
警察と軍隊 徴兵 どろぼう
ベネズエラ料理 コーヒーショップ ベネズエラ医療事情
エンジェルの滝
警察と軍隊 文頭へ戻る
この国の多くの役人は金で動く。われわれ庶民に縁の深い警察というと、日本同様、駐車違反や交通違反を取りしまる、交通警察である。
スピード違反の取り締まりは、パトカーに速度計測器がついていないため行われない、それどころか一般道には速度制限の交通標識がないのである。
あるのは高速道路のそれも最低制限速度の標識くらいである。
取り締まりにあうのは、駐車違反や、信号違反であるが、そもそもこの国では、信号機の青は全速度で行け、黄色は速度を落とさずに行け、赤は左右に注意して行け、というのが普通であるから、信号が青だからといって、油断できない。
信号機はあくまでも予備的なものであり、最終的には運転者の注意が必要なのである。
左折、右折のウインカーもあるがそれよりも優先するのが、運転者または助手席から腕を出してする合図が優先するのである。
ある日曜日の午後、家族で出かけて、とある交差点で警官につかまった。
「何かしましたか?」
「信号無視だ」
「どこに信号機がありますか」
「あそこにある」 なんと道路を挟んで30m先に信号機が見える。
「あんなところに信号機があったって、見えないじゃないですか。」しばらく押し問答をしながら信号機を見ていると、なんと赤の電球が切れている。
強気になった私は「信号機の電球が切れているじゃないか。君のすることはここで取り締まりをするのではなく、交通整理をするべきじゃないのか。」
「文句があるなら、本署で聴こう」
「よし、分かった」相手の魂胆はわかっている、外国人だと見て、いくらかの金をせしめるつもりだ。
こうなったら出る所に出て、決着をつけてやろうと思い、警官を車に載せて出発する。
しばらく走ると、一番下の子が泣き出した。
「腹の空いた子がいるのに、理不尽な事をするとろくな事にならんぞ。」 というと、警官はとうとうあきらめ、元の所に戻してくれという。どうやらこちらの勝ちらしい。
2回目は、ロステッケス工場からの帰路、信号無視でつかまった。このときは明らかに私が悪い。
「信号無視だ。車を置いて帰れ」そんな事をしたら車が盗まれてしまう。
「交通違反の切符を切るべきじゃないのか。」
「本官の命令だ」魂胆は分かっているが、何とかうまく交渉しなくてはならない。
私は外国人だから、この場合100ボリバルほど払えばいいのだろうが、たまたま財布には20ボリバルしか入ってない。
さらに悪いことに、ぬかるみの空き地に車を止めた時ズボンを破いてしまった。
賄賂を渡すなんて言えないので
「今交通違反の罰金を払わせてくれ」
「いくら出す」
「20ボリバルだ」
「100ボリバル出せ」
「このズボンを見ろ、こんな格好じゃ帰れない。しかも20ボリバルしかない。」と財布を見せながら言うと、仕方なく20ボリバルを取って、帰してくれた.
この国じゃ交通違反の切符なんて役に立たない。
罰金の支払いがルール化されていないから、いくら切符を切られても、罰金の支払請求が来ない。そこでこのような問答と金のやり取りになるのだ。
警官とはこの程度の付き合いしかなかったが、軍隊、特に一般人に関係が深いのがグアルデイアナシオナルという国家警備隊だ。
これは陸海空の3軍とは組織が異なり、港、空港、道路、国境などの監視をしている。
カラカスを離れて地方に行くときは、アルカバラという関所が随所にあり、車を止めてセドウラを提示し検問を受けなければならない。
冷戦時代の当時はドミノ理論の影響もあって、南米諸国はキューバに大きな警戒心を持っていた。数は少ないながらゲリラも山中にいる。
ドゴール大統領暗殺未遂で有名な、現在フランスに服役中のカルロスはカラカスの出身だ。
F工業の従業員にも一名ゲリラがいたらしく、警察が調べに来た時は退職して行方をくらました後だった。
彼ら警備隊の隊員は警官よりは規律が正しく、賄賂などを出すと危ないことになる。
しかしほぼ全ての公務員は友人になって損はなく、コネがあると色んな便宜を図ってくれる。
私も空港の職員と仲良くなり、たびたび入国カウンターの中まで入って行って、日本からの客を出迎え、通関の手伝いをした。

現場でのある日の朝
「アステリオ! ガルシアはまだ来ないのか」
「今朝、シレンシオで兵隊狩りをしていたから、捕まったのかもしれない」
「兵役証明書は持っていなかったのか」
「彼はまだ兵役に行ってないから、捕まったのならもう駄目だろう。」
この国は、大学生を除いて国民皆兵である。しかし、戸籍が十分管理されていないこと、また住所もランチョの中だとあってないようなものだから、ハガキなどで連絡できない。
そこで、街中の人通りが多いところに囚人護送車みたいなのを止めて、片端から若者を捕まえる。
兵役済みのものや学生証を持っていないと、強制連行され家族にもしばらく連絡が取れない。
もちろん勤め先の迷惑なんて知ったことじゃないのだ。
この国の軍隊は戦争を知らない。唯一役に立つのは、クーデターの時だ。
他の南米諸国同様、1964年までずっとクーデターで政府が変わっていた。
近年はつい最近まで民主的な選挙によって大統領が決まっていたが、軍人出の現大統領のチャベスは前政府時代、クーデターを起こし不成功であった為一時刑務所に入っていた。
その後現政府の大統領候補に出て当選したものの、一部の軍の反感を買い、今度は自分がクーデターにあったのは今年(2002年)の事である。
幸い今回も成功せずにチャベス派の軍隊に救われ、現職に戻る事ができた。
私が滞在していた、1969年から1979年は平和な時期であったが、それでも2度ほど口コミ情報として
「何か起こるらしい、食料などを確保しておいたほうが良い」と耳打ちされた事があるが、幸い何も起こらなかった。
それよりも危機感が高まったのは、日本赤軍のダッカ襲撃事件のときである。
このときは大使館を通じて警戒情報の連絡があり、緊張した数日であったが幸い何事もおこらずに済んだ。
この国にはユダヤ人も多く、日本人に対する報復を警戒しての事であった。
赴任一年目、エルコンデの現場にいた私は、作業終了後手を洗ってしばらくして財布を手洗い場に忘れたことに気付いた。
しまったと思い、手洗い場に戻ると一瞬の間に消えている。
お金は少ししか入っていなかったが、セドゥラは再発行してもらうのが大変だ。
翌日皆に話をすると、それはマウリシオの仕業だと教えてくれる。
マウリシオはピントサリーナスの現場でいろいろと悪さをした男だ。
現場を見ていないのだからどうする事も出来ず、あきらめることになる。
次はマラカイボでアパートを借りて早々、掃除や洗濯の為に中田さんが町で一人の女性を見つけてきた。
私は当時まだ銀行口座を持っておらず、現金を隠して持っていたのだが、一週間ほどたった頃、部屋に戻ると一階にあるアパートの部屋の窓ガラスが全部外されている。
やられたと思い、金の隠し場所を見ると全財産の2,000ボリバルが全て無い。
中田さんに話すと、女中の仕業に違いないと言い、彼女を問い詰めるとはっきりとは言わないがそうらしいということになった。
金は返ってこないが、事務所には会社の金もあることから、止む無く彼女は解雇する。
一事が万事こんな事の連続で、安全ボケした日本の感覚を痛い代償を払いながら学習する。
もちろん翌日銀行に連れて行ってもらい、残り少ない現金を全て預金した事は言うまでも無い。
マラカイボは貧しい人が多いせいか、カラカスよりも盗難が多い。
現場の電線類や倉庫の中に保管している物まで、鉄格子から手を突っ込んで持っていかれる。
作業者に渡した安全ベルトは翌日には市場で売られている始末。
しかし、この国には銃があふれ、失業者も多いが、やくざやギャング組織は無い。
悪人が集団化する時間を与えず、警察が殺してしまうからだ。
そして又警察が危険なのである。
ある宝石店が強盗に入られ、警察が来て現場検証を済ませ帰った後は、盗難にあった以上の物が無くなっていると言う事だ。
単なる盗難くらいでは捜査もしないので、警察に届けるのも保険救済の為の、形式的なものにとどまる。
後年、私は車を盗られた。
前夜アパートの駐車場が一杯だったので、近くの路上に駐車したのだ。
もちろん、アラームは取り付けてあったのだが、翌朝家族と海に行こうと準備をして車の所に行くと車が無い。
仕方なく警察に行き、盗難届を出しておいたのだが、もちろん車が見つかるとは期待していなかった。
ところがなんと半年後に車が見つかったと言ってきたのだ。
早速指定された盗難車の置き場に行き、引き取る手続きをすると、半年分の駐車料として3,000ボリバルを払えと言う。
書類を良く見ると、なんと車は盗られた二日後には見つかっていたのだ。
所有者に連絡するのに半年かかったわけであるから、私の責任ではないと抗議するが聞き入れてもらえない。
車はすでに長期間使用しており、別の車を買った後でもあるので、3,000ボリバルは払わずに放棄した。
ほとんどの盗難車は隣国のコロンビアに持っていくらしいが、私の車はその価値が無かったらしい。
妻もカラカス到着後数日して災難に会う。
見知らぬ女が訪ねて来て、不用心にドアを開けたところ、女はアパートの中に入ってきた。
もちろん言葉も解らない妻は、どうしてよいか解らずたたずんでいると、女は自分の下着を洗濯し始めた。
びっくりした妻は、中田さんの奥さんに電話して、女に代わってもらい、
「すぐにアパートから出ないと警察を呼ぶ」と言ったところやっと女は出て行った。
このケースは実害が無くてよかったもののそれから一年後、少しスペイン語がわかりだした頃に、私の勤めている会社の社員のような雰囲気の男が来た。
私の使いと勘違いした妻が、格子戸を空けたところ、男は500ボリバル札を両替してくれと言う。
妻が100ボリバル札5枚を渡すと、「x ☆ △ x」と言いながら出て行った。
もちろんそれ以来いまだに500ボリバル札とその男は現れない。
この国は人種のルツボみたいなところだから、ほぼどこの国の料理もある。ベネズエラ特有の料理を紹介しよう。
アレーパ
乾燥したトウモロコシの粉を精製したものを水で練り、餅のように丸めたものをオーブンで焼くか又は油で揚げたものである。
これを二つに切割り、中を少しくりぬいて肉、魚、チーズなどを挟んで食べるのである。
街中にはアレペーラと呼ぶこのサンドイッチ屋がたくさんあり、ガラスケースの中には十数種類の具が並んでいて、当時1個80円位で売っていた。
料理を注文すると、アレーパかパンがカゴに入って出てくる。
もちろん小麦粉で作ったパンもフランスパン様のものが1個10円程で売っている。
しかしベネズエラ人に言わせると、日本人が米飯にこだわるように、アレーパでないと腹の持ちが悪いらしい。
日本に帰ってからこの話をすると、親戚の者がトウモロコシを粉に挽いて送ってくれた。
さっそくアレーパを作ってみたが、同じ物が出来なかったので精製方法にコツがあるのであろう。
同じような食べ物はコロンビアにもあるが、色も舌触りも異なる。
カチャパ
アレーパが乾燥したトウモロコシの粉を使うのに対して、カチャパは新鮮なトウモロコシを砕いて鉄板の上で焼いたものである。
具の入ってないお好み焼きやホットケーキのトウモロコシ版であり、バターやチーズを乗せて食べる。
新鮮なトウモロコシの甘い味がする。
オルネアード
普通のバナナより3倍くらい大きい、プラタノという料理用バナナの皮をむきオーブンで焼くと、ものすごく甘いバナナ焼きができる。
これに塩味の効いたホワイトチーズをつけて食べると、甘みと塩味が調和した料理(お菓子)となる。
他国の料理でやはりバナナを揚げたり、テンプラにするが、バナナは熱を加えると甘さが増す物らしい。
モンドンゴ
牛の胃袋のハチノスやミノをイモ、ピーマン、ニンニクなどと煮込んだスープ。
通になるとこれにご飯やアボガドを入れて食べる。
スープというには重い料理で、食後は眠気がさすと言う。
我が家はこれが大好物でレストランになべをもって買いに行っていた。
米料理
普通米飯は料理の付けあわせとして出る。料理の付け合せには米飯のほかにフライドポテト、マッシュポテト、野菜サラダの四つの中から選ぶのが普通である。
米はもちろん日本米ではなく、塩と油、ニンニクを入れて炊く。
米料理としては、有名なパエージャや鶏肉飯(アロースコンポージョ)、豚肉飯(アロースコンコチーノ)などがある。
白米として食べるときは、圧力鍋で炊くと日本人好みの粘りのある仕上がりとなる。
パベジョンクリオージョ
前記の米飯、バナナ焼きとカラホータという黒豆を煮た物、それにカルネメチャーダという筋の多い牛肉を茹でて指で細かく割いて味付けしたものを一皿に盛ったもの。
友人に言わせると奴隷の料理であったそうだが、ベネズエラ料理の集大成みたいな一皿である。
パリージャ
この国では事あるごとにパリージャという焼肉をする。
炭火に網をおき、厚く切った牛肉を焼く。
牛肉以外に豚肉、ソーセージ、チンチュリアという腸の内容物がそのまま入ったものを三つ編みにしたもの、モルシージャという腸の血詰めなども焼いて食べる。
主に山や海にいってするが、裕福な家庭では庭に専用の炉を作っている。
このとき肉と一緒にアジャーカというアレーパの材料をとうもろこしの葉でくるんで茹でた物やジュカという芋(タロイモ)を茹でた物を食べる。
フルーツジュース
南国のこの国には、日本では見られない果物がたくさんある。
ただし、寒い地方の果物であるりんごやチェリーなど輸入品は価格が高い。
オレンジ、バナナ、スイカ、メロン、パイナップル、椰子、マンゴ、グアナバナ、マモ等安い果物が沢山ある。
町中のレストランや、街角ではフルーツジュースを目の前で作ってくれ、価格も80円くらいと安い。
オレンジジュースはもっともポピュラーでパック入りのものもスーパー等で購入できるが、生ジュースが主流である。

アレーパ パベジョンクリオージョ
コーヒーショップ 文頭へ戻る
コーヒーで有名なブラジルやコロンビアに囲まれたベネズエラはコーヒーがうまく安い国である。
人々はコーヒーショップの一杯20円のミニカップを一日に何倍も飲む。
コロンビアやブラジルでは布でこしたコーヒーが主流であったが、ベネズエラではエスプレッソである。
豆はエスプレッソ用に深煎りしたものしかない。
飲み方も
ネーグロコルト;
(短いブラック)ミニカップのそこに1cmくらいしか抽出しない強いコーヒー-。
ネーグロラルゴ;
(長いブラック)カップ一杯抽出するがそれでもアメリカンより強い。
マロン;
(茶色)ブラックコーヒーに泡立てたミルクを少し加えたもの。
カフェコンレーチェ;
いわゆるカフェオレで、ブラックコーヒーに泡立てたミルクをたくさん加えたもの。
家庭でも、熱湯で抽出する小型のエスプレッソの器具がある。
これらが代表的なベネズエラのコーヒーであるが、ある日アラビア人の家に招かれアラビアコーヒーをご馳走になった。
アラビアコーヒーは、粉を直接カップに入れ熱湯を注ぐもので、出されたコーヒーはカップの底にコーヒーの粉が沈殿している。
飲む時は粉をよく沈殿させてから飲まないと口の中がざらざらしてくる。
さて、コーヒーと言えばコロンビアとブラジルが有名である。
コロンビアの首都ボゴタのエルドラード空港には、無料でコーヒーを飲ませてくれるカウンターがあり、1mほどの大きなタンクに袋にたっぷりのコーヒーを入れ時間をかけて抽出している。
もちろん、町の中にもたくさんのコーヒーショップがあり、早朝の出勤前とか、日中は軽食にパンを食べながら飲んでいる。
この国に行ったときの土産はもちろんコーヒーが良い。1kgくらいの真空パックしてコチコチになったコーヒーが安く手に入る。
一方、南の隣国のブラジルもコーヒー大国であり、農産物の豊富な国である。
コーヒーの飲み方もこの国独自のものであり、抽出方法はコロンビア同様袋に入れたコーヒー豆をお湯の中にいれて抽出するのであるが、飲み方が変わっている。
まずコーヒーをカップに入れ、精製していない赤みを帯びた砂糖をこのカップに何杯も入れる。
ただし、かき回していけない、その上澄みを飲むのである。
飲み終わるとカップの底に大量の砂糖が沈殿している。
砂糖からアルコールを作り、自動車の燃料にするほど砂糖が豊富な国のコーヒーの飲み方である。
ベネズエラ医療事情
この国では基本的に医療費は無料である。
ただし医師にコネがある場合や、優秀な医者に当たった場合を除いてその結果は保証できない。
我が家では私も家内も健康で歯科医を除いてこれと言う病にかかったことが無かったが産科と小児科には度々御世話になった。
この国の開業医はほぼ全てのケースが、自分で医院を経営するのではなく、病院の一室を借りて診察し高価な医療器械は病院の設備を使う。
つまり医師一人一人が独立した経営を病院内で行い、医療器械や検査、手術室とそれに付随する助手などは病院の職員や設備を使うわけだ。
長男の出産は外国企業の駐在員としては無料の病院を利用するのがはばかられる為、近所のクリニカカウリマレという産科の病院にかかることにした。
この時点で家内はまだベネズエラに来て1年も経っておらず、スペイン語も買い物ができる程度のレベルであった。
かといって家庭より仕事優先の薄情な私は、毎回病院に付き合うほどやさしい亭主ではない。
結局初診の時一度立ち会っただけで、あとは家内が一人で辞書片手に病院通いをする事になる。
さて家内は大変な苦労をして長男を出産してからもまだ苦労が続く。
近くに身内がいないために子育てのノウハウを聞くことが出来ないのである。
月に一度小児科の医者に通い、相談しながら子育てをするのである。
長男が生まれてから数ヶ月経った頃、歯茎の側面に白い塊が出来た。
小児科に連れて行くと歯科医に見せるように言われたので、近所の歯科医に行くと、レントゲンを撮った後なにやら不思議そうな顔をしている。
「セニョール梅木 もしかして貴方達は広島か長崎の出身ではありませんか?」
「いいえ 違います。」と答えながら私と家内はどっと不安になる。
「このような症状は初めてのケースです。参考のため写真を撮らせてください。明日私の友人の歯科医も呼んで協力してもらい、どうするか決めましょう。明日もう一度来てください。」
大変だ。難病奇病の類だろう。
不安の余り中田さんの奥さんに電話すると、国立子供病院に知り合いの医師がいるのでまずそこに行って診察してもらう事にする。
その夜は長男の事が気がかりで眠れず、翌日中田さんの奥さんに同行してもらって国立子供病院に行くが、その医師は非番で出勤していなかった。
とりあえず最初に歯科医に行くことを薦められた、かかりつけの小児科医に報告を兼ねて電話をする
「ドクトル 梅木です。歯科医に連れて行きましたがあれは歯ではないそうです。」
「あっ そう 歯ではないんだったら心配要りませんね。」
「だけど !!!」
「もし歯なら生えているところが悪いので手当てしなければなりませんが、そうでないのならその内消えてしまいますよ」
なんて事だ!それにしても腹の立つ歯科医である。
子供の病気を知らない我々に広島だの長崎だの言われるとびっくりするじゃないか。
この当時長男は不慣れな親に育てられ悲惨な生活をしていた。
生まれてまもなく母乳が出なくなったので、哺乳瓶でミルクを飲ませていたのだが、一生懸命飲んでいるのにミルクが減らない。
長い時間をかけて1オンスか2オンスしか飲まずにやがて寝てしまうのだが、2時間もすると又お腹をすかせて泣き出す。
こんなものだと思いながらも夜ゆっくり眠れないのがつらい。
そしてある日中田さんの妹とその亭主のスペイン人のGさんが遊びに来た。
彼らも私の長男より少し前に女の子が生まれたばかりだ。
長男が生まれた時に、このGが私に小さい御父さんと言う意味のパピートと言う名前を付けたのである。
私の家で授乳の様子を見ていたGが突然
「パピート 哺乳瓶の乳首に穴をあけたか?」
「いいや 穴は買った時に既にあいているよ」
「バカだなー あの穴は小さすぎるから、使う前に針で穴をあけないと駄目だよ」
「へー 知らなかった」
「見てみろ 子供は一生懸命飲んでいるのに、小さな泡粒しか出てこない。これじゃ飲み疲れるよ」
早速縫い針をガスレンジで熱して乳首に2箇所ばかり穴をあけて哺乳瓶に取り付けて飲ませると、飲むにつれて大きな泡がゴボッゴボッと出てきてあっという間に飲み干してしまい、満足そうに眠りについた。
かわいそうな長男は半年ばかり飢えていたのである。
一事が万事こういう状態で私達の子育ては進行する。
日本であれば親兄弟,保険所の助言などが受けられるが、海外生活まして当時年長者はほとんどが単身赴任であり、新婚の若年者は私だけであることから、同輩の助言も無い状態で家内が一人奮闘することとなる。
ただ一人中田さんの家族には大変御世話になった。
さて医療事情の話に戻るが、有料の病院はべらぼうに高い。
日本国内の給与が5-10万円の時代に、入院するごとに40-50万の金が飛んでいく。
これは自己負担であり、子供を産むたびに貯金が無くなる。
日本国内であれば当然社会保険が適用されるのだが、もし保険が使用できない場合はこのくらいの支払いとなるのであろうか。
1970年代のベネズエラはアメリカ合衆国並みの医療費がかかる国だったのである。
後年次男のヘルニヤ手術の時は、日本に帰国させて手術をしたのであるが、支払った医療費はベネズエラのそれと比較して格段に安く親子3人の往復航空券が買えたほどである。
それよりも日本では医療機関を信頼できると言うことが大きなメリットである。
その後、子供も増えてくると何が起こるか心配なので民間の医療保険に加入することとした。

1990年代後半、日本ヴェネズエラ商工会議所の総会がカラカスで開催された。大手各メーカー、商社、およびヴェネズエラに駐在員事務所や法人を持つ日本企業の代表や日経連会長も訪れた大掛かりな会合であった。
F工業も現地法人を持つ企業としての立場から参加し、味の素他一社の世話係となり私が担当した。
会議は合同会議と現地企業の見学がメインであるが、参加者も百人規模であり自由な討論ではなく発言者も前もって決められている。
二日目はカラカスの現地企業訪問ということで、前に述べた2社の訪問団を連れてロステッケス工場に案内した後食事をしながら現地事情などを説明する。
翌3日目はボーイング727をチャーターしてシウダーボリバルのシドール製鉄所やアルミ工場の見学に行く。
シウダーボリバルはカラカスの南西へ飛行機で約1時間の距離にあり、近年有名なギアナ高地の近くに位置する熱帯地方の工業都市である。
飛行機を降りたとたんに熱気が押し寄せてくる。
空港からエアコン付の貸し切りバスにのり市内を抜けてシドールの製鉄所につく。
この国の主要産業である石油や地下資源は数年前まではアメリカ企業の所有物であったが、1970年代にヴェネズエラの国営企業となった。
この当時まだエクソン、モービル、シェル等の看板がまだ残っていた。
さて広大な敷地の中にあるシドールの製鉄所の中は、シドールに技術協力をしている川崎製鉄の社員が案内してくれる。
近くの鉱山で取れる鉄鉱石からの一貫生産工場であるが、構内には鉄の半製品が随所に見られ、鉱石の投入から熱量を損なうことなく製品まで仕上げなければならない工程であるはずなのに、半製品がたくさん見受けられるのは新日鉄などでは見かけない光景である。
次に隣接する鉱山に言ってびっくりしたのは、隕石が衝突して出来たクレータとみまちがえるほどの巨大な露天掘りの穴であった。
穴の底にダンプカーやパワーショベルが小さく見え、穴の上部から底に向けて斜めに走る通路上にも数台のダンプカーが小さく見えている。
それぞれが100トンもの巨大な車輌であり、パワーショベルもひとすくい100トンの鉱石をダンプに積み込めるとのことである。筑豊の炭鉱で育った私にはあまりにも異なる規模の大きさに唖然とするばかりであった。
次に行ったのはアルミの精錬工場、数年前にオリノコ川に巨大な水力発電所が完成し、その豊富な電力を使ってアルミの精錬を行っているがまだ建設中なのかボーキサイトの集積場を見学するにとどまった。
公式見学とあわせて観光も用意されている。
ここは世界的に有名な観光地でもある。
この付近はギアナ高地と連携して地形が複雑に隆起して大小さまざまな滝が豊富にあり、自然が作ったすばらしい景色がある。
ギアナ高地については最近よくテレビなどで紹介されるが、この当時は日本ではあまり知られてなかった。
コナンドイルの小説”失われた世界(ロストワールド)”の舞台となったロライマ山、世界一の落差979mを一気に落ちるエンジェルの滝。
落差は東京タワーの3倍、ナイアガラの滝の15倍以上、この地域には、有名なテーブルマウンテンが100以上もあり、植物の大部分が固有種と言われている。
このギアナ高地の周辺を観光して帰路につくべく空港に向かう。
機内で出発を待っていると幹事をしている商社の社員が突然
「エンジェルの滝を上空から見学にきませんか。希望者多数なら今からパイロットに交渉してみます。」という。
本当に可能なのか、セスナじゃないB727なのに。
と思いながら願ってもない、可能ならば是非というものが多数であった。
やがて交渉のためコックピットに消えた幹事が現れ
「OKです。つきましては各自100ボリバル(8000円)負担していただきます。」という。
フライトプランを書面で出さず突然飛行ルートを変えられるなんて、なんてすばらしい国なのだ。
飛行機は飛び立ち、数十分後にはギアナ高地上空に到着、下を見下ろすと、緑の大地から巨大な円筒形の台地が数箇所空に向かって突き出ている。
台地の周囲は切り立ったような垂直の絶壁で、台地の上は荒野が広がり、所々に緑が見える。
飛行機はやがて、台地と台地の間の空間に右翼を下にして急旋回し進入をはじめ、そして右翼を下にして、窓からの視界を広げた状態で台地の間を抜けていく。
登場客はいっせいに右に寄り、バランスを壊すんじゃないかと不安になるが、窓からはエンジェルの滝の雄大な眺めが視界に入ってきた。
大地上の水を集め台地の下に向かって落ちていくさまは一生忘れられない光景となった。
やがて通り過ぎ台地の上を旋回すると今度は反対の方向から左翼を下にして進入を開始する。
誰かが叫ぶ「こわいなー。サービス過剰だ。」
私にしても後にも先にもボーイング727の曲芸飛行は初めてで、飛行機の中は悲鳴と感嘆の声がしばらく続く。
この時期ちょうど乾期の最中で、滝の水量はあまり多くなかったものの、それでも世界一の落差979mを真横から見られたことは幸運であった。
それもB727の曲芸飛行付きというのは、この旅をした百名ほどの日本人だけではなかろうか。
続き執筆中
1969年カラカス1へ ホームへ
文頭へ戻る