し込まれている。今の私は少なくとも幸福だ。満ち足りている。

 それが幸福と感じなくなったら明彦くんと一緒に死ねばいい。明彦くんもそれは了承している。

 羊膜に包まれる胎児のように、私は死に包まれながら眠る。

心地よいまどろみ。しばらくの間は生きていようと思う。

 

 

 もともとこの街は治安のあまり良い方でもない。

 けれども、さすがにやり過ぎたようだ。ここ数ヶ月の自殺者の数は誰がどう見ても異常過ぎる。

カルト宗教のせいだとか、毒ガスのせいだとか、新聞やテレビは好き勝手なことを言って盛り上がっている。

 日に日に家の周りが騒がしくなってきていた。

騒ぎの中心に位置する僕らの家には、マスコミだとか研究者だとかいうのも毎日のように訪れてくる。

無遠慮に鳴らされるインターフォンに嫌気が差して、スイッチを切った後もノックの音と呼びかけ声は家の中に響く。

煩わしい。

 

 

 アヤメさんと抱き合って午睡を取っていたが、ふと気がつけばアヤメさんの姿がなかった。

 ベッドの脇の窓から下を見下ろすとアヤメさんは一人、何をするでもなくただ空を見ていた。

 僕がサンダルを突っかけてアヤメさんの隣まで歩いていくと、アヤメさんは僕に一瞥をくれた。そして目を再び空に向ける。僕も同じようにして空を眺める。夕方の喧騒が少し五月蝿い。

 小さい子供たちが笑いながら走っていく声。自転車のベル。車のエンジン音。

「……夕日が沈むわね」

 沈黙はアヤメさんの方から破られた。

薄汚れたこの世を隅々まで照らし出す世界と、汚いものも美しいものも平等に黒く染め上げる世界との中間にある、紅の世界。アヤメさんは瞳までも緋色に輝かして、そのうたかたの世界を見ていた。

「私のおじいちゃんとおばあちゃんの住んでいた家ね、まだあるのよ」

 写真で見たことのある、二つ隣の県にある古い瀟洒な家を思い出した。

「ここはうるさいの。私は静かが好き。明彦くんと一緒に静かに暮らしたい」

 アヤメさんは訥々と語り始める。もうこの家に、つまり伯父さんに一切の未練もないのだという告白だった。

全てを捨てて、新しい場所で僕とひっそりと生きたい。アヤメさんはそう願っていた。

 僕らは縁側に腰掛けながら話をした。昔のこと、最近のこと。

 気がつけばもう夜。

 劇が終わり、耳がつぶれる程の拍手を纏って幕が静かに下りていくような、夜の訪れ。

 夜の彼方には雲も無く、星も無く、月も無い。

 そんな夜と共に、僕たちは歩き出した。永遠よりも永く遠い場所を目指して。

 

 

ふんわりとした柔らかい風が傍らを通り過ぎた。その風の行方に目をやる。風の吹いていった方向には自然公園の広大な敷地。そこは薄紅の色彩で統一されていた。

 ただひたすらに桜色の濃淡が大地を染め上げている。

 特に示し合わせるでもなく、当然のように足並みを揃えて公園の中へ足を踏み入れる。ただただ、奥へ歩く。

 空中には粉雪のように桜花の花弁が風に舞っている。桜、桜、桜、桜。桜。ひたすらの桜。

 くるり。くらり。ふわり。くら、くらり。桜花が風に揺れて舞う。くるくるくるくると舞う。噎せるような花の香りが二人を包んでいた。

 春風に吹雪の如く舞う桜花を身に纏いながら、二人で桜を踏みしめながら無言で歩く。

 暫く行った所で、鞄の中から包みを取り出し、その袋の口を開けると、虚空に向けてその中身を振り撒いた。

 さら、さら、さら、さら。疾風に乗り、かつては人間の一部だったものが飛んで行く。二人でぼんやりとその黒く細い物体を見ながら、その後をゆったりとした歩みで追った。

 幾億万の桜花による薄紅色の霞に包まれて、ただ歩く。

 幸せだった。これから二人の世界がはじまる。誰にも邪魔されない、二人だけの世界。

 気だるいまどろみに似た幸せの中。

新春の日差しで軽く汗が滲んだ額を拭って、木々の切れ目を見上げた。

 ぞっとする程清らかな青空がそこには待っていた。

 

 あの街の風景は、もう忘れた。