連載「院政の日本人」を読む
群像2007年5月号 (最終回)第十六回2007.4.27記
【ピンポイント紹介】
清盛は安徳天皇を連れて逃げた。しかし、後白河法皇はこれを追わず、後鳥羽天皇を立てた。しかし、武士達は「中央なんかいらないよ」と目覚めていた。
頼朝の勝因は、清和源氏の嫡流であったことではない。既存の中央官僚組織を排除し、武士達による土地の私有を大前提としたことにある。鎌倉幕府は、すっきりした地方分権システムなのである。
【感想】
この連載は史実を豊富に繰り広げ、話が拡散している。院政というものが権力の所在を曖昧にしてしまうから、当然だけれども、前連載『権力の日本人』の端正とは対照的。正直言って、「一体、この連載はまとまったラストに至るのだろうか?」と混迷していた。それが、『権力の日本人』を超える鮮やかなラストに至り、お見事。
このラストから、鎌倉幕府と院政の異同を考察してみる。『権力の日本人』第九章には「院政は権力者の意志を反映しない朝廷組織を組織をそのままにして、それとは別の回路を作ること」旨が書かれている。すなわち、幕府と院政は、どちらも既存の朝廷システムとは別の、新しいシステムである。異なるのは、院政が既存のシステム(朝廷)をそのままにしていたのに対し、鎌倉幕府はそれを排除している点である。
【橋本マニア向け、おまけ】
既存のものとは別の新しいものを生み出し、それが本物かどうかの判断基準として「既存のものを壊せているか」を出す。この展開は、橋本治の本でたびたび登場。たとえば、『浮上せよと活字は言う』第5章の、「ウミを持った部分をそのままにし、新しい補助器具を与えることによって治療を終えたとするヘボ医者のように、日本の機構改革は、決して古いものを切り捨てない。この国は(中略)既得権ばかりを尊重し(後略)(以上、本文より)」という箇所。また、『さまざまなエンディング』第3章の、東京オリンピックは、戦後という時代の卒業式であり、日本人は嬉々として旧秩序を破壊したが、破壊しただけで、その後は中途半端な保留的形態にとどまっている、旨の箇所。
【おまけ2】
ラストは、鎌倉幕府のシステムは徳川幕府の中に取り込まれて長く続き、そして明治維新が・・・とタイムワープ。このように橋本治の本のラストは、新しいスタートの示唆であることがしばしば。
♪夢の終わりは夢の続き 旅の終わりは旅の続き♪ というか、♪連載の終わりは 連載の続き〜♪
群像2007年4月号 第十五回2007.3.15記
鹿ヶ谷事件は、平家打倒の陰謀として名高いが、実態は「派閥争いに敗れた負け犬オヤジ達の飲み会でのグチ」でしかない。しかし、平清盛はこれに怯える。なぜか?それは、気紛れな後白河上皇が、ずっと前から清盛を内心嫌っていたからである。それを察知した清盛は、「取り立ててくれたのに、ワタシを嫌っていたなんてヒドイ」と混乱。
群像2007年3月号 第十四回2007.2.14記
連載14回目でやっと平清盛登場。いよいよ、清盛の栄華を成り立たせた時代背景。
平治の乱で後白河上皇の近臣信西は自害、信西を追い詰めた乱の首謀者・藤原信頼(後白河上皇の愛人)も斬首。政治的実権を失った後白河上皇は二条天皇と父子相剋、二条天皇と同年の若き基実を関白とした摂関家は家格だけの再編成、最後の力ある女院・美福門院が死んで女の時代も終焉。その中で、平清盛は信西に仕えたから後白河上皇系であり、妻が二条天皇の乳母であるから、後白河上皇と二条天皇の間で引っ張りだこ。「力ある臣下」である清盛を、気弱な関白・基実も頼り、清盛の娘・盛子を妻とする。摂関家とも繋がった清盛は、栄華への道を進んで行く。
群像2007年2月号 第十三回2007.1.17記
【要約】
橋本治が『双調平家物語ノート』シリーズの中で、「頭がいい」と絶賛する人物は、たった二名である。一人は藤原不比等。もう一人が、信西。後白河天皇の近臣である。
今回は、この信西が中心。
信西は、新しい知性によって摂関家の優越を奪い、天皇親政による国家秩序の再生を目指した。しかし、彼は後白河天皇に対しても「どうでもいい」と思っていたのであ
る。自分がきちんとした朝政に参画できていれば満足な、仕事中毒おやじ。
その信西に敵対し、自決へと追いやった藤原信頼(のぶより)。後白河天皇の(男色の)愛人でしかない信頼が、平治の乱を起こせたのはなぜか。それは、保元の乱によって管理社会が崩れ、「一人の大バカ者が大騒ぎを実現できる」という状況が生まれたから。まるで現代みたい。
群像2007年1月号 第十二回2006.12.16記
【ピンポイント紹介】
三回連続で、今回も藤原頼長が中心。
保元の乱の首謀者・藤原頼長は、乱の直前、無気力になっていた。政局から取り残されて、仏典オタク生活を送っていたからである。
彼は、自分の思い通りにならないとすぐキレる人だが、しかし、すぐに醒める人でもあった。
かくして、関白の座(ひいては皇位)を巡る対立は、対立のままに放置され、消滅しようとしていた。
だがしかし。
その時、都には「都の武者」という新要素が存在していたのである。
そしてそこには、戦闘の意味を解する博学の出家者・信西もいた。・・・・・
群像2006年12月号 第十一回2006.11.14記
【ピンポイント紹介】
藤原頼長は性的レベルで自分の支配力を確認したがった。そのような人間が生
まれるということは、世の中が再編成の必要を抱えていたということである。
藤原頼長が生きた時代の最高権力者は鳥羽上皇。鳥羽上皇に寵愛された二
人の女性、璋子と得子。絶世の美貌と権勢を誇る璋子の権勢は衰え、同時進行で、美貌でも高貴でもない得子が権勢への道を登り始めた。
男色によって自分の支配力を確認したがっていた藤原頼長は、母性によって権力者となった得子を憎み始める。
群像2006年11月号 第十回2006.10.14記
【ピンポイント紹介】
男から男へと渡り歩いた、保元の乱の首謀者・藤原頼長(よりなが)。彼が男たちを愛したのは、いかなる欲望によるのか?
「結婚」のゴールも「子どもが生まれる」という結果もないのに、男がある特
定の男を愛するのはなぜか。
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ある人間がある人間と性関係を持ちたがるのは、相手の持っている「属性」や「特性」を「欲しい」と思った結果であり、合目的な行為の始まりである。
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したがって、その二人の関係は、なにか目的があって成り立っているのである。
藤原頼長の欲望または目的は、彼の生きた時代に直結したものである。
保元の乱の直前。摂関家を頂点とする王朝貴族社会のピラミッド構造の安定は崩れていた。
人間関係も序列による社交だけでは不足となり、個と個が剥きだしに付き合うしかなくなった。
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藤原頼長の男色は、「上下関係を確認したい」という欲望による。
群像2006年10月号 第九回2006.9.17記
【ピンポイント紹介】
女から女へと渡り歩いた暴君・白河上皇。彼は、どのような基準で愛する女性を選んだのか?
一人の人間が一人の人間を深く愛する。それが可能になっているということは、その人間達の中に一対一の対応が生まれているということである。
+
また、「自分」というものは一貫性を要する。
↓
したがって、深く愛された人間は、愛した人間の中で、「愛する人間を選ぶ基準」となってしまう。
白河上皇の中で上記基準となった女性は、若き日の最愛の中宮・賢子(かたこ)。
賢子死亡後に白河上皇が愛した女性たち
賢子の産んだ最愛の娘・媞子(やすこ)内親王
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賢子の異母妹・師子(もろこ)
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賢子に似ていたかも知れない祗園女御
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祇園女御の養女・璋子(たまこ)
群像2006年9月号 第八回2006.8.16記
【紹介】
今月、諸雑誌の橋本治の連載は、「異常を異常と思わないことの危険性」がテーマの中に含まれている。
『院政の日本人』の材料は、主権者ではない上皇が政治の中心である、という院政の異常。
白河上皇が権力をふるう院政開始の時代。その渦中にありながら、藤原道長の曾孫・藤原師通(もろみち)は、「上皇が政治の中心にあることは不当である」とし、堀河天皇をよく補佐して白河上皇に対抗した。
不当なものは不当である、異常なものは異常である、という認識の強さ。
余談。『二十世紀』には、アヘン戦争を「汚い戦争」と批判したイギリス人グラッドストンを登場する。そして、いつの時代いつの国にもまともな人はいる旨述べる。今回の藤原師通(もろみち)は『二十世紀』のグラッドストンを連想させた。
群像2006年8月号 第七回2006.7.10記
【紹介】
今月、諸雑誌の橋本治の連載は、いずれも「時代の変化」をテーマとしている。
『院政の日本人』では、時代の転換期における父と息子の対立がテーマ。
たとえば、院政の中で成り上がった平清盛と、武者の世の中で安定を志向する息子・重盛との対立。
群像2006年7月号 第六回2006.6.19記
【要約】
天皇家の女家長であった橘嘉智子(檀林皇后)。
設立したばかりの会社=鎌倉幕府。その安定化に尽力した女社長・北条政子。
時代を異にする二人の女家長、檀林皇后と北条政子を中心に、天皇家(家)や幕府(会社)の中での「働く」「働かない」「働こうとして働けない」人間たちを列挙。
病弱な兄・平城天皇に代わって「働く東宮」であった嵯峨天皇、実権を持った兄・嵯峨天皇の御世に「働く」ことのできない弟・淳和天皇、など。
群像2006年6月号 第五回 天皇の舅2006.5.19記
【要約】
平安時代の結婚は、招婿婚。男は女の家へ通う。男が女を求めて自由に外界を動けた時代、それが出来ない男は天皇であった。天皇のもとへ女が入内し、天皇は女を選ぶ権利が無かった。
その好例が、後一条天皇。藤原道長の外孫だった後一条天皇は、11歳で9歳年上の叔母を妻とし、29歳で崩御するまで、この叔母以外の「ご寵愛用女性」が得られなかった。「大中宮(おおちゅうぐう)」と呼ばれる叔母の威勢が強くて、新しい女の入内がかなえられなかったのである。
群像2006年5月号 第四回 男の歴史2006.4.15記
【要約】
1 「男の歴史」は院政の時代に始まる
「男の歴史」は、後三条天皇・白河天皇が、「愛したい女を愛する」「愛する女の生んだ息子を帝位に即けたい」という「男」の欲望によって院政を開始した時から始まる。
2 子である天皇が父である上皇を憎むようになる歴史
二条天皇は、実父・後白河上皇を憎んでいた。
二条天皇「父親のくせに、父親らしいことをなにもしてくれなかった」
後白河上皇「なにが?父親は父親なんだから、それでいいじゃないか」
3 皇位継承者の「資格」と「能力」が分離してゆく歴史の5段階。
(1)天智天皇
帝位に即けたかった息子・大友皇子に、実務経験をさせようとした。
本文より・・・
天智天皇は、皇位継承者に「政治の実務体験が必要だ」ということを明白に言った最初の天皇で、そしておそらくは、唯一の天皇である。
天智天皇は、「天皇」というものが「最高祭司」的な存在から、「実質を備えた最高の権力者」へ変貌して行くプロセス―その現場に立ち会った人である。もちろん、そのきっかけは、彼自身が実行してしまった「蘇我入鹿殺害」というテロリズムにある。(中略)
「どうして彼はさっさと帝位に即かなかったのだろう?」(中略)彼は「テロリズムだけでは政治は成り立たない」ということを十分に理解していた人だということになる。(中略)その理解が「瞬時に」だったのか「長い時間をかけて」だったのかは知らない<。しかし、彼の人生のあり方を見れば、彼がそのことを理解していたということだけは明白である。テロリズムの実行者がそれだけの深い理解を有していた(中略)日本の政治のごく初期段階にそういう知性を持つ人がいた(以上、本文より)
(2)天武天皇が死んだとき
「皇嗣」と目される草壁皇子は25歳。皇后腹の唯一人の皇子だから、帝位に即く「資格」があることははっきりしていた。三年後に皇子のまま28歳で死ぬ。25歳でも26歳でも27歳でも草壁皇子の即位がなかったのは、その「能力」への疑問が隠れていたからである。
(3)持統天皇即位のとき
持統天皇は、天武天皇死亡後の三年間、后として政治の指揮を執ってきた。
この時点で、皇位継承者の「資格」と「能力」はまだ分裂していなかった。
(4)文武天皇即位のとき
まだ大宝律令の制定前である。
15歳の即位は、「資格」と「能力」の分離が完了してしまっていることを示す。
(5)律令国家の体制作り開始
「能力は体制が補完」「だから天皇は資格だけで天皇になれる」というその後の「常識」が出来上がる。
群像2006年4月号 第三回 人のいる歴史2006.3.12記
【要約】
『日本書紀』の一行を契機に、孝徳天皇(軽皇子)がリアルな「人」として浮上する。
(1)問題の一行:『日本書紀』巻二十四。644年1月、蘇我倉山田石川麻呂の長女が中大兄皇子に贈られる筈だったが、彼女は、婚姻の夜に盗まれてしまった。
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(2)次女が、姉の身代わりに中大兄皇子に贈られる。
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(3)翌645年6月、大化の改新。
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(4)同月、軽皇子が即位。
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(5)7月、驚愕の史実:『日本書紀』巻二十五。孝徳天皇(軽皇子)は皇后と二人の妃を立てるが、妃の一人がなんと、蘇我倉山田石川麻呂の娘・乳娘なのである。
(1)と(5)を組み合わせると、中大兄皇子に贈られる筈だった乳娘を、軽皇子が奪ったことになる。なぜ、軽皇子は甥の結婚相手を奪ったのか?
年齢を調べると(1)の年に、中大兄皇子は19歳。軽皇子は49歳。
また、軽皇子は、45歳でやっと一人息子(有間皇子)を得た。つまり、軽皇子は長い間、有力な女を奉られることのない、不遇な諸王だった。
とすれば、19歳の甥が蘇我の娘を贈られることとなって、不遇な49歳の軽皇子は納得できるであろうか?できないであろう。
したがって、軽皇子が乳娘を奪ったのは、甥への嫉妬ゆえである。
以上の解析プロセスによって、「軽皇子」という抽象的概念のような古代史の人物が、リアルな「人」となったのである。
他の人物たちも、年齢などを調べると、軽皇子と同じように、リアルな「人」となる。
家業を継がない16歳の中臣鎌子(藤原鎌足)は、一族のオヤジ達の押し付けを嫌う若者。
蘇我入鹿が30代で、さして危険でもない山背大兄王を殺してしまったのは、優柔不断な父・蝦夷への嫌悪のためかもしれない。
皇極女帝は、弟(孝徳天皇)の死後、62歳で再即位し、大規模な土木工事を展開させ「天皇の造作狂い」と批判される。自分が譲位した弟が豪華な宮殿を建てたので、弟への対抗心が芽生えたと思われる。
【独り言】
長女を誘拐されて困惑する蘇我倉山田石川麻呂の前に、遠智娘が進み出て、姉の身代わりになると申し出る。このエピソードは『双調平家物語』第2巻「布置」にもあり、気丈で可憐な遠智娘が印象的。第2巻の中で、私の好きな場面の一つである。
私はてっきり、遠智娘は、黒岩重吾『落日の王子 蘇我入鹿』で書かれたように平凡な娘で、愛する父のために働きたがる積極性は、橋本治の創作かと誤解していた。今回の『院政の日本人』を読むまでは。
群像2006年3月号 第二回 蘇我氏の時代2006.2.11記
【内容紹介】
蘇我腹の天皇が三代(用命・崇峻・推古)続いた。しかし、皇女腹の舒明天皇が即位し、王権は蘇我系を離れてしまう。なぜ、推古女帝は、蘇我腹の山背大兄王を推さなかったのか?なぜ、蘇我蝦夷も、山背大兄王を推さなかったのか?
推古→舒明の皇位継承プロセスの謎。この謎を解く鍵は、「皇女」と「蘇我氏の女」の差にあったのである。
すなわち、皇女腹の天皇こそが「本流」だと考えられていたのであった。蘇我腹の天皇が続いた間であっても。
とすれば、蘇我氏の全盛時代が、単純明快に「蘇我氏の時代」であったかはよくわからないのであった。
【感想】
前連載『権力の日本人』は、定式「平清盛=悪人」への疑義が、出発点であった。今月号では、定式「推古女帝の時代=蘇我氏の時代」への疑義が提出された。
群像2006年1月号 第一回2006.1.10記
【内容紹介】
今月号の主要なテーマは二つ。『双調平家物語』(の日本史部分)が、なぜ蘇我氏までさかのぼってスタートしたか。そして、その当時の「皇女」「后」の力。
前者のテーマについて。
橋本治は、『双調平家物語』で「平安時代的な政治構造」の終焉を書きたかった。
「平安時代的な政治構造」とは、娘を天皇の后にし娘が生んだ皇子を天皇とし外祖父となって実権を握ること。
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藤原氏の摂関政治まで、さかのぼればいいか?と道長まで遡っても、藤原氏以外の后が、まだいない。
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藤原氏初の后、光明子。その父・藤原不比等にまでさかのぼる。
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藤原不比等の正妻が蘇我の女だった。蘇我氏にまでさかのぼる。
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蘇我稲目が「天皇に娘を差し出す」手法を葛城氏から継承したらしい。とりあえず、さかのぼり終わる。
男系と女系の両方から構成した、DNAの二重らせんのような系図を作ると、4メートルにもなったというエピソ−ドが、感動を呼ぶ。
後者のテーマについて。
24代仁賢天皇→手白香皇女→29代欽明天皇、は、「男系の女子、女系の男子」という皇位継承である。欽明天皇は、父・継体天皇(26代)の皇子というよりも、手白香皇女の皇子として、誕生と成長を待たれたから。
今、活発に行われている女帝論への新風。
ちなみに、前連載『権力の日本人』には、次のような興味深い指摘がある。女帝論が盛んになった平成日本では、女系の女性天皇はいなかったと一般に言われるが、43代元明天皇(母)→44代元正天皇(娘)はどう考えても女系である旨。
【感想】
「平安時代的な政治構造」とは、橋本治の『源氏供養』などと総体的に考察すると、代理戦争のことであろう。すなわち、権力者たちが表立って争わず、自分の身代わりを当事者として立てて代理戦争をさせる、という。