「み言葉から」 2011        

主がこの者に語ってくださったみ言葉を、私はこのように受け止めさせていただきました。
同じみ言葉でも、主はお一人お一人に合わせてお示しくださいますことを思います。

                                              (日本聖書協会発行の新共同訳から引用させて頂いております。)

マタイ マルコ ルカ ヨハネ 使徒言行録 ローマ Tコリント Uコリント ガラテヤ エフェソ フィリピ コロサイ Tテサロニケ
Uテサロニケ Tテモテ Uテモテ テトス フィレモン へブライ ヤコブ Tペテロ Uペテロ Tヨハネ Uヨハネ Vヨハネ ユダ 黙示録

2011年1月

1/1 マタイ

1章23節

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
旧約聖書の預言はイエス様の誕生により成就された。ヨセフもマリヤも恐れはあっても、理解できなくとも、自分で判断するのでなく主の命じられたままに従順に主への
信仰を貫いて、主の大切な器として用いられた。ここに聖霊の支えを見ます。神様もマリヤも我が子イエス様の十字架の苦しみを共に担い歩まれた。主に従い歩みたい。
1/2 マタイ

2章16節

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
ヨセフたちは自分の思いではなく主の導きのまま主に委ねた人生を歩みました。ヘロデは自分の力に頼り自分中心に考えていたので王としての立場が危うくなるという不
安に襲われて保身のためだけにイエス様の命を狙い幼子虐殺を行いました。なんとむごい。嘆き悲しむ母親と同じように神さまも独り子を失う哀しみを背負われました。
1/3 マタイ

3章14節

ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
ヨハネの言うようにイエス様は悔い改める必要のないお方です。イエス様はあえて罪人と同じ立場に身を置いて悔い改めのバプテスマをヨハネから授かりました。主に従
う者たちの模範になるためにバプテスマを受けることの大切さを身をもって示されました。罪を悔い改め新しい生き方をしなさい、と実行されてから教えてくださった。
1/4 マタイ

4章19節

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
二人はすぐに網を捨てて従った。」とあります。すぐに、です。網を捨てることは仕事を捨てること、生活はどうなる?家族は?と考えずイエス様に従った。その後も
舟と父親とを残してイエスに従った。」2人がいた。何を一番にするか、イエス様と自分の関係に親も子も入れない。この者も従いますと言えるようお支えください。
1/5 マタイ

5章4節

悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。」絶望しかない孤独の中で人からの助けや慰めは一時的でしかないと、時空を超えた永遠の神様に助けを求めた。
イエス様の十字架の意味を知り、自分勝手な姿に光を当てられ悔い改めに導かれました。悲しみを経験し神さまの慰めを味わうことができて主の希望に入れられました。
1/6 マタイ

6章34節

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
息子は信仰も主に守られていてみ言葉のように明日のことも主に委ねきっています。私はちょっと先のこと、明日のこともわからず先が見えません。結果が見えないから
不安になります。神さまを知らなかった時は自分しか頼れず自分が当てにならず不安いっぱいでした。すべてをご存知の主が養って下さるとわかった時,平安が来ました。
1/7 マタイ

7章12節

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
神さまは私たちに良くしてくださってます、私たちも他人によくしてあげることが神さまのご命令。自分がしてもらいたいことはすぐに言えるけど、人にしてあげるとなると
あれこれ出来ないことの言い訳だけは思い浮かぶ、自分が一番かわいい情けない者です。イエス様からのご愛を他の方に届けられる者となりたい、憐れんで下さい。
1/8 マタイ

8章25節

弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
イエス様が共におられるから何の心配もいらないのに弟子達は慌てふためいた。この弟子はまさに私の姿。何か事が起きると「どうしよう、どうなるのだろう」と。でも
「主に祈ればいい、主は最善を成されるお方」とこのことを気付かせてくださる。息子が真夜中に病院へ運ばれ、誰もいない廊下で祈っていた時にも主は共におられた。
1/9 マタイ

9章24節

言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」 娘は死んでしまったが、主が手を置いてくだされば生き返ると頼んだ父の願い。
痛いほどわかりますがこの生き返った娘にも死は訪れます。肉体の死で終わるのではなく、イエス様によって甦り永遠の生命をいただける、ここにこそ希望があります。
1/10 マタイ

10章26節

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
人を恐れるとは自分がどう見られるかを気にして心を人に向けていること。誰もが罪人で「義人はいない、一人もいない」のに何を恐れるのか。神様に心を向けて神様が
自分をどう見ておられるかと思うと、顔を上げられず悔い改めだけ。人はごまかせても神さまはごまかせない。ダメなままでこのままで,主を畏れみ前にへりくだります。
1/11 マタイ

11章28節

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
肉体の疲れは休めば取れますが、心の疲れはどんなに休んでもとることができません。地上での日々は悩みや思いわずらいが起きます。解決できないことを前に眠れぬ
夜も経験します。自分ではどうしようもない絶望の時こそどうか神様の所に行ってください。イエス様のみ元に行けば重荷を下ろせます、平安の中で憩えます、ほんとです。
1/12 マタイ

12章11節

そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか
イエス様は安息日だったとしても、いつも変わることなく全く同じように愛して下さるお方です。この人は金持ちだからとか立派な地位の人物だからとかではなく名もな
い一人の罪人に過ぎないこの者が、穴に落ちたところを引き揚げてくださいました。イエス様は安息日の決りを破ってまでも憐れんでくださり十字架にかかられました。
1/13 マタイ

13章55節

この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
故郷の人はイエス様が人として子供時代を過ごされていたころを知っているし、イエス様の家族も自分たちと同じような暮らしをしている事を知っていて、平凡な大工の
息子が、と見ていたのでしょう。イエス様の語られるみ言葉ではなく外側だけ見て受け入れようとしなかった。み言葉を先入観なしにそのまま頂けますように祈ります。
1/14 マタイ

14章55節

しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 イエス様から目を離した時に、置かれている現実を見てこわくなる。とてもペテロを笑うことのできない、
同じ者です。自分には出来ないと思うことでもイエス様ならお出来になる、主のみ業を見せていただいているのに情けない者、鈍い者です。憐れんで下さい、祈ります。
1/15 マタイ

15章18節

しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。
舌を制御できる人は一人もいません。」人を汚すのは心の中にある罪の思い。これが言葉になって出て人を傷つけることをどれだけ繰り返してきたことか。たとえ口に
出さなくても心の中に思う時、心は汚れます。悔い改め祈りながら今も歩む者です。息子は言葉を主の身元に置いてきたので主により舌を守られている信仰の兄弟です。
1/16 マタイ

16章24節

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
イエス様の背負われた十字架には私たちの罪がずっしりとのし掛かり、重荷や病気や悲しみや過ちもご自分が背負ってくださった。自分を捨てて罪人のために死なれた。
イエス様についていきたい、でも自分の努力では自我を捨てられない。人を見るのではなく主だけを見上げて主に頂いた十字架を背負って歩めますよう憐れんで下さい。
1/17 マタイ

17章15節

言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。
自分の願ったことが叶えられるということではなく、神の願いだけが必ず叶えられる、そしてそれが主の最善と言うことを教えていただきました。病いを治すという現象、
奇跡だけを求めるという目先のことではなく、主により決して失わない永遠の生命を願うことで平安と希望がいただけます。思ってもみなかった主の幸いに導かれます。
1/18 マタイ

18章35節

あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
神様は、人を許せないならあなたを赦さないと言われる。イエス様は心から許すことを命じられます。すでに自分は多くの罪をすべて無条件で赦されています、イエス様
の十字架の購いによって。でも未だに人を許せない自分が心に住んで居るのです。自分を捨てることは難しく、できにくいけど聖霊の働きにより許せるように祈ります。
1/19 マタイ

19章14節

しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。
イエス様は弱い立場にある子供たちに心を寄せ憐れんでくださいます。天の国は幼子たちのものと言われました。幼子のように何も心配せず遠慮せず疑わず素直に神様と
お話しすることなのでは。心の中を取り繕わずに見栄を張らずそのままで神様に向き合う時、神様は喜んで応えてくださり天に迎えてくださる。息子の姿が浮かびます。
1/20 マタイ

20章14節

自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
イエス様の隣で十字架に掛けられていた強盗の一人を思いました。死ぬ寸前に悔い改めることが出来て主の救いにいれてもらった。この人は神様のご用をするどころか
罪の中で生きてきたのだろう。クリスチャンホームに生まれ長い教会生活を送った等の年月の長さではなく、悔い改めた者に対し平等に憐れんで惜しみなくご愛を下さる。
1/21 マタイ

21章5節

「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
イエスさまは勇ましい馬ではなく、弱い子ろばに乗ってエルサレムに入られました。誰が見ても王様には見えません。仕えられるためでなく裁くためでもなく、憐れみの
お方、柔和なへりくだった方として仕えるために来られ、病んでいる人や疲れた人を癒されました。この者の重荷、それも重い方の荷を黙って担ってくださるお方です。
1/22 マタイ

22章3節

王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ」自分の事情があるからと招きを断ってしまいます。神の民として招かれながら、この世のことや自分のしてい
ることが神さまより大切になってしまっている状況。時間がない、することがある等の言い訳をしていないか問われた気がしました。神様を第一に歩めるよう祈ります。
1/23 マタイ

23章8節

だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
主のみ前に、すべての人は平等。先に救いに預かった人も、救いに預かったばかりの人も、まだ主を知らない人もみな主の目から見たら同じ。主は一人でも多くの人を
救いに入れたいと思われている。先生はただおひとりイエス様のみ。先生とは「ちょっと先に生まれたそれだけの者」と言われたへりくだった兄弟の言葉を思い出します。
1/24 マタイ

24章35節

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
神様が天地をお創りになられました。主がお決めになられたらすぐにも天地を取り去ることもお出来になられます。でも主のみ言葉は決して滅びません、すべてをご支配
なさっている神様のみ言葉は神様のお心だから。目に見えるものに心を留めるのでなく目に見えない永遠の時を握っておられる主に頼る時、永遠の生命をいただけます。
1/25 マタイ

25章40節

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
神様はこの者の目の前に居る人の中におられる。この人も兄弟であり姉妹だと言うこと。自分を愛するようにこの人も愛しなさいと。神様は悲しんでいる人に、病いに
ある人に、苦しんでいる人の中に今も共に居てくださるお方。自分では人を愛することはできにくいけれど、隣人に心を寄せる者になりたい、お支えください。祈ります。
1/26 マタイ

26章75節

ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
ペテロと同じ者、ペテロはそのまま私です。イエス様と言いながら肉体の恐怖が迫ったら「踏み絵」を踏む自分の姿が目に浮かびます、勇気のない信仰のない弱い自分が
苦しく悲しい。自分を捨て自分に頼る信仰を捨てて生まれ変わる時、初めて神様にすがり神様にのみ頼る信仰を頂けるのでは。悔い改めた時に赦してくださるイエス様。
1/27 マタイ

27章40節

言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
イエス様は十字架から降りることはできたけどご愛のためになさらなかった。人に嘲けられ罵られても十字架に架かることをご自分で選ばれた、罪人たちを救うために。
イエス様はご自分を捨てて罪あるこの者たちが罪赦され永遠の生命を得ることができるように身代わりになってくださった。自分も自我を捨て主に住んでいただきたい。
1/28 マタイ

28章9節

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
イエスさまご自身が復活の証しをされています「おはよう」と。主がよみがえられたのですからどんなに喜びだったことでしょう。言葉では言い表せないようでしょう。
イエスさまにひれ伏し拝したのでしょう。ただイエスさまのそばにいたかったことが伝わってきます。イエス様は復活されて死を滅ぼされ今もいつも共に生きています。
1/29 マルコ

1章44節

言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
イエス様はらい病を清くできるしどんな罪をも赦すことがお出来になられます。このことはご自身の働きではなくあくまでも神様のしもべとしてなさったことで栄光は神
様に帰するものと思われています。十字架に架かることも含めてすべてを主の仰せのままに従って生きられた。すべては主のお赦しがなければ動かない、主を畏れます。
1/30 マルコ

2章17節

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためで
ある。」
病人に医者が必要であるように罪人には救い主イエス様が必要です。神様から離れている人はみな罪人です、義人は一人もいない。イエス様が十字架にかかり身代わ
りになられて罪人の罪が赦されました。このために父なる神様により人として地上に降りて来てくださった。イエス様がいてくださり罪赦された今の私が生かされています。
1/31 マルコ

3章35節

神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
イエス様からみ言葉をいただきたい、信じて救われたいと集まっている人たちが兄弟姉妹だと言われます。主にある兄弟姉妹は血の繋がりではなく主のご愛によって神の家族とされています。神様を真ん中に霊の繋がりは強められ肉の兄弟姉妹以上になります。共に主を仰ぎ主の食卓に招かれ心を通い合わせ祈れることは主のプレゼント。

 

2011年2月

2/1 マルコ

4章39節

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。

なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」目に見える状況に恐怖を覚えうろたえ自分たちでなんとかと考えたものの解決できず主に助けを求めました。弟子と同じことを
している自分がいる。何が起きても主が「向こう岸に渡ろう」と言われたのだから大丈夫、従えばいいだけのことなのにできない。目に見えるものに目を留める者です。
2/2 マルコ

5章34節

イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
イエス様の御衣に触れれば癒されると信じたこと、イエス様を信じる信仰を持っていたからこそ触れることができました。この者も息子の障害を通してイエス様に触れて何物にも代えられない信仰を頂きました。この地上での瞬きのような時間の先にある天の御国、永遠の生命。主の憐れみにより救われて希望を持って喜んで歩んでいます。
2/3 マルコ6章8節 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。」 モーセは信仰の杖一本だけを握って主により頼んで歩みました。羊飼いも杖で羊を守ります。必要なものは主が備えてくださるから信仰の杖だけを持って地上の旅を歩ませていただきたい、弟子たちのように。神様は共に居てくださいます。
2/4 マルコ7章6節 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
信仰は、愛がそこになければ、行動を伴わなければ中身のない空箱だけなのでは。口では立派な祈りをして神様を拝しているように聞こえるかもしれないけど、真の心がそこになければ神様には届かない。人に聞かせる祈りは主を哀しませるだけ。主への思いと口から出る言葉は同じでありたい、主に祈ります。御そばにいさせてください。
2/5 マルコ8章33節 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
ペテロは人間的な自分の思いで、愛するイエス様を慕うあまりにイエス様を失いたくないからイエス様が殺されると言うことを否定したかった。「三日の後に復活する」
と言われても信じられず理解できなかった。情や常識に捉われる時に、心は自分に向き主を離れサタンが入り込むのでしょう。いつも主を見上げ歩む者でありたいです。
2/6 マルコ9章24節 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
父親はすぐに悔い改めました。息子を助けたいと願う父親の心からの叫びでした。自分の努力によって信仰を持てるのではありません。主が私たちを信じることができる
ように成してくださるのです。イエス様は病いを癒すことよりも、もっと大事なことを父親が信仰をもつことを願っておられました。家族が永遠の生命を得るからなのです。
2/7 マルコ10章9節 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」自分の意志で親を選ばなかった、自分の意志で生まれてきたわけでもなかった。結婚は自分の意志で決めたように思えるけれど、神様がその日その時その場所で出会わせてくださったゆえのこと。神様が世界中の人々の中から本体とあばら骨を合わせて一つにしてくださった。感謝。
2/8 マルコ11章24節 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
神さまを信じて祈る時、神様との個人的な生きた交わりに入れていただけます。神さまは高い天のかなたにおられるのではなくいつもすぐそばに居てくださる。今置かれ
ている状況を見るとどうなるのかと思うこともありますが、主に目を向ける時、イエス様は言われます「神を信じなさい」と。祈った以上の最善を成してくださいます。
2/9 マルコ12章44節 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
金持ちは余る中から献金したけど、やもめは持っているすべてを大きな犠牲を払って献金箱に捧げました。イエスさまはお金の額ではなく犠牲の大きさ、心を見てくださ
るお方。明日のことを思うのではなく神さまに感謝を持ってお捧げしたことを思います。神さまを心から信じていなければできないこと、信仰を見せていただきました。
2/10 マルコ13章33節 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
人生がいつ終わるか誰もわからない、神様だけがご存じのこと。まだ時間があるだろう、まだ先延ばしにしてもいいだろうではなく、いつかわからないからこそいつも準
備が出来ていないと。いつも目を主に向けてみ言葉をいただき、許せない人を許せるように、隣人を愛せるようにと祈りその時に「はい主よ従います」と言えるように。
2/11 マルコ14章50節 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
弟子たちは自分が逃げ出した辛い過去を決して隠そうとはせずむしろ語り続けた。ペトロも三度イエス様を知らないと言ったことを語り続けた。マルコも「一人の若者
が亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
」と自分のことを書き記した。弟子は自分の弱さを知り自分に頼らず決して揺るがない神さまに繋がり真の弟子になり伝道した。
2/12 マルコ15章30節 十字架から降りて自分を救ってみろ。」
その一人の方はすべての人のために死んでくださった。」人類の罪のための身代わりに、それも十字架に釘で張り付けられると言うもっとも残酷な処刑で。イエス様は
十字架から降りることもできたけれど、ご愛により留まり命を投げ出された。なのにこの者は「神などいない」と思ったこともありました。ごめんなさいしかないです。
2/13 マルコ16章15節 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
復活されたイエス様は弟子達に現れてくださり、ご自分が甦られた「福音」良い知らせを伝えるようにとご命令されました。イエス様の復活の証人として、先に救われた
者として行きなさいと。み言葉を通して今、イエス様はこの者にも命じられます。自分の罪のために十字架に架かってくださったイエス様のご愛を届けたい、祈ります。
2/14 ルカ1章38節 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
マリヤは自分の思いではなく人がどう思うかでもなく神さまを信じきった、ここに信仰の姿を見る思いがしました。ヨセフにどう伝えようか、信じてくれるだろうか等の
不安もすべてを主にお委ねできたのは聖霊の働きがあったから。我が子が十字架に架かることを見届けるという過酷な人生もそのまま神さまからと受け止めた従順な方。
2/15 ルカ2章11節 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
天使が羊飼いたちに「あなたがたのために」救い主が来られたと知らせてくれました。羊飼いたちだけでなく「みんなのために」お生まれになられたと。神さまと人の間
に立ち、執り成してくださり罪が赦されました。イエス様の十字架による購い、神さまが御ひとり子をくださったご愛の重さを思う時、主の御前にひれ伏すばかりです。
2/16 ルカ3章21節 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
イエス様は人として来られ皆の中に混じって一緒に洗礼を受けられました。一般庶民として、誰もが気軽に近づきやすいようにとご配慮された事を思います。イエス様の
祈りは私たちの罪のための執り成しの祈り、そして十字架上でも執り成しの祈りを捧げてくださいました。イエス様の祈りに支えていただき罪赦され今の自分がいます。
2/17 ルカ4章40節 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
人々はイエス様が病いに対しても権威をお持ちだと知っていました。イエス様は一人一人に心を向けて癒されました。この者にも手を触れてくださり慰めてくださった。
貧しい者の中におられ病いだけでなく孤独の哀しさにも寄り添ってくださるお方です。誰も知らなくともイエス様だけは理解してくださり愛してくださる ご愛の方です。
2/18 ルカ5章8節 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
イエス様のお言葉を疑ったペテロもイエス様のみ業を目の当たりにし「聖なるお方」とわかった時に自分の罪深さ、ちっぽけさ、みじめさに気付き畏れひれ伏しました。
この者も同じです、主を畏れます。そのままの自分を御前に出して悔い改めた時、イエス様は「恐れることはない。」とそのままを受け入れてくださるご愛のお方です。
2/19 ルカ6章21節 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
この世の常識では考えにくいかもしれない。でもイエスさまは神の国に招くという保証をくださっています。この保証の条件は貧しい人、飢えている人、泣いている人
です。今、辛い中にいる人はどうかイエス様に頼って共に歩き始めてください。イエス様は苦しみ悲しみを担って下さり、決して消えない希望を下さる真実のお方です。
2/20 ルカ7章7節 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
自分を省みると、イエス様を家にお入れする資格もないし御前に出ることさえ畏れ多いと百人隊長は言った。イエス様のお言葉により癒されると信じていた信仰にイエス
様はどんなに喜ばれたか。へりくだる姿勢、主を畏れる態度、全く疑いを持たずみ言葉さえあればと信じる心。百人隊長の信仰により一人の僕が救われたと思われます。
2/21 ルカ8章16節 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」み言葉によって心に灯していただいた光を、まだ見ていない人、知らない人に見えるようにお伝えし
たい。光であるイエス様に目を向けると自分の姿が見えてくる、いかにダメな者かとわかります。周りを見ないでイエス様だけ仰ぎ、照らしていただきたいと祈ります。
2/22 ルカ9章62節 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
イエス様に従っていくと決めたら振り返ってはいけない。過去のことは赦されている、だから悔やむこともない、安心してついていけばいい。イエス様と自分の間に家族
さえ入れず、ただイエス様だけを最優先してみ跡をついて来なさいと。イエス様はいつもどんな時も共に居てくださり共に歩んでくださいます。主だけを見て歩みます。
2/23 ルカ10章40節 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、
何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」とイエス様は言われた。マルタはもてなすことを、マリアはみ言葉を聞くことを選んだ。もてなしに心
を向け疲れ切ってみ言葉を聞く余裕がなくなったマルタ。どんな奉仕、伝道をするかではなくみ言葉を聞きたいという願いを失うのなら何をしても実らない、アーメン。
2/24 ルカ11章27節 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」とイエス様は言われた。母マリアは神さまのご用をするために選ばれた姉妹。血縁による幸いではなく
神さまのみ言葉に聞き従って守ること、ここにこそ主にある幸いがあるのだ、と。語られるみ言葉を通して父なる神さまを知ることが真の幸い。み言葉をいただきます。
2/25 ルカ12章20節 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」地上の命は一時的なもの。死ぬときに財産を持っていくことはできない。金持ちが大きな蔵を
建てこれで将来も安心だ、飲んで食べて楽しもう、と。でも彼の寿命は神さまがお決めになられた時まで。神さまの身許に行くなら永遠の生命、真の平安がもらえます。
2/26 ルカ13章11節 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
長い間、病いの苦しみの中にいた女の人をイエス様は呼び寄せ,手を置かれて癒されたが、その日は安息日だった。イエス様は誰にでも「私のところに来なさい」と呼び
寄せてくださる。安息日でも目の前に苦しんでいる人がいたら非難を恐れず弱い人に寄り添い癒してくださるご愛のお方。イエス様は御そばへと招いてくださっています。
2/27 ルカ14章26節 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
家族の絆は、自分の好きな人だけを愛して身内だけに留まり排他的になるのかもしれない。イエスさまと繋がってはじめて主にあって隣人を愛することができるのでは。
血縁関係や自分に心を向けるのではなく、十字架に架かってくださったイエスさまにすべてをお委ねして、心を空っぽにして主に住んでいただけたら。憐れんで下さい。
2/28 ルカ15章20節 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
父は遠くから息子を見つけて駆け寄ってきました。息子は長旅と豚の世話などで汚れていますが、どんなに汚れていてもありのままでお父さんは受け入れてくれました。
神さまも、罪汚れたこの者を喜んで受け入れてくださる事を思います。もったいないほどに迎え入れてくださいます。天のお父様は罪を赦し神の子供としてくださる。

 

2011年3月

3/1 ルカ16章
13節
どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と 富とに仕えることはできない。」
お金を貯めようと思って自分の計画で心が一杯になっていると気が付いたらお金の奴隷になってお金が主人になってしまいます。お金でなくても別のものに心を奪われて
いる時は、心に神さまが居る場所が無くなり信仰から離れます。しもべは2人の主人に仕えることはできない、ただひとりの主なるお方にのみ仕えさせていただきたい。
3/2 ルカ17章
19節
それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
10人の病人を癒したけれどイエス様のところに戻り 足もとにひれ伏して感謝したのは1人だけでした。救い出されるまでは助けてほしいと祈るのに救いに与かったら
神さまのことを忘れてしまいます。すべてのことがイエスさまによって起こされたと知る時イエスにさまに感謝し賛美し礼拝せずにいられません!信仰を感謝いたします。
3/3 ルカ18章
43節
盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び、目を開けてもらいました。肉体の目だけではなく霊の目も開いていただき救い主イエス様が見えるようにさ
れました。主のみ業を通してイエス様に従う盲人の姿に周りの人たちも主を讃美しました。この者も聖霊により目や耳を開けていただきイエス様に従う者となりました。
3/4 ルカ19章
31節
もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
主がお入り用なのです。」イエスさまをお乗せしたろばのようにこの者も主に言っていただきたい、用いられたいと心から願う者です。誰も乗せた経験がない子ロバを
選ばれました。同じように未熟で何の力もない子ロバのような者ですが選んでいただけたらと祈ります。主のご用ならなんでも喜んで感謝してさせていただきたいです。
3/5 ルカ20章
36節
この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
すべての人は、神によって生きているからである。」主イエスさまは復活されました。イエスさまを主と信じた時, キリストにあって永遠の命を与えられ私達もキリストと
同じように復活することが約束されています。地上での肉体はいつか朽ちて土に戻りますが霊は天国で永遠に憩えます。天国に帰った時の再会の約束が楽しみです。
3/6 ルカ21章
33節
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
自然も人間が作ったものも時がくればいずれ必ず滅びます。この世のものに頼ってもなんにもなりません。決して滅びないのはおひとり、神さまだけです。神さまのみ言
葉は真実で決して滅ぶことはない。神さまは時空を超えて存在されるお方で人間には計りしれません。そのような神さまに造られたこと、愛されていることを感謝です。
3/7 ルカ22章
61節
主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
イエス様はペテロと目を合わせられるほどの距離にいらしたのでしょう。イエス様はペテロの行動をすでにご存じでおられてその上でペテロをお赦しになられた。ペテロ
はいかばかりだったか。死にたいほどの苦いこの経験を通して罪人にしかすぎない者を赦されたイエス様を証しされた。人の弱さをわかり慰め許せる真の伝道者として。
3/8 ルカ23章
42節
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
しかし、この方は何も悪いことをしていない。」イエスさまの隣の十字架につけられた犯罪人のひとりは死を目前にしてこう言い心からの悔い改めをした。自分は罪人
で罰を受けるべき者と認め、赦しを乞いました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスさまは言われた。告白した瞬間から祝福に与ることができました。
3/9 ルカ24章
47節
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて
イエスさまの十字架と復活により罪の赦しをいただけます。こんな者の罪のために死なれたと知った時に悔い改めずにおられませんでした。主が良くしてくださったこと
罪の許しと永遠の生命をイエス様のお名前によってお伝えさせていただきたい。イエスさまは今も生きておられる、この福音を一人でも多くの人に証人として届けたい。
3/10 ヨハネ1章
38節
イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと
自分の人生において何を求めているのか、と問いかけられたことを思います。イエス様の御そばに居たい、こんな者だけど居させてください、離れたくないというより離
れたら生きていけない。こんな思いで滞在されてる場所を聞いたのでは。地上の生を終えて天に帰ってからもイエスさまと共に居らせていただける幸いを握って歩みます。
3/11 ヨハネ2章
5節
しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った
酒が無くなりました」とマリヤは母親としてイエス様に伝えました。イエス様のみ業がなされようとする時には、この世の親子兄弟などのどのような関係でも入り込め
ない事を見ました。マリヤがイエス様に言うのではなくマリヤや召使いがイエス様の言いつけに従うことと気付きました。イエス様は最初のしるしをカナで行なわれた。
3/12 ヨハネ3章
16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
人は罪の中で死んでいて神のさばきに会うように定められていますが、神の独り子を信じることによって死とさばきから免れて永遠の生命をいただけます。神がこの
救いの計画を立ててくださったのはこの世に生きている私たちを愛してくださっているゆえ。誰も滅びることのないことを願っておられます。もったいないほどのご愛です。
3/13 ヨハネ4章
14節
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
心の渇きを家族、お金、仕事、娯楽などこの世のもので埋めようとしても欲望は満足を知りません、もっともっとと。生や死や将来の不安などいろいろな問題からの根本
的な解決にはなりません。神さまは永遠に続く生命を与えると言われます。神さまに愛され受け入れられているとわかる時心は満たされます。神さまは招いておられる。
3/14 ヨハネ5章
15節
この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
38年続いた病いを安息日にイエス様に癒してもらったのにユダヤ人に罰せられる恐怖に負けてイエスさまを売った。この者も罪を赦していただいた。卑怯なことはしたく
ないけど自分の弱さも知ってる同じ者です。イエス様は弱い者たちの罪をご自分で引き受けられ十字架に架かられた。こんな者を主はお赦しくださった。ごめんなさい。
3/15 ヨハネ6章
35節
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
イエスさまのところに行く者は決して消えない平安と喜びと満たしを受けると言われます。地上の何物であってもどれだけ揃っていても霊は満たされないことを誰もが経
験されたことがあるのでは。イエス様からみ言葉を頂くことで生きる希望が与えられ、どんな絶望的状況にあっても希望に変わる。霊の飢えや空しさから解放されます。
3/16 ヨハネ7章
37節
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
イエス様の叫ばれた招きの声がどうか一人でも多くの方に届きますように。イエス様のところに行けば、条件無しで誰でも命の水を飲ませてくださると。水がないと人は
生きていけません。のどが渇いている時に水を飲めることはほんとうに喜びですが、水を飲んでもすぐにまた渇きます。イエス様は渇かない水を持って招いてくださる。
3/17 ヨハネ8章
12節
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
誰にも気づかれずに隠れて犯していた罪、自分でさえ気がつかなかった罪、心の奥に隠れていて忘れていた罪に光が当てられ明らかにされました。イエスさまは闇から光に移してくださるお方です。イエス様を受け入れる前は暗闇の中を歩いていました。イエス様の救いに預かり命の光の中を希望を持って歩めます、もう闇には戻りません。
3/18 ヨハネ9章
3節
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
息子が障害を頂いて生まれてきたのは本人でも親の罪でもないと言われた。この福音を語られたイエス様により重荷を下ろすことができました。息子の上に神様のみ業が
現れていることを見せていただいています。息子は周りの人たちが持っている愛や思いやりや笑顔や優しさを、イエス様と共に引き出しているように思えてなりません。
3/19 ヨハネ10章
3節
門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
門番である神様は羊飼いイエス様に天国の門を開けてくださいます。イエス様が名前を呼んでこの者を招いてくださり、天国の門へと入れていただける。狭い門ゆえ自我
を砕かれないと通れません。こ羊のために命をかけて守り抜く羊飼いの姿が十字架のイエス様。さ迷っていたこの者も飼い主にしっかり捉えていただきみ跡を歩めます。
3/20 ヨハネ11章
35節
イエスは涙を流された。
生身の人間としてのイエス様の涙、泣く者と共に泣いてくださいました。涙を流されたと言うのは聖書の中でここだけに記されています。ご自分の哀しみ苦しみのために
は涙を流されませんでしたが私たちの悲しみをご自分の悲しみとして今も受け止めてくださっています。イエス様の涙も十字架もこの者のためと知ることができました。
3/21 ヨハネ12章
47節
わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである
イエス様が言われてることを守りたいと願っているけど難しい。愛せない、許せない、情けないけどとても出来ない、こんな情けない者をさえ、そのままを受け入れてく
ださるお方。裁かれても仕方ない者なのにご自身の命に代えてすべてをお赦しくださった。イエス様を殺そうと言う人を赦して神様に執り成しの祈りを捧げられたお方。
3/22 ヨハネ13章
8節
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことに
なる」と答えられた。
イエス様に自分の汚い足を洗ってもらうなんて畏れ多くてとても、とのペテロの気持ちがわかります。でも洗足を受けないとイエス様からの一方的なご愛を拒否しイエス
様との関係を持たないということだと。イエス様のご愛をそのまま受け洗っていただくことで、心までも清められ悔い改めもできて罪も赦されます。ご愛を感謝します。
3/23 ヨハネ14章
1節
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
イエス様が十字架に架かられたら弟子たちは恐れと不安に満たされて何をすればよいか分からなくなることをすでにイエス様はご存知でした。私を信じれば心も平安にな
るとイエス様は言われました。不安や恐れのある時にイエス様は語りかけて下さいます、共にいると。目の前の状況ではなく主だけを見上げて祈りつつみ跡を歩みます。
3/24 ヨハネ15章
4節
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
ぶどうの木の枝は切り取られたら枯れてしまいます。胎児は母親からへその緒を通して生きるための栄養をもらって育ちます、赤ちゃんの命綱です。私たちもイエス様に
繋がらなければ永遠の生命はもらえない。イエス様に繋がっていなければ生きることができない。光がなければ真暗な道を歩むこともできない。主に繋がることを感謝。
3/25 ヨハネ16章
20節
はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。」弟子たちはイエス様が十字架に架かられたことで嘆き悲しみますが祭司長たちや下役たちは喜びました。でも弟
子たちはイエス様の復活に出会い悲しみから喜びへと移されました。悲しみを超えた後にいただく主にある喜びは決して消え去ることはありません。苦しみは消えます。
3/26 ヨハネ17章
3節
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
罪まみれの者のために独り子を十字架に架けてまでの犠牲を払われたお方。父神さまのみ旨のままに黙って架かってくださったイエスさま。永遠の生命とはこの神様とイ
エスさまを知ること。祈りの中でみ言葉をいただく中でどんなふうに自分に関わられたかがわかると御前にひれ伏すしかありません。知ることは信じること、感謝です。
3/27 ヨハネ18章
4節
イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
イエス様はご自分お一人だけがこれから起きること、父なる神さまのご計画のすべてをご存じだったのです。ですからわざわざご自分からユダや兵士たちに近づいて行か
れました「誰をさがしてるか」と。そして弟子たちのことを気づかい「この人々は去らせなさい。」と言われて成就するためにおひとりで十字架への道を歩まれました。
3/28 ヨハネ19章
30節
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
神さまのみ心の通りにすべての事が進み完了したと言われ、イエスさまの十字架刑についての預言は成就しました。罪の赦しはたった一つイエスさまが流された血によってのみ清められ癒されます。人類の身がわりになって御身にお受け下さりご自分の権利すべてをお捨てになられました。贖いのみわざによりこの者は生かされています。
3/29 ヨハネ20章27節 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
イエスさまは死者の中から復活しました。信じる者とはイエスさまの復活を信じる者ということ。トマスはイエスさまのわき腹に触らなくてもわかったのでした。疑いか
ら信仰へと導びかれました。見ないで信じる信仰をと言われました。復活されたイエスさまを直接見てはいないけど今も生きて共におられることを日々体験しています。
3/30 ヨハネ21章22節 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」神さまは1人1人に道を備えてくださっています。いただく賜物もそれぞれ違います。人と比べるのではなく
自分と神様の関係が大事です。人を見て羨んだり優越感を持ったところで何にもなりません。そのままの自分で神様のみ跡を従っていけば道を迷うことなく歩めます。
3/31 使徒1章8節 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
イエスさまを自分の救い主として信じる時、聖霊によって新たに力をいただけます。聖霊はイエスさまの栄光を証しできるように信じる者を導いてくださいます。すべての
国々の人々に対して証人とならせていただけますように。先に救われた者として周りの人々がイエスさまを知るように聖霊のお力を頂いてご用をさせていただきたいです。

  

2011年4月

4/1 使徒2章

22節

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
イエスさまは歴史上でもはっきりしているようにナザレの人として実在された方であり、間違いなく神様の御独り子です。神さまにしかできない奇跡とみわざを行なわれ  
ご自分が神の子であると証明されましたが指導者たちのねたみにより十字架につけられました。人間が罪から救われる方法として神さまがお決めになられたことでした 。
4/2 使徒3章15節 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。
私はイエスさまを殺してしまいました、自分の罪を贖ってくださるお方を。神さまはイエスさまを死者の中から甦らせ復活させてくださいました。イエスさまはすべてから
勝利された。イエスさまによって信仰をお与えいただけます。この罪人のために命を捨ててお赦しくださったイエス様を今では知っています。証人にならせて下さい。
4/3 使徒4章12節 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
イエスさまを3度も知らないと言ったペテロが強くなりました。イエスさまの御名を隠すことなく「この方以外には救いはない」とはっきり宣言しました!ペテロの力では
なく聖霊がペテロの口を支配し導かれていたからに他なりません。イエスさまはよみがえられて今も私たちと共に居てくださる。イエスさまによって救いをいただけます。
4/4 使徒5章29節 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
「義人はいない。一人もいない」すべての人は神様の前に罪人です。どこまでいっても完全はなく過ちを犯してしまう弱い者です。罪人のためにイエスさまが十字架に架
かられて罪を赦されました。人を見るのではなく人の考えに従うのではなく完全なる愛の神様に聞き従っていくこと。ペテロや使徒に聖霊が働いていることを信じます。
4/5 使徒6章10節 しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。
人間的な理屈でステパノを言い負かそうとしてもステパノは聖書の知識を持っているだけではなく御霊の知恵によって語りました。ステパノに誰も言い返すことができな
かった、神さまの勝利です。この者も自分で語るのではなく聖霊に助けていただき、イエスさまのご愛と十字架の購いによる救いをお伝えしていけたらと願い祈ります。
4/6 使徒7章60節 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」ステファノはイエスさまが言われたままを守った兄弟でした。イエスさまが十字架上で死なれたときと同じ言葉を
語りました。ステファノが自分で頑張ってこう言ったのではなく聖霊に満たされたから言うことができたのです。主は困難に耐えられるだけの力を与えてくださいます。
4/7 使徒8章3節 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。
ステファノの殺害に賛成し教会に対しても迫害した主導者はサウロでした。迫害により散って行った人々は他の地方で福音を伝えて回りサウロの思いとは逆に宣教の手伝
いをしたことになりました。神さまのご計画は揺るぎません、サウロはすでに神さまに捉えられていたことを見ます。神さまは人の思いをはるかに超えて成就されます。
4/8 使徒9章5節 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
サウロは神さまの教会を迫害した人物なので人間的な思いでは選ばれないはずです。でも神さまはこのサウロを選ばれました。イエスさまとの出会いによって聖書の言葉
を開かれて使徒パウロとして180度変えられました。この者もイエスさまに出会えなかったら今の自分はいません。主を知った今、福音をお伝えしてまいりたいです。
4/9 使徒10章26節 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」
コルネリウスはひれ伏してペテロを拝んでしまいましたが、ペテロは自分も同じ罪人、ただの人間だとコルネリウスに教え諭されました。3回もイエスさまのことを知ら
ないと言ったペテロが聖霊の働きに導かれてしもべとしてみ言葉を語りました。ペテロは自分の弱さを知っていて御前にへりくだる者として働かれた。謙遜を学びます。
4/10 使徒11章21節 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
主の助けは伝道する人たちに示されます、主を信じ伝道する人の祈りに応えてくださるお方です。主の救いに与かる方が多かったと。この者も主の助けがなければみ言
葉を理解することもできなかった。聖霊により耳を開いていただき主のみ業を聞くことができるようになりました。小さな者にもどうか主を紹介させていただきたいです。
4/11 使徒12章5節 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
神さまは教会の人々やペテロに祈る思いを与えられました。神さまの考えを自分の希望の通りに変えてもらうように願うことが祈りではなく、神のみ心を知ることが祈り
だと言われたこと。「助けてください!」と自分の思いだけを訴えるのではなく神さまの御前に自分自身をお捧げすること、委ねることと思います。お祈りいたします。
4/12 使徒13章48節 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
信仰に入ることは神さまによって定められていました。イエスさまを信じているのは自分の願いや努力ではなく、神ご自身がこの者を選んでくださったゆえです。土から
造られた者、この肉体は朽ちますが主により永遠の生命をいただけること、罪赦されていることを感謝し主を讃美せずにいられません。この弱い者も信仰を頂きました。
4/13 使徒14章15節 言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に
立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。
足なえを直されたのはパウロではなく主ご自身ですが、見た人たちは主に用いられた器に対して拝もうとしました。神さまはすべてをお創りになられたお方、人間さえも
造られたお方です。この者も神に用いられる人を神さまのように捉えた時期がありましたが主が過ちを気づかせてくださいました。人ではなく主のみを拝し讃美します。
4/14 使徒15章11節 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
神のみ言葉を聞いて信じることによって救いに与ることができるから恵みなのだとペテロは言います。良い行いをしていない、できないのに救われるから恵みだと。自分
で自分を良くしようと努力しても良くなることはできない、救いようもない者です。こんな者のためにイエスさまが十字架に架かってくださった、ありがとうだけです。
4/15 使徒16章31節 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
救われるために何をしなければいけないかと聞いた時、パウロは主イエスさまをただ信じるだけで救われると答えました。ここに何の条件も付かない、ただ信じるだけ。
看守の心は福音を受け入れることで変えられて家族全員が救いに与ることができました。この者も主に愛されている息子を通し家族が主の救いに与りました。奇跡です。
    ★ こちらまでおいで下さりありがとうございます。インターネットを使えないためしばしの間、お休みさせてください。よろしくお願いいたします。

                                  

2011年5月

    神さまからしばしの休暇をいただき、また始めさせていただけます事を感謝いたします。み言葉にふれて身も心も喜び踊ります。祈りつつ一言ひと言を頂戴したいです。
5/3 使徒17章
24節
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
神さまはすべての物、宇宙でさえもお創りになられました。神殿や礼拝堂などの人間が造った所に住んでおられるのではなく私たちの生活の中にいつも共に居てくださり  朝も夜も見つめていてくださいます。生まれる前から一方的に愛してくださり、こちらが気付くまで待ち続けてくださっている。神様だけを見上げて生きる幸いに与れます。
5/4 使徒18章
21節
「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。
神のみこころならば」 主が異なることをお考えなら喜んで計画を変更します、というパウロの姿を見ました。パウロのようにいつも「主のみこころなら」という姿勢で
日々を送りたいです。自分を捨てて主にのみ従うことが自分の力ではできにくい者です、計画を立ててその通りになるようにと祈っている自分がいます。憐れんで下さい。
5/5 使徒19章
5節
人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。
パウロは「イエスの御名によって」バプテスマを授けました。自分の努力や行ないではなくイエスさまを救い主として信じる時、聖霊が働らかれイエスさまが自分の中に
生きておられると信じることができるのです。不思議ですがほんとうなのです。主を知って初めて生命を吹き込まれた気がしましたし、主にある真の拠り所を頂きました。
5/6 使徒20章
19節
すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。
パウロは主から福音を宣べ伝え兄弟たちにみことばを教えなさいと命じられたのをはっきり知りました。試練にあいながらも主に命じられたことを守り通してみ言葉を語り続けていきました。主に祈り慰めを頂きながらお仕えした。この者に主は何を命じられているでしょう、どんな困難があっても主にお仕えしていけたらと願っています。
5/7 使徒21章
13節
そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られる
ことばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」
弟子たちはパウロのことだけを考え神さまのことを考えていませんでした。主にある兄弟としてパウロを愛していました。 パウロに苦しみにあってほしくないという彼ら
の思いであり神のみ心ではありません。パウロは主への愛ゆえエルサレムへ行くと。自分の命さえ失うことも覚悟して主に従う真の信仰の姿に聖霊のお支えを見ました。
5/8 使徒22章
15節
パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」
パウロは市民権を持っていたためにむち打ちをまぬがれることができローマにまで宣教に行くことができました。生まれる前からパウロをご自分の器として用いようと選
ばれていたことを思います。神さまのご計画に従って歩む時、困難にあっても主が逃れる知恵をくださり必要なことを言わせてくださいます。信仰は恐れもありません
5/9 使徒23章
11節
その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」
勇気を出せ」と声をかけてくださる主、なんという喜び。パウロだけでなくこの者のそばにもいつも居てくださる。「恐れるな」と励まし勇気づけられるので倒れることなく
進んで行けます。ご存じのように弱い者ですが主のために用いられたい。目の前の状況に捉われず主だけを見あげてみ跡を歩みたい。主をお証しさせてください。
5/10 使徒24章
16節
こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。
パウロは落ち度がないということではなく、自分の生き方、生きる姿勢を語っていることと思いました。誰もが完璧ではあり得ません。自分を空っぽにして神さまに主導
権を明け渡し神さまにも人にも裏表なく歩めたらと祈っているのでは。この者も自分ではとてもできないけど神さまにお会いする時に弁解しない生き方をしていけたら。
5/11 使徒25章
19節
パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張して
いるのです。
イエスさまの復活を信じます、今も生きていていつも共に居てくださいます、決して譲れない変わることのない真実です。パウロは以前は迫害する側でしたが主を知って
生まれ変わり主のため信仰に生きている。何物をも恐れず福音をのべ伝えていくパウロの強い思いが伝わってきます。主がパウロをお選びになり支えられておられる
5/12 使徒26章
16節
起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。
イエスさまはパウロにご自身を現わされてご自分の計画を明らかにされた。イエスさまはこの者に対しても同じことをしてくださった。すぐには理解できなかったけど息子を通して神さまのみ業、栄光を見せていただいた証人です。主に出会い主のご計画を知りました。弱い者、自分を捨てきれぬ小さな者ですが用いていただきたいです。
5/13 使徒27章
25節
ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。
嵐の中に神さまが共におられて語りかけ守ってくださる。私は神を信じると言い切れるパウロの信仰を思います。嵐も神さまから出たこと、困難の中でどうしたらいいか
わからない時に神さまは励ましてくださる。嵐の中だからこそ聞けるみ言葉や気付くみ心がある。主を信頼して従っていくこと、ここにこそ主の最善があると信じます。
5/14 使徒28章
31節
全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
パウロはローマに入った時に番兵をつけられて不自由はあったけれど、心は全く自由で主の福音を大胆に誰にも妨げられることなく語ることができました。パウロに
このような時をお与えくださったことを思います。どんな状況に置かれてもこの者もパウロのように主にあって主をお伝えしていけたらと願い祈ります。語らせてください。
5/15 ローマ
1章6節
この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――
イエスさまのものとなるようになんと畏れ多くて身の置き所もないほどのそして天にも昇るほどの喜びの言葉でしょうか。どこを探してみても使徒とさせていただく価値の無い者ですが神さまの一方的な恵みにより救いに入れていただいた。奇跡です。まだイエスさまを知らない、受け入れていない方々に真のご愛と喜びをお伝えしたい。
5/16 ローマ
2章11節
神は人を分け隔てなさいません。
神さまは、ひとりひとりを御手でお造りくださった。神さまの御目からは条件抜きで誰もが高価で尊いと招いておられる。過去がどうあろうとどんなに罪深い者でも悔い
改めてほしいと願われみ前に来ることを待ち続けておられます。この世の価値観とは全く違う目線で見てくださり憐れんで下さる。御前では皆同じ罪人、義人はいない。
5/17 ローマ   3章24節 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
イエスさまは、人が気がついた罪も気がついていない罪もすべてを背負って十字架に架かってくださいました。イエスさまの血によって神さまが罪をお赦しくださった。
受ける価値さえ無いこの者のために、罪の赦しと引き換えに命をさし出してくださったお方、何一つ求めることなく無条件で。言い表せない恵みを無償で頂いています。
5/18 ローマ
4章19節
そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
「・・・あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」問題がある時に問題を見続けるのではなく、そのことをおっしゃった主に目を注いで主を仰ぎ見ることが
大事では。神さまなら決してできないことはない!信じるとは理屈ではなく主の言われたことをそのまま信じること。奇跡のみ業や復活、聖霊のお働きを信じています。
5/19 ローマ
5章5節
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
この希望は失望に終わることはありません」イエスさまを受け入れる前は障害を持って生まれた子を育てながら将来の不安で押しつぶされて笑う日が来るのだろうかと夢もなく絶望の中に居ました。耐えきれずに神さまに救いを求めた時、聖霊が働いてくださり朽ちぬ希望へと変えられました。現状は変わらなくても喜びの中に居ます。
5/20 ローマ
6章4節
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたに、ようわたしたちも新しい命に生きるためなのです。
生まれたままの自分では罪と死に支配されたままです。イエスさまを信じ洗礼を受けさせて頂きました。古い自分が罪と共に死に、神さまから新しい誕生日をいただいて初めて生きてるんだという実感がわいた気がしました。地上で生きている今も神さまと一緒、もう迷える子羊ではない、神さまが歩む道を示されるのでみ跡を従います。
5/21 ローマ
7章24節
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
もう自分の力ではできないと思ってあきらめた時に初めて神さまに助けてほしいと願いました。朽ちる肉体をもつ者が人を救えない、解決はない、自分にも人にも頼れないと知った時、神さまの御前にへりくだることができました。イエスさまの十字架ゆえに罪を赦され永遠の生命へと導かれました。救いの鍵はイエスさまの御手にあり。
5/22 ローマ
8章28節
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
現状はどうあれ神さまはすべてのことを益としてくださいます。今は試練の中にあっても神さまの勝利と恵みがあることを確信できます。神さまのなさることは何ひとつ
無駄はない。神さまのみ業とみ言葉と聖霊によりこの者もはっきりこう言えるようになりました。試練を前に自分は何もできず主に頼り救われました、弱さを誇ります。
5/23 ローマ
9章16節
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
ご自分が十字架に架かってまでも罪を赦し守ってくださること、神さまに愛されていること、信仰をいただだいていること、主を知っていることで人生は一変します。自分が努力したり良いことをしたからではなく、すべてが神さまからの一方的な憐れみによりいただけるものです。自分の思いだけでは何も動かない、すべて御手の中に。
5/24 ローマ
10章11節
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
天地を創られ、人を造られた神さまはすべての人の救いを願っておられます。自分は何一つできない、人を救うこともできないし寿命を延ばすことさえできない。なんで
もお出来になる神様を信じて頼れば希望を失うということは決してない、絶望も希望にかえられる。聖書に書いてあるみ言葉はすべて真実と体験させていただいてます。
5/26 ローマ
11章36節
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
すべてのスタートは神さまからそしてゴールも神さまです。人の思いを超えたところにある神の深いみ心をすぐに知ることはできない、振り返った時に神さまの成してく
ださったことがわかってきます。救いに与るためにすべてが必要な出来事だったと。イエスさまの十字架により罪赦され永遠の故郷に帰ることができます。栄光は主に。
5/27 ローマ
12章15節
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
イエスさまは喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に涙されるから喜びは何倍にも哀しみは小さくなります。神さまはこんな者にも高価で尊いと言われます。神様のご愛を知って
心満たされ、気が付いたら人と比べなくなっていました。人の喜びを共に喜べる思いと哀しみの方に寄り添う思いを主からいただいていました。主の憐れみによります。
5/28 ローマ
13章14節
主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
自分の心の中にある自己愛、我欲という古い衣を脱ぎ捨ててイエスさまという衣を身に着け守られて歩む者でありたいです。肉の思いでどう自分を喜ばせるかではなく
どうしたら神さまが喜ばれるのか、主にすがり祈ります。自我を空っぽにして内側からイエスさまに入っていただき、外側もイエスさまを着ての防備で歩ませてください。
5/29 ローマ
14章8節
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
主のみを見つめて主と個人的に向き合い、主だけを仰ぎみて生きて行きたい。イエスさまを信じることで人の目からも解放されて自由になりました。この者が主にある新しい生命を生きる者になるためにイエスさまは十字架に架かってくださいました。地上でも天国でも主のもの、主のために生きることがまことの幸いと教えられました。
5/30 ローマ
15章3節
キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、、身代金として自分の命を献げるために来た」とイエスさまは言われました。ご自分のためにではなく人々のために
身代わりになられて十字架に架かられました。神さまのみ言葉はこの世の約束とは違って必ず絶対に実現します、すぐにではなくとも。だから希望をいただき歩めます。
5/31 ローマ
16章26節
その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるように
なりました。
主が示された福音をパウロは人々に宣べ伝えました。パウロのように福音を頂いた者としてこの者も主の福音をお伝えさせていただきたい。地震や津波や原発事故や
台風、竜巻など大地は揺らぎます。不安に沈むのではなく揺らぐことのない主によって堅く立つことができます、この主の良き知らせが福音です。多くの方に届けたい。

   

2011年6月

6/1 Tコリント
1章21節
世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、
お考えになったのです。
だれ一人、神の前で誇ることがないように」 この世の知恵者や権力者でも自分の知恵によって神さまを知ることはできないようになさった。弱い者の上に主は現れて
み業を見せられている。神さまを知らない人には十字架に架かられたイエスさまは弱く愚かに見えるかもしれないけど神のみ言葉は真実だということを祈りつつ伝えたい。
6/2 Tコリント
2章4節
わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
パウロは雄弁に語るのではなくイエス・キリストが十字架に架かられたと言う変わらない真実だけを話しました。この真実によって聞いた人が救いに預かった。パウロが
説得したからでなく知的に理解したのでもなく神さまからみ霊と救いの御力をいただいて信じるようになりました。この者も生活の中で主のみ業を見せてもらってます。
6/3 Tコリント
3章6節
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
パウロの働きによってコリントに教会が建てられパウロが去ったあとアポロが来て神のみ言葉を語りました。パウロもアポロも主のしもべとして主に用いられた管です。
以前はイエスさまのみ言葉を語ってくれた宣教師を見ていましたが紹介されただけと受け止めました。神ご自身と自分との個人的関係をもつことが大切とわかりました。
6/4 Tコリント
4章16節
そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。
パウロはコリントにいる人たちに対して模範となる生き方をしていました。命令して服従させるような支配者ではなく主人としてでもなく自分自身が仕える者としての姿を
見せてきました。この世での名声を捨ててキリストのしもべとして、人ではなくキリストを相手にする生き方を貫きました。倣う者と成らせていただけたら、、、祈ります。
6/5 Tコリント
5章7節
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
イエスさまが十字架上で流された血によって罪の汚れから清められ赦されました。後にも先にもこれ以上の犠牲はありません。古い自分は死んでキリストにより新しい生
命をいただきました。葬ったはずの古いパン種を再び用いることなくイエスさまの御血を無にすることなく主を見上げて生きていきたいです。弱い者ゆえ絶えず祈ります。
6/6 Tコリント
6章20節
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
イエスさまがご自分の命という代価を払って買い取ってくださったので自分の体は自分のものではなく神さまのものです。この者のために御自ら血を流すことも惜しまな
いと、もったいないばかりです。イエスさまのご愛に応えきれないけれどイエスさまのことを教えを一人でも多くの方にお伝えしたいです。主のご栄光を現せますよう。
6/7 Tコリント
7章10節
更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。
神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」とイエス様は言われました。神様は男のあばら骨から女を造られ良き助け手として生涯を共に添い遂げ
るようお命じになられています。時に争うこともあるけれど神さまのお守りの中で悔い改めに導いていただき互いに支え合い歩ませていただいてます。仲人は神さまです。
6/8 Tコリント
8章6節
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストが
おられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
天と地とすべてのものを創造されたお方、今も生きておられるお方が唯一の神さまです。すべては神さまから生まれて神さまの定められた時に地上を去ります。肉体は朽
ちますが霊は神様の御元に帰らせて頂けます。神様なしにはこの者も存在すらありませんでした。今は目には見えないけれど神様を信じる、この信仰もいただきました。
6/9 Tコリント
9章19節
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
イエスさまは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために来た」と言われました。誰にも縛られない自由と、福音を伝えるために自分の自由を捨てると言う自由に
よりご自身が十字架に。パウロも牢獄に繋がれ肉体は不自由でしたが心は自由に多くの人に伝道していきました。奴隷のようにへりくだるためには、自我を捨てないと。
6/10 Tコリント
10章13節
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
神さまは何一つ無駄なことはなさらないお方、この地上で起きることはすべてに意味があります。自分にはそれがどんな意味を持つのかはその時に分からなくても。苦し
みや悲しみに見舞われた時なぜ自分が?と思うけれど振り返った時に神さまのみ心が見えてきます。自分の思いとは違った結果でもそれが最善だとわからせてくださる。
6/11 Tコリント
11章26節
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
聖餐式に与る時イエス様の食卓に招かれていることをいつも感じます。食卓の真ん中でイエスさまが「裂かれたわたしの体です」「わたしの血による新しい契約です」 と
言われてお給仕くださる。イエスさまが再び来られると約束されたその時まで罪人たちの身代わりになられ十字架に架かって死なれ復活されたことをお伝えしていきたい。
6/12 Tコリント
12章27節
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
神様は人間を造られた時に一人ひとりにそれぞれ違う賜物をお与えくださいました。キリストを頭とする一つの体に繋がれ別々の働きを持っていてすべてがかけがえのな
い器官です。違いこそが恵み、ハーモニーのように。病いや障害など弱さや貧しさや劣等感も神さまは愛され御目から見たら賜物、み業を現すためお用いになられます。
6/13 Tコリント
13章13節
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
立派な知識や信仰を持っていても、富があっても、部下がいっぱいいても、その根底に神さまの愛がなければすべては無に等しい。イエスさまの愛を知っているので孤独
ではありません。主に愛されているから愛せる。愛せなくても愛せたらと願い祈ります。愛してるから信じられる、希望に繋がる、すべてのことが神さまの愛から始まります。
6/14 Tコリント
14章22節
このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです
異言を聞くことによって信仰を持つことはできない、わからない言語では何を言ってるか理解できません。預言は信仰に導かれるために賜物として預言者に与えられ用い
られました。預言者を通して神さまのみこころを知ることができます。旧約の預言は成就されましたが、未だ成就されていない預言はイエス様のご再臨です。待ち望みます。
6/15 Tコリント
15章17節
そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
キリストの復活がなければ聖書のみ言葉は全く意味のないものになります。イエスさまが十字架に架かられ御血を流されたことによりこの者の罪も赦されたのです。甦ら
れなかったのなら、、と思うことすら驚きです!神さまのみ言葉こそが真実、復活して弟子たちに現れたイエスさまご自身を信じます。主は今も生きておられるのです。
6/16 Tコリント
16章14節
何事も愛をもって行いなさい。
愛するということは自分の思いひとつでできるのかも?でも自我を捨てて許して受け入れることの難しさも体験しています。パウロは愛すると言う動機によって行動しな
さいと言われます。口で言うのは簡単ですが何とも難しい。もっと難しいのが人に愛されることかもしれない。イエスさまはいつも人を愛し人に愛されているお方です。
6/17 Uコリント
1章5節
キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
苦しみにより神さまの慰めを知ることになります。イエス様はご自身が受けられた苦しみを通して人の苦しみを共有してくださり慰めてくださいます。試練は何かの罰で
はなく、神さまのところへいくため、神さまを知るためにいただくことと経験させていただきました。主によって慰められ勇気と希望をいただく者へと変えられました。
6/18 Uコリント
2章14節
神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせて
くださいます。
自分は弱くとも神さまは門を開けてくださり勝利の行列に導いてくださいます。どんな時でも飼い主イエスさまの後ろを歩むことで迷わず安心して進むことができます。
自分ではできないけれどイエスさまと共に居るとキリストの香りが漂わせられるのでしょうか。そうありたいです。出会う方々に主イエスさまのご愛をお届けできたら。
6/19 Uコリント
3章17節
ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
主の救いに与った時に主がいつも共に居てくださると言うことを体験します、いつも主を御そばに感じていることができます。この世のシバリから解放されて生きること
が自由になります。人の目、世間の目を気にすることなくイエスさまのみ言葉に従いたいです。畏れるのは主のみ、主に繋がって歩めば守られ怖いものは消え行きます。
6/20 Uコリント
4章16節
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
肉体は歳を重ねるごとに衰えていきます。外は衰えるのですが内は新たにされて、ますます天国が近くなり天国への希望が一層はっきり見えてきます。十字架と復活がよ
り深く受けとめられるようになることも歳を経てきた者へのイエス様の憐れみと思えます。最後まで祈ることは残されています、信仰の道を歩み続けゴールを目指したい。
6/21 Uコリント
5章15節
その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために
死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
生きるのはキリストのために生きるのであり決して自分のためではないのです。イエスさまを信じた時に古い自分は死んで新しいキリストにある生命をいただきました。
キリストにあって生きることこそが本当に生きていると言うことと信じることができます。イエスさまを知って初めて自分の本当の人生が始まったと確かに感じています。
6/22 Uコリント
6章18節
父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」
神さまのことを「天の父」と呼びます。神さまは「私の息子」「私の娘」と言ってくださいます。肉のお父さんは子供に愛をそそいでくれます、怒られたこともあるけど
子どもを思ってのことからでした。この者を造ってくださった神さまが我が子と呼んでくださる。この者に悪いようになど決してなさらない。天のお父さま、ありがとう!
6/24 Uコリント
7章9節
今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、
わたしたちからは何の害も受けずに済みました。
神のみこころに添った悲しみは悔い改めを導き、救いによって喜びをいただけます。自分がその罪を犯したという責任を認めて自分勝手な自分中心の歩みから、神さまに祈り神さまの道を歩み始めて行く、ここに悔い改めがあります。悲しみの中で、神さまに立ちかえることができ、新しく生まれ変わらせていただけたと実感しています。

  

2011年8月

    初めに孫2人、その後娘達が帰省し8月4日まで娘夫婦と孫3人が滞在していました。幼稚科の礼拝も守ることが出来て8月4日に一家は帰りました。み言葉も再開です。 
8/7 Uコリント
8章15節
「多く集めた者も、余ることはなく、/わずかしか集めなかった者も、/不足することはなかった」と書いてあるとおりです。
イエス様は5つのパンと2匹の魚で5000人に食事をお与えになり、なお余ったパンが12かごもありました。イエス様はなんでもお出来になられます。いつも必要な
ものを知っていてくださり必要なだけを与えてくださいます。だから主の恵みは不足することなくいつも十分なのです。多く持つ時も少ししか持たない時も主にのみ頼ります。
8/8 Uコリント
9章11節
あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。
神様があふれるほどの恵みの中においてくださっていること、愛されていることを主によって知った時、強いられてではなく喜んでささげる者に成らせていただけました。
言葉に尽くせぬ神の愛の中で生きる時、神様は人に対しても惜しまずに優しく接することが出来るような思いをくださいます。自分の力ではできません、主に頼ります。
8/9 Uコリント
10章17節
「誇る者は主を誇れ。」
自分を見た時誇れるものは何一つありません。この世的な知恵や富がないのはもちろんですが自分の生命も家族も衣食住どれも自分の物ではなく主からのものです。
何もできない弱い者ゆえ、主に祈り主に頼り主によって動いてまいりたいです。主から目を離したら迷います。主イエス様だけを誇りますーこう言えることを感謝です。
8/10 Uコリント
11章31節
主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。
誇れるものは何もありません、もっていません。洗礼を受けても礼拝に出ても聖餐式に与ってもみ言葉を頂いていても「隣人を愛せるように」「赦してもらってるから
許せるように」と祈っていても、いつまでたってもできていないことを自分で知っています、神様もご存じです。弱い者、成長の遅い者をそれでも愛してくださってる神様。
8/11 Uコリント
12章9節
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に
宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
主によって低くされたときに初めて見えてくる神のご愛と恵みがあります。イエス様が歩まれた十字架への道が自分のためだったことも。弱さを知って主に頼った時に主
は動いて導いてくださり光の中に置いてくださった。自分ではできることがとても少ない息子の上にも主は周りに助け手を備えてくださり主のご栄光を現しておられます。
8/12 Uコリント
13章8節
わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。
主にあって真理だけ真実だけがすべて、イエス様だけが真実なお方です。真理をごまかしたり曲げたりはできない、真理に対して逆らうことができない、真理だけが勝利します。この世に調子を合わせることなくいつも主のみ心を伺いながら主に勇気をいただいて歩む者でありたい。パウロのように「真理のためならできる」と言いたい。
8/13 ガラテヤ

1章12節

わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
パウロは人からではなくイエス様の啓示により知らされた。パウロだけでなくイエス様は小さな者にも個人的に語りかけ寄り添ってくださるお方です。主に祈る時に主は
応えてくださいます、み言葉を通して、み業を通して導いてくださいます。人ではなく主に頼る時、主は喜んで忍耐をもって付きあってくださる、こんな罪の者にさえ。
8/14 ガラテヤ

2章19節

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
洗礼を受けた時、自分だけを頼ってガチガチに頑張っていた古い自分は死に、イエス様によって新しい生命を授かりました。イエス様が共に生きていてくださることを
日々感じています。哀しい時もうれしい時もいつも共に寄り添ってくださっていると分かっているのに、未だに時折古い自分が先に走り出しています、ごめんなさい。
8/15 ガラテヤ

3章26節

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
主に結ばれた者たちを神様は子として呼んでくださり、何ができるとかできないではなく条件無しで惜しみないご愛を注いで見守ってくださっています。母の胎に居た時
から地上の生を終えて天国へ帰るまで神様は子の人生のご計画を建て導いてくださっています。信仰も主からのいただきもの、この福音を知らない方々にお伝えしたい。
8/16 ガラテヤ4章8節 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
神様に降参する前、自分の力で頑張って息子の障害を認めてはみたものの自分の心の中の辛い思い、惨めな思いを近所の人や友人にひた隠しにしたいと虚勢を張っていました。気になるのは世間体ばかりだったような。馬鹿にされまいと外出時には明るい顔で挨拶していた。神様に救いを求めた時にこの世の縛りから解放されました。
8/17 ガラテヤ5章22節 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
主を信じて祈りつつ歩む日々ですが、隣人を愛することが出来ない自分、人を心から許すことができない自分が居ることも主はご存知です。この情けないままの自分を
主の御前に隠さず出して自分は何もできないこと、明け渡したいと願っていることをみ霊の導きに頼り祈る時、み霊が働いてくださり支え導いてくださることを信じます。
8/18 ガラテヤ6章5節 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
一人ひとりが神さまから賜物を頂いてきます、そしてまた一人ひとり誰もが自分の負うべき重荷を担っています。自分だけで背負いきれないほどの弱さを覚えた時に、誰
も代わりに背負ってくれずともイエス様は負ってくださる、自分を丸ごと背負ってくださる。この時の足跡はイエス様お一人だけになる、再び自分で負って歩めるまでは。
8/19 エフェソ

1章7節

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
生まれ持ってきた性質は自分が一番、自分が大事、自分の願いどおりになるように自分の力を頼って努力していく、自分中心の生き方しかできません。神様がこの者を御手からお造りくださったのに主から目を離した生き方をしていた。そんな者が罪許されたのは御独り子イエス様が十字架に架かられたゆえ。感謝の言葉が見つからない。
8/20 エフェソ

2章13節

しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
イエス様を知る(受け入れる)までは体は生きていていても霊的には生きていない、死んだも同然の者でした。イエス様を知って絶望から希望の世界へと移されました。
道に迷いどこを歩いているか分からない者に、イエス様は光を当ててくださり道を示してくださったのです。毎日、朝も夜もイエス様はいつもそばに居てくださいます。
8/21 エフェソ

3章20節

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、
神様は私たちが願っている以上に、こちらが思いもつきもしない方法で最善を成してくださるお方。神さまの最前のご計画はどのようなものかすぐには分からない。現状
を見ていると祈りは聞かれるのだろうか、どうなっていくのかと思う時でも、主のなさることは必ず最善ということだけを信じて待つことが出来る。み言葉は真実です。
8/22 エフェソ

4章7節

しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
ひとりひとりに賜物が与えられています、賜物は「恵み」です。何かを自分の努力で積みあげて得たと言うのではなく神様の恵みによって生きる時に神様がそれぞれに備
えてくださっています。体の器官が違うように賜物はみな違います、いただいた賜物を神さまが用いてくださいますことは本当に喜びです。すべての人が愛されています。
8/23 エフェソ

5章8節

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
イエス様を知る前は絶望の闇の中を歩んでいましたが、自分の力では闇から抜け出せないと分かりイエス様にすがった時に希望の光に移されて顔を上げて歩めるようになりました。光の子にしていただけたのです。闇の中の生活を体験したからこそ今のイエス様が照らしてくださる光の日々を一人でも多くの方にお伝えしたいと祈ります。
8/24 エフェソ

6章6節

人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、
人が見ていると一生懸命働くけれど見ていなければさぼる、人が知らなければ何をしてもいい、ばれなければいい、思っていないのに褒めてみる等など裏表のある生き
方をしていても神様はすべてをご存じでいらっしゃる。神様に顔向けできない生活をしてはならない。どんな時もイエス様のしもべとして低くなって仕える者となれたら。
8/25 フィリピ

1章21節

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
牢屋に入れられいつ死刑にされるかわからない状況の中でパウロはこう言い切りました。地上で生きていることも死んで天に帰ることもすべて主の御手の中にある。生きている今もキリストと、死んだ後もキリストと共に、と。イエス様が自分の中で生きていてくださる幸いを思います、一粒の麦として主のご用をさせていただきたいです。
8/27 フィリピ

2章16節

命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることが
できるでしょう。
生まれてから今までのこと、すべてが1本の線で繋がります。色々な出来ごとの一つ一つ、色々な出会いの一つ一つがイエス様に出会うため、イエス様に頼るために必
要なことでした。すべてが決して無駄ではなかったこと、すべてが主のご計画の中にあったこと、イエス様がいつも共におられる、とお伝えするために走り続けたいです。
8/28 フィリピ

3章8節

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを
失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
どんなにすばらしい名声財産美貌を持っていたとしてもイエス様のすばらしさに比べれば価値を見出すことはできません。それらに永遠はありません、消えて行きます。
主を知り価値観が全く変わりました。見えるものではなく永遠の主にこそ目をとめます。主に従う人生を選ぶか、この世の常識の中で人を見て生きるかが分かれ道です。
8/29 フィリピ

4章6節

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
日々の暮らしの中では一つが落ち着いたとしてもまた次に、と思い煩いの波が起きてきます。自分の力では解決不可能と途方にくれて何でもお出来になる神様に助けを
求めた時に、思い煩いが主への祈りに代えられます。どんな時も神様は最後には自分の思いを越えた最善の結果へと導いてくださる主を信頼する信仰をいただけます。
8/30 コロサイ

1章13節 

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
主を知る前は、暗闇の中に希望も持てずにいましたが救いだされて主にある真の光の中に入れていただけました。罪の者だったけれどイエス様が身代わりになられ十字 架に架かられてこの者は罪を赦されました。自分の力ではできない、すべて神さまのみ業、恵みを頂戴するばかりです。朝も夕も主を称え主の福音をお伝えしたいです。
8/31 コロサイ

2章8節

人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、
キリストに従うものではありません。
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」どんなに口当たりの良い言葉、立派な知識や知恵に聞こえようともそこに神さまからのお知恵がなければ人
の知恵、この世の知識はむなしいだけ、振り回されるだけです。真の知恵は人からではなく神様を求めた時に神様から生きる知恵をいただける。主にお聞きいたします。

  

2011年9月

9/1 コロサイ

3章2節

上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
身の周りを見回す時、自分で手に入れたものは何一つないことに気づきます。自分の生命も育ってきた家族も今の家庭も何もかも神様からの預かりものです。天に帰る 時にはすべてを主にお返ししていくもの、自分の物は一つもありませんから。神様からの贈り物、決して失わない信仰だけを大切に持っていきます。主だけ仰ぎます。
9/2 コロサイ

4章5節

時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。
先に主に救われた者としてまだ主の救いに与っていない方、主を知らない方に主をお伝えしたいと願う者です。いつどのような言葉でどのように主をお伝えすればいいか神様にお知恵を頂き導いていただきながら、神様の御言葉を自分の振る舞い、生き方を通して証しできたら。説得ではなく論争ではなく神様のご愛の中で語りたいです。
9/3 Tテサロ
ニケ

1章6節

して、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
この世の常識では置かれている状況が良ければ喜び、悪くなれば不満や不安が生まれる。神様に出会い聖霊の働きによりいただく喜びはこの世からは受け取れない。条件抜きで喜べるのは神様が共に居てくださり起きてることすべてが神様のご計画の中のヒトコマだと信じそのままを受け止められるから。主からの喜びは消えません。
9/4 Tテサロ
ニケ2章3節
わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。
人に良く思われたい、名誉を得たい、お金を儲けたい等などという次元では全くない。神様を信じることで人生が変わる、決して失わないまことの幸いをいただけるという福音を伝えたい、絶望から希望への人生を!この思いだけで他にはありません。信じたら病気が治るなどの目先の口当たりのいい話はその場限りのごまかしだけ。
9/5 Tテサロニケ3章3節 このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。
苦難の中にいるといつまで続くのか解決はあるのかと悩み、なんとかここから逃れたいと自分の知恵で考え動き結局自分の力の限界を知ることになります。神様に頼るしか解決はないと気付き主に救いを求めた時、信仰をいただけます。その後も苦難は来ますがすべてが主から出ている、必ず最善となることと主を信頼しています。
9/6 Tテサロニケ4章7節 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
自分のような者が神様に救われたのは、しもべとして加えていただいたのは、聖なる生活をするためだと。自分ではとてもできない弱い者と知っています。たえず主に頼り祈り、聖霊によって神様にきよさをいただき聖なる生活へと導いていただきたいです。少しでも主からの聖なる香りが周りの方々に届けられるようただ主に頼ります。
9/7 Tテサロニケ5章18節 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
自分の周りの状況がどうであっても、たとえ悲しみや辛い中に置かれていてもどんなことにも感謝しなさいと主は望まれています。すべてのことを主が起されていて自分に必要だからここを通されてること、必ずすべてを最善に成してくださるお方が見守っていてくださる。主に信頼して信仰の道を歩む時、聖霊の支えにより感謝できます。
9/8 Uテサロ
ニケ1章5節
これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。
主の救いに与ったのちにも自分にとって悩みの日々がありました、裏切りや誤解や孤独や自分の力ではどうしようもないことなどの哀しみも。でもこのようなことはすべ
てイエス様がこの世で体験されてこられたことばかりと気付かされました。だからイエス様は弱い者の哀しみも分かってくださる!共に涙される。感謝にかえられます。
9/9 Uテサロ
ニケ2章15節
ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。
パウロたちが主から啓示を受けて与えられた福音が真理のすべてです。使徒に与えられた言葉や行ないを言い伝えとして守り受け継いでいくようにと言われています。どんなに時代が変わっても取り巻く環境が変わっても神様の教え、み言葉は初めから同じ、永遠に変わりません。教えられたままを大切に守り主をお伝えしていきたい。
9/10 Uテサロ
ニケ3章
6節
兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての
兄弟を避けなさい。
主の救いに与った者、自分も罪人のひとりです、教会は罪人の集まり。でも自分の犯した罪に気づいた時、神様に悔い改めをして赦しをいただきます、2度と同じ過ちを繰り返すまいと祈ります。自分の罪を認めず悔い改めもせず神を畏れない兄弟の罪は容認できない。「その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。」アーメン。
9/11 Tテモテ

1章13節

以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
神様を受け入れていなかった時、ほんとうに自己中心的な哀れでみじめな生き方をしていました。自分の力で頑張って生きている、人の世話にはなりたくない、同情はされたくない、弱みを見せまいと突っ張っていました。神様はこんな者を憐れんで下さりずうっと隣で待ち続け、頑固な放蕩娘が助けを求めた時に救いに入れて下さった。
9/12 Tテモテ

2章10節

むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。
女性としておしゃれに気づかうこともあるでしょうけど神様は内面をご覧になられるお方です。外側をきれいに飾りたてても心の中に愛がなければ砂漠のような空しさば
かりです。罪ある者です、神様を見上げて祈りつつ神さまのみ跡を歩む中で自分の内側を清めていただきイエス様の香りを漂わせる行いもできていくのではないかと。
9/13 Tテモテ

3章15節

行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。
大きな立派な教会堂でなくとも、小さな建物の教会であってもイエス様によって建てられているならば決して揺るぎません。教会は罪ある者の集まりですがイエス様が中心に居てくださり弱い者たちを呼び集められた場所です。神の家族の住む神の家、生ける神様が教会を備えてくださり、神の家族に加えていただき礼拝を守れます。
9/14 Tテモテ

4章8節

体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。
身体の健康を考えてトレーニングをしたり良いと言われる薬を飲んだり、長生きしようと健康に心を砕く。でもどんなに頑張ってみても肉体は朽ち肉体の死は誰も避けることができません。ですが誰でも神様から信仰を頂いて生きる時に一人ひとりが永遠の生命をいただけるのです。この世は一時的ですが天の御国は永遠の居場所です
9/15 Tテモテ

5章24節

ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。
罪に対処しなければいけない時にまだ明らかにされていないものもあります。すべての罪をすぐに見つけることはできないけど隠しきることも出来ない。神さまの御目
に隠せるものは何一つない、すべてお見通し。人は騙せても神さまは騙せません。罪を犯している自分の心を自分は知っている、神さまは悔い改めを待っています。
9/16 Tテモテ

6章8節

食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。
何も持たずに生まれてきて死んでいく時はどんなに地上の富を蓄えていても何一つ持っていくことはできません。イエス様は自分の家ではなく馬小屋でお生まれになられ住まいは持たれず「人の子には枕する所もない。」と。地上の住まいは神様にお借りしてる仮の宿です。天には神様が備えてくださってる永遠の住まいが待っています。
9/17 Uテモテ

1章9節

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。
この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、
自分たちの行ないではなく神のご計画にある恵みによって救いに入れていただきました。行いによるのだったらとても救いに預かれない者です。自分が生まれる前か
ら神の御手の中にあったと思います。思い返すとすべての出来事や人との出会いが一つの線になって今の信仰の生活、神様に繋がって見えてきます。感謝です。
9/18 Uテモテ

2章23節

愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります
言葉で人を説得しようと思っても、主をお伝えしたいと思っても、そこには難しいものがあります。言い争うのではなく負かすのでなく神様からのご愛を胸に優しい心で
へりくだり話していけたら。自分も前はみ信者だった、ここから主に救われたこと、初めの愛を忘れずに神様に伺って人に向き合いたい。結論は主の御手にあります。
9/19 Uテモテ

3章16節

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
聖書は神様が語ってくださってる言葉。神様に選ばれた人が聖霊によって導かれて書かされた神様からの世界に一つしかない貴重なメッセージです。人が犯した罪も
隠すことなく書かれ、悔い改め救いに預かったことも、イエス様の十字架のお苦しみや復活そして再び来られることも、書かれている一言一句すべて完全で真実です。
9/20 Uテモテ

4章2節

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
地震や災害、不況、政治不信などなど困難な生きにくい時代ですがどんな時もみ言葉を伝えて行きなさい、と。取り巻く状況を見る時に希望を持てない今、必要なのは
イエス様の十字架の愛と救いです。神さまのご愛が一人ひとりの中に灯される時に変わっていくことを信じます。先に救いに預かった者として神様をお伝えしたいです。
9/21 テトス

1章3節

神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。
イエス様は天に昇られた後にこの世に遣わされ聖霊が弟子たちに臨まれた。そして神様が定められたこの時、宣教が始まりました。パウロたちは神のしもべとして、神の奴隷としてこの者たちにイエス様を伝え続けてくれました。迫害にあい牢屋に投獄されても命の危険も恐れず神様だけを畏れて神様に従って歩まれた、自我を捨て。
9/22 テトス

2章14節

キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清める
ためだったのです。
神様を知る前は罪の奴隷、善悪を知らず自分の判断で動いていました。イエス様が十字架に架かりご自分の流された血の代わりに罪の者を買い取ってくださった。
自分は自分自身の物ではなく、イエス様のものとなりました。熱心によい行いが出来るように清めてくださいました、神様に喜ばれる者となりたいので主に祈ります。
9/23 テトス

3章9節

愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。
議論をふっかけて来られても、それは何かを知りたいと言う純粋な願いからではなくただ論争をしたいためという事があります。神様だけが人を変えることができます。
神様のことをいくら説明しようとしても伝えることは難しい、聖霊が働いて語ってくださり初めて伝わり受け入れられます。説得はできない、神様に助けを求めること。
9/24 フィレモン

1章21節

あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。
パウロは主にある兄弟としてフィレモンをどれほど信頼していたかが伝わります。言われたから頼まれたから命じられたからするのではなく、自分が願う以上のことを愛をもって応えてくれる。これはイエス様のお姿と重なります。「わたしが言う以上のこと」をしてくださる。神様のご愛を頂く者として、祈りつつ愛せる者となれたら。
9/25 へブライ

1章2節

この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
神様のすべてを相続された御独り子がこの者たちに今も語ってくださっています。愛をもって共に喜び共に涙してくださっています、共に歩いてくださっています。イエ
ス様はこの世に人として、仕える者として来て下さり、罪人のために十字架に架かられました。イエス様はまた来てくださいます、お約束は真実です、主よ来たりませ。
9/26 へブライ

2章18節

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
イエス様は人としてこられて罪こそありませんが、人と同じように肉体にある弱さを持っておられました。誰にもわかってもらえないのではと思うような苦しみもイエス
様は通ってこられてるのですべてを知っておられます。肉の苦しみだけでなく孤独や裏切り等の哀しみも経験されているのでご愛のまなざしで見守ってくださるのです。
9/27 へブライ

3章13節

あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。
今日という日だけを今のこの時だけを、神様からいただいています。昨日も明日も神様の時、自分で何一つ自由に動かすことはできません。いつ自分の地上での時が
終わるのか神さましかご存じない。神様にお与えいただいてる今日を大切に神様だけを見上げて、兄姉と共に祈りあい交わり合う中でみ言葉からも励まされます。
9/28 へブライ

4章15節

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
イエス様が地上にこられた時、罪は持っていませんが肉体の弱さは持ってこられました。だから、私たちの弱さが分からない方どころかすべてを知っておられる方です。何の遠慮もせずに「天のお父様」と呼びかけてそのまま天におられる神様と個人的にお話すれば神様は喜んでくださいます。待っておられます。弱いままでいいのです。
9/29 へブライ

5章2節

大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。
イエス様は人としての弱さをもって来られて多くの試みにあわれました。私たちが弱くなったり迷ったり間違いを犯したりしても思いやることがおできになり気づかせて
くださり悔い改めへと導いてくださる。主によって罪を気づかせていただく中で自分自身がいかに弱い存在であるかということを思います。許せる者にさせてください。
9/30 へブライ

6章15節

こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。
イエス様はお約束された「わたしのもとに迎える。」と。約束は必ず守ってくださると信じます、でもいつなのかは神さましか知らない。すぐなのか、待ち続けるのか。
苦しみが大きい時には早く助けてほしいと願い祈りますが待ち望む時もそれは自分にとって必要な歳月だったと後になって気づきます。希望を持って主を待ち続けます

  

011年10月

10/1 へブライ

7章27節

この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえは
ただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。
イエス様はただ一度すべての罪のために死なれて完全に罪を取り除き永遠の罪の赦しをお与え下さいました。イエス様が十字架上で罪の問題を終わりにしてくださった。そのままで受け入れられてるから天のお父様との親しい個人的な交わりをしていけるのです。イエス様がこの者の弱さもご存じで執り成してくださるので安心なのです。 
10/2 へブライ

8章11節

彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、
わたしを知るようになり、
新しい契約では罪がイエス様の血によって取り除かれ、神ご自身が御霊によって内に入ってきてくださいました。神様のみことばを教えてくださるのは聖霊ご自身です。
人が人に教えられない、伝えられない、でも聖霊が働いてくださる時に伝わります。すべての人がただキリストにあって歩むときに神様を知ることが出来ると言われる。
10/3 へブライ9章15節 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者
たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。
イエス様が十字架上で血を流して死んでくださったことで新しい契約が成立しました、遺言は人が死んで初めて有効となるのと同じように。イエス様の死により罪の者は
罪を赦されて咎を受けずに済むようになりました。決して失わない永遠の生命をいただくことになったのです。罪なきお方が身をもって愛と犠牲を教えてくださいました。
10/4 へブライ10章39節 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
滅ぶ者にならないために神様が備えてくださっている恵みと憐れみの道を信じて歩ませていただきます。神様を知ってから神様に背を向けては生きることはできません。
地上の生命は土に戻りますが神様がお与えくださる生命は永遠です、このいつまでも残る生命のお約束を信じます。主が来てくださるのを期待を持って待ち望んでます。
10/5 へブライ11章3節 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
希望としている神様は目に見えません。神様は何もないところから「光よ、あれ」というみ言葉により光を造られアダムとエバも造られました。見えるものは神さまの
からできたものばかりです。神様の御手によらないものはなにもありません。見えなくても神様のみ言葉はすべて「アーメン」と言えます。見えないけれど信じてます。
10/6 へブライ12章11節 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
神様は時に応じて鍛錬をさせてくださいます。神様から出たものと知らなかった時には悲しく苦しいものでした。解決方法は?なんとか逃れる道は?と自分の力を頼り自
分の知恵を出しがんばりました。神様は頑固な心を砕いてくださり主のみこころを知ることが出来てやっと御前に重荷を降ろせました。イエス様はいつも共に居られます。
10/7 へブライ13章5節 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」
と言われました。
主を受け入れていなかった時、自分の力で頑張ろうとしていた時、親亡きあと息子が路頭に迷ったらという不安が心を占めていました。貯金を残しておかねばと恐怖さえ起きました、現実は一生を保障してくれるほど貯められないけど。主を知り金銭ではなく真の救い主を信頼すればすべて解決することを知りました。み言葉は真実です。
10/8 ヤコブ

1章2節

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
試練は辛いもので自分の力では解決できない、自分の無力さを知り人も頼れないと追い込まれていきます。試練の中で神様にしか頼れないとわかり御前に降参します。神様に委ねた今、はっきり「試練も神様からのプレゼント」と言えます。試練があったから忍耐を学び、神様に触れた、ご愛を知った、絶望から希望への人生になった。
10/9 ヤコブ

2章1節

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
主はえこひいきをなさらないお方で経済力や学歴とかではなく心を見てくださる。この世の価値観とは逆の眼差しで弱い立場の人たちを愛し憐れんでくださるお方。何の
取り得もないこの者も救いに入れてくださった。自分は罪赦され愛されてるのだからどなたにも愛をもって接して行きたい。自分ではできにくいです、お支えください。
10/10 ヤコブ

3章8節

しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
自分の舌なのに制御することができない、どう頑張っても自分の力ではできない。舌から出た言葉を口に戻すこともできない。時には人生を台無しにすることも起きる。
舌で主を讃美し祈り、同じ舌で人を傷つける。舌から出てくる言葉は心にある思いが外に出るのです。地上に居る限りどこまでも罪の者、御前に祈ることしかできない。
10/11 ヤコブ

4章12節

律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。
たとえ兄弟に非があってもそのような非に対して神様がお裁きになります。人が裁くことではないと言われています。神様がなさることを平気で行なう者に神様は一体あ
なたは何者か?と問われます。恥ずかしく声も出ずひれ伏すだけです。罪ある者が罪ある者を裁けるわけがない、それは傲慢の罪です。主のみ心だけがなりますように
10/12 ヤコブ

5章6節

正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。
イエス様のお姿が重なります。人として来られて貧しい者と共に歩まれました。搾取され貧しく生きた人たちや病いの苦しみ、悲しみもご存知でした。イエス様は十字架
につけられて殺されましたが、まったく抵抗もなさいませんでした。神様に委ねて歩かれる姿から必要なことはただ一つ、富や名誉でなく「信仰」だと教えられました。
10/13 Tペテロ

1章14節

無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり
神様に出会う前、イエス様の十字架を知るまでは自分中心に自分勝手に我儘に過ごしていました。神様に生かされていると分かった時初めて生きることが出来ました。当たり前のことが当たり前ではなくすべて神様の恵みでした。古い自分は死に新しい生命をいただき生まれ変わり神の子にしていただけた。天の父に従う者でありたい。
10/14 Tペテロ

2章2節

生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
乳飲み子は何も疑いもせず純粋に乳だけを求めます。乳が欲しい時は人目もはばからず大声で泣いて訴えます。乳飲み子のように天のお父様の前に出て本音で泣き心をさらけ出し慕い求めて行く時、霊の糧を頂けます。みじめな姿のままで助けを求めた時、主は救いに入れてくださった。いつも御前に飾ることなく正直に祈りたい。
10/15 Tペテロ

3章4節

むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値が
あるのです。
神様が一人ひとりをお造りになり地上に送り出してくださいました。美人ではないしスタイルも良くないしお洒落にも関係なく自然体で過ごしてきて、歳を重ね白髪やシ
ミシワが目立つようになりました。肉体は衰えてきても霊はいつも主だけを慕い、み言葉をいただいて初々しくありたいと願っています。神様に祈りながら謙遜に、と。
10/16 Tペテロ

4章10節

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
すべての人にそれぞれ違った賜物を下さっておられます、自分が気づくか気づかないかは別として。自分が努力して得たとか自分の生まれつきの能力ではなく神さまの恵みによるもの、神様の一人ひとりへのご愛です。賜物を一滴たりも無駄にせずイエス様のご愛を一人でも多くの方にお伝えしていけたら。仕えるものとなりたいです。
10/17 Tペテロ

5章10節

しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
地上で生きる今、信仰をいただいた後もいつも主からの試練を頂戴している。弱い者ゆえ試練があるからこそ主を見上げ主に祈り主を頼る、自分の力では何ひとつ
出来ないと知らされいつも主にたち帰ります。試練も神さまの御手の中、すべてご支配の中でのこと。地上での生活は短い、自我を砕かれ清められ天の狭き門へ、と。
10/18 Uペテロ

1章16節

わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの
威光を目撃したのです。
イエス様の十字架上での死を見た後、実際に復活なさったイエス様に会ったこと、これは誰がなんと言おうとペテロ自身がまぎれもなく体験した事実なのです。自分は確かに見たのだと真実を訴えずにいられないのです。同じく弟子のヨハネやヤコブも共に目撃しています。聖霊が働いてくださらなければ信じられないのかもしれません。
10/19 Uペテロ

2章21節

義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。
知らずに行なったことはまだ弁解の余地もあるけど知っていて行なうのならばその罰は重い、確信犯だからです。罪を犯していても自分は救われていると安心できる聖
書のみ言葉はどこにもない、自分に都合良く解釈するのは詭弁、罪の上塗りです。罪を犯してもへりくだり真剣に悔い改めれば主はお赦しくださる。主を畏れ祈ります。
10/20 Uペテロ

3章9節

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
神様はご愛のお方です、独り子を十字架に架けてまでも世を愛され罪人たちが一人も滅びないように悔い改めに導かれるように、耐えて待っていてくださいます。たとえ二千年経っていようとも神様の約束が無効になったのではなく神様のご忍耐の期間が長くなっているだけなのです。一人でも多くの人が救われるように福音を伝えたい。
10/21 Tヨハネ

1章7節

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
イエスさまが流された血は日々の生活にて絶えず与えられています。イエス様の御血によって清められているので神様と交わることができます。自分の行ないで清め
られるのではないのです、ただ神様の憐れみによって。愚かな者のどんな罪をも清めてくださるので、光の中を顔を上げて歩むことが出来ます、主のみ跡を歩めます。
10/22 Tヨハネ

2章2節

この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
全く罪のないイエス様がいけにえとして架かってくださった十字架の犠牲のもとに、罪赦された今の自分がいます。イエス様がお受けになった傷によって癒されました。
ですが、どこまでいっても罪の繰り返しでイエス様を哀しませてしまいます。肉をもつ身は完全にはなれません。こんな者にもイエス様はいつも共にいてくださいます。
10/23 Tヨハネ

3章3節

御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
イエス様は罪のない清いお方、このお方しか罪の者を清くすることはできません。救いに与った後も自分の弱さゆえ罪を犯してしまいますがイエス様により罪赦され
清められると約束されている、自分の努力ではできない。主のみ前に正直に自分の弱さを打ち明け、また気づかない罪には光を当てていただき悔い改める者でありたい
10/24 Tヨハネ

4章8節

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
神様は私たちを愛して下さり神様は愛という動機によってすべてのみ業を行なわれています。地上を生きる時に思いがけない哀しみや苦しみの道も通りますが神様は
その人に必要だからくださると後になってわかります。深いところにある神様の愛、ここがすべてです。神様のなさることに無駄は一つもない、愛の土台の上にあります。
10/25 Tヨハネ

5章20節

わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内に
いるのですこの方こそ、真実の神、永遠の命です。
自分自身の知恵や力では理解できませんがイエス様ご自身が地上に来られ創造主である神様を知ることが出来るようにしてくださいました。この方こそがまことの神であり永遠の生命であるという決して変わらぬ動かぬ永遠の真実です。イエス様を離れたらすべてが無に等しいです。すべてはこの方にありもったいないほどの恵みです。
10/26 Uヨハネ

1章10節

この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。
地上では数えきれないほどの宗教が生まれています。我が家では拝めば治るという勧誘を何度受けたかわからない。集団で来られたり友人を装って来られたことも
ありました。真実は一つ、イエスさまお一人だけを拝します。偶像崇拝に関わらない知恵を神様からいただき守られています。毅然とした態度をとれることを感謝です。
10/27 Vヨハネ

1章11節

愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。
悪を行っている人は神様を知らない、神様と交わりをもたない人。だから神様を畏れることもなく悪を働けるのです。神様が反面教師として教えてくださっていることを
思います。自分を省みていつも主に光を当てていただき全能の神様を畏れて歩みたいです。聖霊に助けられながら、神様に喜ばれる善い行いをさせていただきたい。
10/28 ユダ

1章20節

しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。
地上での生活は心揺るがす出来事が起きますがどんな時も決して揺るがないイエス様にしっかり繋がって信仰生活を歩みたいです。自分の力では乗り越えられないと
思う時にもイエス様に支えていただき聖霊に導かれて祈っていけば道を示され迷わないことを体験させていただいています。イエス様なしには生きることはできない。
10/29 黙示録 

1章8節

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
宇宙を創られた神様は今もおられます。神様は人生を歩む時いつも先を歩いて迷わぬようにお声をかけてくださる、聖霊により耳が開かれた時にみ声が聞こえる。
神様は生まれる前から見ておられ地上を去る時には天の住まいへ案内してくださるお方。一人でも多くの方に神様のみ声が届きますように。すべては御手の中に有り。
10/30 黙示録 

2章5節

だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの
燭台をその場所から取りのけてしまおう。
いつも喜んでいなさいと言われています、何事もない時だけでなくいつもと。主を見上げていても問題が起きると祈りつつも思い煩ってしまう者です。イエス様は呼びか
けてくださいます、主に頼れと。はっと気付き主に立ち帰れます、何もできやしない者だと。主の憐れみによっていつも戻され守られご愛により燭台も置かれています。
10/31 黙示録 

3章20節

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、
わたしと共に食事をするであろう。
自分の力で神様の所へ行くのではなくすでにイエス様ご自身が戸の外で呼びかけてくださってる。戸を開けさえすれば入って来られて共に食事し交わりの時を持てる。
救いの鍵は一人一人の手の中に渡されてる。声も出せないほどの驚きと感謝と喜び、あまりに畏れ多く鳥肌が立ちます。どうか一人でも多くの方が戸を開けますように。

  

2011年11月

11/1 黙示録 

4章1節

その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ 
上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」
天国への門が開かれていてヨハネは主の招きに恐れもなく素直にその御声に従いました。ヨハネにこれから先のことを見せると言われます。天の狭き門にいつか招いて
いただくまでに自我を砕かれスリムになって清められて、と身の引き締まる思いです。主は何を語ってくださるのか聖霊によりみ言葉を通して聞かせていただけます。
11/2 黙示録 

5章9節

そして、彼らは新しい歌をうたった。「あなたは、巻物を受け取り、/その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、/あらゆる種族と言葉の違う民、/あらゆる民族と国民の中から、/御自分の血で、神のために人々を贖われ、
罪人たちのために十字架に架かられ復活された小羊イエス様への讃美の歌が歌われました。ご自分の生命に代えてまでこの世の罪を買い取ってくださった。これ以上
のご愛はありません、誰にもできません、ただ主を畏れます。イエス様は再び来てくださると約束されています、約束は真実です。多くの方に主の御声が届きますように。
11/3 黙示録 

6章17節

神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。
イエス様が六つ目の封印を開いた時に神様と小羊イエス様の裁きの日が来ます。十字架に架かられたイエス様の御前に自分の罪を悔い改めて清められる者は赦されま
す。逃れ場はイエス様のもと以外にはありません。救われる道は備えられているのです。イエス様を信じて十字架のみ翼の影に身をよせてほしいです、時は迫っています。
11/4 黙示録 

7章17節

玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」
イエス様は羊飼いです、昼も夜も悪いものから守り、渇くことのない命の泉に連れて行ってくださいます。神様は地上での苦労や哀しみの涙はすべて拭いとってくださる。
天の御国に帰れば二度と苦しみや悲しみからも解放されます。今は見えなくても神様が言っておられるゆえすべてが真実です。地上は仮の宿、永遠の住まいに希望が。
11/5 黙示録 

8章13節

また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」
イエス様はヨハネに世の終わりには厳しい災いが来ることを告げられている。神様が創られた地球を人間が手を加え過ぎて自然破壊していきノアの箱舟から出た動物達
の居場所も危うくなっている今の時代を思います。すべての人が悔い改めに導かれることを望まれている神様の警告に耳を傾けて、裁かれる前に悔い改められますよう。
11/6 黙示録 

9章20節

これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。
災いから逃れた人々は悔い改める事をしなかった。自分たちが作った偶像、自分と同じように朽ちていく物に頼りそれを神に見立てて礼拝していた。ただの物体を相手に
自分勝手な自分に都合のよい願い事をしても空しいだけです。神様は自分の召使いではないのです、神様のご計画だけが成ります。悔い改めれば赦してくださいます。
11/7 黙示録 

10章11節

すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」
預言しなければならないというご命令は辛く厳しく勇気のいることです。人が聞きにくいことでも真っ直ぐそのままを伝えなければなりません、時には命がけの孤独な立
場です。先に救いに与った者としてこの者もみ言葉を伝えて行けたらと願っています。悔い改めは決して楽ではなく痛みを伴うものですが人を恐れず主を畏れ祈りつつ。
11/8 黙示録 

11章17節

こう言った。「今おられ、かつておられた方、/全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。
第七の天使がラッパを吹いた時に神様が永遠に支配なさる神の国が完成します。地上での生活で辛い時、悲しい時、さびしい時でも希望を失わないのは神様に頼れる
からです。無力な弱い自分だけど全能の神様がついてくださる、決して見捨てないと言ってくださる。愛してくださる神様の御前にひれ伏し礼拝をお捧げし感謝だけです。
11/9 黙示録12章

5節

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。
「お前はわたしの子、、、お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」詩編2章にも書かれています。この男の子は、生まれた後にヘロデ王の赤子虐殺から
逃れ人々に福音を伝え十字架に架かって三日目に甦り神の御座に引き上げられたイエス様です。預言の通りに時が動いています、イエス様が再び来られる日は近い。
11/10 黙示録13章

10節

捕らわれるべき者は、/捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、/剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。
マタイ書でイエス様は「剣をもとに納めなさい。」と言われています。復讐をしてはならない、裁きは神様がなさると。苦しみの中に置かれている時、忍耐が要ります。
耐えられるように支えてくださるのは聖霊のお支えがあってこそです。信仰によって成すことが出来ます。耐えた先にはイエス様の再臨が待っています、ここに希望が。
11/11 黙示録14章

3節

彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。
地上での讃美も祈りも天の神様のもとにそのまま届いています。イエス様も神様の右に座して聞いてくださっています。額に小羊の名と父の名が記されてる人たちは新し
い讃美の歌を歌ったとあります。息子も地上では声を出しての讃美は出来なかったけど御国では大きな声で讃美の仲間入りです。共に讃美できるのが今から楽しみです。
    ちょっとお休みをいただきます。12月にはまた始められると思いますのでよろしくお願いいたします。皆さまの上に神様の祝福をお祈りしております。

  

2011年12月

12/3 黙示録
15章

4節

主よ、だれがあなたの名を畏れず、/たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、/あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、/明らかになったからです。」
アーメン、この一言だけ、これですべてです。主イエス様が再び来られた時にすべての人が主の御名をほめたたえるでしょう。どこの国の人もすべての人が、です。主を
知った時に主への畏れと主への全き信頼の中で言葉も見つからず御前にひれ伏すだけでした。クリスマスは罪の購いのために生まれてくださったイエス様の誕生日です
12/4 黙示録

16章21節

一タラントンの重さほどの大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々は雹の害を受けたので、神を冒涜した。その被害があまりにも甚だしかったからである。
予想もしなかった苦しみに出会った時「神はいないのか?」「なぜ自分に?」と希望を失った過去がありました。自分の力ではどうしようもない、助け手は全能の神だけ
と神様に頼り祈る中で十字架に行きつき救いに与りました。すべての出来事は神から出ている、人を苦しめるためにではなく一人でも多くの人を救いに入れたいゆえに。
12/5 黙示録

17章2節

地上の王たちは、この女とみだらなことをし、地上に住む人々は、この女のみだらな行いのぶどう酒に酔ってしまった。」
人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。神様が出会わせてくださった相手を裏切ると言うふたごころを持つ行為はイエス様を裏切ることと同じ。イエス
様以外の偶像を礼拝しあがめ仕えるのと同じ根っこです。洗礼を受けることはイエス様の花嫁になること、そう決心して受けました。弱い者ですが信仰は揺るぎません。
12/6 黙示録

18章19節

彼らは頭に塵をかぶり、泣き悲しんで、こう叫んだ。「不幸だ、不幸だ、大いなる都、/海に船を持つ者が皆、/この都で、高価な物を取り引きし、/豊かに
なったのに、/ひとときの間に荒れ果ててしまうとは。」
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」この世のものは過ぎ去ります。たとえ地上の富を失っても永遠なる神に繋がっていれば主からの決して消えぬ平安
と喜びがいただけます。見えるものに心騒がせて執着するのではなく神様を見あげ、祈りつつ地上の生活を歩む者でありたいです。主は最善を成してくださるお方です。
12/7 黙示録

19章10節

わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの
兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」
救い主イエス様だけが拝されるべきお方です。天使だけでなく直接導いてくれる宣教師など主に用いられている人をまるで神様の代理?のように勘違いしておっかけをし
てしまった過去がありました。主の憐れみにより目を開かれてイエス様の十字架に気づかせていただき真の信仰を頂けました。み言葉はイエス様ご自身を証ししてます。
12/8 黙示録

20章12節

わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
「いのちの書」は永遠のいのちに入る人たちのための書物、キリストの救いに与った人々の名前が記されています。イエス様が来られる前に今なら間に合います、イエス
様を信じて永遠の生命をいただいてほしいです。サタンは一瞬の隙をついて罪に誘います、巧妙なので油断はできない、いつも主から目を離さず信仰の道を全うしたい。
12/9 黙示録

21章4節

彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
死は生を受けたものすべてに必ず来ます。愛する人との別れの涙や苦しみの涙等などから逃れることはできません。イエスさまが再臨される時、死は滅び死から勝利しま
す。天の御国では死も涙もない永遠の住まいを約束されています。ここに決して失うことのない主からの希望を頂けます、待ち望めます。地上の涙は地上で終わります。
12/10 黙示録

22章21節

主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
このみ言葉は黙示録だけでなく聖書全体への最後の言葉です。聖書は神様からの人々へのご愛、恵みが書かれています。世を愛され独り子をお与えくださったほどに。
イエスさまが戻ってきてくださることも人間が何かをしたからではなく、一方的な主の恵みです。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン。主の時は近づいています、感謝。
黙示録が終わり、この1年は新約聖書でまとまりました。次回からは初めに戻り旧約聖書の「創世記」からみ言葉をいただきたいです、神様に感謝しつつ。アーメン。