Vol.107

ドラマって円生?
「ゴールデンボウル」「空から降る一億の星」「夢のカリフォルニア」

ここのところの
ドラマを
いろいろ見ていて、
ふと、
思ってしまったこと
があって
ていうか
ワタシ的には
“発見”だったんで、
その話を。

え〜と、
“テレビドラマ”
っていうのは、
その内容じゃなくて、
スタイルのことなんだ
って。
もっとわかりやすく言うと、
語っている内容ではなく、
その語り口こそが
本質なんじゃないかって。
わかりにくい?
ですよね。

え〜い、
思い切って言ってしまうと
たとえば
落語。

あれって、
語り口を楽しむもの
ですよね。
「目黒のさんま」も「饅頭恐い」も「長屋の花見」も
話自体は知っているし、
オチも知っている。
それでも観に行く、聞きに行くのは、
円生の語り口
談志の語り口
小さんの語り口を
楽しむためじゃないですか。
(って、今時
寄席に行く人は少ないと思うけど)

“テレビドラマ”の場合、
必ずしも
オチがわかっているわけではない、
だけどやっぱり、
そのドラマなりの語り口
を楽しむための1時間
なんじゃないか
と思ってしまったんですけど、
どうでしょう?

ここで念のために
言っておくと
語り口っていうのは
イコール演出、
っていうことじゃ
もちろんなくて。
語り口って、
最後は個人に帰することじゃないですか。
「“長屋の花見”を聞きに行く」
とは言わないで、
「円生を聞きに行く」
っていうでしょう。
逆に言えば、
個人の名前がクローズアップされる
ってことは
そこに語り口がある
ってことも
言えるかも。
新聞のテレビ欄に
脚本の北川悦吏子さんや
三谷幸喜さんの名前が出る
っていうことは、
そこに語り口がある、
っていうことだし、
演出の堤幸彦さんの名前が出る、
っていうことは、
そこに語り口がある、
っていうことだと。

まあ、
考えてみれば
当たり前かも
しれないですけどね。
“テレビドラマ”っていうのは、
小説なんかとちがって
登場人物が
“言ったこと”と
“やったこと”しか
表せないじゃないですか。
“思ったこと”を表す
手だてがない。
だって
セリフや独白で言っちゃったら、
それはまた
ちがうことになっちゃうでしょう。
つまり基本的には、
具象的な
表現手段なんですよね、きっと。

結局
ミもフタもないことを
言ってしまえば、
言葉にならない
本質的な何かを、
目に見える具象的なディテール
(セリフとか、プロットとか)
に変えてみせる、
パッと、
手品みたいに。
そのスリリングな手際こそが
“テレビドラマ”
なんじゃないか、
なんて
わかったようなこと言ってますが、
う〜ん
なんかそのあたりに
うまく言えない
“テレビドラマの魅力”
が隠れていそうな。
(別に隠れるつもりはないんだろうけど)

そういう意味では
今クールの中では
「空から降る一億の星」とか
「ゴールデンボウル」なんかは、
とっても
観応えがあります、
“テレビドラマ”として。

で、さっきからワタシ
“テレビドラマ”
みたいに
カッコつきで言ってるんだけども、
テレビドラマって、
こうじゃなきゃいけない
っていうキマリがある
ワケじゃないし。
たしかに、
落語に様式があるように、
語り口を楽しむエンターテインメントって
カタチをきちんとしようと
するじゃないですか、
テレビドラマのワク
みたいなものを。
でも、
なかにはそういうワクを
イツダツしちゃうドラマも
あるんですよね、
「夢のカリフォルニア」みたいに。
で、
来週はその話を。

(JUNE.16)


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