四百数十年前、日高市高麗郷の巾着田にほど近い
                 舌状台地に土着した後北条被官の舎(やかた)

       大澤舎  新井家

  ※大澤舎新井家は巾着田前の旧新井家住宅とは出自、縁戚等一切関係ありません

1 歴史
新井家の名字の変遷と大澤舎
 初代大澤重左衛門定重がこの地に居を構えたのは四百数十年前であり、この頃の新井家
は新井の名字のほかに大澤という名字をもっていた。ここで初代を大澤重左衛門定重と記した
がこれは系図に記された記述であり位牌や墓石は新井重左衛門定重と記されている。
 この「家」が新井の名字に一本化されたのは内田伊右衛門寿定が大澤新井氏の3代目として
秩父から養子として入った頃からその子、新井源兵衛家定の代にかけてである。系図にも源兵衛
家定が「新井号(新井ト号ス)」と新井を名乗のることが記されている。
 この名字の変遷とこの辺りの地名が大澤であることが、新井家の居宅を大澤舎と称される由来
になっている。

 『大澤新井氏に入る前の内田氏5代の墓』
  秩父市大野原宮崎の宮崎城址(中世の砦跡)近く
 に大澤新井氏に入る前の内田氏5代の墓がある。
  この墓に刻まれた俗名や没年を系図の記載内容
 と付き合わせることにより、この墓は大澤新井氏に
 入った内田伊右衛門寿定より3代前の
左衛門正
 行から7代前の左衛門督董行までの5代のものであ
 ることが判る。
  墓石には現在、新井家では使われていない丸に
 十字の紋が刻まれており系図に「家之紋指物丸十
 文字也」また「幕之紋丸ニ十文字之他四ッ一即内田
 也」とあることとも符合する。
  墓石の中で一番古い董行(天文11年卒・1542年)
 の戒名は「泉田院殿關山宗無居士」とあり後北条氏に被官随臣した当時の内田氏の勢力を
 うかがい知ることができる。


新井家の歴史と新井氏系図『武蔵藤原内田之系譜について
 新井家は今から四百数十年年前、この地に居を構え代々名主を務めた家柄である。屋敷を
構えた時点を「家」の成立とみれば16代前の大澤重左衛門定重※1 が一応※2、初代というこ
とになる。
 新井家の初代大澤重左衛門定重がこの地に居を構えてからはたかだか四百数十年余りで
あるが、新井家の系図を記した「武蔵藤原内田之系譜」をたどると、その歴史は複雑ではある
が非常に古いことがわかる。
 即ち新井家の3代目、大澤(内田)伊右衛門寿定※3 は戦国時代の後期に鉢形領一帯に分住し、
後北条に被官随臣した内田氏一族のある嫡流の総領であり、この人が「武蔵藤原内田之系譜」
を携え大澤新井氏の養子(夫婦養子で妻も内田一族の娘)という形で大澤新井氏を引き継いだ
のである。新井家の系図書が「武蔵藤原内田之系譜」となっているのはこのためであり、これ以降
内田氏代々の当主は大澤新井氏と名字を替えてこの系図に記され今日に至っているのである。
 従って新井家の系譜をたどることは秩父内田氏の系譜をたどる事になりその歴史は、はるか
昔遠江国内田荘に発しその出自は藤原北家秀郷流へと続く非常に古い歴史を内蔵している。
 新井家には貞治6年(1367年)卯月25日の年紀が記された紺紙金泥の6字名号(南無阿弥陀
仏)の軸幅が所蔵されているがこの軸幅が大澤・新井氏から継承されたものか、秩父内田氏か
ら継承されたものかは不明であるが、おそらくは秩父内田氏から系図一巻と共に伝えられたも
のと思われ、この「家」の古い歴史の一端を明らかにしている。

 ※1 大澤重左衛門定重を初代としたのはそれより古い位牌や墓石が存在せず系図書きにも
    記されていない。「武蔵藤原内田之系譜」によると内田氏より養子に入った内田伊右衛門
    寿定について『高麗郡臺村大澤重左衛門定重嫡子五郎右衛門定政為養子』とだけ記され
    おり定重以前の大澤新井氏の祖については一切触れられていない。従って新井家の先祖
    がこの地に屋敷を構えたのは定重以前であったかも知れないがここでは一応大澤重左衛
    門定重を初代とした。
     なお、大澤新井氏の祖先は高麗王若光の重臣の一人であると、史書「高麗郡開傳記」に
    書かれている。しかし、他に史料がなく伝承の域を出ない。
 ※2 繰り出し位牌に「文明4年辰10月25日(1472年)卒妙西禅尼」の位牌が有るが、それ以
    降定重までを繋ぐ資料が無く、妙西禅尼が大澤新井氏の先祖のひとりであるか否かは
    不明である。
 ※3 系図には大澤新井氏に養子に入った内田伊右衛門寿定の父、四郎左衛門武則につい
    て「母大澤氏之女也」と記述されている。この大澤氏が大澤新井氏であるか否かは不明
    であるが当時は縁者との通婚は珍しい事ではなく、この大澤氏は大澤新井氏かその一族
    のことで、寿定は祖母の実家かその一族の養子になったと考られなくもない。

 論文「 『武蔵藤原内田之系譜』考
     
・・戦国期土豪系図に見る遠江内田氏の軌跡・・

  (日本歴史学会編集日本歴史 1998年12月号・
 吉川弘文館・独協大学教授 新井孝重著)
 
  この論文は新井家の系図「武蔵藤原内田之系譜」
 の記載内容とその他の諸史料をつきあわせることに
 より、遠江国内田荘(静岡県菊川町)の高田大屋敷
 遺跡の発掘で脚光を浴びた上郷・下郷二つの内田氏
 について、以下のようにその理解を大きく修正しなけ
ればならないと論じている。すなわち
  1・内田氏の出自についてこれまでは藤原南家工藤氏流と言われてきたがそれは
    下郷内田氏であり、上郷内田氏については藤原北家秀郷流であること.。
  2・南北朝時代に、内田氏は内田荘から退出し一族挙げて石見国へ西遷したとして
    いるが、 これは下郷内田氏であり、上郷内田氏はいったん三河国に移り、その後
    そこで分岐し、一方は祖先藤原秀郷以来のいわば墳墓の地である、関東へと移っ
    て行ったこと。
  3・関東に入った内田氏一族の多くは関東管領上杉氏に被官随臣し、上杉滅亡後は
    北条氏邦の鉢形領に移り、後北条氏の麾下に入ったこと。
等々である。

  『武蔵藤原内田之系譜』(新井氏系図)の表書
  秀郷から数えて7代目の成家が遠江国内田に居住
 し内田氏を名乗り始めたと記されている。
  また、その子家吉は「源平盛衰記」に記載され巴御
 前と戦い討ち取られた内田三郎左衛門家吉である。
  なお、「『武蔵藤原内田之系譜』考」では家吉の出自
 について、当系譜とその他の史料をつき合わせること
 により、今までの藤原南家工藤氏流に属する一族とす
 る考えは誤りで藤原北家秀郷流に属するとしている。



 『武蔵藤原内田之系譜』に記された北条氏邦の裏書
   大澤・新井氏に入った寿定
から数えて6代前の内田大膳亮
 家長は系図を改め、鉢形城主北条氏邦にこれを見せている。
 その際氏邦は確かに見たということを系図に裏書し署名花押
 を施している。

    表書遂披見候処如件
     (天正九・1581)
       辛巳  十月 氏邦(花押)