虹のヲルゴオル1988
映画史上の大女優たちを教科書化した本。全13章。以下は各章の要旨。
第1章、オードリ−・ヘップバーン。女性の胸のふくらみを過去のものにしてしまった妖精オードリーは、38歳で『いつもふたりで』に出演し、妖精の素顔を披露した。すなわち、妖精がとても暗い女だったことを明かにした。
第2章、マリリン・モンロー。「胸があったって普通の女よ」と男たちを勇気づけてくれたモンロー。彼女は外見はエロティック、内容は純情だった。スキャンダラスな映画『七年目の浮気』が、実は、巨匠ビリー・ワイルダーの傑作コメディーだったように。外見しか見ない世間の誤解によって、モンローは孤独な死へ導かれた。
第3章、グレイス・ケリー。「きれいな女ならなにもしなくていい」と言われて、それでも、ひとりの美人は「でも私は“なにか”をしたいな」と考えた。その彼女に「一緒に苦労をしてくれないか?」言ったのがモナコ王国の王レ−ニエ大公。賭博場だけで運営されている小さな王国の王妃は、実は、老舗や農家の嫁とおなじくらい大変なものだった。大変さとやりがいとが実は同じものだと知るグレース・ケリーは、完成されたばかりのスター女優の地位を捨てて嫁いでいった。また、巨匠ヒッチコックの名画『裏窓』の脇役たちに、意外な解釈を施す。
第4章、ブリジッド・バルドー。映画『素直な悪女』の脇役たちにも意外な解釈を施す。身持ちの悪い少女は、キチンと背中を伸ばして歩いていることを理解してもらえない。その少女を平気で利用してなんの咎めも受けない、計算高い好青年。彼をダメにしてしまったのは、中途半端に道徳的な母親。また、若きブリジット・バルドーには三つの表情があったという。すねた子供の顔、あっけらかんと明るい女の子の顔、きっぱりしたフランス女性の顔。
第5章、ソフィア・ローレン。オムニバス映画『昨日・今日・明日』の妊婦役のソフィア・ローレンの歩き方を通して、女らしさ、自分らしさ、を考察。
第6章、ヴィヴィアン・リー。彼女の生涯はドラマティックですごかったが、なにがすごいのかというと、最初の夫ハーバード・リー・ホルマンが子供まである女房が「女優になる!」と言い出したのを許したことだった。その理解ある弁護士のよき夫を捨てて走った、第2の夫ローレンス・オリビエ。ヴィヴィアン・リーが精神病になるほど熱愛したこの第2の夫が、なぜ彼女から去ったのかを論述。
第7章、イングリッド・バーグマン。妻そして母になってから娘を演じたバーグマンは、少年のような清潔さで男にも女にも支持されたが、社会派監督ロッセリーニと不倫しハリウッドを追われた。バーグマンの生涯を題材に、結婚してから“若い娘”になり、主婦が“少年”になる、女の一生の不思議を解明。
第8章、エリザベス・テーラー。ハリウッドの美の基準となったエリザベス・テーラーは、美人であることがつまらなくて下品であることをわかっていた。そしてアッケラカンとオバサンになったのだった。また、ホモの劇作家テネシー・ウイリアムズの作品の基本パターンも解明される。ホモの夫と結婚してしまったヒロインが欲求不満でヒステリーを起こすが、ヒステリーの“原因” がタブーで曖昧にされているから、“結論”も出ないまま恰好だけつけて終わる。
第9章、バーブラ・ストライサンド。彼女は、日本人の白人崇拝にあてはまる外人=美人ではない。しかし、彼女は歌と演技の才能があった。そして、彼女が登場した時期は、オードリー・ヘップバーンによって美の基準が変わった後で、美の基準が力を失っていた。自分自身というものの処置方法を知る知性によって、バーブラ・ストライサンドはスターになった。
第10章、カトリーヌ・ドヌーブ。フランス映画史上初の美少女ドヌーブには、虚像と実像がある。虚像は、美しく固い顔して淫乱と潔癖の間をさまようヒロイン。実像は、たまたま美貌であるだけで、ドスドスと頑張るだけの真面目女(“美少女のオバサン”)。この矛盾する二つを両立させてしまう嘘こそが、映画というロマンである。題材の映画は、トリュフォー監督『終電車』。
第11章、フェイ・ダナウェイ。大学出の女優フェイ・ダナウェイは、当時のグラマー女優たちの演じる“男を誘う表情”を押し進め、女の性的飢餓感やそれを拒絶された時の野蛮な表情を演じた。その役を作るために10キロも減量した。自分の演じた役によって自分自身が誤解されても「それでも私は構わないわ」と言えるだけの強さがマリリン・モンローにはなかったが、フェイ・ダナウェイにはあった。その強さこそが知性である。
第12章、ジューン・アリスン。彼女は、1950年代、日本人好みのする外国人女優のトップだった。彼女が“夫を励ます妻”を演じた『グレン・ミラー物語』を題材に、人生の悲劇的状態の断ち切り方法は「これは悲劇じゃない!」とニッコリ笑うことだと述べる。
最終章、ジャンヌ・モロー。特別に美人でもセクシーでもないジャンヌ・モローの無愛想な唇の「への字」型の示すところは何か。それは、限界にぶちあたった時には「この限界は乗り越えられる!」という自信を得るために、限界を楽しんでしまえばいい。唇を真一文字に結んでいることは、思考状態ではなく、思考の酸欠状態である。ということであった。