連載「ああでもなくこうでもなく」を読む
広告批評2007年12月号「ああでもなくこうでもなく」No121
2007.12.11記
【紹介】
民主党党員の反対によって失敗となった、自民党と民主党の大連立。
大連立を策したのは、中曽根元首相と森元首相ら。「自民党も民主党も似たようなものだから、ひとつにまとめてしまえば、手っ取り早い」という策である。すなわち、「違う考え方の人間も存在するから、違う考え方の人間達の間で調整をとる」という世の中の動きに逆行している。
大連立を持ちかけられた小沢一郎は、もはや65歳。自分を育ててくれた自民党が恋しくなって、ヘンなジーさんたちの話に乗ってしまう程度に古い人間である。しかし、民主党員達に引き止められて代表に留まったということは、「ヘンなジーさんたちの案ではやっていけない」ということを知っている程度には「現代人」である。
広告批評2007年11月号「ああでもなくこうでもなく」No120
2007.11.25記
【紹介】
日本では新しい若いリーダー(例:ホリエモン、安倍前首相)がなぜすぐこけるのか?それは遅すぎた世代交代の結果であろう。
安倍前首相の特徴を一言でいうと、代替案のなさ。
広告批評2007年10月号「ああでもなくこうでもなく」No119
2007.10.13記
【紹介】
参議院選挙の自民党大敗後、遅れ馳せながら辞任表明した安倍晋三元首相と、圧勝した民主党の党首・小沢一郎。
安倍晋三は古い自民党支持者を捨てていたが、小沢一郎は古い自民党支持者を拾ったのである。
小泉改革によって中央と地方の格差が広がり、かつての自民党支持者は自民党に見捨てられた。「わたしはあなたたちを見捨てません」というのが、「よみがえった自民党」である民主党。民主党は古い自民党支持者を拾ったのである。
そして、民主党党首・小沢一郎は、かつての自民党最大派閥田中派の後継者候補の一人であった。
古い自民党とは、田中派のことである。
エスタブリッシュ型ではない小学校卒業の田中角栄は、「金と政治」のスキャンダルで辞任した2年後、ロッキード事件で逮捕される。エスタブリッシュの保護を得られず、逮捕されたのである。しかし、議員を辞めず、田中派は最大派閥として健在であり続けた。
しかし、トップが刑事被告人である以上派閥から首相は出せず、それにしびれを切らした竹下登は、派閥内派閥を旗揚げする。この反乱に怒った田中角栄は入院し政治家生命を失い始め、以後は田中派=竹下派となる。
父の派閥を乗っ取った竹下派を恨む田中真紀子は、「自民党をぶっ潰す」と豪語する小泉純一郎に協力。小泉純一郎は首相となり小泉改革を推し進めるが、敵がいなければ戦意も湧かない。小泉純一郎は、2005年衆議院選圧勝を贈り物にして、安倍晋三へ「憲法改正をなさいませ」と「大政奉還」するようにして退陣。
しかし、その時、安倍晋三が引き継いだのは、上述のように、古い自民党支持者を捨てた自民党だったのである。
広告批評2007年9月号「ああでもなくこうでもなく」No118
2007.9.9記
【紹介】
双調平家物語、執筆終了。
壇ノ浦の平氏に、参議院選挙大敗の自民党を重ねて。
広告批評2007年8月号「ああでもなくこうでもなく」No117
2007.8.15記
【紹介】
引き続き社会保険庁の不祥事その他。
広告批評2007年7月号「ああでもなくこうでもなく」No116
2007.8.15記
【紹介】
社会保険庁の不祥事その他。
広告批評2007年6月号「ああでもなくこうでもなく」No115
2007.6.30記
【オミカンヒメ流ダイジェスト】
1 日本国憲法第9条は挑発的
日本国憲法第9条は戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否認を要素とする。まるで、「俺は丸腰だ、斬れるなら斬ってみろ」と言っているようで、とても挑発的。
2 第9条第1項の「国際紛争を解決する手段としては」の保留の意味
第一に、国際紛争の加害者にはならない、という意味。
第二に、被害者となった場合は別である、被害者のままではいない、という意味。
併せると、「加害者にはならない、被害者にもならない。愚かな当事者にはならない」という意味である。
まるで剣を捨てた剣豪。「進んで斬らないが、襲ってきたら斬ることもある」である。
3 「加害者にもならない、被害者にもならない」
第9条第1項は、「加害者にもならない、被害者にもならない。加害者になることは愚かで、襲われたら襲われたままでいて被害者になるのも愚かである。紛争の愚かな当事者にはならない」である。
対するに、銃社会アメリカは、「加害者になれないと被害者になってしまう」である。日本人はアメリカ人に近づいているのだろうか。
4 未来を考えるために、明治の前をはっきりさせる必要がある
日本国憲法は、大日本国帝国憲法が敗戦という壁にぶつかった結果、選択された。大日本帝国憲法以前の選択肢に戻って選択されたものなら、武道の精神が入っていても
不思議はない。武道は近代天皇制より古い。
だが、武道か近代天皇制かという話はどうでもいいのである。重要なのは、選択の結果が壁にぶつかってしまったら、前の選択肢に戻って選択を考え直す必要がある。それが未来を考える、ということ。
しかし、多くの人にとって、明治の前の歴史が「近代以前」として神話化されてしまっている。よって、未来の手掛かりがなくなっている。
『双調平家物語』や『権力の日本人』や『院政の日本人』は、明治の前の歴史をはっきりさせ、未来の手がかりを作るために執筆されている。
【感想】
加害者でも被害者でもない道はある、それこそが正常だ、という示唆に感動。
思えば『双調平家物語』でも、それなりに平穏な人生を送った人物たちは、進んで争わない。しかし、攻撃されたら即、解決手段を講じているようである。
余分な話だが、『双調平家物語』第14巻でオミカンヒメが感動した人物は、波多野義通である。彼は源義朝の部下で、彼の妹は義朝の妾の一人。彼は第8巻で、保元の乱の後始末のため、源義朝の幼い異母弟達4人を斬らされる。これに嫌気が差した彼は、やがて義朝から離れる。その彼が、第14巻で再登場。老いた彼は、幼い4人を斬ったことを生涯の痛恨事としている。そして息子に語る。「大義とはくだらぬもの。大義のために無用な殺人が起きる」息子は父の言を疑わない。父の寂寥が、父の言の真実性を証明していたからである。オミカンヒメはこの箇所が第14巻で一番感動した。大義とはくだらぬもの。
今回の「ああでもなくこうでもなく」から考えると、『双調平家物語』のテーマのひとつは「戦争の無意味」かもしれない。
広告批評2007年5月号「ああでもなくこうでもなく」No114
2007.6.2記
【要約】
1 現在、日本フィギュアスケートの名選手たちが壁にぶつかってはまた立ち直ってくる感動から、基本というものについて考察
基本には「今の自分に必要な基本」と「これからの自分に必要となる基本」の二種類がある。
世の中には基本なんかロクにできていなくても結構なことがやれてしまう人間がいる。そういう人間は、すでに前者の基本をマスターしてしまっている。そういう人間が壁にぶつかった時、それを乗り越えるには、後者の基本をマスターするために、今の完成=今の得意を一度ぶち壊す必要がある。それこそが「努力」で、フィギュアスケートの名選手たちはそれをしているのである。
2 「軍隊による強制はなかった」と言ってよいのか?
安倍内閣が、「従軍慰安婦」は、軍隊による強制によるものではない、と言う。また、教科書は沖縄の集団自決は軍隊による強制によるものではない、という記述の方向へ向かう。
しかし、戦争中に、軍人に命令されて「やだ」と言えたのか?
広告批評2007年3・4月号「ああでもなくこうでもなく」No113
2007.3.21記
【ピンポイント紹介】
宮崎県の東国原知事(そのまんま東)に関連して、まだ未知数の人への信用について。「財政破綻した夕張市みたいにならないようにしないとなァ」という前代未聞の地方政治の時代。事態は前代未聞だから、新しい人が新しいことをしてそれが失敗する可能性もある。将来における小さな失敗を許容して信用するかしないか、が今という時代の微妙さ。
派生して長野県。「脱ダム宣言」をした田中康夫知事を逐った現知事は「ダムを作る」と言う。が、「地球の温暖化の原因は90%が人間の活動のせい」と世界中の科学者が決定した以上、機械を使う産業革命のその前の機械を使わない産業構造に戻すことを迫られているのが、現在という前代未聞の事態。世界は「環境を破壊するダムは作らないほうがいい」という方向だが、それでもダムを作るのだろうか?
広告批評2007年2月号「ああでもなくこうでもなく」No112
2007.2.8記
【ピンポイント紹介】
人から「バカ」だと思われることは、どれほどのものでもない。
橋本治が作家デビューしたばかりの頃のエピソード。テレビ番組に出演した時。収録前にスタジオの隅で共演者と「作家になったから、したいこと」を話していたら、聞いていたディレクターが「一人の人間にどれくらいのことが出来るかな」と忠言。カチンときた橋本治は「一人の人間がどれだけのことを出来るか、やってみせてやる」とひそかに誓う。
広告批評2007年1月号「ああでもなくこうでもなく」No111
2007.1.6記
【ピンポイント紹介】
今回のテーマは、ひきつづき「いじめ」。
「どのような子がいじめの対象になるか?」というリサーチがされたという話はあまり聞かない。しかし、自分の胸に手を当てて「許されるなら自分はどのような人間をいじめてみたいか?」を考えると、その答えは「自分とは違った価値観を持ち、しかもそれが確固としている人間」である。
いじめが終わるのは、いじめられている人間が「自分は異質です」という謝罪をした時である。もちろん、そのような根拠の無い謝罪は起こらない。
いじめは続き、続いている間は、いじめられている人間は「自分の異質を認めない頑固な人間」と認定されていることになる。
広告批評2006年12月号「ああでもなくこうでもなく」No110
2006.12.16記
【要約】
今回のテーマは、「いじめ」と「高校の必修単位の未履修問題」。
「いじめ」というものはなくならないし、「いじめ」に遭うのは子供時代に限らない。だからといって、そのままになっていていいわけでもない。いじめの兆候が見られた早期段階で、学校が「いじめは恥ずかしいこと、悪いこと」という説教をするしかないのである。それで、「いじめに対する抵抗力」はつくだろう。だが、学校はそれをしない。
教育には「学校の内」と「外」の両方が必要。しかし、「外」は「ない」。(『桃尻語訳枕草子』は、当時の国文学の権威から「困ったことをしてくれた」と排除された)「外」がないのだから、排除された者は「生きようがない」と簡単に自殺してしまう。
高校の「大学受験に関係ない科目の必修単位未履修」問題も、「大学へ行く」以外の他の選択肢が「ない」からである。
「外」「他の選択肢」の創造は、パニックの現実を直視することからしか始まらないのである。
広告批評2006年11月号「ああでもなくこうでもなく」No109
2006.11.14記
【ピンポイント紹介】
「変える」という主張によって高い支持率を維持し続けた小泉内閣退陣に関連し
て。
日本では「変える」ことができるのは一部の特権ある人たちだけなのである。
広告批評2006年10月号「ああでもなくこうでもなく」No108
2006.10.14記
【紹介】
天皇は歴史によれば、男系男子に限定されない。
サンプルは、聖武天皇。文武天皇の皇子で、形式上は男系だが、即位の経緯を考えると、実質的には持統女帝・元明女帝の女系である。
広告批評2006年9月号「ああでもなくこうでもなく」No107
2006.9.17記
【ピンポイント紹介】
テーマはテロリズム解消策。
テロリストには国家となる力はないから、国家となることを目指さない。しかし、目指せないことに由来する欲求不満は残るから、攻撃だけは続ける。となるとテロリストは自己完結してしまう。
↓
改善策は、強者である国家の譲歩にしかない。
↓
しかし、強者が欲で固まっていて譲歩をしないのである。
【考察】
『双調平家物語』第2巻では、強者である蘇我蝦夷が強者であることを自覚しなかったために、弱者でしかない軽皇子を追い詰めて中大兄皇子と手を結ばせてしまい、結果として蘇我嫡流の滅亡となる。
大化の改新と同時多発テロの対応関係は、次のようなものであろうか。
蘇我蝦夷=大国
中大兄皇子=テロリスト
蘇我嫡流の滅亡=大国の没落
広告批評2006年8月号「ああでもなくこうでもなく」No106
2006.8.11記
【紹介】
今月、諸雑誌の橋本治の連載は、「異常を異常と思わないことの危険性」がテーマの中に含まれている。「ああでもなくこうでもなく」の材料は、耐震強度偽造問題・社会保険庁の不祥事。
日本のビルが10階程度だった時代に合わせて、「一級建築士」という資格があった。
↓
そこへ、20階30階が当たり前という現実が押し寄せる。
↓
「やったことがない」「わからない」「どうすればいい」
↓
選択肢は「一から勉強し直す」しかない筈。しかし「わからないからずるをしてごまかす」という選択をしてしまう人間も出てくる。
↓
「一人のアネハ」の周囲には、気がつかない検査機関や、疑問に思わない施工主・建築業者がいた。
また、アネハは一人だが、不祥事の社会保険庁の職員は複数である。
↓
社会には、「ずるをしてごまかす」を阻止する力がなくなっている。
広告批評2006年6・7月号「ああでもなくこうでもなく」No105
2006.7.10記
【紹介】
今月、諸雑誌の橋本治の連載は、いずれも「時代の変化」をテーマとしている。
『ああでもなくこうでもなく』では、「時代の変化による選択肢の多様化」の内実がテーマ。選択肢とは、他人から提供されるものではなく、各人が獲得する結果なのだった。
広告批評2006年5月号「ああでもなくこうでもなく」No104
2006.5.19記
【要約】
今回の主なテーマは、トリノオリンピックの女子フィギュアスケート。
1 村主章枝に関して
日本舞踊のような村主章枝の動き。日本の伝統芸能の「内向の美」が、フィギュアスケートの中で開花してしまう。
2 荒川静香に関して
「ステンレスのような正確さ」は消えて「今までの荒川静香」とは違う荒川静香が、無垢に美しく開花。
3 安藤美姫に関して
安藤美姫には、伊藤みどりにあった「どうなるか分からない原始の力」みたいなものがある。
↓
まずはこの力を「我が物」にすることが必要。
18歳の彼女に必要なのは、元気一杯持てる力を出しきること。
↓
このプロセスを無視していきなり「大人の女の叙情性」を要求するのは、無茶である。
後は、王ジャパンの優勝や、小沢一郎の民主党代表就任などがテーマ。省略。
【感想】
少女の「原始的の力」を十分に発散することが、「大人の女の叙情性」へのプロセスだという点に、感動。
オミカンヒメは、自分の趣味などに関しては、少女時代以上に情熱を持ってしまう。例えば時として、「橋本治のこの本の感想を早く書きたい」という欲求は、なぜにかくも熱いのか?と自問。これも「原始の力」なのだろうか。
広告批評2006年4月号「ああでもなくこうでもなく」No103
2006.4.15記
【要約】
今回のテーマは、2つ。1つは民主党の偽メール問題、もう1つは格差社会・階層社会。
1 民主党の偽メール問題に関連して
日本では傷を抱えた者同士が、「どうして私達はだめなんだろう?」と検討し合うする機会が少ない。あるのは「上からの説教」と「すいません」だけ。ヘマの経験が、自分の失点克服のステップになりにくい。
2 「格差」「階層」について
「社会に格差が生まれている」「階層社会になっている」なんて言われるが、今までの日本だって格差社会・階層社会だった。
以下、格差・階層に分けて分析される。
(1)「格差社会」の乗り切り方
バブルへ経済へ向かう「一億総中流」の一時期にだけ、「格差」がなくなっただけかもしれない。
「格差社会」を乗りきるために必要なのは、「一億総中流」によって失われた「それぞれ性」を回復すること。
「崩れた中流性」を前提に「格差社会」などという文句は言わないのが一番である。
(2)「階層社会」のポジティブな分析
「階層」とは、美意識・生活様式である。金ではなく、社会的責任によって成り立つ。
「一億総中流」が、安定した階層社会を崩し、日本社会を混乱させた。
「出会いがない」のは、所属する階層がなくなった結果である。すなわち、「階層」が「階層」を維持するための新規メンバーを得る力を無くしたから、「出会いの場」もなくなった。
【感想】
今回の「階層社会」でも明らかだが、橋本治の文章は、特定の存在・概念を「良いもの(良いこと)」「悪いもの(悪いこと)」に単純に二分しない。別役実の「犯罪が起るからと言って、必ずしもその時代が悪いとは言えない」という主張を思い出す。
広告批評2006年3月号「ああでもなくこうでもなく」
2006.3.19記
今月号の主要なテーマは、「でも、そんなに悪いことなんでしょうかね?」
【要約】
(1)日本社会がいかに子供っぽくなってしまっていたか。パソコン、それ以前にテレビ。それらのこちら側の現実が活力を失った
↓
現実から現実が退潮し、日本社会が子供っぽくなってしまった。
社会には他者(社会的弱者など)への配慮が必要。そのために少しばかりの損を甘受出来るのが大人の考え方。この考え方に基づいて、金儲けの中にも様々な取り決めか゛ある。
しかし、大人の考え方が身に染みない子供っぽい社会になった。エゴを拡大させ、我慢出来るくらいの損を我慢せず、法に抵触する行為をしても「そんなに悪いことなんですかね?」と笑う。
具体例1:ライフ゛ドア 事件
具体例2:耐震強度偽造問題
「何十年に一遍来るか来ないかの大地震を配慮して、なんで、耐震構造のために損をしなきゃならないんだ。耐震強度という考え方が登場する以前に建てられたボロいものがたくさんある
のに、偽造がそんなに悪いことなんですかね?」
具体例3:障害者用の部屋の設置義務に違反した東横イン社長
一年間に一人か二人しか利用されない客室を空けておくのは損。だから、一応は作って、ホテル設置の審査パス後はすぐに改造した。「でも、そんなに悪いことなんですかね?」
(2)「勝ち組・負け組」について
近著『乱世を生きる』にはなぜ『市場原理は嘘かもしれない』という分かり難いサブタイトルがついたか。
↓
それは、書こうとする本の前に、「いやなもの」があって、ストレートな物言いを阻んでいたからである。「いやなもの」とは、いつのまにか世を覆っていた「勝ち組・負け組」の二分法。
↓
「勝ち組・負け組」の二分法を、「ああ、汚らわしい」とは思う。が、「嫌いだ」と言っても、その唾棄すべき愚かな二分法を追認する結果にしかならない。
↓
よって、「怒りが極度に昂じると冷静になる」特性のある橋本治は、迂回して、サブタイトルをつけたのである。
(3)「大人」が瓦解してしまう仕組み
大人は誰でも、内部に「子供っぽさ」を抱えている。
↓
だから、我慢ができない子供を見ると、「こっちは我慢しているのに」という「子供同士の嫉妬」がひそかに燃えてしまう。
↓
この内部構造を人につかれたり、あるいは自覚して、「偽善か?」なんて考えると、せっかく構築した「大人」が瓦解してしまうのである。
広告批評2006年2月号「ああでもなくこうでもなく」
2006.2.9記
今月号のテーマは、実質的な労働を欠落させ、金だけを目的とした「経済」への不信。このテーマは近著『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』でも述べられているが、改めて、2006年1月17日の4つの出来事を題材に展開される。
【要約】
(1)阪神大震災から11年
町工場などの小規模自営業者にとって、「仕事を畳む」はどのようなことか。そもそも、労力の割りに金が儲からない仕事であった以上、問題は金ではない。問題は、人生の意義の喪失なのである。これが進むと、日本経済から「働く」が失われてしまう。
↓
解決策は、企業規模を小さくし、日本人の生活レベルを低下させること。
(この解決策は『ぼくらの資本論』(貧乏は正しい!第4巻)や、『二十一世紀』で概に述べられている。)
(2)宮崎勤被告の死刑判決(最高裁)
「大人になる」とは、「働く」を根本にして生き進むこと。
↓
他方で、「中流」とは、父親がサラリーマンで、家が労働の場ではないため、子供が働かない家庭。
↓
一億総中流化が、「働く」の意味を曖昧にした。ひいては、大人と子供の区別を曖昧にした。
↓
宮崎勤の幼女連続誘拐殺人事件は、「オタクの犯罪」ではない。社会が「大人になること」「働くこと」を曖昧にしてしまった結果の事件である。
(3)耐震強度偽装問題のヒューザー社長証人喚問
省略
(4)ライブドア強制捜査(16日の夜開始)
労働はなく、ただ金があるところに若き知識人が集まった。ライブドアはオウムと同じ構造。ライブドアの破綻は、日本経済の脆さである。
広告批評2006年1月号「ああでもなくこうでもなく」
2006.1.12記
今月号は、連載第100回目。テーマは、自分とその周り半径1・5メートル程度しか見えない人間。以下、要約。
わからないこと・むずかしいこと・知らないこと、は劣等感を抱かせる。
↓
劣等感をもちこたえる体力のない人間は、わからないこと・むずかしいこと・知らないことを「ないこと」にしてしまう。そして、劣等感をもちこたえる体力のある人間を軽蔑する。
↓
そういう人間たちを世の中が平気で放置している結果、とんでもない事態が起こる。
↓
自分とその周り半径1・5メートル程度しか見えない人間の具体例
具体例1:2005年に母親に劇物タリウムを飲ませたという女子高生
具体例2:罪悪感のない表情の一級建築士アネハ某
【感想】
私オミカンヒメは、自分とその周り半径1・5メートル程度しか見えない人間の一人である。だから、人間がそうなるプロセスは、自分事として知っている。恐怖と苦痛に不感症になるため、自分で視野狭窄状態を作り出し、それを続けているうちに、いつしかその状態から抜けられなくなってしまうのだ。
今月号の意義は、劣等感というものをポジティブに把握できたことにあった。
広告批評2005年12月号「ああでもなくこうでもなく」
2005.12.20記
今月号は、「リベラル」という語に関する考察を通して、人間の成熟・柔軟な役割分担を待望する。
本文より・・・
「年を取ることが、実は柔軟になることだ」
一遍失敗すると、「全面的にだめだ」ってところまで行ってしまう、日本人の思想的な根性のなさはなんとかしてほしいよね。
「自立」がはやって、「全部自分で背負い込まなければならない」という強迫的
状況が生まれて、ギスギスした結果になった。「全体をカウ゛ァーしない―出来
ないいい加減さ」の最大のメリットは、「あ、そこはオレ分かんないからあんた
やって(中略)」でいとも簡単に役割分担が出来ることね。
「そんな簡単な解決手段なんかあるわけない」ということだって、昔からはっきりしているわけだから。
【読者対談】
オバサンヒメ「年を取ることが、実は柔軟になることだ!ですって。いいわーー」
オニババヒメ「いいわー!ワタシ、歳を取れば取るほど元気になってしまうんで、ワタシッて異常なのかしら?って思ってたんだけれど」
オバサンヒメ「そうそう!“ワタシはだた騒々しいオバサンになっているだけなのかしら?”って悩んでたんだけれど」
オニババヒメ「元気でいいのよね、これでいいのよね」