「三島由紀夫」とはなにものだったのか(2002)
【概要】
三島由紀夫が求めたのは、虚偽を虚偽として断罪し、その上で初めて「生きろ」と命じるような存在だった。しかし、三島由紀夫が生きた時代、そこにいた人達は、三島由紀夫に応ええたのか?三島由紀夫はなぜ死んだのか?
遺作『豊饒の海』の綾倉聡子の拒絶により、三島由紀夫の物語世界は崩壊した。
しかし、果たして、一人の女の拒絶で、巨大なる世界は虚無に返りうるものなのか?三島由紀夫は、果たして、「女」に拒絶されて死んだのか?
彼が「あなたは私を覚えているか?」と問うべき相手は、『豊饒の海』第一部『春の雪』の聡子ではなく、『仮面の告白』の近江だったのである。
三島由紀夫が「友」とした戦後は、三島由紀夫に応えてくれたのか?
「友」を求めて「友」はない。その「友」は死んだ。気がついたら、もう遠い昔に死んでいた。
【要約】
(1)『仮面の告白』の近江はなぜ消えたか。
14歳又は15歳となった冬、主人公「私」は年上の同級生・近江に恋をする。近江は、「私」の、唯一の尋常なる恋の相手である。しかし、「私」は、恋を成り立たせる他者・近江を拒絶し放逐する。
三島由紀夫が「他者」の扱いに慣れていないのは、三島由紀夫とその同時代の男達にとって「他者」というものがすぐに消えてしまうものだったからであろう。
彼らの知性の構造は天動説的で、しかし現実は地動説である。
天動説の世界観では、一つの世界に一人の住人しか存在しない。「一人の住人しか持たない世界」がいくつもいくつも存在し、これらの世界は互いに交わらない。「他者」は存在するが、「他者と一緒にいる」は可能にならない。
天動説の人間達は、広大な宇宙に浮かんで、たった一人の人間しか存在させない孤独な惑星の住人なのである。
「自己達成」を最大の目標とする近代的自我・三島由紀夫は、「他者」を「排除しなければならないもの」と位置付けてしまったのである。そのことによって、生きていこうとする自分の優位を守ろうとしたのである。
よって、近代的自我にとって、「恋によって自分の絶対が脅かされること」はタブーである。つまり、「恋そのもの」がタブーである。
「私」は近江を自分の妄想世界へ閉じ込め、近江に対して優位を保っていたのだが、その近江が妄想世界の境界を突き破り「生身の人間」になってしまった時、「私」の優位は「嫉妬」によって脅かされる。「私」はそれに堪えられず、近江を妄想世界から放逐する。
そのようにして近江は消えた。
(2)『仮面の告白』の「私」が禁じた欲望
『仮面の告白』の「私」の欲望は、「男を愛したい、愛されたい」ではない。「自分を愛そうとする者に死を命じたい」という欲望である。
しかし、他人に対して「死んでしまえ」と命じる近代的自我の天動説は、暴君になれない、意外と小市民的なものである。「他人を拒絶することによって究極の快感を得る」天動説は、一方で「文句を言わずに俺を愛せ」とも言わない。天動説の「他人を愛せない」には、「他人に自分を愛させることが出来ない」という別の側面もある。
近江が消えて、「私」は妄想世界の悲しい暴君となった。「私」は16歳になり、人生から出発の催促を受ける。「私の人生から?」催促をしている人生は、果たして自分自身の人生なのか?という自問。自分自身が「虚」となった状態である。
自分自身を「虚」としなければならなかったほどの、禁じられた欲望とはなにか?それは他者を求める「恋の欲望」である。
三島由紀夫は「真実必要なものを求めることはしてはならないことである」という選択をしたのである。結果、三島由紀夫は、自分自身の妄想世界という塔の中に閉じこもり、自分を助けに来た者が塔の外壁を滑り落ちて死ぬのを見て「ほーら、やっぱりだめだっただろう」と陶酔する王子である。
その選択が「不思議」とも「悲劇」とも思われなかったのが、三島由紀夫の生きた時代である。
16年後、近江のその後を追うことが可能になる、しかし、三島由紀夫は近江を追わなかった。かわりに、死への道を進む。(後述)
(3)三島由紀夫は、母に依存する型のマザコンではない
暴君的な祖母の支配を逃れた少年・三島由紀夫は、なぜわざわざ母親の支配を求めなければならないのか?
なぜなら、祖母に愛された三島由紀夫は、祖母の死後は母との距離を保てなくなるからである。三島由紀夫は、息子を姑に奪われた哀れな母親の心を傷付けることが恐くてたまらなかった、やさしい子供だったのである。
母との距離を保てなくなり、息子は自分自身を愛することができなくなる。息子が自分自身を愛する事は、息子を愛したいと願う哀れな母親からその権利を奪うことにつながるからである。
周囲からの愛を拒む事になりかねない「大人」になることへの不安。「自分の人生」という発想の欠落。
この事情から、『仮面の告白』の自問も唐突に登場する。「私は人生から出発の催促をうけているのであった。私の人生から?」
(4)母との訣別
三島由紀夫は多くの女主人公を描き、幾度でも「女」となり、母は息子の提出する「女」をついぞいやがらなかった。しかし母は、母と娘の対立を描いた『サド侯爵夫人』を「なんてつまらない」と拒否。母は、俗物の「モントルイユ夫人」に自分自身を見たのである。
なんという皮肉であろう。三島由紀夫の母が「モントルイユ夫人」である以上、三島由紀夫は「サド侯爵夫人ルネ」なのである。
三島由紀夫は、母を拒絶し母から自由になるために『サド侯爵夫人』を書いた。「女」という衣装を脱ぎ捨て、女の世界を去った。三島由紀夫は『サド侯爵夫人』を最後に、女を主人公とする作品を書かなくなる。
(5)サディズムとの訣別
『サド侯爵夫人』はまた、サディズムとの訣別をも告げる。
三島由紀夫のサディズムは、自分を愛そうとする者に死を命じる=殺す、愛する者の死に恍惚となる、である。
しかし、サド侯爵夫人ルネは夫を殺さない。
〜サディズムとの訣別の年表〜
昭和25年(1950)『愛の渇き』:
主人公悦子は、若い男を愛するが、彼が自分を愛してくれないので殺す。
↓
昭和39年(1964)『恋の帆影』:
主人公みゆきは10代で恋人を殺した過去を持っている。
が、その10数年後、自分を捨てる若い愛人は殺さない。
彼が別の女へ去っていくのを許す。
庇護者であった亡夫の幻だけを殺す。
↓
昭和40年(1965)『サド侯爵夫人』:
サド侯爵夫人ルネは、夫をただ「お帰ししておくれ」と拒絶するだけである。
邪魔になった庇護者を「殺す」必要はない。ただ拒絶すれば足りる。もう「殺す」という手段は不必要である。
(6)「自分は自分だ」と思えるようになってからも、自分自身を虚とする人生の中にい続ける三島由紀夫
三島由紀夫は物語の中で自分の欲望を実現させたくて、自分自身を物語の人物として描いた。
例を挙げるなら、「物語の中の三島由紀夫」は『禁色』の絶世の美青年・南悠一や、『春の雪』の意志による恋愛の実行者・松枝清顕。「物語を書く三島由紀夫」は、同性愛の才能の無いままに南悠一を愛して敗北してしまう老作家・檜俊輔や、松枝清顕の転生を見守る本多繁邦。
『恋の帆影』より前に執筆された物語では、「物語を書く三島由紀夫」は、「愛」や「現実」を恐がる女たちが、それらと向き合えるようになるまでを見守る庇護者である。
しかし、『恋の帆影』では、「物語を書く三島由紀夫=庇護者の夫の幻」を「物語の中の三島由紀夫=みゆき」が殺してしまうのである。
もう庇護者はいらなくなったのである。母やサディズムと訣別し、「自分は自分だ」と思ってしまった時、三島由紀夫には「物語の中の三島由紀夫を庇護する物語を書く三島由紀夫」も不要になっていたのである。
三島由紀夫が求めたのは、虚偽を虚偽として断罪し、その上で初めて「生きろ」と命じるような存在だったのだ。
『仮面の告白』の「私」は自分自身を「虚」とするしかない人生を選んだ。その後、「自分は自分だ」と思ってしまった時、「私は、自分自身を虚とする選択をするべきではなかったのか?私の選択は正しかったのか?間違っていたのか?」という問いが生じる。
その問うべき相手は、『仮面の告白』の園子=『春の雪』の聡子ではない。なぜなら、自分自身を虚とする選択は、園子の関知しないものだから。
問うべき相手は、消えていった近江のその後でしかないはずである。なぜなら、かつての「私の人生から?」という疑問が、近江の消滅から直接続いているからである。
であればこそ、尋ねるべき問いも「かつてあなたを憧れの目で見ていた、この私を覚えているか?」でなければならなかったはずなのである。
しかし、三島由紀夫はそれをしなかった。
母との、サディズムとの訣別を果たした『サド侯爵夫人』以後、三島由紀夫の行くべき方向は、遠い昔に近江が消え去った方であってしかるべきだった。
しかし、その後においても彼は、自分自身を虚とする人生の中にい続けたのである。
「物語の中の三島由紀夫」は「物語を書く三島由紀夫」に庇護されてきた。しかし『豊饒の海』では、その力関係が逆転する。「物語の中の三島由紀夫」=松枝清顕や飯沼勲や月光姫ジン・ジャンがいればこそ、「物語を書く三島由紀夫」=本多繁邦には存在理由がある。かくして、『豊饒の海』は、「多くの物語を書き、多くの物語の中に生きた作家・三島由紀夫の、長大なる私小説」となりえたのである。
「豊饒の海」の由来を「月の海である」と記して、三島由紀夫は、賭けに出た。自分の生きてきた人生が「なにもない虚無」となるのか、あるいは「遠くにあって美しく光り輝くもの」となるのか、という賭け。
第三章 十二 本文より・・・
彼は、その下になにも持たない、仮面だけの「三島由紀夫」にこだわって、そこから出ようとはしなかった。彼がその「虚」から解き放たれる時は、彼の生きてきた虚なる人生が「遠くにあって美しく光り輝くもの」となりえたその時なのであると、信じていたのだろう。その作品が完成した時どうなるのか(中略)第一部『春の雪』を書き出して、三島由紀夫はまだその先を理解していなかった。であればこそ、自分の生きてきた人生が「遠くにあって美しく光り輝くもの」となりうるなどという可能性を、妄想したのだ。(中略)
彼はまたしても、出口のない「塔の中の人生」を歩み始めた。「現実」へと向かって、結局彼は、「現実」へと向かわなかった。(以上、本文より)
(7)女の拒絶による物語世界の破綻
『仮面の告白』の失敗に終わった接吻の相手・園子は、『禁色』で男達から復讐される恭子となる。その復讐はあまりにも悪意的で、やり過ぎである。『春の雪』の聡子に対する「完璧なる恋の実現」は、理不尽な復讐をしかけられた園子=恭子に対する、三島由紀夫の贖罪である。
しかし、「園子=恭子=聡子」として物語の中で生かされた「女」は、それをされて喜ぶだろうか?一方的な復讐と、一方的な贖罪。喜ぶ以前に、そんなことをされる必然を感じるだろうか?
考えればわかることである、だから、三島由紀夫はそれをしたことに対する「園子」の答えをよく考えた。すなわち、「私の記憶にあなたはいない」である。
『天人五衰』の聡子の、「そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違ひますか?」は、聡子がもともと松枝清顕の恋愛に関して「部外者」でしかなかったことを意味する。「意志による最上の最愛」は、松枝清顕=三島由紀夫にとってだけ意味があり、女の聡子には何の意味もないことである。
かくして、女の拒絶により三島由紀夫の物語世界は破綻。三島由紀夫は「究極の無」を自覚させられ、認識が「死ね」と言い、三島由紀夫の生を終わらせる−−−ということにもなりうる。
(8)最終章 「男」という彷徨
だが、果たしてそうだろうか?
『豊饒の海』第一部『春の雪』の冒頭には「日露戦争の写真」が描写されるが、それはまるで「第二次世界大戦」で遠い以前に死んでいった友への鎮魂にも思える。
三島由紀夫は、自分の虚弱を許し、同じ虚弱の友を受け入れる。三島由紀夫がそういう人でもあったことを、忘れるべきではないだろう。三島由紀夫は友を求めて「男」となったのである。
三島由紀夫が生きてなにかを訴えた時、同時代の人間達は訴えに応じえたのか?
終章 五 本文より・・・
三島由紀夫は、果たして、「女」に拒絶されて死んだのか?(中略)果たして、一人の女の拒絶で、巨大なる世界は虚無に返りうるものなのか?(中略)「男への道」を歩き始めた後、なぜ三島由紀夫に寂寥と荒廃と悲惨が宿るのか?
「友」を求めて「友」はない。(中略)「戦後」を肯定的に捉えた三島由紀夫にとって、「戦後」は明確に「友」だったのである。その「友」は死んだ。気がついたら、もう遠い昔に死んでいた―『豊饒の海』の冒頭に置かれる「死者」の写真はそれを物語るのだと思われる。(以上、本文より)
【感想】
新潮文庫の三島由紀夫の本はオレンジ色で装丁されていたが、本書は表紙の中に三島由紀夫の新潮文庫の表紙があるという、とてもおチャメな装丁だ。
オミカンヒメは、時に、三島由紀夫作品に、耐えられない不快感を持つ。本書は、その不快感の原因について、答えをみつける手がかりとなった。
すなわち、「塔の中の王子さま」三島由紀夫は、他者に愛や救済を求めることに関して、激しい不能者と思われる。よって、三島作品を読むことは、三島の自己完結症に感染してしまうリスクを伴う。それが、三島作品の不健康感・不快感の原因である。というのが、オミカンヒメなりの答え。
三島由紀夫作品の多くは自己完結の壮麗な迷宮で、閉じ込められかねないリスクがあり、その迷宮を無事に出入するための金糸の玉を差し出すアリアドネが、本書と思われる。
とすれば、本書の装丁は、三島由紀夫文学という迷宮に対する客観的視点を意味していると思われる。
だが、客観的視点だけではない。
本書の装丁には戦後の昭和を思わせる空気があり、不思議な懐かしさを感じさせる。切ないような、いとおしむような。はっきり見えるのに、決してもう手が届かないような。
そもそも、橋本治の三島由紀夫論は、既に各作品中に点在している。特に、短文である『ロバート本』の「06」が傑作。三島由紀夫への賛美と異議申し立てをするなら、それは『ロバート本』で既に済んでいる。
だから、オミカンヒメには、最初、なぜ橋本治が三島由紀夫について独立した一冊の本を書いたのか、不思議だった。岸田秀のような、冴えた怨恨による三島由紀夫論を、橋本治が書く必要もないだろうにと。
この疑問は、本書の中に一貫して流れる鎮魂の調子に触れて、解決する。
特に、第二章二、三島由紀夫の死顔の写真を見た22歳の橋本治の、痛いような悲しみ。遠い昔に死んだ三島由紀夫を、若き日の戦没の友のように胸に住まわせているような。本書は、三島由紀夫と戦後への鎮魂歌でもある、というのがオミカンヒメの私見である。
文学とは鎮魂である、と橋本治は述べた(『文学たちよ!』あとがき)。また、鎮魂に敵味方は無い、と。であれば、鎮魂には、生きた時代の違いも無いのであろう。
遠い昔に死んだ「友」への、32年後の鎮魂歌。それをBGMに、金糸の玉がほどけて、糸が未来へ伸びていくのが見える。