婦人公論の掲載分を読む
婦人公論 2006年10月22日号 頑固者対談 人は「見た目」で判断すべし 日本人はかくも下品になってしまった2006.10.14記
中野翠との対談。
婦人公論 2006年4月7日号 緊急連載 紀子さまご懐妊と皇室典範の行方《後編》男子をお産みになろうと、危機は続く2006.3.25記
【要約】
1 孝謙天皇以降、すなわち平安時代以後、長く女帝が出なかった理由。
答え:藤原氏の都合。
娘を天皇に贈って外戚となり権勢をふるうというやり方を取った藤原氏にとって、天皇は男でなければだめだった。
2 「皇位継承は男系(男子)」という「伝統」は明治に作られた。
本文より・・・
19世紀になって黒船が来航し、幕末の動乱を経て成立した明治政府は、「近代」という外圧のなか、「自分たちなりの近代日本の形を作らなければならない」と考えて、男性の「戸主」を中心とする家長制度を作ります。皇室も、現行の「皇室典範」で男系男子への継承しか認めなくなった。
3 現代の最大の問題は、皇室という特殊な環境に生まれた方々が、男女問わず、配偶者が簡単に見つかる状況がないこと。
皇室とはひとつの「家」である。
しかし、現在は「家」一般について、愛情などの私的感情で結びついているものとされていて、社会単位としての意味が揺らいでいる。
同時に人間の社会性も薄らいでいる。
このような風潮のなかで、皇室という「家」を継承していくために、お妃や内親王の結婚相手を民間に求めるならば、まず、社会全体の問題として「家」とはなんなのか考えてみないと、解決はつかないはずである。
一般国民ですらナンパ・合コン・出会い系サイト以外に出会いの機会が限られている。御懐妊の紀子さまが男子をお産みになっても、皇太子妃のなり手が見つからない可能性はある。皇室典範を改正して愛子さまが皇太子になっても、すんなりお婿さんが決まるとは限らない。
4 もう少し人間的な環境にしたほうが、皇統の維持のためにもいいのではないか?
結婚は両性の合意に基づくというのが現在の常識だから、皇室に「自由恋愛」はありうるのかという問題だって起こりかねない。
天皇は公的な存在だが、人間である以上、私的な部分だってある。しかし、日本の皇室は公的な性格が強い。
本文より・・・
公私が一体化した状況に押し込められた方の言動が、「人格を否定されて、かわいそう」なのか、それとも「皇室の一員であるという自覚に欠けて、わがまま」なのか、線引きすることすら難しい。(以上、本文より)
日本と同じく公的な性格が強いイギリス王室はスキャンダルが続き、一方、オランダ・北欧の、王室の方が気楽にデパートに行ける国ではかえって問題が起こっていない。公(パブリック)と私(プライベート)の使い分けができず、皇族に私的な感情が許されないままでは、同じ危機は繰り返されるままである。
5 今回の皇位継承問題について結論:今の皇室と社会の現実を認めた上で、最善の方法をフレキシブルに考え、女性・女系天皇を認めるなら認め、それでトラブルが起こったら、他の解決策を考えるべきである。
本文より・・・
なぜ、そこまでして皇室を残さなければならないの?という疑問も出てくるかもしれませんが、私は「そこにあるものは、必要だから、ある」と考えます。「そこにあるものは、あってはならないものだから、なくしてしまえ」となると、ロシア革命後のソ連じゃないけれど、大きな問題が起きる。(中略)
繰り返しますが、今回の議論の多くは、明治時代に始まった近代天皇制を、古代から連綿と続く揺るぎないルールであるかのように錯覚しているのです。
かつての天皇のほうが、もっと人間的な環境に置かれていた。女系か男系かという区別はなくフレキシブルな継承が行われていた。(中略)しかし、どうも日本の政治家は、そのあたり素直になりにくい人たちが揃っているような気がします。(以上、本文より)
婦人公論 2006年3月22日号 緊急連載 紀子さまご懐妊と皇室典範の行方《前編》「男系継承の伝統」は幻である2006.3.12記
【要約】
「女性・女系天皇」容認派も、「伝統に拘ってる場合ではない」と言っているだけであり、
「男系継承が伝統」という点で、反対派と同じ誤解をしている。
日本史上、女性天皇は10代8人。古代に8代6人(2人は2度即位)。
その以前の女系の例として、欽明天皇の皇位継承プロセス。
仁賢天皇
↓
その娘・手白香皇女(皇后)
↓
その息子・欽明天皇
手白香皇女が遠縁の皇族(継体天皇)を入り婿とし、皇子を産んで、皇統を存続させたのである。
一人目の女帝:推古天皇
敏達天皇の皇后。遠縁の「男系男子」よりも、「先帝の后」が適任とされたわけである。
その治世は36年。
二人目の女帝:皇極天皇(再即位して斉明天皇)
舒明天皇の皇后。
皇女ではなく敏達天皇の曾孫。初めは、蘇我氏の傀儡だった。
弟・孝徳天皇へ譲位してから、豹変する。弟が、遷都して豪華な宮殿を建てたのを間近に見て、天皇の権力に目覚める。弟に不快感を覚えたのか、弟の造った都を離れ、息子達や娘(弟の后になっていた)を引き連れて旧都へ帰ってしまう。弟の死後、62歳で再即位し、弟に張り合って大土木工事を始める。また、百済から救援要請が来ると、自分で軍船に乗り、九州の前線基地まで行ってしまう。
50歳を過ぎて前向きに突っ走った斉明女帝のあり方は、現代の中高年女性のあり方とそっくり。
三人目の女帝:持統天皇
天武天皇の皇后。
孫息子(文武天皇)に譲位。
一見、文武天皇が成人するまでの中継ぎに見えなくもない。が、男系の皇子として天武天皇の長男・高市皇子がいたにも拘わらず、即位。
702年大宝律令を公布。「太上天皇(上皇)」として文武天皇を輔佐した。つまり、史上初の、実質上の「院政」を行ったのである。
四人目の女帝:元明天皇
文武天皇の母。
孫息子(聖武天皇)が幼かったため、即位。在位は8年。
一見、聖武天皇が成人するまでの中継ぎに見えなくもない。が、男系の男子として高市皇子の子・長屋王がいたにも拘わらず、即位。天智天皇の娘であることを、即位の形式的根拠とした。
五人目の女帝:元正天皇
元明天皇の娘。
甥(聖武天皇)が15歳で人見知りが激しかったため、即位。在位は9年。
一見、聖武天皇が成長するまでの中継ぎに見えなくもない。が、長屋王がいたにも拘わらず、即位。天智天皇とは母を通して「女系」で繋がっている。
六人目の女帝:孝謙天皇(再即位)
聖武天皇の娘。
日本史上唯一の女性皇太子。
32歳で即位、9年後に淳仁天皇へ譲位。
母后が死んでから2年後、突飛な行動に出る。「国家の大事は上皇である私がやる」と宣言。さらに淳仁天皇の腹心・藤原仲麻呂を謀反人として討ち、淳仁天皇を廃し、再即位。
亡き母后が重用した藤原仲麻呂を討つことで、母后の呪縛をも離れる。僧・道鏡とのスキャンダルは、更年期間近になった女性が「私だって子供を産んで、後継ぎを作る可能性がある」と考えての行動であろう。
結局、子供に恵まれず53歳で死去。その後長く、女帝は絶える。
なぜ女帝が絶えたのかは、次回へ。
【独り言】
『双調平家物語ノート 権力の日本人』最終回にも、持統女帝が「院政」を行ったと明言されている。受験知識では、我が国初の院政を始めたのは白河天皇ということになっているが、この常識は、修正・変更されざるを得ないんだろうか?