四百数十年前、日高市高麗郷の巾着田にほど近い
                 舌状台地に土着した後北条被官の舎(やかた)

       大澤舎  新井家

 2 建物と屋敷地
 新井家の居宅はいつの時代からか大澤舎と称されるようになったが、これは新井家の歴史
のところで述べた通り、新井家の名字の変遷と、ここの地名が大澤ということに由来すると思わ
れる。

 
大澤舎木戸口(屋敷地西側)
塀沿いに旧街道が通って
いる。 ここ以外の三方は
谷に囲まれ要害堅固な
立地景観を呈している。
  
  式台玄関
 式台の玄関を備えた江
戸時代の民家は珍しく高
い格式がうかがわれる。
  
  デイの間より奥の間
  この二間は高い吊り天井の
書院造。襖絵(奥の間側)は川
越藩御用絵師筆の四季山水図。
引手は染付四君子図。
 現在の大澤舎は嘉永五年(1852)に11代、丈右衛門定季によって建て替えられた。築後約
160年を経た、いわゆる古民家である。昭和45年頃、建物の維持管理の問題や、なによりも生
活の場であるということもあり、改造が施され、屋根、土間、通用玄関大戸等の形が変わったり、
姿を消している。時代の流れとはいえ当初の遺構が少なからず失われたのは残念である。
  しかし、式台の玄関や控えの間、客間としてのデイの間、書院造りの奥の間を始め、襖、欄
間、板戸等は当時のまま残されていて、玄関やデイの間、奥の間などは格式を重んじ重厚に
作られ、一方、家人が日常用いた座敷や土間部分等は太い柱や梁を組合せ堅ろうかつ豪放
な造りになっている。
 幕藩体制下では武家や公家等一部の特権階級以外は式台や書院を備えた家を建て
  ることは許されなかった。従って式台や書院を備えた民家の多くは、明治以降、身分制
  度が廃止されてから財力の有る者がそのステータスシンボルとして建てたものが多い。
   大澤舎のように幕藩体制下で式台や書院を備えた居宅を建てる事が出来たという事
  は大澤舎新井家がそれ相応の高い格式を持っていたことを示している。

 屋敷地は舌状に突き出した台地で北、東、南と深い谷に囲まれており、西側のみ飯能方面に
通じる旧街道に面した要害堅固な立地景観を呈している。北側の谷は昭和45年頃の建物の改
造と共に一部埋め立てられたが、それ以前は木造の橋が架けられていて生活のための出入り
口として家人が使用していた。
 屋敷地西北の谷縁に建立されている祠の傍には文明4年(1472)の年号が刻まれたものの他、
破片を含めて数基の板石塔婆があり、また、屋敷地東の縁には古い時代、墓地があったと言わ
れている。このようなことから、この屋敷地は4百数十年前に大澤新井氏の初代が土着したが、
大澤新井氏とは関係なく更に古い時代に屋敷地として設営されていたのかも知れない。中世の
地侍や土豪が居を構るには最適な立地景観を呈していると思われる。
 なお、この立地景観は新井家の歴史の項でも述べたが、大澤新井氏に入る前の内田氏が住ん
だ秩父宮崎の地にある宮崎城(中世の砦跡)の立地景観と谷の深さこそ違うが酷似している。
 秩父内田一族の多くは鉢形城落城後秩父の各地に帰農したが、内田一族のある嫡流が何故
この地へと更に移ったのかを考えると大澤新井氏と秩父内田氏の縁戚関係の有無を含め大変
興味深いものがある。


                  
 明治末頃の大澤舎 
 建物中央の人物のいる所が
式台玄関。式台を境に右側は
二階造りで一階部分は土間、
炊事場等を備えた生活空間で
二階は養蚕の為の蚕室となっ
ている。
 式台より左側は格式を重視し
た公用の場で、控えの間、デイ
・奥の間が配置され、頭上に人
が上がらないように二階部分が
ない造りになっている。
 はしごは火災(もらい火)に備
え常時屋根に掛けていた。

 板に書かれた大澤舎の平面図と建築の記録
 上 平面図

 左 建築の記録
   嘉永5年3月上棟
   棟梁は虎秀村の澤田求官
   吉光。
   左下に書かれた新井将監
   定季とは丈右衛門定季の
   別名である。
リンク・埼玉県住まいづくり協議会[smile通信 vol49]:の表紙及び2ページに掲載
     掲載担当 埼玉県立近代美術館 専門員兼学芸員 伊豆井秀一氏