「ウミウシ」という単語の出典についての議論。 「うみうし・ウミウシ」は後鰓類中の裸鰓類だけにあてはめるべきかの議論。 議論の前提。 1.多くの漢字は中国から伝来された。 2.欧米の外来語到来以前の日本語の単語は、中国語からの伝来が多い。 3.中国から伝来する漢字の読み方は、普通は音読みにする。 4.モースから動物学がもたらされるまで、日本の動植物学は中国の本草学(博物学の一種)から強い影響を受けていた。 ここまで異論はないと思う。 まず、日本で最後鰓類を研究して、かつ、記録に残っている研究を振り返る。 第1世代 (江戸時代中期) 現在(2008/9)、日本で初めて後鰓類を記録して遺したとされるのは、生物に興味があった讃岐高松藩主松平頼恭が、 藩の産物目録として絵師に描かせた「衆鱗手鑑」(魚類399種・海産無脊椎動物62種)の中にウミウシの絵が 含まれている。本書は宝暦12年(1762年)に第10代将軍徳川家治に献上された。松平は本書に続き増補版とも いえる「衆鱗図」(魚類490種・海産無脊椎動物162種)を作成した。 この中ではアメフラシに「牛魚(ウシサカナ)」 という付札名が付けられている。 第2世代 (江戸時代末期) 徳川幕府お抱えの医師の栗本丹洲[宝暦6年(1756年)- 天保5年(1834年)]は、著書の「千蟲譜(または栗氏千蟲譜と呼ばれる)」 にて、四枚のアメフラシの図譜を遺した。ここではアメフラシに対しウミウサギの一種として海牛という言葉を使用している。方言で 「ウミウシ」とも記されている。つまり、ここで初めて後に後鰓類と分類される生物に対して、ウミウシという言葉が使われた。
生物好きだった旗本の武蔵石壽[明和3年(1766年)-万延元年(1861年)]は、少なくともキセワタ、ベニシボリ、ミスガヒ、ヤカタガヒ、ナツメガヒ、 ブドウガヒ、ツララガヒ、カメガヒ、ササノツユを研究した記録が残っている。とはいえ、本草学は現在の分類学とはかけ離れた 一種の整理学であるため、これらが何に属していたのかは触れられず、貝の仲間として扱われた。武蔵の記録の全ては貝殻を元にしたもので、 薄い貝殻しか残らない後鰓類は研究されなかった。 第3世代 (江戸時代末期〜明治時代) 伊藤圭介がアメフラシについて分類(学名)を試みた(1874年,明治7年頃?)。参照の文献は主に「栗氏千蟲譜」であった。このため、 伊藤の稿本(きんかどうぶつずせつ)[手書き本]にもアメフラシに対してウミウシという言葉が使われている。※ここでも千蟲譜(あるいはその写本)から、アメフラシの絵が切り抜きで使用されている。
2.5世代ともいえるが、近代動物学を基礎に最初の後鰓類研究を行ったのは藤田経信で、アメフラシをはじめ少なくとも、青うみうし (和名新称)、白うみうし (和名新称) 、梨子地うみうし(和名新称)、小紋うみうし、更紗うみうし、錦うみうし、 くもがたうみうし、ねずみうみうし、にくいろうみうしの九種のうみうしについて研究している。同時代の丘浅次郎は 「ウミウシ(Aplysia)」と記している。 第4世代 (大正時代〜昭和時代初期) 平瀬信太郎 1882年(明治17年)- 1939年 (昭和14年) かなり多くの後鰓類について研究したが、論文中にてうみうし、 ウミウシという単語は使わず、後鰓類という用語を使用した。 但し、平瀬の命名した後鰓類では、クロシタナシウミウシとアカオニウミウシ[Plocamophorus sp.]にウミウシという言葉をつけている。 しかし、不思議なことに平瀬は藤田が後鰓類の論文を残していることを知らなかったので、 このウミウシという言葉は藤田以外からの由来であることがわかる。 第5世代 (昭和時代中期〜現在) 馬場菊太郎 [1905年(明治38年)- 2001年(平成13年)]は、うみうし、ウミウシという言葉を、後鰓類の中のかなり広い 範囲の分類群に対して使用した。ちなみに年代的・地理的な理由から、馬場と平瀬にはほとんど交流はなかった。後続の濱谷巌も馬場に追随した。 このように、海牛という言葉は代々研究者に伝承していったわけではなさそうである。 「ウミウシ」という単語の出典についての議論。 日本で近代的な後鰓類研究が始まったのは明治初期からで、東京帝国大学理学部員外教授の伊藤圭介[1803年(享和3年)-1901年(明治34年)]がアメフラシについて分類を試みた(1874年,明治7年頃?)。ここで栗本の記した「ウミウシ」という言葉を記している。 やや遅れて、東京帝国大学理学部 動物学教室の初代日本人教授にして、三崎臨海実験所の創設者・初代所長の箕作佳吉が、 明治20年発行の帝国大学紀要の「帝国大学臨海実験所」という実験所の紹介文で、付近の動物相を紹介した箇所に 「Aplysia、Tethys、Nudibranchs」と記している。 その後、日本語の記録としては、明治23年に帝大動物学教室の丘浅次郎が、「動物学雑誌」の「相州三浦群三崎町 近傍水産動物採集案内」にて、「ウミウシ(Aplysia)」、「イオリス(Æolis)」と記している。) 続き、明治25年から明治27年にかけての、藤田経信の後鰓類9種の文献の中に出現する「うみうし」という言葉を使用した。 ここで、それ以前の本草書である栗氏千蟲譜を見ると次のような記載がある。 和名アメフラシ 尾州方言 〜中略〜 佐州 ウミウシ とある。また、 「再按ルニウミウサキノ一種海牛ナルヘシ但シ新鮮ノモノゝ圖ニアラズ日ヲ経タルモノゝ腐爛シ垂タルモノヲ見 テ写タルナルベシ」 現代風訳: 「再び案ずるにウミウサギの一種の海牛なるべし。」 この栗氏千蟲譜ではアメフラシの方言としてウミウシが記されているが、海ウサギ、ウミウサキや海シカ、海鹿(ルビでウミシカ)が記されているとおり、 「海」の読み方は一貫して「ウミ」である。即ち、本書の海牛は音読みの「カイギュウ」ではなく訓読みの「ウミウシ」と 同一だと考えられる。
栗本はアメフラシのような姿かたちの生物の総称として「ウミウサギ」という単語を使用した。これは 中国での分類体系を見ても明らかなように、アメフラシ科を「海兔科(=ウミウサギ科)」を示すものと考えられる。さらに本書では 「筑前方言ウミウサギ」とあるが、筑前=福岡が大陸に近いことから、この言葉が大陸から伝来した可能性も否定できない。 藤田が後鰓類に使用した「うみうし」は、当時の帝大、および、三崎臨海実験所の関係者が既にウミウシという言葉を使用していた。 帝大理学部動物学教室の学徒であった藤田が、近しい諸先輩に倣ってウミウシという言葉を適用したのは自然であった。 今でも分野によりひらがな表記の和名もあるのかもしれないが、藤田の時代の和名はひらがな表記された。これが「ウミウシ→うみうし」 という単語・表記の誕生だと推測できる。現在では逆に視覚的に区別しやすくするためという理由(分献名は失念)で、和名はカタカナ表示となる(確か統一提案がなされた)。 カタカナ表示の方が遥かに単語として判別しやすい。これにより藤田の白ウミウシはシロウミウシに改められた。 以上のように、現在(2008/9)では、栗本がウミウシという言葉を記し、藤田・丘が記録に記したことがわかっているが、栗本以前にも記述があるかは追えなかった。 |
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うみうし・ウミウシは裸鰓類の後鰓類だけにあてはめるべきかの議論。 丘の記録から推測すると当時の認識として、明治初期の頃はアメフラシとウミウシの分類学的な区別は明確についていなかった。 というより、日本の動物学創世記でもあり、分類上の地位とそれに適用する名称・範囲などの考えが芽生えていなかった時期であり、伊藤・箕作・丘・藤田らが90年程前(1811年頃)の記録である栗氏千蟲譜のアメフラシ、ウミウシ(海牛)を曖昧に使用していたとしても無理からぬ時代であったと思う。 結論として、 厳密に言うならアメフラシ類が唯一の「ウミウシ」である。また、伊藤、箕作、丘らはアメフラシとその他の後鰓類には若干の違い があると考えいたかもしれないが、そもそも分類学の創世記、後鰓類学が始まったばかりの時期に、学術用語でもない「うみうし」 という言葉の適用範囲が広がってもなんら不都合はなかった。 恐らくかつて本邦にてウミウシの適用範囲・用法の定義がされたことは なかったと考えられるので、動物学者により適用範囲の正誤はなかったものと思われる。結論としては後鰓類全般に対してウミウシと 呼んだとしても、なんら否定する論拠は発見できなかった。 藤田は裸鰓類のドーリス科 Dorididae Rafinesque,1815 に対して「海牛類」とつけて利用したが、藤田は明治27年の研究以来、 後鰓類の研究をしていないので、藤田の「うみうし」に対する語彙は不明のままではある。しかし時代背景を考えると、少なくとも 藤田は裸鰓類のみがウミウシだとは考えていなかったと思われる。仮にその提案の意味が含まれていたとしても、後続の後鰓類 研究者は追随しなかった。 ところで、「再び案ずるにウミウサギの一種の海牛なるべし。」とあるが、 不思議なことに現在の 中国では一般的にアメフラシ類を「海粉」と呼び、別名を「海兔粉」としている。 フレリトゲアメフラシ(Notarchus leachii = Bursatella leachii)を 「紅海粉」と読んでいる。学名は「藍斑背肛海兔」とされている。 また、方言では海兔(ウミウサギ)」と呼ばれ、分類体系ではアメフラシ科の中国語の学名を「海兔科(=ウミウサギ科)」としている。 また、その海兔科の配下の属名・学名に海牛という名称を用いていない。 尚、紅海粉は中国、明の李時珍(1518年-1593年)が、1596年に出版した本草綱目(ほんぞうこうもく)に 載っている(伊藤の資料より)。アメフラシ類全体を示す言葉は「牛魚」であり、本草綱目の「石蚕」の付録にある 「雲師雨虎」をアメフラシ(Aplysia kurodai?)を示す言葉として記されている。 この本草綱目は慶長9年(604)以前に日本に到来している。 中国では裸鰓類DORIDINAを「海牛亞目」としているが、他にもキセワタなどの頭楯類、ゴクラクミドリガイ類やミノウミウシ類にも海牛という 字を当て広い範囲で使用されている。(どのような規則性で海牛という字をあてるのかは不明であった) 同じ中国語圏でも台湾ではAplysiidaeに「海鹿科」という言葉をあてている。 仮に海牛が中国伝来の言葉であるとすれば、うみうし・ウミウシ・海牛という言葉には後鰓類内での一貫した使用範囲の定義は本来なく、 従って、広義も狭義の意味も成立しないと考える。やはり、相対的に広い範囲の後鰓類の分類群に使用しても、あながち誤りではないと考えられる。 |
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最後にお断りしたい。言うまでもないことだが、この議論はうみうしをある特定の範囲の後鰓類にのみ当てはめるべきだ、という論に 対して反することを目的とはしていない。これは、上述した記録から得られた時事と、今後どのように適用するべきかを案じたものである。 ここに載せた情報は、私が今わかっている事実と、それから考えられる最善の推測であり、この議論はそもそも、「うみうしという 日本語は裸鰓類以外にも、もっと広範囲に使用しても問題はない」、さらに、「うみうしという単語には広義も狭義もなく、後鰓類 のある無秩序なグループに使用しても差し支えない」という、恣意的な推測を構成するためにできあがっている。 また、この議論の大前提は、海牛という漢字が中国から伝来したという仮定が基礎となる。この大前提が崩れた場合には、この議論は 崩壊することをお断りしたい。 もうひとつの目的として、うみうし・ウミウシという言葉の伝来について、幅広く情報が集まればよいという期待もかねている。 反証があればいつでも歓迎したい。
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