日本の未来を考える  

商品からの離脱という視点

 

●社会改革の問題●   現代社会の問題


3章「競争社会」の呪縛からの脱却

1 資本主義における商品生産経済のフォーディズムとは
20世紀に入って、 T型エンジンの大量生産化に成功したフォードは、19世紀までの資本主義とは一味
違った、つまり労働者を徹底的に絞り上げて搾取する手法ではなく、労賃を労働に応じて与え中産階級を
育成し、大量生産、大量消費型経済の下で利益の獲得を狙った経済システムです。
それと時を同じくして家電製品の大量生産の道、特にテレビの普及は消費拡大の重要な宣伝媒体となり、
大量生産、大量消費型経済のフォーディズムを成功させる大きな原動力となったのです。
そしてフォーディズムの成功は、20世紀初頭のアメリカ型商品生産経済を世界的に確固たるものとし、
アメリカの物質文明を完成していったのです。この経済の根底には、エネルギーである化石燃料の個体石
炭から液体石油への大転換で、蒸気機関からエンジンへの転換に影響を与え、自動車産業に大きな変化を
もたらしたのも大きな要因の一つです。このようにして、商品生産経済の中産階級を育成した大量生産、
大量消費型フォーディズムの成功は、20世紀の資本主義の形態を大きく変えたことも一つの特徴と言え
るのではないでしょうか。
また日本においても、このフォーディズムの成功は、商品経済の、
労働をして、賃金を得て、商品を購入して、生活する、という労賃
生活のプロセスを私たちの生活の中に深く浸透させるうえで、永い
時間は必要としませんでした。そして、この物質文明の受け入れは
国民にとっても大きな魅力であったことは間違いのなかったことで
1960年代から始まる高度経済成長は、農山漁村からの土地離れ
促進し、この物質の魅力にはかなわなかったのです。
そして90年のバブル崩壊は、商品生産経済の矛盾の噴出で、競争
原理とフォーディズムのジレンマが始まったのです。
余談になりますが、私が高校生時代に見ました映画「ジャイアンツ」、女優ロバート・テーラー、新人男
優ジェームス・ディーン、ストーリーは19世紀後半のアメリカを描いた映画で、移民開拓者ジェームス
・ディーンが石油を掘り当て、巨万の富を得、移民開拓者として大成功を収めた。ラストシーンは、富豪
者や政治家を招待しての大舞踏会の上で酔いつぶれるシーンは、成り上がり者の結末を描いたものであ
ったのでしょう。
この映画は、新人俳優ジェームス・ディーンが名演技で大スターとなる映画であり、当時のアメリカ移民
開拓者の成功と悲劇を描いたものでした。
そして石油発掘の成功は、アメリカ物質文明の幕開けでもあり
自動車の大量生産化につながり、20世紀アメリカの栄光とフォーディズムという新しい資本主義の形態
を創り挙げていった華々しい時代の始まりを描いたものでした。
そうした意味で紹介してみました。
 
2 競争社会とは…人間の分断です(NHK人間講座より、内橋克人氏)
私たちは今、一人ひとりが労働力という商品を売って、賃金を得て生活していることについて1章で述べ
ました。商品は自然な形で自ら競争を生み、競争は勝者と敗者を生み、人間関係は希薄となり、人間の分
断が起こるということを内橋氏は述べられています。競争社会という造語は、20世紀後半に入
って、それも高度経済成長期の1980年代に入ってできてきた言葉です。高度経済成長期以前の自給生
活様式が主体的生活であった時期には、競争社会などという言葉が生まれる素地がなかったのです。
それは、労働と生活が一体化しており、競争の生まれる場が存在しなかったのです。
生活の中に競争が持ち込まれてきたのは、商品生産経済の発展で労賃生活様式が主体的生活となり、市場
原理主義者たちが盛んに使った言葉で、競争のない生活や社会には発展がないなどと煽ったのです。
それは、1章で述べましたように、二つの生活様式を比較してみれば分かることです。
その一つの生活形態は、商品という概念の薄い生活様式でありました。もう一つの生活形態は、商品を介
在した生活様式でありました。二つ目の生活形態は、商品が介在しているのですから市場原理者たちが煽
らなくても、自然に競争が働く生活形態となっているということです。

そしてこの商品の生産と流通の過程で利益を生み出す仕組みは、80年代後半から商品経済のメカニズム
が壊れ始め、経済が落ち込み始めた時期と合わせるように、競争しなければ云々という競争を煽動するよ
うな言葉が出てきたと言うことです。それは、競争を煽動しなければならない事情が発生してきたと言う
ことです。その煽動に輪をかけ結果が、商品経済のメカニズム破壊にさらに拍車をかける結果となってし
まったことは、皮肉としか言いようがないのでしょう。そして競争のさらなる煽動は、人間を含む商品過
剰現象を起こし、賃金減少と消費減少の悪循環現象は、経済の収縮現象を誘発し、ジニ係数の拡大した究
極的格差社会を生成して、貧困のプロセスが出来上がってしまったのです。
それに伴う90年のバブル崩壊は、収縮経済の道を歩むことになったと言えるのでしょう。そうした市場
原理主義者たちの煽動による、80年代から起こる商品経済の、大量生産、大量消費、大量棄型のフォ
ーディズムのメカニズム崩壊は、何を引き起こしたのか。
国内でフォーディズムのメカニズムが働かなくなった商品経済は、グローバリゼーションという流行語を
創り、アメリカの次は、中国をはじめ東南アジア、インド、アフリカへとフォーディズムの海外進出以外
にフォーディズムを守る術がなくなり、それに誰もブレーキを掛けることが出来なくなり、独り歩きを始
め、資本主義の暴走が始まったと言えるのでしょう。
 
このフォーディズムという経済システムの海外進出は、私たち国民の生活がよくなるのではなく、大企業
と一部の勝ち残った中小企業と一部の勝ち残った人間のための進出であり、資本主義の成熟した先進諸国
も同じ道を歩んでおり、激化した国際的価格競争だけが残されていたということです。
最近よく耳にする言葉は、最近の若者は、グローバル化の時代に海外に行くことをためらうと酷評してお
ります。戦前は、「お国のため」という思想教育のもとに、若者たちを海外に派遣しました。経済の行き
詰まった現代は、「グローバル経済」を標語に、若者たちを海外に送ろうと、御用化した識者たちは、テ
レビや新聞などで盛んに宣伝しております。
旅行に行くのではないのです。一部の人間のために、経済侵略戦争に行くのだということを肝に命じてお
いたほうがよいのでしょう。
戦争は、一人の、一国の、エゴイズムの拡大でしかないということを歴史は
教えております。そしてフォーディズムの進出を受けた国々は、いずれ先進国が歩んだフォーディズムの
メカニズム崩壊というプロセスを経て、賃金に頼った生活は、今までの自分たちの生活は自らの力で生活
する場を失って、先進国が歩んだシナリオ通りの道を歩むことになるのです。

明治以来、効率を求めて生産技術の発達した今日、商品経済の宿命と
も言える競争原理さえ緩和することが出来るならば、商品過剰現象は
緩和され、お金が一部の人間に集中することも緩和されて、物質的に
も、文化的自由時間も確保されて、人間の安全保障が確立された豊か
な社会、それは、自分たちの生活は自らの力で生きる場を創りながら
生活するあり方が、自然な形で創られ、「競争社会」の呪縛から自然
な形で解放されていくことになるのでしょう。
つまり競争社会とは、
商品によって生み出されてくる競争によって、人間を破壊し、生活を
破壊し、商品経済を破壊し、最終的には地球をも破壊する商品で成り
立っている社会と言えるのではないでしょうか。
 
そしてそのことは、世界中の70億人という人口が、大量生産、大量消費という欲望を満たすための生活
を始めたならば、地球はどうなるのか、その無残な答えを待つ必要はないのではないでしょうか。
競争原理を最大限に発揮させようとする環太平洋パートナーシ
ップ協定「TPP」とは
貿易の関税規制を全廃して、貿易を自由化す
ることです。アメリカが20世紀初頭に始めた中産下級を育成して、
商品を大量に生産して、労働者に大量消費させた中で、利益を得てい
こうとした商品生産経済のメカニズムが20世紀後半から壊れ始め、
08年のリーマンショックで
壊滅的な打撃を受けました。
でしょうか。そして日本も同様に、バブル崩壊後、商品経済のメカニ
ズムは壊れ、窮地に追い込まれております。韓国は、1997年の財
政危機で、IMFの援助を受け、競争原理の強く働く仕組みを創り挙げ
大企業は輸出でGDPを伸ばしましたが、非正規社員は6割にも達し、
正規社員も40歳から50歳で失業に追い込まれ、自殺者が増大、強
力な格差社会を創ってしまいました。
 
財政危機に陥った国々は、IMFの援助に頼ります。IMFはそのかわりに規制緩和を求めます。その規制緩
和とは、賃金の削減であり、社会保障費の削減であり、公務員の削減であり、消費増税など国民に負担を
強いることです。つまり、大企業と国は助けるが、国民には貧を強いるということです。こうしたことが
が今、ギリシャで行われており、次は、スペインかポルトガルかイタリアかと言われております。
こうした財政赤字と高失業率は、先進む諸国の病気と言われており、昔、繁栄を謳歌した国々と今、繁栄
を終えようとしている先進諸国と言われる資本主義の重傷ともいえる共通した病気で、国内では解決でき
なくなっているということです。
 
 
その解決策を、未開発国へのフォーディズムの輸出に求めており、それ以外に解決の方法がなくなったと
いうのがアメリカの追い込まれたTPP協定の目的と言えるのでしょう。もう一つの重要なことは、弱体化
してきたアメリカVS力をつけてきた中国という構図です。経済が活発化してきたアジア圏の経済の指導
権争いとドル通貨支配が、日本を巻き込んだアメリカの最大の目的と言えるのでしょう。いずれにしても
TPP協定は、貿易を自由化して、農業だけではなく、人、サービス、モノ、資本を自由に移動させ、世界
的にあらゆる分野で競争の働きを激化させ、世界的規模で商品過剰現象を起こし、競争原理と経済成長の
ジレンマに陥ることになるのです。
経済の目的は成長そのものではない、経済は本来私たち国民の繁栄をもたらし、より良い生活を可能にす
ることです。
今、中東で起こっているように、貧困と2極化が進んでからでは、急激な社会変革を求める
ことになります。
王制国家や独裁政権を倒したとしても、永い社会混乱を予測しなければなりません。
その挙句、また違った権力者が登場して、元の「競争社会」の鞘に収まるというのがこれまでの歴史です
何回も述べますが、経済のメカニズムが壊れた早い段階から、自給生活に含まれる、持続可能な社会発展
に必要な4つの要素を競争社会の中に組み込み、穏やかな社会変革を求めて進むことが、懸命な手法であ
るということを。
  少し話は変わりますが、経済評論家内橋克人氏は、現在の市場経済
学のほかに、人間経済学を創る必要があるのではないかと述べてお
ります。勝手な解釈をさせてもらえるとするならば、商品を理念と
した市場経済学は、独り歩きを始め、誰も止めることが出来なくな
っており、それなら、勝手に一人でアジアの次は、アフリカの山奥
へと低賃金を求めて歩いて行けばよいということを述べられている
のでしょう。商品という視点で解釈すれば、「巨大な商品という背
後霊」を背負った政治家や大企業の人間たちは、お金を推進力とし
た価格競争に打ち勝つために、日本最大の技術を売り物にした高性
能なエンジンで、経済成長の呪文を唱えながら、東南アジアやアフ
リカの山奥へと低賃金の「餌」を求めて進めているということにな
るのではないでしょうか。
そして、「小さな商品という背後霊」を背負った私たち国民は、その「巨大な商品という背後霊」に従っ
て、只々ついていく以外に方法はなくなっているのです。
私たちは、本当の意味での人間と国に重きを置いた、そして地域に密着した新たな経済学を望むところで
す。
そして「競争社会」の最終勝利者は、欲望を満たすために競争という競い合いで、勝ち残った一人の
独裁者であり、一つの帝国主義国家なのですから。
3 自己責任論
競争社会における重要な側面として、自己責任論を述べておかなければなりません。つまり、敗者は救済
しないということです。それが自己責任論です。2010年2月21日NHKクローズアップ現代「助けて
と言えない30代の胸中」を見て、競争社会という視点で自己責任論を考察してみます。
中学生時代から自己責任を押し付けられて、30歳になった若者たちは、競争に負けて、自分が悪いとい
うことを自分に押し付け、助けを求められず、ネットカフェや路上生活に入り、路頭に迷うことになるの
です。識者やNPOの人たちは、援助の方法や同情的援助の方法は提供するのですが。このような状態にな
っているのですから、急場凌ぎ的には非常に大切なことですし、行動を起こさなければならないことなの
でしょう。しかし、それだけの論点だけで問題が解決することなのでしょうか。
30歳だけの問題だけではないのです。40歳、50歳になっても同じで、職を一回離れた人たちは、も
う次の仕事にありつけないほど、問題は深刻になっているのです。
なぜなのでしょうか? 繰り返しにな
りますが4つほど述べてみます。

一つ目は、バブル崩壊後、経済が収縮していることです。
二つ目は、生産技術の向上で、労働力が過剰となっていることです。
三つ目は、「競争社会」の非人間的側面で、敗者の戻る場を失くしてしまったことです。
四つ目は、バブル崩壊後の社会問題を列挙すれば理解が早いと思います。
 
 
●1990年 バブル崩壊
●1993年 平成の不況
●2000年 ITバブル崩壊
●2005年 非正規労働者の製造業への解放
●1997年から2008年
 年間自殺者数32,000人以上10年連続
 無縁死者数年間30,000に異常
●2007年度 貧困率(OECD)15,7%、アメリカに次ぐ世界第4位
●2009年 65年間続いた自民党政権崩壊
(戦後のフォーディズム推進政党)
●2010年 高度経済成長のシンボルであった日本航空(JAL)破綻 
以上20年間の流れを見れば一目瞭然、この10年間で平均年収は10
0万円低下しております。
フォーディズムの破綻で、商品過剰現象(モ
ノと労働力)という重荷を背負わされて、敗者の道を歩き続ける以外に
道は残されていないのです。
あるのは、あなたの努力が足りないという
自己責任だけです。
つまるところ自己責任論は、競争社会の中から生ま
れた、敗者への贈る言葉であったのかもしれません。
解決策は、今まで
に何回となく述べて来ましたように、経済の、生活の、メカニズムが壊
れてしまったのですから、根本的に社会生活の仕組みを変えていく以外
に方法はないということになるのではないでしょうか。その仕組みは、
お金や大きな労力は必要ありません。必要なのは、私たちの意識を変え
ることです。そして諄いようですが、自分たちの生活は自らの力で生き
る場を創りながら生活するという、人間の根本的な生活のあり方に立ち
返ることなのではないでしょうか。
4 「商品からの離脱」という視点
「商品からの離脱」などという発想は馬鹿げたことであり、商品の介在しない社会などあり得ないと思わ
れている方の多いことは現実です。
特に、高度経済成長期以降に生まれた人たちは、その時はすでに、す
べての生活活動が商品を介して生活する仕組みとなっていたのですから、当然「商品からの離脱」などと
いう考え方を、馬鹿げたこととして否定されたとしても不思議なことではないのかもしれません。論理的
問題と現実の間に折り合いの付かないことは、多々存在することです。
しかし、社会発展という問題を論理的に、そして原理的に見つめなけれ
ば、未来社会は空虚な実態を想定することになってしまうのではないで
しょうか。
社会発展の仕方には、合理性が生み出す矛盾が時間の経過と
共に不合理性を生み、自己止揚して一層高い段階のレベルへ発展させる
という、弁証法的社会発展の仕方があると言われております。
資本主義商品生産経済の合理性は、時間の経過とともに商品の生み出す
矛盾によって、不合理性を生み、資本主義という商品経済のメカニズム
が壊れているという現状認識は重要なことなのでしょう。
 
しかし、現実はほとんどの生活が、商品を介した生活となっているのですから、その認識の理解は困難と
言えるでしょうし、次の社会へ向けての出発は、さらに困難がついて廻ることは予想できます。

困難の問題と必然的時の流れの間には、筋道や時間の隔たりが存在したとしても、行き着くところへは行
き着くというのが、宇宙の摂理に基づいた時の流れということになるのではないでしょうか。

1章で述べましたように、つい最近まで存在していた自給生活様式の中には、持続的に社会を発展させる
ために必要な四つの要素が含まれておりました。
 
 
その四つの要素の一つである「商品からの離脱」という要素の理解と行動、それは消費社会において「も
ったいない」という小さな行動が、競争を生み出す商品から離れていく第一歩となるのではないかという
ことです。
つまり、二つの生活をハイブリッド化した生活形態の中に、私たちが商品をどのような位置に
据えるのか、どのように扱うのかによって、未来の社会像も変わってくることになるのでしょう。
そして
もう一つ重要なことは、私たちの生活に大きな影響を与えている政治形態です。その政治形態の中に、社
会を持続的に発展させる必要要素が含まれているかという疑問です。
現代における議会制民主主義制度は、資本主義の階級的競争社会の生み出す矛盾の緩衝材としての働き、
または、隠れ身としての役割を果たしているのではないかという疑問です。
封建的社会制度のヨーロッパにおけるフランスのブルボン王朝や、イギリスのヴィクトリア王朝の絶対王
政支配下のもとで生まれた国民主権の議会制民主主義制度は、ブルジョア革命とも云われ、金持ちに与え
られた国民主権とも言われており、その当時としては、大きな社会変化と言えたのでしょう。
つまり、民主主義制度の必要性の問題は、絶対王政の支配下あるいは、独裁政権の支配下の中で発生する
問題として捉えるべきなのでしょう。
しかし、現代の資本主義制度の階級的競争社会における国民主権は、資
本家も労働者も国民であるということです。
現代の矛盾の多くは、階級
的競争社会の商品が根源となって生みだされていると言っても過言では
なく、支配形態の構図がその当時と大きく違っているということです。

つまり、資本主義商品生産経済の階級社会を建前として、国民主権の議
会制民主主義制度という政治形態が成り立っている訳です。
その政治形
態の中に、社会を持続的に発展させる要素が含まれているかとなれば、
非常に疑問となるところです。
そのことが今、先進諸国が抱えている大
きな課題と言えるのではないでしょうか。
そしてその課題は、商品経済
のメカニズムが壊れ、行き詰まった資本主義の後の社会の仕組みを政治
が示すことが出来ないというより、示すことをためらっているという課
題ではないかとも言えるのです。
広辞苑によれば、議会政治とは、国政の最高政策を議会で決定する。もう一つは、資本主義から社会主義
への変革を、議席を多数獲得することで可能とするとあります。社会主義とは、生産手段の社会的所有を
土台としている社会制度、およびその実現を目指す思想・運動とあります。狭義には、資本主義に続いて
くる共産主義社会の第一段階とあります。共産主義とは、私有財産制の否定と共有財産制の実現によって
貧富の差を失くそうとする思想・運動とあります。
  そして資本主義とは、封建社会の跡を継いだ人類社会の生産様式の商品
を生産する形態で、あらゆる生産手段と生活資料とを資本として所有す
る有産階級(資本家階級)が、自己の労働力以外に売るものを持たぬ無
産階級(労働者階級)から、労働力を商品として買い、その価値を使用
して生産した商品の価値との差額(剰余価値)を利益として手に入れる
経済組織とあります。
つまり、資本主義の後の社会形態は、議会制民主
主義制度のもとで議席を多数獲得し、政治権力を握り、私有財産制を否
定して、共有財産制の共産主義の第一段階である社会主義を目指すとい
うことになるのでしょうか。
もし労働力以外に売るものを持たぬ労働者
階級が、唯一表現の出来る投票(選挙)において多数議席を獲得し、政
治権力を握った場合、二つのことが考えられるのではないでしょうか。

 
一つは、議会の多数決によって、私有財産制を否定し、社会的共有財産制に決めた場合、有産階級者(資
本家)たちは「はい、そうですか」と簡単に手渡すでしょうか。つまり、価値観の急激な変化が起こるの
ですから、その段階においては労働者階級側の政治権力によって抑圧することになり、資本家たちの猛烈
な抵抗が起きたとしてもおかしくはないことなのでしょう。もう一つは、資本家たちは、私有財産や生産
手段を海外に移すことも考えられます。いずれにせよ、永い間の社会混乱は避けて通ることは出来ないで
しょう。
そして、資本主義の階級的競争社会における政治権力の移行は、経済を私有の資本で運営されるのか、共
有化した資本、例えば国家資本で運営されるかの違いに過ぎず、国家資本で運営されれば、資本主義の最
大の欠点でもある生産調整はされ、商品過剰現象は緩和されるのかもしれません。しかし、商品の形態と
労賃生活の形態は依然として社会の中に残ることになり、この二つの形態を否定する社会形態が見えてこ
ないということが、今資本主義国が抱えている問題点といえるのかもしれません、つまり、革命的社会変
革であれ、民主主義的な手法による社会変革であれ、商品の形態と労賃生活の形態の扱い方が、後の社会
形態を大きく左右することになるのではないかということです。
しかし、民主主義の成熟した資本主義の国々を覘いてみても、資本主義商品生産経済という階級社会の中
で、現実は、政治のテクニック的混乱を巻き起こし、1%という富裕層の出されたカードを、国民に選ば
させているという選挙の構図は、私たち国民の責任ある問題として捉えなければならないことなのかも知
れません。穿った見方をすれば、政財界人や識者と言われる人たちや1%の富裕層の人たちなどが、事あ
るごとに「民主主義の国である」と自慢げに評価をしているのもうなずけるのかもしれません。
それは、先に述べましたように、議会制民主主義制度が競争社会の商品が生み出す矛盾の緩衝材、あるい
は隠れ蓑として存在しているからなのではないかという疑問です。
カテゴリイは違うのかもしれませんが、民主主義を、江戸の協同と協調で成り立っていた成熟した自給文
化と現代の商品で成り立っている競争社会の民主主義という構図で捉えてみる時期なのかもしれません。
何回も述べておりますように、民主主義も、何々主義には変わりはないということを付け加えておかなけ
ればならないということなのでしょう。そして、政治の混迷と経済の混迷の中で、資本主義の後の社会の
仕組みが見えて来ないということは、商品経済の矛盾を抱えながら、資本主義という文明だけが、歴史始
まって以来、初めて永遠不滅の文明となるのかということです。
  当然資本主義という経済システムの中で利益を得ている1%という富裕
層の人たちは、資本主義の継続を望むことであろうし、その努力もして
いるのでしょう。
地球上が過剰なまでの商品で埋め尽くされたことによ
る矛盾は、次世帯へ向けた社会の仕組みを示すことが出来ないで、地球
規模での動脈硬化を起こしております。
それでも1%という富裕層の人
たちは、今の体制を維持しようとしています。それは単なる富裕層と言
われる人間たちのエゴイズムにほかならないのではないでしょうか。

明を歴史の流れの中で捉えた時、その文明に存在した大多数の人は、そ
の文明をその時点で永遠不滅と考えるのでしょう。
しかし、これまでに存在した文明は、内部矛盾の増殖と外的要因によって、支配者たちの永遠不滅の希望
は、叶えられなかったということが歴史的事実です。こうした中で、私たち国民の大多数である労働者は
商品経済の中で商品化され、消費されるだけの価値しか持てない存在となっているということです。
商品経済の最大の悲劇は、人間を完全に商品化してしまったことなのではないかと、私は考えております
つまり、私たちは「商品からの離脱」という行動がなければ、人間という商品から本来の人間に戻ること
が出来なくなっているということです。
 
 
 
これ程までに、人間が商品化され、お金が商品化され、商品が猛威を振るっていた時代はなかったのかも
しれません。
今までに必要以上に述べてきましたが、人間の尊厳回復は、商品から少しずつ離れていくと
いうキーポイントと社会を持続的に発展させる要素を含んだ自給生活を「出来る人が」「出来るところか
ら」少しずつはじめ、崇高な社会発展を探求していく過程の中で育成されていくのではないかということ
です。20世紀に大量生産、大量消費のもとで発展してきた先進諸国は、経済成長と競争原理のジレンマ
に陥り「99%と1%」という究極的格差社会を創り挙げてしまい、この格差を拡大していかなければ、
1%という富裕層の利益を維持できなくなってきております。
つまりこれが、商品の持つ原理的側面と言えるのでしょう。今、農業を
職業としている人口が260万人と言われており、それがさらに減少す
る方向にあります。そして、農地を借りて休日菜園している人口が20
0万人と言われており、年々増加の傾向にあります。こうした菜園活動
が商品から少しずつ離れ、自分たちの生活に必要なものは、自分たち自
身で創るという自給生活のプロセスの中に存在する、人間に大切な要素
が育まれ人間尊厳回復の糸口になってくるということです。そして、1
章で述べました、二つの生活様式の商品を扱う構造的違いを理解するこ
とによって「商品からの離脱」ということが馬鹿げたことではなく、人
間本来の生き方に立ち返るのだということが解って来る筈です。
 
そうした支配者や1%という富裕層の論理に惑わされてはいけないとい
う歴史的事実は豊富に存在しております。
宇宙の摂理に基づいた時の流
れは、権力者や金持ちなどのエゴイズムの力では止めることは出来ない
ということが歴史観と言えるのでしょう。生活は理屈ではないのです。
「商品からの離脱」という生活を実践して体験する以外に理解する方法
はないのです。そしてその思想を後世に受け継ぎながら、何世帯も時間
をかけて発展させ、商品から少しずつ離れながら、持続可能な社会を形
成していく以外に方法はないということになるのではないでしょうか。
ここでの商品とは、増殖していくお金の介在した商品を意味しており、
貨幣の介在した商品とは違うということです。
 
そうした地道な生活活動が人間のエゴイズムを和らげ「資本主義の暴走を食い止め、どのように資本主義
を平和的に終わらせていくのか」という、人間の壮大な社会実験が始まるということになるのでしょう。
5 共生的自給生産経済における地域産業と自給活動
今日のあらゆる社会問題の矛盾は、競争を原理とした商品生産経済の商品を介在した生活の構造から生ま
れてくるのであるとするならば、ここからの脱出には、私たちの生活の質的変化がなければならないとい
うことになるのではないでしょうか。例えば、労賃生活をしてきた私が、定年退職をして、労働をして、
賃金を得て、という生活過程の80~90%を占めていた部分を失うことになりました。残ったのは、年
金の約250万円位の年収と365日の休日で生活することでした。贅沢は出来ないが晩酌付の3食と雨
風を凌ぐ程度の家、そして、健康管理としての家庭菜園とウォーキングが日課となりました。
 
 
 
このままの生活が続けられるのであれば、私個人としては何の不満もありません。それどころか、労働を
して、賃金を得て、という生活のほとんどを占めていた部分がなくなったということは、年収が激減した
とはいえ、何十倍も人間としての生活を満喫しております。定年当初、年収が激減したにも拘らず、異常
なほどの解放感を感じ続けておりました。定年前の仕事が嫌だったというより、どちらかと言えば、私に
は合っていたと言えます。それなのになぜ、と思いつつ日時が経過していきました。そしてこのハイブリ
ッド社会を執筆するに当たり、二つの生活様式を解析しているうちに謎が解けてきたのです。
それは、私という人間が、労働をして、賃金を得て、つまり労働力という商品を売るという労賃生活のプ
ロセスの中で生まれてくる人間の商品化、その商品化されていたことからの解放であったのではないかと
いうことに気付いたのです。つまり、商品からの解放が、本当の意味での自由とか自主性を得ることが出
来たということであったのでしょう。こうしたことは、気付きそうで、なかなか気付かないことなのかも
しれません。この人間の商品化ということは、年収が高いとか、低いとかに拘わらず、工場で働く人であ
ったり、お医者さんであったり、学校の先生であったり、公務員であったり、政治家であったり、裁判官
であったり、警察官であったり、職業とは関係なく労賃生活をしている人たちは、商品化されているとい
うことになるのです。
 
 
自動車に例えてみれば、5,000万円の車でも、100万円の車でも
また、乗用車でも、トラックでも、バスでも、価格や性能や機能、そし
て形状の違いがあったとしても車には変わりはなく、モノとして市場で
競りに掛けられ、商品ということになるのです。

人間にしても同じことです。5,000万円の収入の人でも、100万
円の年収の人でも、労働力という商品を売って、お金を得て生活をして
いるのですから、人間から労働力だけを切り離すことが出来ないかぎり
人間も車と同様に、市場で競りに掛けられ価格がつけられて、商品化さ
れていくということになるのです。
こうしたことが、二つの生活様式
を解析することによって、定年後考え続けてきた、解放感の意味が理解
でき、またそれと同時に、商品の介在の薄い生活と商品で埋め尽くされ
た生活の大きな違いを理解することが出来ました。
そしてその解放感は、私の肩に背後霊のように40数年間伸し掛かっていた化物が、取り払われた気分で
あったということなのでしょう。しかしそうした商品で埋め尽くされた、人間否定ともいえる生活形態、
そして収縮していく経済に対して、ネガティブにならず、ポジティブに思考する生活が大事なことで、御
用化した評論家たちの世迷言に惑わされずに、自分の生活を素直に見続けることなのではないかと思いま
す。そのポジティブな生活とは、2章で述べましたように、Bエリアでの生活をどの程度の割合で出来る
のか、つまり、食、エネルギー、ケアーをはじめとする自給活動と休日の増加とワークシアリングという
3点セットの割合を自分たちが自主的に決めていく中で見えてくるものなのではないでしょうか。
この自給活動というのは、人間本来の生活という意味からすれば、ポジティブな生活であり、崇高な未来
を見つめた生活形態となっているのではないかということを述べてきました。
  また、そのポジティブな生活形態とは、例えば年収228万円「貧困率
とは、経済協力開発機構(OECD)によれば、国民全員の等価可処分所
得の高い順に並べ、真ん中にあたる額228万円、その半額114万円
以下の割合15,7%が2007年度の貧困率です」つまり、等価可処
分所得の真ん中の家族年収と週休4日、または5日であれば、4人家族
で自給生活が出来るのではないかということです。これからも、経済が
収縮していく中で、帰農者が益々増加していくことでしょう。この現象
は、単なる経済的な問題だけではなく、先ほどから述べておりますよう
に、人間の尊厳回復という問題が大きく関わっていることなのです。
市町村の自治体も、もう少し自給生活様式に理解を示し、自給生活のし
易いシステム創りをしていきたいものです。ではここで、等価可処分所
得の真ん中の年収228万円で週休4日の自給生活ができるのか、例を
挙げて考えてみます。
 
<例―1>
2世代4人家族構成の場合(夫40歳、妻38歳、子供12歳と10歳の2人)
夫は週3日間の自給活動と自由時間、4日間を労賃活動で自給の不足分を補う
妻は週5日間の自給活動と自由時間、2日間を労賃活動で自給分の不足を補う
2人の週の労賃活動日は6日となり、月換算で2人の労賃活動日数は24日となります。
時給1,000円で計算すれば、1日8時間労働で8,000となります。
2人の年間労賃活動日数は288日で、残り442日は自給活動と自由時間です。
4人分の自給活動に費やする時間は、2人で1日3時間あれば十分です。
農繁期は集中的に働くことになるでしょう、農閑期は0時間に近いです。
農産物は、家族が食べる分とし、商売にしないことが条件となります。
例えば、時給が800円になれば、労賃活動日を増やすことになります。
<例―2>
3世代6人家族構成の場合(お爺ちゃん68歳、お婆ちゃん65歳、若夫婦、夫40歳、妻38歳、子供
12歳と10歳の2人)

こうした3世代家族構成であれば老夫婦はまだ十分に2人で自給分の菜園活動は出来ます。
若夫婦は一人当たり平均週3日間の労賃活動、4日間は自給活動と自由時間となります。
食に関しては、4人でも6人家族でも自給日数は大きく変わりません。
ただし、農産物を商売にしないことが大事なことで、少量多品目菜園型が条件となります。
3世代家族構成の方が圧倒的に余裕のある生活となり、自由時間が圧倒的に多くなりますから、家庭内で
誰かが病気になれば、誰かが面倒を看ることが出来、ケアーの自給が自然な形で出来てくるのです。
このようなことは、自給が支流であった私たちが子供のころは、当たり
前のことで、小さい子供のいる家庭では、老夫婦が子供の面倒を看る、
反対に子供が老夫婦の面倒を看る、その中に温かい家庭の絆が生まれて
くるのです。以上のように、自給生活の中に生まれてくる色々な要素が
今一番求められている親子の愛情や人間尊厳回復に大事なことなのです
つまり、等価可処分所得の真ん中の家族の年収228万円を得るための
労賃活動として、週4日~5日間のワークシアリングと週休3日~2日
間の自給活動で、今までの労賃生活にはなかった文化的自由時間の豊富
な生活が出来るのではないかということです。経済の目的は、成長その
ものではなく、私たちの生活を豊かにすることです。
現在の経済は目的を取り違えて、成長なくして国民の豊かさはないなど
と述べておりますが、この20年間を見れば、一部の人間のための経済
であったことが、貧困率の増加でもはっきりしてきました。
 
21世紀のこの混迷が深まっていく中で、自分たちの生活は、自分たちの力で守っていくという人間本来
の自給生活に立ち返ることなのではないでしょうか。今、消費するという生活の概念を変え、質を求めた
生活に切り替えていく時期です。そうした観点から、地域産業の重要性と食、エネルギー、ケアーなどの
自給活動について述べてみたいと思います。
a) 地域産業について
 ハイブリッド社会を創っていくために重要となってくる地域産業は、地域に寄与するという理念が最も
 重要なことで、経済成長のための産業ではないということだす。

地産地消が基本
地域の特産物や加工品の生産
地域住民のワークシアリングの容易化
地域の人口や消費能力に合った生産量を考慮
 
 
 重要なことは、エネルギー生産の分散化、小型化、地域に合った再生可能エネルギーの活用、太陽光、
 風力、小型水力、地熱、バイオマスなど装置産業の育成、分校型大学との協同研究

地域医療介護などの根本的見直し
学校、幼稚園などと介護老人ホームなどの併用、教育と住民指導体制、教育経験者の教育現場へのボラ
 ンティア参加

地域に体系化したインフラ整備
 スマートグリッドの設立、情報網の整備、ソーシャルバンク、地域通貨の設立等
地域自治体のボトムアップ型組織運営のシステム創り
コミュニティ、NPO、ボランティアの充実化
 定年者などの積極的に参加できるシステム創り
 以上列記しただけでも、自給生活に適合した産業なり組織が出来てきます。
 あらゆるインフラ整備を体系化して、住民の意思によって中長期的目標を策定することが必要となって
 きます。
何回も述べるようになりますが、農を中心とした自給活動を主体として休日の増加と地域産業を中心とし
した事業所でのワークシアリングによる労賃活動を行い、自給活動での不足を補い、物心両立する生活を
目指すのです。ですから、地域産業は、経済成長の思想とは違って、ハイブリッド社会を創るうえで、そ
して共生社会という意味からも重要な位置づけとなってくるのです。
  b ) 食の自給について近代化を求めた明治維新は、農的自給生活を未
熟で非効率的な経済活動として全否定し、近代化、効率化がすべてとし
た思想は、商品経済の拡大経済の道を奔走しました。それから百数十年
を経過してみると、農的生産経済を否定した商品生産経済一辺倒政策は
生活形態の片寄とそれによる収縮経済の流れを創り、人間の信頼関係を
見失い、エゴイズムの堆積した生活は、欲望剥き出しの社会となってし
まいました。こうした問題に、根本的なメスを入れられずに時は流れて
おります。私たちは先、食を自給して生活の安全を守らなければならな
いのですが、農を始めるためには、明日からすぐに始められるという簡
単な問題ではないということです。
例えば、全然農業をしたことがない人たちは、農的技術を学ばなければなりません、また農地の確保、農
的法律の問題を含めて、世の中はすべて労賃生活のシステムとなっておりますから、学ぶ事はたくさんあ
るということです。そこで、現代農業、2003年8月増刊号に記載されておりました、川勝平太現静岡
県知事著「農的生活への回帰」の中に、農村を究極的ゴールとする、七つの架け橋を紹介しておきます。
「ガーディニング」「家庭菜園・市民菜園」「教育」「農村体験」「援農」「農村移住」「帰農」の七つ
で、こうした順序立てた計画が必要となってくるのでしょう。そこで農的仕事の種類を、二つに分けて考
えておく必要があると思います。一つは、ハイブリッド生活の過渡期として、食の自給がまだ出来ない人
のために、あるいは、自給分がまだ不足する人のために、そして地域産業活性化としての大中規模農業。
二つは、本来目的の自給生活の文化的自由時間の確保を探求するための小規模菜園型農業。この二つの農
業のあり方について述べてみます。
● 大中規模農業のあり方
) 少品目で高品質、低価格の追求
) 営利を目的とした経営(少品目で技術力を付ける)
) 農業をしていないサラリーマンなどへの安全で良質な食料の供給
   (地産地消を原則とする)
) 科学的農業の追求(ハウス栽培を含めて)
) 地域住民のパートを含めた雇用で地域産業に寄与
6環境問題に最大の配慮をした産業を目指す
 大中規模農業の存在は、ハイブリッド社会の発展段階においては、労賃生活者が多いので、地域産業の
 活性化としても、非常に重要な存在と考えております。
● 小規模菜園型農業のあり方
) 少量多品目の菜園型農業で文化的自由時間の確保を探求する
) 営利を求めず、家族の消費のための食の趣味としての菜園型とする
) 必要なお金は、ワークシアリングによる近隣の事業所で得る
)「菜園家族21」が提唱しているように、核家族ではなく3世代の家族構成とし、家族の協同協調で
  必要に応じた農的労働を行う

) 風景、動植物の保護をはじめ地域の環境整備を考慮
小規模菜園型農業は、自給生活と労賃生活をミックスした、多様性のある生活形態を求めていくうえで、
そして、人間の尊厳回復の中核的労働となっていく存在です。世界的人口増加は、食料と水不足になると
言われております。そうしたことから鑑みて、過剰なまでの人間の欲望充足のための農ではなく、農本来
の大地との関わりという視点が必要なのでしょう。
 
 
c) 自然エネルギーについて
自然のエネルギーを電気に変換する技術は、急速な進歩を遂げております。太陽光、風力、水力(小型)
海水揚力、地熱、バイオマスなど、その地域に合わせて使用していく、まさに自然の再生可能エネルギー
の自給は、地域産業の活性化にもなり、無償で自然の恵みを得て家庭の電化が進み、本来の文化的生活が
出来るようになるのでしょう。最近大学の実験で、人の歩く振動や自動車や電車の振動を電気に変換させ
る発表がありました。騒音でよけ者にされていた振動が、人間に役立つのですから面白い時代になってき
ました。そしてこれらの再生可能エネルギー電機は、蓄電池が必要となりますので、蓄電池の性能アップ
小型化、軽量化などの技術開発も重要となります。
地域と大学の共同開発は、益々盛んとなり、大学の地方分散が進むのではないでしょうか。こうした技術
的なことだけではなしに、音楽や絵画などの芸術分野においても、地方分散型の大学が増えていき、地域
と芸術の融合によって、地方の文化的水準も高まっていくことになるのでしょう。話は元に戻りますが、
スマートグリッドは、地域で自給エネルギー電機を相互利用するという、まさに地域の協同協調に繋がる
のです。現在国内の自動車台数は、6,000~8,000万台あると言われております。

この自動車全部にリチュウム電池を搭載すれば、現在発電されている電気量の6~8倍の蓄電が出来ると
言われており、スマートグリッドを進めるうえで非常に面白い発想と言えるのでしょう。
また、エンジン自動車から電気モーター自動車に代わることで、自動車の部品点数が3万店から3千点と
十分の一となり、ベンチャー企業が参入しやすくなり、小規模工場でも生産可能となり、エネルギー、自
動車を含めた集中生産型の時代は、終わりを告げることになるのでしょう。09年の東京モーターショウ
では、10人の企業が、2人乗りの電気モーター自動車を90万円で創っております。中国では、農家向
けの2人乗り電気モーター自動車を13万円で創っております。自然エネルギーへの流れは、20世紀の
集中型生産から分散型生産の流れとなり、産業構造と社会構造の変化が起こってくることになるのでしょ
う。ここでCO₂を放出しない、原子力発電の問題を考察しておかなければならないでしょう。
それは、安全が担保できるかという問題なのでしょう。3・11の原発事故は、政府と御用学者の「安全
神話」で国民は完全に誤魔化されました。事故後の彼らの対応は、商人思考そのもので、国のあるべき姿
という哲学らしき視点は見る影もないお粗末な対応です。「やってはいけないこと」「やってもよいこと
」を、先ずははっきりと区別することから始まらなければ、問題が混乱するだけなのではないでしょうか
「やってはいけないこと」を「安全神話」のもとに私たち国民は、受け入れてしまったことについて十分
に反省する必要があるのでしょう。原発事故と経済問題や家庭の不便さの問題を結びつけて混乱を招いて
いるのです。このような取返しの付かない事故を起こしたのですから、経済の停滞や家庭の不便さは、覚
悟しなければならない問題なのです。国民の殆どはそう思っていた筈です。
思っていなかったのは、幸福ボケをしていた国民と、原発でうまい汁を
吸っていた
電力会社や原発推進派の御用学者や政治家たちであったので
はないでしょうか。そうした人間たちは、問題を曖昧にしながら、国民
の記憶の薄れるのを待っているのが常です。またそうしたことが、上手
な政治手法と考えているから始末が悪いのです。話を元に戻します。
自然の恵みを得て生活するという文明社会を創っていくということは、
縄文から脈々と流れている再生と循環の自然状態、協同協調の崇高な文
明社会に近づく、大きな第一歩となるのではないかということです。
2章でも述べましたように、競争原理の働きとCO₂放出の限界という視
点からも、科学技術の発展を一部の人間、一部の企業、一部の国の利益
のための経済成長ではなく、私たち国民の自給文化に向けるという、極
自然な経済でなければいけないのではないでしょうか。
 
 
 
d) ケアーの自給について
社会保障などのセーフティネットを充実させるということは、その社会における弱者、例えば、女子、子
供、老人などをどのように救済していくのかという、その社会に関わる根本的な問題で、国家の哲学とし
て確立されていなければならないことなのではないかと考えております。今、何が行われているか、経済
が収縮を始め、財政赤字が増大し、弱者に一番影響の大きい、年金、介護、医療、教育などの費用削減と
消費税の増税です。こうした政策は、先進諸国が行われている、つまり市場経済学のロジックです。

それは、経済が成長している時代に創られた、お金で何でも解決できるという資本主義的生活の破綻を端
的に表している問題です。
つまり、賃金の削減、社会保障費の削減と消費増税は、一時的に財政赤字を減らすことは出来るのかもし
れません。しかし、経済は確実に収縮に向かっているのですから、消費税が20%と高い先進国も財政赤
字で喘いでおります。商品経済のメカニズムが壊れ、協同協調という自給生活を失ってしまった先進諸国
は、もう打つ手がないのです。ただ経済成長に淡い望みをつないでいるだけです。その結果が今、先進諸
国で行われている「99%と1%」という究極的格差デモに表れております。それは、お金が一部に集中
し、弱者に負担を押し付け、1%の富裕層が潤っていくという、資本主義のエゴイズムの末期的症状が現
われてしまっていると言えるのではないでしょうか。この症状は、戦争が始まるときに見えてくる特権階
級のエゴイズムの末期的症状に類似していると言えるのではないでしょうか。
賃金の削減と社会保障費の削減と消費増税という先進諸国の政策の真似
事は、財政破綻につながるということを、私たちは充分に学ばなければ
ならないことなのでしょう。経済のことは、市場に任せるという競争社
会の理念は、これからも益々社会保障費の削減と増税の方向にしか向か
わないということになります。ではどうすれば良いのかということにな
ります。江戸の古い日本には、お金のかからない、相互扶助という立派
な社会保障制度が協同協調のもとに存在していたということについては
前に述べてきました。つまり、江戸の自給文化の中には、家族や地域で
助け合うという、人間生活の根本的なことが備わっているということで
す。そして、経済で、お金で、何でも解決できるとした高度経済成長は
終え、その当時に創られてきた国民生活のあらゆる制度は、音を立てて
崩れてしまった。その一つが社会保障制度なのです。
その原因が、何回も、何回も、必要以上に述べております生活様式の一方的な偏りです。そして、もう一
つ重要なことは、労賃生活様式に見られる、与えられた社会保障制度のセーフティネットと家族や地域が
自給で創り挙げた古い江戸の相互扶助というセーフティネットの違いは、質的にも人間の根本的生き方と
いう側面からも、大きな違いがあるということが、経済が落ち込んできた現在、解らされたということな
のではないでしょうか。こうした考え方に対して必ずと言っていいほど、江戸時代の生産性の低い、物資
の少ない生活に戻るのかという洗脳された考え方に陥るということです。その前に、これほどまでに生産
性が発展したにも拘らず、なぜ、貧困が増えていくのかということを不思議に思わないこと自体、異常な
ことなのではないでしょうか。
江戸時代を批判するのもよいのですが、私たちの祖先が創り挙げた、江戸の自給文化を学ぶという真摯な
姿勢が、今や必要不可欠な問題となっているのではないでしょうか。つまり、人間を含めた商品で成り立
っている市場経済学では、ケアーシステムどころか今の生活自体が危ぶまれ、精神状態まで狂わされてし
まっているということです。そして、財政破綻を起こさないケアーシステムを構築するためには、4章で
述べますが、江戸の自給文化に存在した、成熟したコミュニティを創っていくことに尽きるのではないか
ということです。
 
 
 
6 地域通貨の創設という視点
地域通貨がなぜ必要なのか。そしてなぜ金融危機や経済危機が起こるのか、もう一度ここで考えてみたい
と思います。
80年代から強められてきた市場万能主義、市場経済競争至上主義、これらは、お金のこと
や経済のことは市場に任せておけば、すべて上手くいくということでした。その結果が、2008年9月
のアメリカ発金融危機、経済危機であったのですが、この全世界を巻き込んだ危機は、グローバリゼーシ
ョンとITが結びつき、金融工学を駆使した非常に高度な戦略に基づいて行われたマネー資本主義の結末と
言われております。そして、資本主義の宿命ともいわれる経済危機、金融危機の周期的インフレとデフレ
の繰り返しは、何の関係もない私たち弱者に大きな痛手を与えております。
20世紀の特徴の項で述べましたが、特に80年代以降の問題は、周期的インフレと合間って、お金がマ
ネー化し、お金が通貨の役割を脱し、お金が商品化されることによる国の格差、人間の格差、あらゆる格
差の根源となって、今までにないデフレという脱出不可能な社会を創ってしまったということです。
最近盛んに言われているマネー資本主義の台頭です。この巨大なマネーから守るため、また脱出するため
にもお金本来の等価代償である地域通貨に取り戻さなければ、一部の人間、一部の企業、一部の国にお金
が集中してしまいます。
通貨の乱れは、文明の滅亡に繋がっているという史実、それはあの巨大
なローマ帝国の滅亡と大きく関わっている一因とも言われております。

そこで内橋克人経済評論家が、NHKの人間講座(2005年2月、3月)の教本で紹介されましたドイツ人作家ミヒャエル・エンデ著「エンデの
遺言」から内容を紹介してみます。
エンデは「時とともに価値が減って
いくお金」を考えており、自己増殖によって無限に成長し続けようとす
る現代の経済システムを「有限性」と「マイナス」という構想で考えて
いました。
そしてエンデは、有名な「ハーメルンの死の舞踏」に挑み、
金が金を生み出す資本主義の非人間的な本質を描き出そうとしたのです
 
<エンデの遺言>から
・マグリッド・ケネディ 建築家 1979年~1984年(エコロジーエネルギーの研究)
今井重孝訳「利子ともインフレとも無縁なお貨幣」
(基本的な成長パターン)

曲線 1:自然界の成長行動を単純化した形を示す
曲線 2:機械的成長ないし直線的成長を示す
曲線 3:指数的に倍増する割合で成長する
最初は非常にゆっくり経過し、最後はほとんど垂直な傾向で成長する自然界においては、このような成長
は、通常病気や死に関わるところで見られる。例えば癌は、指数的な成長に従う、利子が利子を生むとい
う利権は、まさにこの指数的な成長を示す。

 
 
「このシステム(指数的成長)から利益を得ているのは、ほんの一握りで、今、アメリカでは、人口の1%
がその99%よりも多くの資産を所有している。ドイツも遅かれ早かれそうなるだろう。一方でどんどん
貧しくなる国(人々)があり、格差拡大が広がり、自然環境が奪い続けられている。これが今の経済システ
ムである」と、またケネディは、私たちは借金があろうとなかろうと、この経済システムの中で生活して
いる限り、常に利子を払わざるを得ないような仕組みになっていると言います。「たいていの人は、借金
をしていなければ、利子を払う必要はないと信じております。しかし私たちの支払うすべての物価には、
利子の部分が物価に含まれ、機械や建物を調達するために銀行に支払いをしなければならない。
その部分が物価に含まれている。
例えば、今ドイツなら一戸当たり18,000~25,000マルクの利子を支払っており、年収56、
000マルクとすると30%も利子を払っていることになる」「第三世界から、先進国は毎日2億ドルの
利子を貰っている計算になると言います。この第三世界の負債を帳消しにしようという運動が世界に展開
しており、実現すれば第三世界の多くの人々の生活を直接に救済されると言われております」「ではこの
経済システムをどのように変えていけばよいのか、エンデは語っております。それは、お金の機能を交換
だけのシステムにすることと述べております。簡単に言うと、貨物列車の車両は荷物を運ぶところに使い
道があるので、本来の輸送というところに車両を使用する分には、料金を支払う必要はない。
逆に荷物を積んだままにしておくならば、当然特別に管理料を支払わなければならない。
お金も同じことで、使わないで貯めておくのは、車両に荷物を積んだままにしておくのと同じことで、管
理料を取るべきものです。貨物の車両が使われない時には戻されます。お金で言うと中央銀行に戻される
ということです。ということは、手元にあるのは必要なお金だけでよいということです。それによって、
それなりの分野における資産が運用されます。このシステムならば、これまでのように必要以上のお金を
持っている人が、仕事もせずに金利だけで生活するということが出来なくなるのです。

そして同時にシステムに必要な経費も作り出すことが出来るのです。これが解決です。実も蓋もなく簡単
なことです」
地域では、固有の通貨が発行され、運用されており、現在世界には2,000近くの地域通貨システムが
あり、小さい通貨単位がいわば地域経済の安定を助けております。
そこで通貨本来の役割は、流通(モノを運ぶ)のための貨幣である貨車そのものには、料金(利子)は必要な
いことであって、銀行に預けてある貨幣には、管理料を取るべきで、利子をつける理由は存在しないのだ
ということをエンデは強調しております。また、ケネディは「この金融システムは、これまでのあらゆる
戦争よりも、あらゆる環境の困窮よりも、あらゆる自然の災害よりも、多くの死と貧困の問題を生み出し
ている。そしてこのシステムは、大半の戦争の根であり、大半の対立であり、社会崩壊の根であると述べ
ております。なぜなら、数学的に不可能であることと実際的な必要性との間で折り合いの付かない食い違
いが折り合わされているからです」
と述べられております。
毎日、テレビや新聞でもその爪痕が伝えられております。しかし、その
原因が今の経済システムにあることは伝えられておりません。
もし、そ
の真の原因を理解したら誰もが可笑しくなる筈です。
私たちがお金に対
して抱いてきた「不満」と「不安」の源に何があるのか、それが一体世
界に何をもたらしているのか、気付きそうで気付かなかったその現実を
ケネディは見つめてきました。
そして、お金のシステムを変えるという
ことは、単にシステムの問題だけではなく、私たち自身が精神的なレベ
ルで本当に変わることが出来ると、エンデは強調しております。
 
 
 
・ルドルフ・シュタイナー  [老化する貨幣]を提唱 1930年代
廣嶋準訓() 「社会問題の核心」
ここでシュタイナーの「社会有機3層論」に触れてみます。
人間は、3つの異なる社会レベルの中で生きている。
a) 生産し、消費する点では経済生活の中で生きている(平等)
b) 誰もが国家、法の下の生活に属している(友愛)
c) 美術館や音楽会など文化的生活を誰もが行っている(自由)
この3つの「生の領域」は本質的に全く異なるレベルです。
今日の政治や社会が抱える大きな問題は、この3つが一緒にされ別のレベルの理想が混同して語られてい
ることです。
「自由、平等、友愛」は、フランス革命のスローガンですが、実は革命前からある言葉で、もとはフリー
メーソンのスローガンでした。自由は精神と文化、平等は法と政治、友愛は経済生活です。
友愛での工業社会は、誰もが他人のために仕事をした方が社会全体の益になると考える社会なのです。
仕立屋さんは自分のスーツを創るのではなく、他人のスーツを創る。パン屋さんは自分のパンではなく、
他人のパンを焼く方が経済的に安上がりなのです。そうすることが万人の欲求を満たすのに有利なのです
誰もが他人のために働くことは、友愛にほかならないのです。分業によって成り立っている現実の世界は
他人を踏みにじり、人と人を分断するエゴイズムに満ちています。
友愛による経済について、エンデはラストインタビューでこう語っております。「私の見るとこる、現代
のお金の持つ本来の問題は、お金が商品として扱われているということです。
本来等価代償であるべきお金がそれ自体商品となったこと、これが決定的な問題だと私は思います。
お金自体が売買されることが現代です。これは許されることなのか、そのことにおいても貨幣というもの
の中に貨幣の本質を歪めるものが入るのではないだろうか、これが核心的な問いだと思います。
通常経済学では、自由な市場での競争こそが、経済の大前提であらとされております。
経済の原理は自由ではないのか。私的所有を否定して国家に一括しようとした社会主義は倒壊してしまっ
たではないか。
  「友愛」を原理とした経済などあり得ないユートピア思想ではないか。
しかし、「自由」を原理とした経済が世界に何をもたらしたのか。既に私
たちは、惨たらしいまでの現実を知っています。オゾン層の破壊、酸性雨
大規模な海洋汚染や温暖化などの地球規模の環境破壊。発展途上国を中心
に8億もの人々がいまだに飢餓で苦しむ一方で、大量生産、大量消費、大
量破棄の飽食的生活を続ける先進国。その先進国の内部でもますます貧富
の差が広まっていくというアンバランスな社会構造…」。こうした社会に
ける3つのレベル(自由、平等、友愛)とその理念の混乱が現代社会の混乱
乱の原因とするエンデの説明が、まさに的を射ている証明ではないでしょ
うか。
この点において、分業的生産方式を持つ社会は、原理的にはエゴイズムとは相容れない筈ですが、そこに
現代のように特定の階級や個人のエゴイズムが持ち込まれた場合は、深刻な社会混乱が生じると言われま
す。経済が友愛で成り立つというシュタイナーの主張がユートピアではなく、様々な意味でゆがんだ現代
社会を捉え解す可能性を持つと言われております。
 
 
 
またシュタイナーは銀行に関して、「現代の銀行は効率の良い事業に融資し、社会にどのような影響を与
えるかは考慮しない利潤追求型の銀行になっている。利潤を目的とした銀行ではなく、社会的に意味のあ
る事業に資金を差し出そうという銀行が現われれば、その銀行に利子が少なくても預金しようとする人々
が増えてきています。
GSL銀行は、1996年段階で2億マルクの黒字を計上し、過去3年間の平均成長
率は17%~20%でした。同様のシステムを持つ銀行は、フランス、オランダ、スイス、ノルウェー、
スウェーデンなどに広がり10行を数えます。」
またドイツには、福祉やエコロジーに関するプロジェクトに特化して融資するエコバンクという銀行があ
り、広く市民の支持を受けております。こうした銀行を「ソーシャルバンク」と呼ばれております」以上
「エンデの遺言」から紹介しましたが、私たちは商品経済のお金が介在した中で生活しており「お金がな
ければ生活できない」社会の中で生活するようになってしまっております。
そのお金が通貨として使われているのであれば、大きな問題にならないのでしょうが、お金に利子が付い
たり、お金が商品化されることにより、お金が、一部の人間、一部の国に集中し、ジニ係数の拡大した貧
困層と富裕層の二極化した「99%と1%」という格差社会が創り挙げられてしまっております。
歴史的に見て、お金が歪みだしてきた文明は、滅亡の道程と言えるのでしょう。そうした観点からも、競
争を生み出す「商品からの離脱」という視点と、情報の普及という視点と、地域通貨の普及という視点は
21世紀の社会形成における重要な視点となるのでしょう。
 

ハイブリッド社会の提案

小 貫 昭 男