蝶のゆくえ(2004)
児童虐待する未熟な親の物語というよりは、むしろ、不幸な子供への鎮魂歌。そして、慈しみ。
【感想】
虐待されて死んだ男児が死なずに生きていたなら、どうなっていただろうかと、オミカンヒメは想像してしまう。大切にしていた母の花嫁写真。幼い心が大切に抱きしめていたものが、虐待される直接の原因となったと、成長した男児が理解した時。怖いといえば、虐待死のラストよりも、そちらである。本書の鑑賞としては的外れな感想だが。
【内容紹介】
6編を収録した短編集。第1編「ふらんだーすの犬」が最高傑作で、それに第4編「浅茅が宿」が次ぐ。
第1編「ふらんだーすの犬」について。
18歳の女と20歳の男の「できちゃった結婚」で誕生した男児が、祖母に養育され、小学校入学直前に母とその再婚相手に引き取られ、虐待され6歳で死亡する物語。
さびしい男児が、母の美しい花嫁写真を心の慰めとするストーリーは、野坂昭如『華燭の死門』(短編集『童女入水』収録)を思わせる。
淡々とした文体である。が、淡々とした文体が、ラストの一行に至って、橋本治にしか書けないような一撃に変わる。日本文学史上に名高い一行になるであろう。この一行は激怒なのか。号泣なのか。鎮魂なのか。
かつて橋本治は『愛の矢車草』(1987)で、11歳で父親になってしまった少年が18歳で息子を施設から引き取る物語
を書いた。「ふらんだーすの犬」は『愛の矢車草』の美談を、作者自ら突き崩したような物語である。
「無責任な実父」の心理が、淡々と、かつ衝撃的に書かれている。若妻が出産した途端に「自分の義務は終わった」と突然に思う20歳。動物の雄としては自然とも思われる。
動物の雄でしかない男と好一対をなすように、母は、再婚の夫の失業に不安を抱き、不安を紛らわすために我が子を虐待する。
軽いノリで、深刻な結果(殺人)が生じてしまうまでの過程が、じわじわと進行。
しかし、このような、「未熟な親が不幸な子供を虐待する」という定型的な鑑賞は、本作の清冽さに似合わない。
なんといっても、橋本治にこの物語を書かせたのは、不幸な子供への思い入れだろうと思う。
なぜかというと、私は『愛の矢車草』の次の一文が忘れられないからだ。
『愛の矢車草』よりー大人の世界はすき間だらけで、そのすき間を漂うのは不幸になった子供だけだ。(以上、本文より)
橋本治がデビューしてから四半世紀以上が過ぎた。橋本治の人間観・男性観・女性観も、若干の変化を見せた。しかし、変わらないものは幼い子供への視点。保護と愛を必要とする絶対的弱者=幼い子供に対して橋本治が抱く慈しみは、デビュー直後から変わらない。
第4編「浅茅が宿」について。
定年退職直後の夫は「オヤジ狩り」のような事件で殺される。残された妻の心境を
死亡の知らせから葬式の後まで、分刻みのように追う物語。衝撃・呆然・追憶・号泣。
平成不況が人の心を不安定にし、現在の日本には愚劣な殺傷事件が蔓延している。
よって、今や誰でも、理不尽な犯罪によって、ある日突然に肉親を奪われうる。それは、ありふれた不幸となった。しかし、遺族の心境は他者には決して理解
できない。その心境は既に描かれていそうでいて、意外に描かれていない題材である。
橋本治は、人が、長い人生時間を共に歩んだ配偶者に死なれた時の喪失感を、丹念に描いてきた。これまでの作品ではこのテーマは、もっぱら男性の心理で描かれてきたが(『窯変源氏物語』第10巻の紫の上を失った光源氏、『双調平家物語』第1巻の武恵妃を失った玄宗皇帝、『生きる歓び』の『いんかん』の妻に死なれた定年退職者)、本編では女性の心理で描く。
余談だが、上記短編集『愛の矢車草』収録の「愛の牡丹雪」も、50代女性の少女性をテーマにした作品。やはり定年退職時期の夫を持つ、50代の主婦が主人公。しかしこちらのヒロインは対照的に、夫を捨て、レズビアンの恋人のもとへ走る。
【考察】
蝶はどこへ飛んでいったのだろうか?
本書には、これまでの橋本治の短編集には無かった特徴がある。
第一に、『生きる歓び』(1995)『つばめの来る日』(1999)は、主人公が胸に抱く空虚感を、のどかに描いた。
これに対して、本書では、主人公が社会的・世間的に破綻を呈する。戦争のある時代にふさわしい。
主人公を取巻く脇役の人数が無意味に多いのは、情報化社会の隠喩であろう。人と人との距離が狭まり過ぎていて、それでいて、人的交流が形骸化しており、個々人は孤独のまま。この息苦しい、それでいて寒い社会。
本書の題名「蝶のゆくえ」は、いかなる意味をこめたものであろうか。
“蝶”と“ゆくえ”に二分して考察してみる。
まず、“蝶”とは、帯の解説から考えるに、平凡な一般人を示しているようだ。人間そのものが廃墟となってしまう、平成不況の現在。イラク戦争続行中。第二次世界大戦時の軍国主義再来の悪夢の中のまっただなかに生きる、無力な我々・一般人。このように哀れな人
間達を、橋本治はいとおしんで、“蝶”と呼ぶのだろうか。決して飛べない、時代の限界のなかに閉じ込められるしかな
い、人間という哀れな生き物を、せめて蝶にたとえて、慰めようとしたのだろうか。
また、“ゆくえ”とは、『浮上せよと活字は言う』(1994)最終章の題名「物語の行方」を踏んでいるのだろうか。「物語の行
方」で橋本治は次のようなことを書いた。人は自分自身の物語を生き、刻まれた物語を「これを読んでくれ」と言い残して死ん
でゆく、と。
とすれば、“蝶のゆくえ”とは、平凡な一般人の足跡に、次代・後世が馳せる思い、だろうか。あるいは、無力な我々の、「せめて次代・後世からは、いたわりを持って見られたい」という、願望。
しかし、飛んでいった蝶のゆくえを誰が知るだろうか。