日本の行く道(2007)
今の日本は「自殺大国」です。年間三万の人間が、黙って独りで死んで行きます。理由はさまざまにあるでしょう。(中略)でも、この人たちは「行き場」がないのです。それを分かっているから、黙って死んで行くのです。(中略)そうなる人達のことを「他人事」だと思っていて、でも、なんとはなしに不安が襲ってくるのは、「一歩間違えれば行き場はないな」ということを、なんとはなしに感じてしまっているからです。(第二章2「1985年に起こったこと」より)
【要約】
(1)今の日本のおかしさの原因は不明だが・・・
「今の日本はどこかおかしい」と思う人は多い。「いじめの深刻化」「ニートやひきこもりの増加」「格差社会の拡大」「殺人の増加」など。
日本より大きい規模−地球で考えると、たとえば、温暖化。その原因は明確である。産業革命以来の人間の生産活動である。しかし、温暖化を防ぐためエアコンを捨ててしまうと、熱中症で死亡してしまったりする。よって、エアコンは使うしかないが、設定温度は高めにして、地球の温暖化を緩和してゆき、徐々にエアコンを捨ててゆくしかない。
また、軍拡競争が進んで、日本も脅威にさらされているが、地球環境を守るためには、日本は戦争放棄を明記する憲法9条を守っていかなければならない。
地球温暖化防止のための議定書に「京都」という日本の地名が冠されており、日本が「戦争放棄」を謳った条文のある憲法を持っていることは、偶然ではあるまい。
「地球全体がおかしくなっている」ことについてさえ、「原因」はあり、「原因」がある以上、「その対処法」もある。「その原因を我が事として引き受ける」という形で。
よって、それより規模の小さい「日本の社会」がおかしくなっていることについても、原因と対処法がある。
それが途方もなく大きな原因であっても、また簡単な対処法がなくても、原因不明のまま放置しておくと、状況はもっとひどくなる。
(2)子供がいじめにあって自殺、そして、日本は「自殺大国」
いじめは昔からあったが、昔と今で違うのはいじめにあった子供が自殺する点である。子供は小学生段階で自殺を実践できるほど成長が早くなって、一方で、自殺が可能になってしまう年頃になっても黙っていじめを引き受けてしまうほどに幼い。
一方では成長が早く、それに隠れて、もう一方では成長が遅い。これが今の子供と昔の子供の違いである。
この「子供」を「大人」に入れ替えても、そんなには違わないであろう。自殺は子供に限定されず、日本は毎年三万人の自殺者を出す自殺大国である。それだけの人が確実に「自分の行き場」をなくしている。
大人も「いじめが存在する教室にいる子供」と同じようなものである。たとえば「いじめにあってそのままひきこもりになってしまった」「結婚なんかいつでもできるはずと思い込んでいるうちに結婚できなくなった」「家庭を作ったけれど、破綻して今では独り暮らしをしている」「就職し結婚し家庭を作ったが、リストラや事業失敗によって、一人で自殺するしかなくなった」「気がついたら生きていたくはなくて、ネット上で自殺サイトを作っている」という人達はいくらでもいる。
大人が大人の基準に達しておらず、中身が子供のままである。なぜそうなってしまうか?人から不便をなくしてゆく進歩によって、世の中が便利になりすぎたからである。
「豊かさ」が強くなると、人は人であることを成り立たせる思考の重大な部分を放棄してしまい、人の力は相対的に弱くなるのである。
したがって、大人になること=「不便さを克服できるだけの力を身につける」という、子供と大人の境が今はないのである。
(2)「家が、学校か」だけで、「その他」がない
1965(昭和40)年には「団塊の世代」が高校三年生になり、「空前の受験地獄」となる。子供たちが学校になじんで地域社会との接点を薄れさせていき、学校の外にある「地域社会」は消えていった。それは、「大人としての基準に届いているか」という社会の側のチェック機能が消滅してしまったことと関連するであろう。
(3)エネルギーの不完全燃焼が、陰湿ないじめへの熱中を生む
初の「いじめ白書」が発表された1985年、時の中曽根康弘総理が「輸入促進のため国民一人当たり100ドル相当の外国製品を買おう」(=年間2万円相当の無駄使いをしましょう)と呼びかける。この1985年がバブルの始まりである。「受験勉強の過酷」を感じさせる「貧乏」がなくなり、子供は「する必要のない勉強をさせられている」と直感する。それは、バブルがはじけて大不況が来ても、変わらない。
やる意味のないことをやらされていたら、人間はおかしくなる。そのエネルギーの不完全燃焼が、「学級崩壊」を実現させ、陰湿ないじめへの熱中を生むのである。
(4)「行き場がない」ということの由々しさ、格差社会
自殺大国日本の年間三万人の全員が「いじめにあった」というわけでもない。しかし、「行き場」がないから、黙って独りで死んで「なんにもないところ」へ行ってしまうのである。そうなる人達のことを「他人事」と思っても、不安感が襲ってくるのは、「私だって、一歩間違えれば行き場はない」と直感しているからである。
21世紀の日本の「格差社会」は、「あるレベルからはずれた人間達なんか知らない、放置する」という、オールオアナッシングの「隔差社会」である。
1970年代の高度成長達成後の「一億層中流」以前の格差社会には、「貧乏人」が歴然といたが、貧乏人には貧乏人の仕事があった。しかし、今は「貧乏人」という概念自体がなく、ワーキング・プアという英語しかない。
「このままだと生きていけない」という状態の人に対しても、「格差がある」「自助努力が足りない」「自己責任」という言葉を与えるだけである。
例としては、「障害者自立支援法」(自立を促進する施設の利用費用を障害者から徴収する)や「生活保護の打ち切り」がある。相手の能力を考えず、「自助努力」を一方的に強制してしまう。
(5)必要なアプローチ
「さっさと大人になってしまった子供」が実際に「大人」の年齢に達していたら、「本当に君は大人なのか?」と総論的な断罪をしても仕方ない。そんなことされても、心を病みかねない。いまさら責めてもしかたないのである。
総論で成長を早められてしまった元・子供に必要なのは、「焦らず、自分の足りないところを、少しずつ点検するしかないだろう」という、各論的な成長である。
(6)「1960年代前半に戻す」
日本社会(そして地球)のおかしさを解決するためには、日本が1960年代前半に戻るという方法がある。(理論的には、産業革命以前や江戸時代に戻る、となるが、現実的な妥協点として1960年代前半となる)受験戦争もなく地域社会も健在。超高層ビルもまだない。
ひとつの町程度の人口を収容できる超高層ビルを、人口格差をなくすために壊したと仮定する。日本がある日突然、国策として超高層ビルを黙って壊し始め、世界中のメディアが注目し、「いったいなんでそんなことをやっているのだ?」と外国メディアの取材がやってきた時には「地球温暖化対策のためである、もう超高層ビルは古いのだ」と日本人が答えると、相手(たとえば中国)は揺らぐであろう。
1960年代前半に戻すと、「あの経済大国だった時代へもう一度」という発想も生まれるだろうが、それは禁物。貿易戦争に勝ってしまうと、工業製品その他の輸出で儲けた分を他の国にも分けなければならなくなり、農産物の輸入自由化を迫られ、日本の農業が壊滅状態になってしまうからである。
歴史も人生もさまざまな選択肢で出来上がっている。かつての選択に間違いがあったり、間違いに気がついていたがかつての時点では他の選択ができなかったということもある。その上でできることは、「今の自分には改めて別の選択ができる」という理解をすることである。「昔そうだったから」といって、いつまでも過去の古いものに縛られている必要はないのである。
一方で、過去の一切を捨ててしまうのは愚かである。古いものの中で蓄積された「経験」を投げ捨ててしまうのは、「なんでも捨ててしまう革命の時代」の考え方である。
たとえば、ソ連が崩壊したのは1991年で、崩壊後に自由経済になって景気がよくなっているから、ロシアの人間達は「崩壊したソ連時代」を顧ず、成長拡大路線を突っ走っている。中国だって、四千年の歴史があったってそれは「人民中国」のあり方からすれば「皇帝の専制政治が続いたよくない時代」で、開放経済へ進んで成功を収めている現在からすれば「人民中国60年の歴史」ですら「現在の成功にいたる選択を認めなかった窮屈な時代」でしかない。
そんな中で、日本は「失敗と成功」の例が豊富で、選択の可能性をとんでもなく長く時代をさかのぼって考えられる。重要なのは取捨選択である。
(7)産業革命は、その結果、経済戦争となる
産業革命は近代化の一要素だったが、今ではそれほどむずかしくない。むずかしいのは、同じ近代化の一要素である「民主化の達成」のほうである。フセインのイラクや金正日の北朝鮮にも近代的設備の工場はあったのである。
機械化により商品を大量生産すれば、必ず余る。余った商品を、強引に売りつける。このように産業革命は、経済戦争の加害者となることを必須の結果とする。「戦争」だから、「地球を壊す」という方向にも進んでしまう。もうそんなことはやめたほうがいいのである。
【感想】
本書で画期的なのは第三章だと思うが、オミカンヒメ個人としては第一章が共感できた。子供時代のいじめ問題は、大人になってからもほとんど同じである、ということは、オミカンヒメ自身も常日頃考えていたからである。
第三章で感動したのは、「その時点でミスを理解してもそれ以外の選択はできなかった、しかし今の自分には他の選択ができる」旨や、「蓄積してきた経験知を捨てるのは愚かである」旨である。
第三章の、日本の官僚が国民に忠実でない歴史的沿革は、今のところまだ、前近代的知性の不足なオミカンヒメには理解しきれない。