屏風ダキの名
水
国道388号線の道端。道路の片側はコンクリートを吹きつけた上を金網で覆った、見上げるような絶壁、もう
片側は渓流で深くえぐられた谷。このコンクリートの絶壁から、塩ビ管がちょっと突き出し、そのパイプから水が出ています。
これを地域の人は「屏風ダキ」と呼び、大切にしています。
ここには以前、湧き水が滝をなす岩壁がありました。国道への落石と道路の崩壊を防ぐために、保護壁が作られた際、
湧き水をつぶしてしまうのではなく、このような形で守ったというわけです。
ここは、二つの意味で一度は見ておいてほしい場所です。ひとつは
「人間の工事と、自然とのバランスのとり方」という意味、もうひとつは「名水」という意味でです。
ここの水はおいしい。地域の人間ばかりでなく、遠来の観光客も「知る人は知る」で、ポリタンクやペットボトルで水を汲んでいる姿をよく見かけます。
ただ、ここの場所ははじめてきた人には絶対わかりにくいと断言します。なにしろ、コンクリートの擁壁から単に水が出ているとしか思えないのですから。
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野地の大滝
この滝は、国道265号線のそばにあり、見落とすことはないでしょう。
国道388号線と265号線がわかれる大河内本郷。そこから国道265号を村所(西米良村)方面に走ります。
2〜3軒の建物を右に見て、建物がなくなったとき、左に大きく尾根をカーブすると、目の前に落差25mほどの滝が現れます。
これが『野地の大滝』です。別名「けさこ滝」。
この滝からの水は、国道265号の下をくぐって、一ツ瀬川に注ぎ込んでいます。この国道は一つ瀬川を右手にずっと沿っていくので、ときおりとても美しい
景色に出くわします。この滝はその一つです。
この滝は、九大演習林の中を流れる一ツ瀬川源流域支流の一つから、本流へ注ぎ込む位置にあります。三方岳の西側に、
広野山(1,272m)というピークがあり、その山からの流れのようです。
2台程度であれば駐車できるスペースが滝のそばにありますので、ぜひ車を停めて見てみましょう。
なかなかの水量と、水しぶきの清冽さ、マイナスイオンをはらんだ空気は、おすすめです。
厳冬期にこの滝の側を通ると、運がいい方は凍結したこの滝を見ることもできます。最近は温暖化のせいか、
頻度が少なくなりましたが、凍った滝が国道から見えるなんて、贅沢ではありませんか!
え?別名の「けさこ滝」はどんな意味があるか?それはここには書かない方がいいでしょう。おいでになった方にのみ、口頭で教えて差し上げますので、お楽
しみに。
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椎葉徳蔵邸跡(柳田國男、民俗学開眼の地)
大河内掛庄屋屋敷と横目屋敷跡
『遠野物語』で有名な柳田國男は、日本の民俗学の草分けとして、人々の尊敬を集めています。
けれども、柳田國男の民俗学にかんする最初の著作が、ここ大河内の狩猟に関する研究だということは、一般にはあまり知られていません。
その著作とは『後狩詞記(のちのかりことばのき)』です。
柳田が人吉の温泉旅館『鍋屋』に宿泊した際、宿の主人が市房山と江代山の方を指し、「あの山の向こうは秘境。焼畑と狩をなりわいとする平家の落人の子孫
が暮らしている。」と語ったことに興味を引かれ、いつか訪れたいとの思いを抱きました。その後、願い叶って宮崎に出張の際、笹の峠を越えて椎葉に入り、自
然と寄り添い、自然を畏敬しながら暮らす山の民を目の当たりにしました。柳田が日本文化の原型に触れるような思いをしただろうことは、想像に難くありませ
ん。「椎葉訪問が柳田國男の民俗学への目覚めだった」と言っても過言ではないでしょう。
広い椎葉をあちこち歩いているとき、柳田は、ここ大河内の庄屋宅に伝わる一通の古文書を目にしました。それは、狩猟に関する言い伝えと儀礼を記した、と
ても珍しい文書でした。柳田はその文書を転記し、『後狩詞記』として出版します。つまり、柳田の最初の著作とは、古文書をそのまま丸写ししたものだったわ
けです。
当時その古文書があったのが、「椎葉徳蔵邸」でした。
もともとその古文書は、椎葉徳蔵邸よりずっと上の方にある「大河内掛庄屋」の屋敷にあったものでした。
江戸時代、大河内を含む椎葉の山々は幕府の天領でした。天領には本来「代官」を置くのですが、辺境の地であるため、代官を置く代わりに人吉の相良藩に管理
を委託していました。その支配の末端を担っていたのが、庄屋です。
椎葉をいくつかの「掛」に分けて、掛ごとに庄屋を配置したのです。ちなみに、その屋敷のすぐ側には、「横目(当時の特高警察みたいなもの)屋敷」
があって、庄屋を監視するという構造になっていました。
それはさておき、なぜ『後狩詞記』が庄屋宅ではなく、椎葉徳蔵邸にあったか。明治期に庄屋家が後嗣もなく没落しかけていたのを、
椎葉徳蔵家が養子を出したり財物を提供したりして存続させたのだといいます。 そのため、庄屋宅にあった古文書も、徳蔵邸に移されていたのでした。
昭和29年の大水害で、
その屋敷は跡形もなく流され、保管されていたその古文書も、土石流の中に散逸してしまいました。現在は土地の形も残っていません。橋のかたわらに木の標柱
があるだけです。けれど、庄屋屋敷と、横目屋敷の跡には、当時の石組みが残っています。横目屋敷跡は、いまは九州大学宮崎演習林の事務所になっています。
そのちょっと上方に、庄屋屋敷があり、そこには椎葉徳蔵さんの子孫(庄屋を継いだ養子の子孫)が暮らしています。
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下り谷水車
この水車は、2003年11月に完成しました。別に歴史的な遺構ではありません。水車の直径はそれほど大き
くはありませんから、観光用の大きな水車と比べると迫力もありません。しかし、この水車は実用です。個人の所有施設で、近所の住民に開放されて、実際に精
米などに使われています。
機械化の進んだ現在、なにも水車を作らなくても・・・というのが大方の見方だと思いますが、
椎葉亀造さん(この水車の持ち主)の考え方は違います。それは、
●できるだけ無駄なエネルギーを使わない。
●機械化することによって失われたものを取り戻す。
●古いけれども素晴らしい道具を実用として伝えたい。
なのです。
機械で精米した米は、機械から取り出したとき熱をもっています。その熱が食味を損ないます。
ところが、水車で籾から精米すると、時間ははるかにかかる(およそ一晩)のですが、とてもおいしい白米ができます。
それに、電気も石油も使わないのです。水も、位置エネルギーだけを使って引いているわけですから、全くの低エネルギー機械なのです。
水車が回転すると、小屋の中にある羽根のようなものが杵を交互に持ち上げて、石臼の中に落とします。そうすると、
中に入れられた籾が搗かれ、次第に籾から玄米へ、玄米から白米へと精米されていくのです。
この石臼は、内のり面が微妙なカーブを描いていて、放って置いても、中に入れた穀物が循環して、
ひとところだけ搗き過ぎることがないようになっています。この臼、亀造さん宅と、
近所の家にあった古いものをそのまま使っています。もちろん水車用に作られたものではないのですが、それをうまく使っているわけです。
水車は松の木でできています。松材はやにをたくさん含んでいますから、水に強い。水車と心棒、杵だけは、
どうでもいいような材は使えません。でも、ほかはとても経済的な材料を使っています。
壁は製材所で商品にならない杉材を二束三文で買ってきたもの。屋根はモウソウチク(亀造さんの山に自生する)
をうまく組み合わせたものです。それでもおよそ300万円の費用がかかりました。すべて亀造さんの私財です。工期はおよそ1ヵ月半でした。
水車を造ることができる大工さんも珍しくなりました。工事しておられた大工さんたちはみな相当なお年だと思われました。
この技術が若い大工さんに受け継がれていくことを願わずにはおれません。
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