窯変源氏物語12巻1992

 12巻は、恋愛の中に金銭問題を容赦なく織り込んだバルザック作品を思わせる。
 そもそも、宇治十帖の鑑賞は難しい。哀れに美しい恋物語と、興ざめな経済問題。この二極点を行ったり来たりする。紫式部が宇治十帖の中に、恋愛と経済の葛藤を大々的に描いたからだ。
 読者はこの二極点を自力で調和させなければならない。そして、宇治十帖は二極点の一方だけからの鑑賞も可能である。
 しかし、窯変源氏物語は、紫式部の提示した難題を正面から受け、常に二極点から心理描写を展開している。

 その心理描写の重心人物は、やはり大君である。誇り高い大君は、扶養の代償に自分を差し出すことが出来ず、生活の窮乏が到来する前に食を絶って死ぬ。窯変源氏物語では、大君の苦悩は、女としてのセクシュアリティーと、男と等しいほどのプライドとの葛藤として展開される。
 オミカンヒメが感動したのは、時折、大君の閉ざされた胸中にも、ふと光が差し込むことである。霧深い宇治にも時折、陽光が差すように。たとえば、父親を絶対視するファザコンである大君が、ふと、亡き父宮への疑念を抱くシーン。妹以外の人間はひたすら警戒する大君が、人の情にふと触れるシーン。

 大君の次に強烈な人物造型がされているのは、宇治の八の宮である。 窯変源氏物語は、八の宮を不遇な貴人である反面、冷たいエゴイストでもあるとする。オミカンヒメが戦慄したのは、死を予感した八の宮が娘たちへ遺言するシーン。八の宮は、人交わりをせず引き篭もったまま年月をやり過ごしていくようにと娘たちに諭す。そして続く言葉。「私はそうだっだ」

 他には、薫が初々しくいじらしい人物と造型されている点、中の君が少女漫画的に大サービスで美しい点や、弁の君が思慮深い半面愚かでもある点などが印象的である。


【12巻で顕著になる、窯変源氏物語のフランス文学性】
 上述したように、12巻はフランスの文豪バルザック作品を思わせるが、他にも、彷彿とさせるフランス文学作品がある。アンドレ・ジィド『狭き門』である。
 『狭き門』は冒頭に聖書の「力を尽くして狭き門より入れ」が引用されていて、受験予備校のコピーにぴったりだが、しかし恋愛小説である。
 内省的で生真面目なジェロームが、少年時代から、性格の似通う従姉アリサと相愛の仲。しかし、派手な美人であるアリサの母親は、若い男と行方をくらましてしまう。これがトラウマになって、アリサは信仰にのめりこむ。片や、アリサの妹の陽性なジュリエットは、母の失踪もトラウマにならず平気で、ジェロームを恋している。これを知ったアリサは譲ろうとしたが、ジュリエットは反発して、商人の求婚者へ嫁いだ。このヤケクソ婚でジュリエットは幸福になってしまったので、アリサの心境は複雑。手紙のやり取りばかりが頻繁なアリサとジェロームの仲は一向に発展せず、対面の際も、アリサは老けた髪型と服装で臨む。やがて、アリサは信仰と恋の板ばさみで病死。

 ざっとこんなストーリーである『狭き門』は『源氏物語』の『総角』と似ている(瀬戸内寂聴も『私の好きな古典の女たち』で同じことを書いていた)。宇治の大君(大姫君)も、薫を、妹の中の君に譲ろうとする。しかし、薫の手引きにより、匂宮が中の君に通う。そして、妹の身を案じて、大君は病死してしまうからだ。
 平安時代の日本であれ、20世紀フランスであれ、恋を譲ろうとする年上の女の、自己犠牲と打算の混ざった心理は普遍的なようだ。

 この女性心理を、橋本治の『窯変源氏物語』の『総角』は、大君の中の君への同性愛として描く。また、大君の心理は、『狭き門』のアリサの心理描写によく似ている。橋本治は『源氏供養』で「源氏物語がフランスの小説だったら、という前提にも立ってみた」旨書いていたが、それが12巻で特に発揮されている。




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