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ブッダに学ぼう |


※括弧内の小さい文字はktonの解説モドキです。それ以外はすべて引用です。

はじめに- パーリ語原始仏典について(引用文献 原始仏典を読む 中村 元 p3~p4)

 仏教の経典はむずかしいものだと一般に言われています。お坊さんがお経をあげているのを横で聞いていても、さっぱり解らない。経典の国訳(漢文の書き下し)を読んでも、どうも意味がわかりにくい。仏教の教理はいかにも把捉しがたいものだ、と世間の人々は一般に考えています。しかし、そんなにわけの解らぬものであるならば、それがどうして十数億のアジア人の心のよりどころとなり得たでしょうか。
 仏教の経典は決してむずかしいものではありません。日本で仏教がむずかしいと思われているのは、日本のことばに直さないで、いまから千数百年前の、隣国のシナ民族のことばで書かれたものを、そのまま後生大事にたもっているからです。教育を受けた現在の中国人でも、もうこの仏典は読めなくなってしまいました。まして現在の日本人が解らないのは当たり前のことです。儀式の際に古い経典の訳を保つのは結構ですが、内容を理解するには、どうしても現在のわれわれのことばに直さなければなりません。
 そこで当然口語訳が必要とされるわけですが、この当然なことがなかなか行われなかった一つの理由は、多くの仏教学者が、口語訳とは経典の内容を卑属化することだと考えていたからです。しかし歴史的事実を振り返って考えてみると、口語訳する方が学問的であり、あの難解な古い訳語を墨守する方が非学問的なのであります。
 仏教は長い歴史をもっていますが、そのうちでも比較的古い時代の仏教をかりに「原始仏教」と名づけ、その時代の思想や生活を伝える典籍を「原始仏典」と呼ぶことにしましょう...

(ブッダは一生涯を賭して、80歳になって死の直前となろうとも、教えを広めるために沼地を越えて旅を続けます。理解力のある人には相応に、一般の人にはとても解りやすく説きます。もし、ブッダがこの世にいたとすれば、必ずや国を超えて教えを説きに行くことでしょう。それも現地の言葉で語らんとするはずです。ともすれば、経典の口語訳が卑属化であるなどという仏教学者の主張は、ブッダが聞けばさぞ残念がった事でありましょう。)


本名=不明

釈迦=Sakya=シャカ族
牟尼=聖者
仏=buddha=仏陀=目覚めた者。悟った者。
瞿曇=Gautama=ゴータマ=最も優れた雌牛
悉達多=SiddhDartha=シッダルタ=目的を達成した者
釈尊=釈迦牟尼世尊=世にも尊いシャカ族の聖者
如来=TathDgata=多陀阿伽度=真如から現れてきた者
菩提=bodhisattva=菩提薩土垂(ぼだいさった)=大心衆生/出家修行者

どんな呼び方をしても偉そうな意味になってしまいますね。
執着(しゅうじゃく)=物や地位を得ようとか、手放すまいと必死になってとらわれてしまうこと。欲望。
渇愛(かつあい)=「執着」を、のどが渇いたときに水を求めるような、やむにやまれぬ欲求に喩えた表現。欲望。
妄執(もうしつ)=自覚症状のない盲目的な思いこみ。欲に振り回されること。迷いの心。
無明(むみょう)=無知を起因とする、だれもが生まれた瞬間から感じている得体の知れない不安感。目を閉じて(明かりの無い)道を歩くときの不安に例えている。
苦=思いどおりにならないこと。(つまり世の中の事物のすべて)
涅槃=ニルヴァーナ=天国、極楽浄土。悟った人が死後に行く世界。
彼岸=かなたのきし=悟りの境地、俗欲を超えた精神状態。
理法=法=ダルマ=悟りに至るための修行方法。
真理=悟りに至るための道具。前提知識。


以上以下-鋭意執筆/簡単明快化中 引用-参考文献 原始仏典を読む 中村 元