2001年5月 長男の結婚式から2年後再度ベトナム、フエの旅に出発した。
今回はホンちゃんの里帰りを兼ね、知人のMさんと3人で行く事にする。
私とMさんは1週間ほどの滞在であるが、ホンちゃんは二月ほど里帰りをする事にする。
福岡⇒大阪空港⇒ホーチミンでホンちゃんの兄のFungと再会し、翌日一緒にフエに行く。
フエではホンちゃんの家族と再会し、宿泊はあのサイゴンモーリン。
フエ滞在中はFungも久しぶりの帰郷なので出来るだけ家族と一緒にいてもらい、私とMさんは私の頼りない英語で行動することとする。
とは言うものの、Fungは何かと私達の世話を焼いてくれ、要所要所で行動を共にしてくれる。
フォン河の霊廟めぐり DMZツアー
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中部の古都フエは、1802年から1945年までグエン王朝の首都として繁栄した。
中心を流れるフォン河 は「香河」と書き、パヒュ−ムリバ−ともいう。
その命名とは異なり、少しにごった色をしている、しかし東南アジアの河川としては水が澄んでいると言えよう。
そのフォン河を遡行して霊廟めぐりをした。
船の手配は前日のうちに、Fungが知り合いの船頭に予約してくれた。
指定された川岸で待ちうけた船頭の家族とともに出発。
前回同様船頭の奥さんとその子供も同伴する。
同伴すると言うよりこの船は彼らの家であり、家ごと移動するようなものだ。
最初の目的地ティンム−寺院まで約40分を要した。
テイエンムー寺(別名慈悲塔)1601年建 フエの町まで聞こえるという重さ2トンの鐘がある
八角形で七重の塔は、1845年の建立で高さは21メ−トル。
この塔の形は中国の仏教の様式だ。
そもそもベトナムの歴史は、中国から長期にわたって影響を受けており、独自文化はあまり無い。
またベトナム戦争中住職が1963年政府に抗議して焼身自殺したことでも有名。
そのとき彼がサイゴンまで乗ったオ−スチン型の乗用車が展示されている。
ミンマン帝廟 1841年
ふたたび船にのり、次のミンマン帝霊廟まで約一時間。
船から下りて少し歩くと小さい店があり、そこにバイクタクシーが待機している。
往復2万ドン(200円)払ってバイクの後ろに乗り約7−8分の距離である。
廟は池の向こうの小高い丘にあり草がうっそうと茂っている。
入場料は5ドル、または換算したベトナムドンで支払うが、現地の物価と比較するとかなり高額である。
いくつかの霊廟を巡るには、かなりお金を用意しなくてはならない。
ミンマン帝の在位は1820年から1840年で、この霊廟は1843年に完成した。
菩提寺は、全体に赤みをおびた木造建築であり、階段を降り周囲の外堀りを通って、また階段を登り中にはいる。
再び階段を下ると蓮池があり、その先には石橋が架かって墓に到達する。
トウドウック帝廟 1867年 入ってすぐに大きなはす池があり、池のふちに釣殿と涼しさを味わうための大きな木造の建物がある。
バイクタクシ−で約10分のみちのり。
トゥドック帝の在位は1848年から1883年で、グェン王朝では最も長い治世である。
ここは、帝自身の別荘として使用したため、霊廟よりも庭園としての感じがする。
池の側の建物には一面の蓮池が広がっている。

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5月9日 DMZツアーに行く。
お兄さんが前日シンカフェ(ベトナム国営交通公社)にツアーを申し込む。
朝6時出発 夜8時帰着のハードスケジュール。
DMZとは DEMILITARIZED ZONE の略で、戦争中北緯17度線近くを東西に流れるベンハイ川沿いに巾約10Km長さ60Kmにわたって定められた非武装地帯のことである。
1954年の南北ベトナム分裂から1975年の戦争終決まで20年間にわたって定められていた。
ツアーは、この非武装地帯を東西に走る国道9号線沿いに点在する激戦地後を回るものである。
激戦地の町ドンハ ロケット基地のあったロックパイル 映画にも良く登場するケサン基地後等をガイドが案内するものである。
説明は英語だが少し英語がわかればある程度は理解できる。
乗客はアメリカ人が多く、オーストラリア人などの若者が多い。
国道1号線を北上し1時間ほどで道路沿いのクアン・チ教会に到着。
弾痕の残る建物を見て、初めてこのツアーが戦争を思い起こさせるものだと実感する。
8時過ぎ、ドンハの市内に入る。
市内のカフェへ寄り、朝食をとることになっているらしい。
私達は出発前にいつもの路上レストランでサンドイッチを作ってもらっていたのでそれを食べるが、他の乗客はフランスパンとコ−ヒ−だけの一般的なベトナム朝食を注文している。
どうやらツア−料金に含まれているらしい。
ここで書類を渡され、名前、国名、生年月日を記入させられる。
ツアー中に解ったことであるが、出身国、年代によって微妙にその日の説明が異なるらしい。
つまり アメリカ人がいるときには、戦争中のアメリカ人の行為に対しての説明に手心を加えるとかするのであろう、またフランス人も日本人も過去この国を支配下に置いた歴史があるため、それらの国の人に対する、配慮をするのであろうと思われる。
ここまでの案内は運転手だけだったが、ガイドが以後の行程をずっと同乗する旨、英語で伝えた。
この日のガイドはこのドンハ生まれで、戦時中をこの町で過ごし砲撃 避難 生還 を経験したことから話し方にも臨場感がある。
ドンハを出発して国道9号線に入りロックパイル山に到着。
戦争中はこの山の奪取が、戦況のゆくえを左右すると判断され、激戦の地となる。
しかし、草木におおわれた山は、とても戦略の拠点とは思えない。
つづいてバスは山道を進み、ダク・ロン橋に到着。
ここは戦争当時、南ベトナムで活躍するゲリラのため、北ベトナムからの補給路として重要な橋であったが空爆で壊され、1976年再建された。
続いてラオ族の村に立ち寄る。
観光地であるのか無いのか、住民はみやげ物を販売する訳でもなく我々を、逆にラオ族のほうから観察されている。
住居は高床式のもので、昔見たような農具が床下にあった。
ずいぶん内陸の奥地まで来て、もうここからラオスの国境は近い。
ケサン基地には当時6,000人のアメリカ兵が駐屯していた。
その目的はラオスを経由して北ベトナムから南のベトコン(南ベトナム民族解放戦線)への物資の補給を阻止するために当初のホーチミンルート上に築いたものである。
しかし周囲を山に囲まれた地形はベトコンからは狙いやすく、しかし米軍からは反撃のしにくいもので、これはフランスからの独立戦争でフランス軍が決定的な敗北をしたデイエンビエンフーの地形とまったく似通ったものであった。
事実アメリカはここケサンで決定的な敗北をすることとなる。
ホーチミンルートの分断も、国土の西側のほとんどをラオスと接する地形では、一部のみを分断しても効果は無く、いくつものルートができることとなる。
これに業を煮やしたアメリカが、北ベトナムを爆撃する北爆、またルートを航空機から監視できるようにするために行った枯葉剤の散布(後に深刻なダイオキシン被害をもたらす)、またラオスへの爆撃とエスカレートすることとなる。
ベトナム戦争は、北ベトナム正規軍とアメリカ軍の直接戦争は、最終段階を除いては行われず、常にベトコン(南ベトナム民族解放戦線つまり南ベトナム人)との戦いであり、またその補給ルートを絶つための戦いであった。
ケサン基地では撤退時に多数の地雷を米軍が設置したため、後日長期間にわたってその撤去作業が各国の援助によって行われた。
現在跡地のほとんどはコーヒー農園として使われている。
バスはここでドンハの町に引き返し朝食を摂ったレストランで昼食、これは別料金で各自が好みの料理を注文する。
炒飯、焼きそば、ビールなどを注文する。
昼食後、いよいよ軍事境界線だったベンハイ河へ来た。
国道にはヒエン・ル−ン橋が架かり、周囲は一面の水田で視界が開けているため、攻撃するのも防御するのも不利な軍事境界線として絶好の地形である。
ベンハイ川北の元北ベトナム最南端の村にアメリカ軍からの爆撃を逃れるために村人が作ったヴィンモックトンネルがある。
まず地上の展示場でトンネル内部の説明を受け、トンネルの中に入る。
中には爆撃中に生活できるように数多くの個室、更に産室 洗濯室 会議室などがあり、数多くのカモフラージュされた出入り口がある。
数多くの住民がトンネル出口に待っており、飲み物や土産品を売ろうと付きまとってくる。
この日帰りツア−はかなり強行な日程だったため、帰りは全員が車中で眠りはじめた。
夜もふけた頃18時40分フエの市内に入り、乗客たちはそれぞれのホテルの場所で下車していった。
ツアーから帰って後Hongの家族と夕食をとる ベトナム人しか行かないベトナム人の店食べかすはテーブルの下に捨ててよい 犬が掃除をしてくれる。
ベトナム春巻きのフライゆで肉 ハーブ各種 氷入りビール 生にんにく 生唐辛子 強烈な匂い そして鍋物 かなりのエスニック臭に少したじたじとなるが、Mさんはおいしいおいしいといって食べている、 ほんとかな。