福祉を語る上でまず欠かせないキーワードはノーマライゼーションである。ノーマライゼーションとは、1950年代デンマークで、障害を持つ人の施設での待遇への疑問から生まれてきた発想「ノーマリセーリング」に由来する、広い意味での「障害」、即ちハンディキャップを持つ人が「ふつうに」暮らせるようにしようという考え方・運動のことである。なお、現在国立国語研究所によって等生化という言換えが提案されているようである。
ノーマライゼーションを実現するために打ち出される考え方がバリアフリーである。これは、前述のノーマライゼーションの説明に沿うならば、ハンディキャップを持つ人が「ふつうに」暮らせない状況を生み出している原因を「バリア」と考え、それをなくすことでノーマライゼーションを実現しようというものである。和製英語ではないが、英語圏では日本語のバリアフリーの意味でアクセシビリティーという言葉を使うのが一般的なようである。
バリアフリーが、社会の中での弱者としての障害者を想定した上でのノーマライゼーションの実現手段だとすれば、社会的弱者としての障害者という概念を捨て、あらゆる人がある面においてはハンディキャップを持つものだという発想の下に、一般論として誰にでも使いやすい製品・環境を作ろうという考え方がユニバーサルデザインである。この概念は1980年代米ノースカロライナ州立大学のロナルド・メイスによって初めて提唱された。さらに、ユニバーサルデザインの実現のために以下の七原則が提起されている。
ある一つのデザインによって使用者・利用者としてあらゆる人間を想定せよ、ということ。
デザイン全体の中であらゆる人間が使えるような選択肢を提供せよ、ということ。
精神が集中していない時や外国語環境にある場合でも使えるように複雑な思考を要せずに所期の目的に達せられるようにせよ、ということ。
一つの情報について相互に代替的な多様な感覚を通して提供せよ、ということ。
失敗が大きな危険性につながらないようにせよ、ということ。
楽に使えるようにせよ、ということ。
空間的な余裕を持たせよということ。
そもそも縁石設置の目的は何なのか。単なる歩車道の区切りか。歩行者としては、特に車通りの多い道や狭い道では縁石は高い方が安心に感じる。むしろ、高さを制限する理由は何なのか。実際、橋やトンネルでは例外として25cmまで高くすることを認めている。尤も、その理由は当該構造物を保全するため
であるが。
両端部にはかなり急な縦断勾配を設けている歩道も多い。確かに、急な勾配は自転車で通れば段差にも近いような衝撃を受ける。車椅子利用者にとっても負担となり、予測しない場合には危険にさえなるだろう。
この規定は何のためにあるのか。勾配で加速してそのまま車道にとびだしてしまうのを防ぐためか。信号待ち時に不自然な体勢にならないようにするためか。
目的としては、視覚障害者の安全な通行を考慮して
とある。2cmというのは視角障害者の安全な通行に十分な低さなのか。逆に段差を設ける意味は。
基本的に急に自動車が出てきたら危ないところ、ということだろう。ただ、橋上はもし車両乗入れ部を設けられるところがあるなら設けても問題ないように思える。
「まち全体」も含め六分野に分類してそれぞれに基本方向を提示しているが、多くの内容は共通している。まず、関係者のユニバーサルデザインに対する意識の向上である。確かに、これは重要であることは間違いない。しかし、利用者・県民にとってみれば、事業者側がユニバーサルデザインについての意識を持っていることは言わば当然である。これがもし福島県でなく企業だったら、取組み目標として社内や取引先の意識向上を挙げるだろうか。必ずしも悪い面のみではないが、これが公的機関たる所以なのだろう。
次いで、利用者(県民)の意見の取入れが挙げられている。誰にでも使うことのできる施設を目指すためには、すべての利用者の声を幅広く取入れていくことが必要なのは確かである。しかし、利用者の声は、常に正しい意見であるとは限らない。利用者の声というのは、その人の利害の反映に過ぎないことが多くあり、もしそれが少数派やハンディキャップを持つ人によるものであれば、尊重すべきものとなる。しかし、特に多数派の中から出てくる声というのは、既にある構造の擁護にもなりかねず、むしろユニバーサルデザイン化には対立するかも知れない。この「県民の意見を取入れる」という方針はそれ自体が民主主義の原則に則ったような言葉であるために受け入れられやすく、それがユニバーサルデザイン化を返って妨げるように使われる可能性があることを理解し、警戒しなくてはならない。
「まち全体」というテーマの中で述べられている。この価値観転換自体は重要なことである。なぜなら、道路交通において歩行者は自動車よりも弱者であるからである。この意味で、この方針はユニバーサルデザイン化を進める方向に働くことだろう。しかし、これで十分なわけではない。「誰にでも使いやすい」施設を作るには、同じ歩行者の中での条件の違いをも意識しなければならないからである。
社会の中にある様々な標識のわかりやすいサイン化は、言うまでもなく重要なことである。それは、サイン化を進めることは、情報をよりわかりやすくすることであり、ユニバーサルデザインの基準「単純で直観的な利用」に合致するからである。しかし、これで充分であると考えてはいけない。これでは視覚面で重度のハンディキャップを持つ人には対応できない。サイン化を進めるとともに、信号の音表示のような、情報の冗長性も重視していくべきである。或いは、それを考えた上で、第一段階としてサイン化を推進しようということなのだろうか。
これを見る限り問題はないかも知れないが、実際に行われる上では、公共事業拡大・維持の口実になりはしないだろうか。それとも、ユニバーサルデザインを取り入れた事業であれば多少多めに行なっても許されるのだろうか。