
1999年8月世界放浪の旅をしていた長男がベトナム女性のホンちゃんと結婚した。
中部の都市フエで行った結婚式には私の家族や友人の総勢8名が参加した。
長男H バックパッカー 渡航準備 ホンコンへ サイゴン
フエ到着 結婚式 フエの観光 ベトナムの物産
長男H 文頭へ戻る
カラカス生まれの長男は社交的な性格である。
カラカス滞在は小学校1年生までであったが、アパートに子供の友人も多く、楽しい幼年期を過ごしていた。
映画好きな私の影響を受け、小学校入学前から母親に金を貰っては一人でアパートのすぐそばにあるセントロコメルシアル ロス チャグアラモスの映画館に入り浸っていた。
当時はスターウオーズが封切られて間もない頃であり,SFフアンの私に連れられてスターウオーズを追いかけてカラカス中の映画館を回り、10回位見ただろうか家内にあきれられたことがある。
この長男が1979年小学校1年生の夏休みにカラカス日本人学校から田川の小学校に転校するのである。
「日本語は日本に帰れば覚えられる。カラカスにいる間は家族同士でも子供に合わせて子供の得意なスペイン語で話をしよう。」と言う我が家の方針で日本語が良くわからないままの転校であった。
生まれてから2回ほど日本に里帰りしていたのだが、子供の言葉の習得はすばらしいものがある。
たった半年ほどの里帰りの間に日本語を覚えスペイン語を忘れる。
ベネズエラに帰ってくると半年も経たない間にスペイン語を覚え日本語を忘れる。
これを2度ほど経験する。
日本人学校では日本語を教えてもらうというより日本語で授業がある。
しかし家に帰ると近所の子供たちと遊ぶのだからどうしても日本語が上手にならない。
そういう時期の帰国であった為、本人は何も言わなかったが転校後しばらくはつらい日々を送っていたのではないかと思われる。
さて帰国後も映画好きは相変わらずで、中学生の頃は授業をサボって映画を見に行く始末で、担任の教師から度々しかられていた。
その成果であるのか映画の知識はかなりのものであったので、私や家内は映画に行く時は長男に聞いてから行くことにしている。
地元の高校に入学すると、漫画研究クラブと言う学校未公認のクラブに入る。
このクラブはアニメ系美術の好きな生徒が集まって作ったもので、映画の特撮に興味があった長男は2年生の頃からリーダー的な存在となる。
このクラブの特色は勉強をしないで年に一度の文化祭のために巨大ハリボテを作ることである。
長男が2年生の時には高さ4-5mのゴジラを、3年生の時にはウルトラマンを作った。
文化祭が始まる一年前から企画をして図面を書き、金をかけずに材料を集めて全て手作業で製作するのである。
当然授業の成績は悪く、いつも最下位から2番目であった。
本人に言わせると最下位から2番目を維持するのが難しいそうである。
落第はしなかったので追試験の時にはがんばったのだろう。
製作にはマン研の構成員と賛助会員が当たるのであるが、初期の段階では私の父の工場でパーツをつくり、最終段階では学校に持ち込んで夜遅くまで作業をしていた。
家内はその間,連日のごとくおにぎりを作り、夜遅い帰宅時には送って行き,若い学生から慕われていた。
製作に関わっている学生たちも当然学業に身が入らず、父兄からクレームがつくのではないかと気がかりであったが、進学校ではない田舎の学校だからなのか、反対に幾人かの親からは子供がやりがいを見つけ生き生きとしていると言って感謝される始末であった。
この長男が卒業後の進路として
「自分はアメリカに行って映画の勉強をして、映画監督になる」
と言ったものだから担任は困惑して、学級懇談会の時に家内に事の次第を問い掛けた。
学年最下位の田舎の高校生の大言壮語であるので当然である。
しかし2回にわたる巨大ハリボテの製作で新聞にも数回掲載され、長男は多少有名になっていた。
追い討ちをかけるように、新聞の地方版に現代の若者特集として取材をされ、将来の夢を新聞紙上で公開するに及んで、私も止む無く米国留学を承諾することとなる。
バックパッカー 文頭へ戻る
かくして長男Hはアメリカ西部の町フレズノの語学学校を皮切りにニューヨークの大学で学ぶこととなるのであるが、親元を離れ仕事もしなくてもよい状況では自分を厳しく律することは出来ず、徐々にアメリカ浪人的な生活になっていき、その結果数年後には大学を中退し帰国することとなる。
帰国後もバックパッカー、バガブンドの夢を捨てきれず、私が勧める家業にもつかず、福岡市にアパートを借りてフリーターの生活に入る。
ホンコン返還の日にそれに立会い、引き続きアジアを旅すると言い、そのための資金稼ぎが目的である。
目的の為には昼夜を分かたず働き、倹約のために弁当も自分で作ると言う徹底したものであった。
しかし稼ぎの大部分は生活費に回る為、資金が貯まるのに1-2年を要した。
やがて1997年6月末に7月1日の香港返還にあわせ、体中に100万円の資金を隠し持って歩く金庫と化した長男は旅立っていくのである。
英語は米国留学中に習得しておりその点では心配の無い旅立ちであった。
ホンコンから始めてベトナム、ラオス、タイ、インド、バングラデッシュ、イラン、トルコを回り約10ヶ月を80万円ほどの費用を費やして帰国するが、この旅の途中数度にわたりベトナムとタイの間を往復して前に進まない長男を家内は不思議がっていたのだがその理由は後日判明する。
さて帰国後すでに25歳を過ぎているのに再度の旅行を計画して定職につこうとしない長男に私は
「どうせバイトをするのなら、私の仕事をしたらどうだ。3食ベットつきでかせいだ金は全部貯金できる。100万くらいならすぐに溜まるぞ。」
なんとか家業につかせたいと思う気持ちと、早く定職につかせたいと思う気持ちで話すと、長男にしても有利な条件と判断したのか、私の会社で臨時雇用することとなった。
半年後長男はベトナムで知り合った女性の誕生日に1週間ほどベトナムへ行った。
さらに半年後中南米の旅を計画して準備を済ませた長男は、ベトナム経由で出発するといって出発する。
私たちは中南米へ行くのにベトナム経由とはと、心中ニタニタ顔で送り出す。
私も家内もベトナムの彼女に会いに行くのだとはわかっていた。
そして1ヵ月後長男から電話がかかる。
まだベトナムにとどまっているらしい。
電話で突然ベトナムの女性と結婚したいと言ってきた。
それを聞いた私は
「定職も持たない男が結婚するなんて何をばかなことを言う。頭を冷やしてよく考えろ。嫁さんをどうして食わせていくつもりだ。」と怒鳴りつけた。
その夜私の父にこのことを話すと、父は父でもっと深刻な理由で反対を表明する。
「梅木但馬の守以来400ゆう余年の家系に外国人の血が入るのはまかりならん、しかも当人は梅木家の直系である。」
反対の立場が大きく異なる。
私の場合は生活方法であるが父の場合はどうしようにもならないことで反対している。
この時点で賛成しているのは家内だけである。
一週間考えた末再度長男に電話する。
「急に結婚するというのは、何か間違いをしでかしたのじゃないだろうな?」
「いいや 違う」
「本当に愛し合って結婚するのか?」
「そうです。」
「よし わかった。結婚後は定職について生活していけるのか? 私たちは生活の援助はしないぞ。」
「わかっている」
結婚には同意したが、今度は私が父を説得する羽目になった。
翌日父に
「国籍の異なるもの同士が結婚に反対されるのは多分に人種差別や偏見が原因としてある。かくいう日本人も欧米の人間からは同様な差別の目で見られている。そのことは外国に行っていた私達がよくわかっており、そのたびに悔しい思いをしてきたものだ。」
と10日間ほどにわたって父を説得した結果了解をしてもらった。
もちろん結婚は本人の問題であり、反対しても仕方のないことであるが、可能ならばトラブル無しでいっしょにしてやりたいという気持ちが強く、なんにしても家族の了解が得られたことは良かった。
かくして私たちは結婚式のためにベトナムに行くことになるのである。
渡航準備 文頭へ戻る
8月7日の結婚式に間に合わせるためには式の二日前に日本を出発しなければならない。
しかも8月の夏休みの季節に8名分の切符を手に入れることはなかなか難しく、いろいろなルートを探し、また大阪に住んでいる妹の主人Bさんの手助けもあって何とか手に入れることが出来た。
8名の内訳は私、家内、次男、三男、馬場さん、姪のミキ、長男の友人の省吾と達也である。
周知のようにベトナムは共産国であり、入国にはビザが必要である。
ビザ取得にはもちろん金が必要で、しかも取得に要する日数によってその値段は異なる。
われわれは急を要することでもあり特急料金を払って8名分のビザを取得した。
旅行ルートは福岡⇒ホンコン(一泊)⇒ホーチミン⇒フエ である。
夏の日本から熱帯のベトナムへ行くわけだから服装は夏服だけでよいのだが、結婚式であるのでスーツも必要だし観光のためにはラフな服装も必要である。
長男と電話、メール、ファックスを駆使して事前打合わせをした結果、礼服はダメといわれる。
仏教国のベトナムでは黒は葬式の色である。
結婚式には明るい色でないとだめらしい。
合わせて長男が羽織袴なんていうものだから衣類も増えるし、先方の家庭への土産も入れると各自が大きなスーツケース1個づつを運ぶことになった。
やはり結婚式というのは何かと大変である。
ホンコンにしろベトナムにしろ治安はあまりよくないと聞くので各自防犯対策には念を入れる。
現金、トラベラーズチェックの分散所持や旅行中の保険、トランクのカギ、ある者は防犯ブザーや催涙スプレーまで用意した。
予防注射などについても、現在では強制されないがWHOの助言に従い、コレラ程度はしておくこととして福岡に2回出向き予防接種をする。
披露宴については電話での打ち合わせの時に
「披露宴はどんな規模になるのかな。」と聞くと
「金もあまり持ってないから、せずにすませようかと考えている。」という
「相手の家族の気持ちも考えなければいけないのじゃないか。どのくらい予算がかかる?」
「20万円程度かかる。」と言う。
日本の披露宴と比較するとケタが違う。
「20万円くらい祝儀だけでも余るほどになるから心配しないでした方がいいよ。」というと
「それじゃすることにしよう。」
この他に私は結婚式のスピーチを用意しなければならない。
何語でしたらいいのだろう。
「英語でしても先方の家族には伝わらない。とするとベトナム語か?」
とりあえず日本語で短く原稿を書き、友人の田中君にベトナム人の留学生を紹介してもらう。
留学生のフン君は幸い花嫁の実家のあるフエの出身だということだ。
近くのイタリアレストランに招待して原稿を見せ、それをベトナム語でテープレコーダーに吹き込んでもらった。
その他にベトナムでの結婚式のこととか現地事情をいろいろ聞き参考になった。
フン君の話によるとベトナム語は世界一発音の要素が多いそうである。
ベトナム語を勉強するには、どうしても最初に発音をしっかり勉強しておかないとまったく物にならないと言う。
ただし文法そのものは、比較的分かりやすい構造となっている。
さてスピーチの丸暗記である。
言葉というものは少しでも単語の意味や文法がわかると暗記しやすいものだが、まったく何もわからずに暗記するということは大変な困難が伴う。
長いスピーチではない、原稿用紙一枚程度の短いものであるが暗記をするのに一ヶ月かかった。
とにかくテープの音(声とまで行かない、私にとっては音の連続である)を細かく暗記するのである。
しかも出来栄えはそれを訂正してくれる人がいないのではなはだ心もとない。
とりあえず数十年前のベネズエラ出発のときと同様、数字と挨拶をベトナム語で覚え準備は整った。
ホンコンへ 文頭へ戻る
出発当日の朝、私は作業服の上下にサングラスという不気味な服装をする。
次男は寝間着に近い服装、とにかく盗難に配慮した服装で出発する。
まず福岡空港で大阪からの妹の主人の馬場さんとその次女のミキ、友人の省吾と達也と合流する。
馬場さん一家はまともな服装である。
私の服装を見てびっくりしていた。
朝福岡空港を出発して昼頃に到着。
ケイトク空港は出来たばかりで新しく、空港内の連絡に地下鉄があるのが目新しい。
入国手続きが済んでタクシーで市内に向かう。
仕事柄建築中の建物がどうしても目に付く。
竹で出来た足場が建物を囲んでいる、高層ビルを見ながら良く持つものだと感心する。
中心街に入っていくとさすがに古い都市であるだけにゴミゴミしている。
ホテルは少し古いが部屋はきれいだ。
早速皆と集まって市内観光に出かけることにする。
ホンコンに着いたら、有名な夜景のクルージングをすることにしていたので、港に行き乗船券の予約窓口に行くとイギリス人のおばさんがいた。
仕方なく英語で予約の申し込みをしてみる。
ベネズエラの語学学校以来の英語で、不安ながらも何とか予約が出来た。
夕方まで時間があるので皆と街中を散歩する。
ごたごたした下町風のところは異国情緒たっぷりであるが、町並みの新しいところは日本の都会と変わらない。
しかし中国のはずなのに他国の人が多く、さすがに国際都市ホンコンという感じがする。
夕方船に乗る時間が近づくと猛烈な雨が降ってきた。
これじゃボートツアーはだめだ、しかし予約はしておりお金も払っている。
仕方なく船に乗るが乗客は私たちを除くと一組だけだ。
船は出航し湾内を周航し始めるが雨のためデッキにはいけず、船の中央にとどまったまま景色を眺める。
晴れていればそれなりに楽しめたのだろうが、写真でよく見る夜景は新宿近辺の夜景と変わらない。
クルージング後馬場さんが知っている中華料理屋へ行く。
いよいよ本場の中華料理が食べられると期待して行くが、昨今日本で食べられないもの以外は、本場といえどもかわり映えがしない。
本当のところは味覚的に慣れている日本の中華料理のほうが美味しいのではないだろうか。
結婚式を明後日に控えての旅であるので、体調に注意して早々にホテルに戻り、部屋においてあるミニボトルのウイスキーを飲む。
テーブルの上にはフルーツもサービスで置いてある。バナナは黄色ではなく緑色だ。
まだ熟れていないのだろうとこの時は手をつけなかったが、ホンコン以降はこの緑色のバナナが主流となる。
色は緑色だが十分熟成していて美味しいものだとベトナム入国以降気が付いた。

ホンコン市内 ホンコン市内
サイゴン 文頭へ戻る
翌早朝、頼んでいた大型送迎バスは各ホテルを回りながら客を拾い空港に行く。
出国審査も済み飛行機に乗り込むと、もうそこはベトナムであった。
アオザイ姿のベトナム人スチュアーデスが目にまぶしい。
飛び立った飛行機は、昼前にホーチミン(旧サイゴン)のタンソンニャット国際空港に到着し、滑走路をドライブして到着ターミナルへ向かう。
ベトナムというとベトナム戦争を思い浮かべる私たちの年代にとって、窓の外に広がる風景は、過去ニュース映画などで見た記憶のある風景が多い。
飛行機は今まさに映画で見た飛行機格納庫が並ぶ前を通るところだ。
旧政府軍やアメリカ軍が使用していたかまぼこ型巨大格納庫が一列に多数連なっている。
駐機場からターミナルまではバスで移動。
通関も問題無く済み、長男と嫁のホンちゃんが待っている空港入口に向かうとまず長男が目に付いた。
側にいるのが写真で見たホンちゃんだろう。
暑い日差しの中長男の通訳で皆の紹介を終わり、国内線のチェックインカウンターに行って搭乗手続きをするがどうやら出発は遅れるらしい。
とりあえずターミナルのそばにあるレストランに行って昼食をとることにする。
メニューなんてよく分からないので、長男とホンちゃんに任せ種種の料理を取り寄せ皆で食べる。
うーん エスニックだがお箸で食べる国であるので安心だ。
もう少し西へ行くと手づかみの国になる。
雑談しながらの食事であるが我々の誰も挨拶程度のベトナム語しか分からない。
長男のベトナム語もまだ片言程度であり、ホンちゃんとは英語を交えて話している。
私も妻も下手な英語で何とかホンちゃんと話をつなごうとするがすぐに途切れる。
後日ホンちゃんいわく、「私も英語がよく分かるわけじゃありません。一生懸命話しているのです。」
そうだろうなー 分かるさ。
食事代は合計2000円程度であった。
食事も済んだので搭乗手続きをしてもらい、2階待合室入口のセキュリテイカウンターに行くと、達也がなにやら警備の兵隊ともめている。
長男が行くと兵隊が催涙スプレーを手に何やら言っている。
「どうしたのですか?」
「これは何だ」
「防犯用の催涙スプレーです」
「こんな物機内に持ち込む訳にはいかん」そりゃそうだ。立派な凶器になる。
「分かりました」あえなく没収された。ばかな達也だ。
フエ到着 文頭へ戻る
2階の待合室で3時間ほど待たされ、飛行機はやっとフエに向かって飛び立ち1時間弱でフエ上空に差し掛かると、地上は南国の美しい海が東側に連なりフエの町の周囲は緑の田園が広がっている。
良く整備された広い水田だ。
フエの空港は田舎のローカル空港で一日数便の発着しかない。
空港にはホンちゃんの兄のHungが迎えにきていた。
Hungはフエ師範大の日本語科を卒業しており日本語が解る。
チャーターしたワンボックスカーとタクシーに分散して乗り込む。
車はかなり古くエアコンももちろん無いが運転手はかなりのスピード狂だ。
空港から町までの30分ほどの間、ちょうど退勤時間なのかそう広くも無い道幅いっぱいに自転車とバイクが行き交う。
その中をスピードを落とすことなくクラクションを鳴らしながら、自転車を掻き分けつつ進む。
運転手の隣に座っていた私はすさまじい恐怖に襲われる。
今にも衝突という直前、自転車郡は右に左によけながらうまく車をかわす。
対向車線だけでなく、同方向に進んでいる自転車までクラクションの音にうまく反応してよけてくれる。
キャーキャー騒いでいる女性達の悲鳴が嬉しいのか、運転手はますますスピードを上げて走る。
この国ではまだ車が珍しい乗り物である。
車を持つということは大きなステータスであり、車を持っている者は資産家の部類に入る。
だからそうなのか、はたまた交通法規が整備されていないからなのか、大きな図体の物の方が強く、小さな物は大きな物に道を譲ると言う日本とまったく反対の概念が当たり前として通っている。
そして道を行くベトナムの人たち、この時間帯だからなのか、まるですべての人が道路に出て来たのではないかと思えるほどの大勢の人が家路に向かって一目散に移動してゆく。
女性は夕日に顔を染め、頭上にあの三角の傘をかぶり、まるで映画の一場面を思わせる光景である。
遠い昔の日本を思い出させるような追憶の世界に私達は浸っており、この始めて見るすさまじい光景は、多分一生私と家内の脳裏から消え去ることは無いだろうと思った。
うす暗くなった頃やっとホテルに到着する。
少々古びたホテルであったが部屋はそれなりに情緒たっぷりのものであった。
部屋に入るまもなく長男が結納品の購入費として500ドル要ると言い出した。
飛行機が遅れなければ銀行に行く時間もあったのだがもうすでに6時を過ぎており、現金は300ドルくらいしか手持ちが無い。
しかもトラベラーズチェックもカードも日本円もダメだと言うことなので、皆に話して手持ちの現金をなんとかかき集めて渡すと、Hungがそれを持って市場の貴金属店に走って行った。
私達夫婦は7時にはホンちゃんの家に挨拶に行かねばならないので、大急ぎでシャワーを浴びスーツに着替えるとすぐに汗をかき始めた。
急いでタクシーを呼び、ホンちゃんの家に着くと、お父さんを始め親戚の人たちが盛装をして待っていた。
私より少し年上のお父さん、お母さんはフエ大学医学部の教授をしておられたがホンちゃんが生まれてすぐ亡くなられた。
ホンちゃんはお父さんに育てられたとのことで、入口を入ってすぐの所に仏壇がある。
さっそくHungの通訳で一同と挨拶を交わし、持参した土産の披露が済むと夕食の接待にあずかった。
食卓は茶碗にご飯、そして中華風に大皿のおかず。
テーブルと椅子にコンクリートの床である。
お父さんがおかずを何度も私の皿によそってくれる。
私はありがとうとその都度頭を下げていたが、これがベトナムの礼儀作法なのであろう。
それにしても挨拶するときには女性の親族もいたのに、食事の時には家内の他には女性は居なくなった。
どうやらベトナムはまだ男尊女卑が残っているのか、しかも一番尊敬されているのは最年長の親族である。
ここには昔の日本のように、男性が家長の習慣がまだ健在であると見える。
結婚式の段取りの打ち合わせについては先方側から
「貴方たちは外国人でもあり、ベトナムの作法どおりにするのは大変であるから、できるだけ簡略化した簡素なものにしましょう。」と言ってくれる。
「ありがとうございます。助かります、どうぞよろしくお願いいたします。」
和やかなうちに食事は終わり、明日の結婚式を控えているので9時頃にはホテルへ帰った。
さすがにスケジュールに追われるような一日が終わったときには相当疲れており、興奮しているのか熟睡できないまま朝を迎える。
窓から外を見るとホテルの裏には民家があり、まだ夜明け前の暗いうちから主婦が炊事をしていた。
ほとんどのフエの人は家で朝食を摂らずに外で食べると言うことなので、家内と二人して
「あの人は作った料理をどこかで売って生活の糧にしているのだろうなー」
「朝早くから おばさんご苦労様」などと話しながらしばし眺めていた。
静かなそして穏やかな夜明けである。
ホテルの側にある呼び込みレストランで朝食を摂る。
日本人観光客も多いのだろう、日本語のメニューがある。
呼び込みレストランと言うのは、女店員が前の道路に出て客を呼び込むからである。
このレストランの隣も同じようなレストランで、同様に呼び込みをやっている。
見ていると良くけんかにならないものだと思われるほどのすさまじさで呼び込み競争をやっている。
まるで客の取り合いである。
いい意味で資本主義的な競争原理が十分働いている。
朝食が済むとすぐに長男とシクロに乗ってベトコム銀行に現金の調達に行く。
銀行内はあまり客が居ないので長男になぜかと聞くと
「ベトナム人は銀行にお金を預けるような事をしない」
「現金はどうするのだ」
「大きな現金は貴金属に換えて、現金は家の中に隠している。庭の土中のカメに入れたりする。」
「じゃ結納もそうか」
「結納は金製品をそれ専用の市場で買って、ホンちゃんの家に持っていっている。結婚式のときに披露されるはずだ。」
銀行から帰るとホテルを替わる。
もともとこのホテルの近くのサイゴンモーリンと言うホテルに予約したのだが、部屋が昨日だけ取れなかったらしい。
サイゴンモーリンでチェックイン後、部屋に入るとなんと30畳はあるスイートルームだ。
びっくりして長男に値段を尋ねると一泊40ドル程だと言う。
安いビジネスホテルの料金だ。
10時頃ロビーにいると、アメリカ人の男性が訪ねてきた。
この男性は、家族を失ったベトナム人の子供を養女として育てたと言う。
その養女が成人してアメリカのNGOのメンバーとしてフエで勤務しているのだ。
リンというその女の子はホンちゃんの友人であり、結婚式の介添人を務めてくれることになっている。
アメリカ人の義父はメキシコでの生活経験があるのでスペイン語が分かると言うことなので、しばしスペイン語で会話をする。

サイゴンモーリン 結婚式の打ち合わせ
結婚式 文頭へ戻る
ベトナムの結婚式は男性の家を出発するところから始まる。
我々にはフエに家がないので、サイゴンモーリンに頼んでここのロビーを出発点とする。
あまりの慌ただしさに事前の打ち合わせもままならず、当事者の私たちは何をすればよいかわからないままに進んでゆく。
正午前ロビーにベトナムの民族衣装の人たちが集まり始める。
先頭には昨夜会った親族の長老が立ち、長男そして私たちの一行は並んでロビーを出発する。
ビデオカメラもこの時点から同行し撮影している。
我々は車に乗りフエの町を巡回しながら花嫁の家に向かう。
その様子をバイクの後ろに乗ったビデオカメラマンが、走りながらいろいろな角度から撮影をする。
やがて車は花嫁の家の近くで止まると、そこには大勢の人が集まっており、花婿他全員ここで待たされる。
促されるままに私だけ長老と一緒に花嫁の家に歩いて行く。
私の側には誰もおらず、どうしてよいか解らないまま長老について家に入ると、サロンには親戚一同集合しており仏壇の前に儀式用の酒とグラスが並んでいる。
やがて親族同士の簡単な打ち合わせの後、長老がしばらく何やら言い皆がうなずいて最後にグラスの酒を飲み干して終わる。
これは多分花婿の父親が挨拶する場面であろうが、私は何もできず何もわからずただ立って眺めているだけである。
この儀式が済むと再度皆が待っている場所に戻り、今度は全員で列を作って花嫁の家に向かう。
家の前の庭には仏式の石の仏壇があり、その前にはテーブルと、土間には敷物が敷いてある。
その仏壇の前に新郎新婦を中心に両家の両親が並ぶ。
まもなく先程の長老が儀式を始めた。
お経のようなものを唱え、日本の神主がやるような儀式が30分ほど続く。
庭の中や塀の上にまで近所の見物客でいっぱいだ。
そしてこの暑さの中,私たちと長男は汗だくである。
ベトナムの人は慣れているのだろうか、あまり汗をかいていない。
親族の1人が長男の横に立って、汗を拭いてやっている。
長老は土間の敷物の上に座って礼拝をし、そして手を床につけて深々とお辞儀をするということを何度も繰り返している。
庭での儀式が終わると、今度は家の中に入り、サロンの仏壇の前に移動する。
ここで結納品を渡す儀式をするのであろう、昨日大慌てで買った金の装飾品がテーブルに並んでいる。
再度長老の指揮で指輪の交換をして結納品を花嫁に渡す。
以上ですべての儀式が終わった。
花嫁の家から披露宴会場に移動する途中、フエ王宮の城門の前で記念撮影をする。
ホンちゃんが以前勤めていた美容室の先生と助手が付き添ってきて、衣装の手直しなどいろいろとお世話をやいてくれている。
披露宴会場は50名程が入れるレストランで,エアコンの設備もある。
多分招待客がもたもたしているのであろう、会場内の用意が整うまで10分ばかり前の道路で待たされる。
用意が整ったところで全員並んで拍手に迎えられながら会場に入る。
演壇の前に立って、まずHungが挨拶をしていよいよ私のスピーチの番だ。
暗記をしていたが念のためメモ片手に話し始める。
最初皆びっくりして私を見ていたが最後まで聴いてもらい、Hungがベトナム語で再度全文を読み上げてくれる。
後日ホンちゃんいわく、「お父さんが何を話しているのかまったく分からなかった。」 ウーンあの努力はなんだったのか。
日本のようにスピーチもたくさん無く、私達のスピーチが済むとすぐ乾杯と祝宴が始まる。
私とホンのお父さんは、皆に挨拶しながら酒をついで廻る。
新郎新婦も座る席はなく、皆の席を回り挨拶しながら酒をついでいる。
その間に衣装直しが2度ほどあり長男は羽織はかまで登場する。
祝宴の進行係もおらず、まったく和気あいあいの祝宴が2時間ばかり続く。
ベネズエラでの結婚式もそうであったが,私はすっかりこの結婚式が気に入ってしまった。
日本の営利主義の大金のかかる結婚式に比べると、本当に中身のある式であると感じ入った。
酒が入るとカラオケも始まり席はにぎやかになっているが,この宴会は第一部であり親戚一同や大事な客ばかりであるとのことである。
一度に50人以上は入りきれないので夕方第2部がありやはり50名ほど,今度は若い者を中心にすると言う。
ただし家族は再度出席することになる。
料理はベトナム料理が並び,ビールはベトナム風に冷やしてないビールに氷を入れて飲む。
出発前あれほど水、特に水割りに入れる氷に注意するように申し合わせていたのだが,事ここに至ってはやむを得ない,次々と氷入りのビールを差しつさされつ飲む。
夕刻2度目の宴会も終わり疲れはててホテルに帰る。
新郎たちは2回目の宴会の間に私たちのテーブルで食事をしたが,私は客席回りと,ベトナム入国以降は今日の健康状態に不安があったので,食事らしい食事はしておらずハラペコである。
さあ食べるぞと言ってその夜は近くの路上レストランで食事をとる。
長男も昨日まではホンちゃんの家には訪問はできても、泊ることはできず自分の安宿に帰って寝ていたということである。
今日から私たちの滞在中は豪華なサイゴンモーリンに泊まることにする。
私たちが帰国後は、ホンちゃんの家でしばらく生活するとのことだ。


翌日の朝、ホテルの前の通りの通勤ラッシュの騒音で目覚める。
通りを見ると道幅いっぱいの自転車とバイクの大群が移動している。
他の者はまだ目が覚めないのだろう,姿を見かけないので、家内と2人でホテルの周辺を歩いてみることにする。
ホテルを出ると,1人の若いシクロの運転手がぴったり私たちをマークして付いてきた。
しきりにシクロに乗るように言っているのだろう。
ノーノーと言って手を振るが、目障りになるほどしつこくついてくる。
無視して2人で歩き始める。
道の両側にはたくさんのフォー(ベトナムうどん)売りの女性が鍋と食器と風呂のイスを前に置いて商いをしている。
声をかけられるが自信がないので食べないことにする。
フランスパンと火のついた七輪を置いて、サンドイッチを売っている屋台もある。
ベトナムのフランスパンはカリッと焼きあがっていておいしい。
旧宗主国がフランスであるからベトナム中にフランス文化の影響が生活全般に行き渡っているのだろう。
30分ほど歩いたら道に迷ってしまった。
キョロキョロしていると、シクロのお兄さんが「道に迷ったんだろう、あっちだ、あっちだ」と指をさす。
無視してきた手前ここでシクロに乗るのも癪なので、偶然見かけたリバーサイドホテルという大きなホテルに入って道を聞く。
しばらくリバーサイドホテルにいたにもかかわらず、外に出るとまだあのシクロがいる。
よくよく見ると悪人面ではないので、家内と相談して乗ることにした。
歩いて500メートルほどの距離だ。
昨日長男と銀行に行ったときに乗ったので大体の相場は解る。
2キロほど走って100円だから50円でよいだろうと判断して5,000ドン札を出し、これだけだと念を押して乗り込むと少し大回りな道の方に行こうとする。
「This way」と道を指さして強く言うと「☆ △ X」と言う。
再度「This way」と言うと、しぶしぶまっすぐに行くがホテルに近づくとまた横道に入ろうとする。
もしかしたら縄張りがあってホテルの裏から入ろうとしているのかもしれないと思うが,危険は犯したくないので強行に「This way」と言い続ける。
それでも相手の意をくんで少し手前で降りてやった。
サイゴンモーリンの前には常連のシクロがいつも5台ほど待っているので、やはり縄張りの問題であろう。
かわいそうにこのシクロは金を受け取ると、一目散にホテルから離れる方向に走りだした。
今日は結婚式も終わったので、フエ周辺の観光に出かけることにする。
昼前にホテルを出た私たちは、ベトナム名物のフォーを食べに行く。
フォーは米が原料の麺であるが日本のビーフンと少し食感が異なる。
ゆでたフォーを牛または鶏のスープに入れ、具は香草を好きなだけ上にのせて食べる。
味わいもラーメンとうどんの中間の味でなかなか美味しく、日本人には好んで食べられる。
食後フエ市内を流れるフォン川沿いにある名所旧跡を訪ねる。
大部分はフエ王朝時代の遺跡や王家の墓そして寺院である。
寺では入場券と一緒にくれるパンフレットを少年たちが欲しがっているので連れの1人がやると喜んで持っていった。
この近くに住む少年たちにとって珍しいものではないだろうと思っているうちに、ある考えがヒラメいた。
多分これを入り口の切符売り場に持っていくと何がしかの金をもらえるのであろう。
少し早めに出た私は、車のそばの木陰で休んでいると5歳くらいのかわいい女の子が近くにいた。
私のパンフレットを渡すと「メルシームシュー」と言われた。
少女から出た何気ないフランス語にびっくりし。またその礼儀正しさにもびっくりする。
さて観光も終わり、いったんホテルでシャワーを浴びた後、正装してFungの勤めているベトナム王宮料理の店に行く。
今宵はこのレストランでホンちゃんの父と弟を招いての夕食会である。
ホテルからは全員シクロを雇って店まで行く。
私と家内は今朝経験ずみであるが、他の者は初体験に大喜びしている。
レストランでは結婚式に出たような、手の込んだ細工のしてある料理が次々と出てくる。
今日は招待する側であるので、私もベトナム風にホンちゃんの父におかずをよそってあげることにする。
総勢13名が豪華なレストランでおおいにのみ食べるが代金は100ドル程度であった。
夕食後われわれ1行はお父さんと別れて近くの川から観光ボートに乗る。
夜なので景色はよく見えないのが残念である。
この旅行にはなぜだか夜のボートクルーズがつき物のようだ。
ボートには家族がふだんは生活しているのだろう,亭主は船頭、奥さんが客の世話を焼くとともに土産物を売っている。
外の景色が見えないので仕方なく全員土産物を選んで買うことにする。
私はシルク画を数枚買った。
ボートツアーが終わった後ホテルに帰って、今日市場で買っておいたフルーツを取り出しフルーツパーティーをする。
ドリアンを冷蔵庫の中に入れておいたため冷蔵庫の中がくさくなっていた。

ベトナムの物産 文頭へ戻る
市場にて
結婚式の翌日フエ第一のベンタン市場に行く。
サイゴンモーリンからホン川の橋を渡って右手の広大な敷地の中にある。
ここには日用品から食材まですべてのものがそろっており,もちろん芸術品以外の土産物も売っている。
われわれはここで土産のベトナムコーヒーメーカーセット,頭にかぶる傘,女性はアオザイ,たばこ,スルメ,春巻の皮,などを買う。
コーヒーメーカーセット
ベトナムは近年コーヒー栽培が盛んであり,主要な輸出品のひとつになっている。主に山地で栽培され,ホンの姉さんの1人もコーヒー農家に嫁いでいる。
市場で売られているコーヒーにはクリームが混ぜてあるのか香りが日本のそれとは異なる。
コーヒーメーカーはコップまたはコーヒーカップの上に載るような小型のものであり,コーヒーをいれてネジ蓋で締め付けお湯を注ぐと30分くらいかけてゆっくりとドロップしてゆく。
その間ゆっくり時間潰しをしながら、コーヒーが入るのを待つのがベトナム流である。
日本人みたいにせかせかしないのである。
このコーヒーメーカーは日本でも時々見かけるようになったが、ポピュラーでないのでやはり日本人には向かない製品なのであろう。
ベトナム人はこのコーヒーに練乳を入れてホット又はアイスで飲む。
なぜ練乳なのかというと冷蔵庫が普及をしていないので、生クリームや牛乳などが保管されないからである。
缶詰の練乳だと腐ることもないのである。
傘
映画などであまりにも有名な傘である。
主に女性がかぶるが、川で漁をする漁師もかぶっているのを見た。
昔の日本にも同じようなものがあったが、ベトナムのそれは色の付いたあごひもを使ったり、傘に透かし模様入れたりと結構楽しいものである。
アオザイ
これもベトナム女性の有名な衣装である。
チャイナドレスから変化したもののようであるが、特徴は腹部まで切れあがったスリットでセックスアピール十分である。
白のアオザイは女子高生の制服として制定されている。
成人女子のものは色とりどりの模様が入っており、元来シルクが正式であるが昨今は安い化繊のものが使われている。
アオザイを作るときは洋服を作るときの何倍もの体の寸法を計って、オーダーメードで作るのが本当であるが、市場には既製服も下げられている。
家内もオーダーメードをする時間がないので既製品を買ってデイナーに着て行ったが、はちきれそうなサイズのものであった。