浮上せよと活字は言う1994

【本書の概要】
 聞き慣れてしまった“活字離れ”という死語。厳粛を装いつつ、嘲笑的でなげやりなこの言葉。学問や出版を専門とする人間たちですら、無策のまま放置してきた現象“活字離れ”。
 本書によると、“活字離れ”は、人間の根本の喪失である。すなわち、活字文化が、人間にとって必要な新しい意味を拾い上げず放置したため、“活字離れ”は起こった。その結果、言葉によって思考し、その思考を言葉によって整理するという人間の根本が見失われてしまった。
 本書は、この混迷のなかで、われわれは、心を袋小路に追い込むような本は捨て去り、一見突飛にしか見えない意味を拾い上げるべきであると主張。

 本書は12章構成で、第9章が最も傑作。


【第1章〜第3章】
 啓蒙というものの必要を、ピーター・グリーナウェイ映画『プロスペローの本』(原作・シェイクスピア『テンペスト』)の登場人物達に絡めて説く。すなわち、本を書くプロスペローは、かつては野蛮人キャリバンであったかもしれず、そのプロスペローに「ひとりでいるよりみんなといたほうが楽しいよ」と知らせるのは、プロスペロー自身の中に住む幼児エアリエルだけである。そして、プロスペローは、かつて自分を陥れた弟たちを赦す。
本文より・・・
 赦すのはつらい事です。(中略)人生の残りをつまらない憎み合いで無駄にしたくない。赦すのは(中略)簡単にはできないことだけれど、でも、それが重要なことだけは間違いない(以上、本文より)



【第4章】
 マンガが台頭したとき、当時の知性の権威が、これを嘲笑し放置したという史実。
本文より・・・
 新しく生まれ出てしまっていた新しい意味を、拾い上げ位置付けなければいけないはずの活字が、それを怠った。(中略)活字によって説明できないからこそ活字以外の表現手段を取らざるをえなかったものは、やはりその自身の意味を、活字という他者によって説明される必要があった。愛とはそんなものだ。愛がなければ、もうその世の中に意味などない。(以上、本文より)



【第5章】
 日本の出版界と政界の、保守的体質。
本文より・・・
 ウミを持った部分をそのままにし、新しい補助器具を与えることによって治療を終えたとするヘボ医者のように、日本の機構改革は、決して古いものを切り捨てない。この国は(中略)既得権ばかりを尊重し(後略)(以上、本文より)



【第8章】
 「娘」という関係要素。
本文より・・・
 世の中というところは、まだまだ家族関係のアナロジーだけで十分に解釈されるようなものだった。男と女の関係は「夫婦」という横軸だけで、男と男の「関係」は「上下」という縦軸だけだった。そしてしかし、その世の中というところには、「娘」という、「親子の上下」と「男女の横」の両方の要素を持ったものも、ひっそりと登場していたのだ。(中略)世の男達が、「娘」というものを「よく分からない」と言うのは当然だろう。「娘」というものは、男達の常識の中では、「まだ十分に存在していない要素」だったのだから。(中略)しかしよく考えてみれば、それは初めから存在していた。(以上、本文より)



【最高傑作の第9章】
 阪神・淡路大震災に代表される大惨事のなかで、被災者たちが見せる冷静。
本文より・・・
 日本人はオーヴァーな感情表現をしなくなり、出来なくなっている。(中略)「手足を奪われるような痛みを感じていたとしても、“手足を奪われるような痛みを感じる自分”というものはまだ無事である」ということを、正確に把握出来るようになってしまった。(中略)日本人は、今や何が起ころうと冷静に対処できるだけの強さを持っている。問題は、既に日本人がそういう前提を持っているにもかかわらず、その前提を生かしたシステムが一向に存在しないでいることだ。(中略)「“家”でもない、“風土”でもない、“生活”でもない、そしてあるいは、“家族”でもない。存在するものはただ“自分”という孤独である」ということを認識してしまった日本人はゴマンといて、それを「そうなのだ」とすくい上げるシステムがまったくない。(以上、本文より)



【第10章】
 男女関係。
本文より・・・
 それが男と女であれ、自と他であれ、二つの互いに反するものは、互いに他を補完するような形で存在すればいい―だたそれだけのことだ(以上、本文より)

本文より・・・
 “自分”とは、実は欲望の体系である(以上、本文より)



【第11章】
 角川春樹が麻薬に関する容疑で逮捕された事件に関連して、人間が「いけない」ものを時に必要としてしまう事実。
本文より・・・
 人はある時期、己の中にある“悪”としか言われない要素を必須のものとして認めなければならない(以上、本文より)



【最終章】
 非自民連立政権が誕生した平成5年。その10月。テレビ朝日の前報道局長が「非自民政権の誕生を促すような報道」を支持したとの理由で辞任し、翌日、美智子皇后が急病で倒れ(そのまま言葉を失い)、同日、「民族派右翼の教祖的存在」と言われる人物が朝日新聞社の役員応接室で自殺した。この国内の三つの事件と、海外の民族紛争を人間の問題としてひとつにし、“人間であること” と制度との関係を考察。
本文より・・・
 なぜ“人間であること”を直視することがこわいのだろう?(中略)それがなければ、その先のすべては何も始まらないというのに、その前提を直視することを回避して、人間のすべても既に“了解済み”としてしまう現状の方が、私にはとても不安だ(以上、本文より)

 ここで連想されるのは、橋本治が本書の前年に書いた『ぬえの名前』のラスト。
本文より・・・
 今の時代に共有原理となりうるものは、「人間であること」以外にはない(以上、『ぬえの名前』本文より)





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