平成十五年十一月/高校卒業文集

今までの自分を振り返るに、時に僕は、自分の理想の実現を考えた。生徒会に関する活動では、ある友人の「自分は完璧主義だから役員はできな い」という言葉に、それならそれを実現してやろうと意固地になった。だが、曖昧で他者との研鑽を積まない理想は、単なる独りよがりに過ぎず、周囲との摩擦 の一因となるのみだった。

ここでは、今までの自分についてその一面を振り返ってみたい。

まず自分の特色は、三年間の長きに渡って、生徒会の運営という活動に従事したことだと思う。その中でも、特に自分にとってその原点となったことの一 つは、中三の時だったか高一の時だったか、ある友人の言葉である。その時僕は、委員としてともに働いてくれる人を探していた。自分は完璧主義だから、自分 には生徒会の役員はできない。それが本音かどうかはともかく、彼はそのようなことを言った。愚鈍なる自分には、返す言葉などない。だが、そんなことなど理 由になるものか。自分だって完璧を求めている。彼の言ったことが真実ではないということを、この自分が示してやろうじゃないか。過ちは、ここから始まった のかも知れない。今、彼の言葉は少なくとも多くの部分において真実であると知る。

時間的な長さにおいては、サッカー部に在籍していたことは、自分の桐朋時代の最大の特色と言えるかも知れない。なぜサッカー部に残り続けるのか。も し問われれば、こう答えることに決めていた。サッカーをするのが好きだからだ、と。プレーすることを楽しいと感じられるから続け、そう感じられなくなった 時、それが退部する時だった。僕は自分の可能性を、楽観的に信じていた。自分は今よりも上手く、速く、強くなることができ、より高い満足感を得ることがで きるのではないかと。そして、練習というものは、当然に厳しい。必要でかつ自分達が納得した厳しさであれば、その厳しさはそれ自体に意味がある。厳しさに 負けたくはなかった。むしろ、その厳しさを楽しみとして味わう余裕を持ちたかった。今でも、それは変わらない。だが軟弱にして自分にはそれに必要なだけの 根性がなかった。

生徒会に関する活動というものは、自分にとってある種の趣味のようなものになってしまっていたかもしれない。実際、趣味の追求は自分の生活軸の重要 な一部であった。肉体的な面においては例えばサッカー部への加入であり、精神的な面における勉強もまた然りである。科目の選択に際しては、可能な範囲で自 分の好きなもの、より興味を持てそうなものを選ぶようにした。

科目の選択にはまた、自分にとっての限界への挑戦という意味もある。新しい、より難しいことが、どれだけ自分に理解できるか、という挑戦である。既 に授業についていくのさえ難しいような科目でも、自分がいつかは根性を発揮してその後れを取り戻すと期待して、無理な選択もした。しかし、周囲に流され自 分に流され、目下のところ状況は何も変わっていない。

一人で旅行したこともまた、肉体的な限界への挑戦のつもりだった。だが、見知らぬ土地を歩く楽しみこそあれ、一度目は腰痛を引き起こしただけ、二度 目に至っては何の厳しさもなかった。スポーツも、一般的には限界への挑戦という意味を持つかも知れない。だがスポーツは、他者との争いを内包することがあ る。真剣勝負が求められる局面において僕は、卑怯な攻撃、つまり反則を試みたり、相手との競争を回避して逃走したりするばかりであった。

世界六十億人の人類の一人は、かつてこんな人間であった。

日米関係から世界安保を見る

平成十四年一月/学年誌にて

日本は、近隣国の軍事的な脅威を意識する余り、国際安全保障の理想を見失っているようである。安全保障問題で最終的に目指すものを明らかにしなければならない。

日本の安全保障問題と言えば、米軍基地や自衛隊に関する問題が代表格だろう。では、日本はなぜ米軍による占領を甘んじて受け入れているのだろうか。 米軍に日本の安全を守ってもらっている?確かに、戦後日本は、米軍の駐留によって浮いた軍事費を、経済力の回復に充てることができたということは言われ る。しかし、それは日本国憲法の理念に沿っていたと言えるだろうか。また、国防費が増大を続けたため、GDP比を他国と比較しても、自衛隊も弱小とは言え なくなっているようだ。日本の安全は実際には自衛隊によって守られているという主張もある。もし事実なら、これも、憲法の理念に則っているとは言い難い。

米軍の保護の下での平和は、冷戦下で日本が社会主義に対する防波堤の役割を期待されたために実現したのであり、東アジアの安定がアメリカの国益と一 時的に合致している結果に過ぎない。一方自衛隊による防衛は、当然ながら憲法の条文自体に触れるものであり、米軍の駐留というカムフラージュなしでは実現 し得ない。現在の日本は、米軍の駐留というカムフラージュの下で、自衛隊という自前の軍隊による軍備を進めているのである。自衛隊が名実共に日本の国防を 担うまでの暫定的な状況だと言えるだろう。

では、日本政府、それに日本人は、どのように国民の安全を確保するのが理想だと考えているのだろうか。憲法を改正し、自衛隊を国軍として再出発させ る?それは、憲法理念の後退である。この問題は、本来ならば国政選挙を通じて映し出されるはずであるが、経済問題や政治家・公務員倫理の問題が大きな関心 事となっているために、他の問題の影が薄れている感が強い。防衛問題に関して、日本人は永久に現状を維持したいのだろうか。

私は、米軍による平和でも、自衛隊による平和でもなく、国際協調による平和の維持の実現を要求する。人的・経済的な交流の促進によって、無知による 国民・民族間の不必要な不安感・不信感や憎悪は防ぐことができる。当然そのためには、つながりの薄い国、情報の乏しい国との交流の促進が平和維持外交の主 眼となる。さらに、何よりも重要なのは、国家・民族を超えたアイデンティティーの形成である。有史以来、世界のどの国も、多かれ少なかれ小国家の分立・内 戦を経てきている。そして現在では、ある一定の国家像を作り上げつつある国が大半である。今後は、さらにその段階を高めていかなければならない。平和は、 民族・宗教間の和解による地域統合があってこそ生み出すことができるのである。

投書

平成十三年十二月/Press Tohoにて

生徒の学校離れが言われて久しい。実際、積極的な意志を持って通学し、勉強している中高生はどれほどの数か。私には、多くの生徒にとって、学校が行 きたくないところになっている気がしてならない。本来教育は生徒のためであり、その手段として学校があるはずなのに、なぜそれが生徒にとって行きたくない とさえ思わせるようになってしまうのか。もちろん、教育は親の義務なのだから、生徒が行きたいか行きたくないかは問題ではない、という論もあろう。では、 なぜ義務になっているか。経済事情によっては子供を学校へやりたくない親がいたり、自分自身が学校へ行けずに苦労した人があるからだ。つまり、本来子供の ためなのである。更に、高校ともなれば、義務教育ではないのだから、その傾向はもっと強まっていいはずだ。

学校離れが進んだ原因は、二つだ。一つは、情報源が多様になり、相対的に学校の存在感が落ちたこと。もし学校で行き詰まりを感じてもその興味の対象 を他に移すことができるようになった。もう一つは、管理教育が進んだこと。家庭や初等教育の場も含めて、大人の言うことや大人の決めた規則に従わなければ ならないことが多くなり、それを守らなければ罰則を課され、強制される。これでは、おもしろいはずがない。そして、この二つは相乗効果を持って、進行中で ある。

管理に対しては、抵抗することの無意味さを悟り、目に見える形での反抗は無くなる。しかし、目に見えない形での反発が進んだ結果が、現在の「陰湿」 な事件や日常の出来事である。それに、管理というものは集団の一人一人に対し個別に行われるものだから、自分がその網にかからなければいいという発想が生 まれ、それは小市民の大量生産にもつながる。例外はあるにせよ、この発想は、自由と言われる学校でも本質的には変わらない。厳しい規則であろうと緩い規則 であろうと、その規則を意識して回避しているのは同じで、それにどれだけ労力を注ぐが異なるだけだ。

更に、一人一人が抵抗の無意味さを自覚するにつれ、生徒集団のうちでも、管理に従属する人や、学校という場から逃避して学校外へ関心を移す人、また は管理の中でも公然と抵抗の意志を表示する人などに分裂し、相互に反感が生まれる。その結果、生徒として意識を統一し、団結することが難しくなって、管理 へ対抗する力が結集できなくなっているのだ。だが、本来は生徒会こそが、その中心となる組織である。生徒会が生徒全体の代表として存在する以上、生徒の学 校生活の向上を実現させていくことが最大の目的であり、義務なのである。しかし現在は、相互の反感によって声を上げにくい状況が作られているため、一人一 人の不満は愚痴という形でしか表れない。しかもそれを取り上げる体制が整っておらず、また生徒会に対する不信感もあるため、自治組織としての生徒会が機能 していないのだ。まずは、生徒会が学校生活への不満を吸収する努力をしなければならない。また、各個人には、自分の不満をまとめ、わかりやすい形で声に出 すことが求められる。これらが実現して初めて、学校が本来の目的を取り戻し、より大きく社会の発展に貢献することができる。

将来も見据えつつ、今は今の立場でしかできぬことをすべきであり、これは自分が今これから何をすべきかという決意表明である

平成十三年九月/進路文集にて

政治家志望というのに、高校生にもなって最近の政治・経済・社会情勢にも疎いのは情けない。なまじ新聞などを読むから、知っているような気になる が、人と話をすれば、実際に理解している内容は世間話程度のことしかないのがすぐに解る。弊害がある。読んだものが頭の中を素通りすると、印象だけが記憶 に残る。それが蓄積されて、巨大な先入観となり、物事を考察しようとする際の障害となるのだ。それを防ぐ為には、読むだけでなく、それについて人と喋る、 或いは内容をまとめて何かを書く、という作業が必要だろう。やるべきことは定まっている。だが、それさえも実行しないのは、優先順位が低いからだ。高校生 (まで)の時でしかできないことは、多い。生活や身体の条件から、運動や専門外の勉強も含まれよう。しかし、最も重要なことは、高校生である時にしか「高 校生の視点」には立てない、ということだ。現在の、そして未来の高校生の為に、高校生の代表としての生徒会がやれること、やらねばならぬことは山ほどある のに、それを気付いた時には大学受験、という先人も多かったのではないかと思う。自分は今からでも遅くはないと思っている。過去の伝統や実績を十分に踏ま えた上で、校内だけの視野に捉われずに多角的な視点に立つのが、目標だ。生徒会活動というのは皆でやっていくものだし、単独行動になっては弊害も伴うか ら、人と協調することを旨として行動せねばならないが、今、能力の限りに全力を投入しなければ悔いが残る。そして初めて将来が見える。

児童虐待について

平成十四年六月/家庭科レポートにて

なぜ、児童虐待は起こるのだろうか。それを少しでも理解するためには、自分が今親だとしてそういう状況に置かれる可能性があるのはどのような場合 か、ということを考えるのもよいだろう。では、現段階でそれに近い状況はあるのだろうか。それは、弟・妹との関係に近いのではないだろうか。と言うと、親 子の関係は兄弟の関係とは違う、と言われてしまうが、ここではあえて自分と弟・妹の関係に置き換えて考えてみる。

さて、自分の言うことを聞かない弟・妹がいれば、自分の言うことを聞かせたくなる。その時、本来であれば、説得という手段を取るべきである。しか し、相手が子供、特に幼児だと、たとえ説得をしたとしてもそう効果があるものではない。それで、つい手(手に限らないが)が出てしまうのだろう。

もちろん、説得ができなくても他の手段もある。言うことを聞かなければ他のことを禁止する、という取引や、聞かないなら自分でやってあげてしまう、 ということだ。しかし、取引というのも、相手にある程度の理解力がなければできない。しかも、何でも取引で済ませるほど、親が正当に行使できる権限は多く はない。

また、本来子供が自分でやるべきことを親がやってあげてしまう、という解決法もあるとは思うが、その場はしのげても教育的問題は解決されていない。 それに、子供への優越感・支配欲を持つ人間もいるだろう。そういう人間にとって、本来子供がやるべきことを、召使のように自分がやってあげるなどというの は、たいそう苦しいに違いない。そういう人間は、そのような誤った自尊心を満足させるためにも、子供に対して暴力を振るおうとするに違いない。

ちなみに、子供に対する暴力を考える時、「昔よりはましだ」と言うこと親もいるだろう。しかし、私は、先に述べたような状況がかつてはあったのでは ないか、と考える。日本国憲法制定を境に、あるべき親子関係が変わったのだから、それ以前と比べることは意味をなさないと思う。咄嗟の方便ではなく、本気 でそう思うなら、子どもという弱者に当ることからではなく、日本国憲法や児童福祉法の改正を主張すべきだし、子どもの権利条約の破棄も訴えるところから始 めるべきだ。



作成者:にとら(Handle Name)