2,004年5月 ガンマーカーCA 19-9の限界値までの上昇、そして再検査により下がっていることが判明した時点で急きょ旅行を決意した。マーカーの上昇があるということは、いずれ上昇して下がらぬ事も予想できる。そうなってからでは旅行どころではなくなるだろう。術後2年目の今、今年1年の生を感謝するとともにこのひとときを大事にする意味でもある。なんていうことを書いているが、周りの人に言わせると病気をだしにして旅行に行っているだけと思っているが、実はそうである。家族をほって旅行に行く後ろめたい気持ちが、このような事を言わせるのである。
今回の旅はいつも一緒に行っているKさんに加えNさんが同行することになった。さて、行き先をNさんに相談すると
「新婚旅行で行ったイタリア フランス スペインの地中海沿いの旅がいいですよ。」
「一度行った所ではなくて別の場所はどうですか?私たちはイタリアもフランスも初めてですから良いのですけど。」
「良いところだったのでまた行く価値はあります。」
「そうですか地中海沿いを列車に乗るのも良いですねぇ。」
「ニースの”エズ”に鷹巣村という良さそうな場所があります。そこにも行きたいのですけど。」そういうことで旅行はローマ ニース バルセロ-ナ に行くことになった。しかしKさんは家族の病状が悪いということで、直前に今回の旅行は断念。私とNさんの2人旅となった。
2,004年7月17日出発
早朝 福岡空港から成田に出発。成田からアリタリア航空のローマ行きに乗る。成田ではチェックインカウンターも出国ゲートも長蛇の列で、2時間30分の待ち合わせ時間を見ていたがそれでもぎりぎりであった。トイレに行く時間も惜しいくらいで飛行機に飛び乗る。航路は前回同様 シベリア経由であるが、前回一面雪景色であったシベリアは今回緑豊かな大地に変わっていた。成田ローマ間は10,000キロメートル弱、約12時間の旅である。正午近く成田を飛び立った飛行機はその日の夕方ローマに到着した。例によってできるだけ公共の交通機関を使うという趣旨に従い、空港からローマ中心部のテルミニ駅までイタリア国鉄に乗って約30分の後、テルミニ駅に着くと駅の真ん前に予約していたホテルがあった。とりあえずシャワーを浴びヨーロッパ第1日目の夕食に行くことにする。場所は、Nさんが事前に調べておいたイタリアレストランだ。さすがにNさんは前回ローマの経験者だけあって地理にも詳しく、ホテル周辺の名所に案内してくれた。古代ローマから2,700年の歴史があるローマの街はさすがに名所旧跡の宝庫ともいうべき土地である。街中いたるところに紀元前の遺跡がある。
イタリア料理店で
飛行機の中での不規則な食事と不規則な時間であまり空腹感はなかったが、イタリアというとやはりワインだ。ワインの白を1本と、私は耳タブのようなショートパスタを注文した。しかし食べ始めるとやたら固い。昨今アルデンテなんていうものがはやっているらしいが、私はうどんでもラーメンでも柔らかい麺が好きだ。ソースはおいしかったので全部食べ、パスタを半分ほど残す。やがてきたボーイに
「ソースは美味しいのですけども年寄りにはちょっと硬すぎます。下げてください」というとボーイは
「もう1度ゆで直しましょうか?」
「いいえ 結構です」ローマでの第一食はこういうわけで硬いパスタから始まった。食後ホテルまでの間、道沿いに広がる遺跡を見ながら帰る。
2,004年7月18日 コロッセオ
朝食後、前のテルミニ駅から1人1ユーロを払い地下鉄に乗る。地下鉄の車内に入るとムーと体臭が押し寄せてくる。
「Nさん、臭いねぇ」
「何の匂いですか」
「体臭ですよ。私たちも2−3日すると同じような臭いになります。」
コロッセオ駅に着き地上に出ると目の前に巨大な円形の建物が現れる。驚愕の目でしばしその建物を眺め、入り口に向かって歩いて行くと日曜日のせいか、かなりたくさんの観光客が来ている。広場ではローマ兵士の姿をした男たちが記念写真の撮影に応じている。入場料は1人10ユーロであるが切符売り場の前は長蛇の列だ。しかし約5分で切符売り場に到着。18歳以下または65歳以上のユーロ市民は無料とのことであるが私たちには関係がない。この建物はよく映画にも出てのいるで非常に感慨が深いものがある。むくの大理石がふんだんに使われている。石灰岩であるが為に長い年月雨により浸潤された跡が随所に見受けられる。建物の中央部は巨大な競技場となっていて、当時ここで剣士が猛獣たちと闘った場所である。2時間ほど場内をいろいろと見て回る。観客席の下の回廊は、展示室になっていて歴代皇帝の胸像やコロッセオを含むフォロロマーノの説明が無数のスクリーンに表示されている。
出口に近づいてきたころ
「Nさん、トイレに行ってきます。」トイレのマークに従って歩いて行くがトイレが見当たらない。5分ほど探したが見つからないので、別れた場所に戻ってみるとNさんがいない。仕方なく先ほど歩いた方向に歩いてみるがNさんはやはり見当たらない。15分ほど探した頃、もしかしてもう外に出て待っているのかもしれないと思い、出口から出て外を探すが見当たらない。こういう時は出口に陣取って動かない方がいいと思い、出てくる人を見ながら待っている。15分ばかり経った時、もう1度中に入ってさがそうと思い出口から中に入ろうとすると管理人が
「ここから入ったらだめだよ。」という。私が
「連れが迷子になっているのでもう1度中に入らせてください」と言うと、
「じゃいいよ」と言って入れてくれた。出口から入って先ほど別れた所に行ってみるがやはり居ない。しばらくそこに立って待っていたが、ふと振り返ると黒いバックを下げた後ろ姿が見えた。
「Nさん探したよう」と言うと。
「私も探しました。」と言う。こういう時ほど携帯電話のありがたさが身にしみたことは無かった。

フォロロマーノ コロッセオ
フォロロマーノ
フォロロマーノは紀元前帝政以前の古代ローマ時代から作られ始めた公共施設である。かつての古代ローマの中心。多くの神殿、寺院、公共広場などのの遺跡が立ち並ぶ。歩き疲れたのでしばし丘の上にある広場の木影のペンチで休憩をする。お腹もすいてきた。丘の上から見渡せる範囲を眺めながら次はどこに行こうかと2人で話あう。
「Nさんあそこに見えるドームは何でしょうかパンテオンですか?」
「いいえパンテオンはもっと低いところにあった気がします。しかし方向的には良い方向だと思いますよ。」というのでパンテオンをめがけて2人で歩き出す。Nさんは有名大学の建築学科卒業だ。建築についてとても詳しく、よく説明してくれる。町並みをゆっくり歩きながらパンテオンに向かって歩き出すが、道の左右にはやはりローマ時代の遺跡が続く。パンテオンに到着し中に入ってみるとドームの上部にぽっかりと空いた穴から幻想的な光が差し込んでいる。太陽の位置によって多分その光が照らす方向が刻々と変わっていくのであろう。ドーム内部の周囲の壁にはさまざまな絵画が並んでいる。
「前に来た時はこの近くの路上レストランで食事をした時に泥棒に会いました。そこで食事をしましょうか。」
「そうですね、そこで食事をしてその泥棒を捕まえましょう。」と言いながらしばらく歩いてみるがはっきりと思いだせない。
「昨夜の食事も結構高かったので、今日はイタリア人が入る、つまり観光客が行かないような店に入りましょう。」しばらく歩きながら食堂を探していると中国語の看板が目についた。
「イタリアまで来て中華料理なんてねえ」と思いながらその店を通り過ぎてふと横を見ると、客のあまりいない静かそうなイタリアレストランが目についた。店に入るとなんと東洋系の若者が応対してきた。先ほど見た中華料理屋の筋違いの同じ店なのだ。座る席を聞いて席につこうとすると
「中国語を話しますか?」と聞いてきた。
「いいえ英語と日本語とスペイン語を話します。」すると若者はニコニコしながら去って行きメニューを持ってきた。しばらく2人で注文するものを決め、先ほどの若者を呼び、メニューの内容について尋ねるが、話が通じていない。前菜について尋ねると話のわかったものが来ると言って立ち去り、代わりに若い20代の女の子が来て説明をしてくれた。注文を終わり立ち去る時に
「どこから来たのですか?」と聞くので
「日本です。あなたはここで生まれたのですか?」と聞くと
「いいえ。イタリアは来てから7年になります。」
「イタリア語は上手になりましたか?」
「はい学校に行きました。」
ここまでの会話はNさんが英語で、私はスペイン語と英語のチャンポンである。彼女が私たちの国籍が分からないのは当然だ。さらに彼女は「イタリアはどうですか?」と聞いてきたので
「う〜ん OK。」というと
「ああOKね」と言い 笑いながら去っていった。メニューを見てみるが、何が典型的なイタリア料理か分からず、または中国人のレストランということでどのみちインタナショナルな料理がいいだろうと思い、私は野菜スープとステーキと白ワインを頼む。アリタリアの赤ワインはまずかったけど、ここの白ワインは口当たりが良い。スープはおいしかったがステーキはまずい。
「イタリアはもともと粉文化の国ですから、肉料理はだめなのかな?」と言いながらイタリア二日目の昼食は終わる。食事を終わって先ほどの女の子がいたのでテルミニ駅への行き方を聞く。
「この道をまっすぐに行って、最初の信号を右に行くとバス停があるので40番のバスに乗ってください。」
「ところで何語で話しているの?」と女の子が聞く
「ハハ スペイン語ですよ。」やがて教えられたバス停の近くまで来た。
「たしか切符を買わないといけないとガイドブックに書いてあった」切符の買い方を聞く人を探しているとNさんが
「あそこに券売機がありますよ。」自動販売機みたいな機械には表示装置があり4ヶ国語で説明の表示が出る。スペイン語を選び指示通りに1ユーロコインを入れるが何も出てこない。近くのキオスクのおじさんに
「バスの切符を売っていますか?」と聞くと
「切符はそこの券売機で買いなさい。」
「壊れています。」おじさん手を広げる
「もう一度コインを入れますか」券売機に近づくと一人のおばさんが券売機の前に居る。
「あの人のやり方を見ましょう。」近づいて見ていると、なんとそのおばさんが針金を硬貨投入口から入れなにやらやっている。
「この機械は壊れていたよ、他にはどこで買えますか?」と聞くと
「もうひとつ先のバス停にあります。」 なんと怪しいおばさんだ。教えられた方向にしばらく歩いてゆくと次のバス停があった。そこには先ほどの券売機よりももっとくたびれた券売機があった
「えーい 入れてみるか。」 1ユーロ入るとすぐに印刷をする音がしだした
「ほー OKみたいだ。」40番のバスをさがそうとしてふと横を見ると観光用の2階建てバスが止まっている。
「Nさんこれに乗りましょう。」バスの入り口には利用客が列を作っている。運転手に乗っていいかと聞くと
「オンリーツーアーム」という答えが返ってきた。分からない!! するとNさんが
「腕は二本しかないと言っているのです。つまり忙しいという意味でしょう。」しばらく待ってアテンドしてくれた車掌に値段を聞くと26ユーロという。Nさんが30ユーロを出すと車掌は釣りがないという。Nさんが
「釣りは要りません。」というと車掌が
「それはだめです。」と返ってきた。とりあえず10ユーロを戻させてポケットの中の小銭を大きい順に渡してゆくと
「あと1ユーロ あと50セント あと10セント」と言いながら支払いが終わった。バスはスペインでも乗ったような2階建ての観光バスである。2階のオープンシートに座ってローマの名所を順に回ってゆく。それらを見ながら次の日の行動予定を決める参考とする。
7月19日 ローマ ナポリ ポンペイ
今日はローマから日帰り旅行でポンペイに行くことにする。少年時代に読んだ小説が思い出される。ポンペイ最後の日という映画もあった。朝食後ホテル前のテルミニ駅で切符を買うときに、ポンペイ直行便がないか訪ねようと駅の職員を探すが見当たらない。仕方なくそばにいた警官に
「ポンペイに行きたいのですがどういう方法がありますか?」と聞くと
「うーん やはりナポリ経由かな〜 詳しいことは切符売り場に聞くしかないですね。」
「ありがとう」切符売り場は長蛇の列である。すると先ほどの警官が寄ってきて
「調べてあげよう。ついておいで。」ついていくと券売機に行き、ポンペイを入力すると列車名と時刻が現れる。ちょうど良い列車を選び、希望する座席を入力すると料金が表示される。支払いをクレジットカードに指定してカードを挿入すると切符ができた。これまでの操作をその警官がすべて親切にやってくれた。列車の中ではニューヨークのアメリカ人夫婦と同席となる。挨拶を交わし私と奥さんはスペイン語(奥さんは学生時代のスペイン語を思い出して話をしていた)で話をする。ご主人は建築関係の方でNさんとは話がよく合っている。
車内はほぼ満席、沿線はオリーブの木と時折ブドウ畑が続く。
テルミニ駅で乗るときには改札も無かったが、列車内では車掌が改札にきた。やがて列車はナポリに到着。ナポリについたらスパゲティ・ナポリターナを食べようなんて話をしていたが、まずポンペイ行きの切符を買うと、すでに発車時間が迫っていた。2人で列車に飛び乗ると同時に列車が出発する。ポンペイで降りればよいのだろうが、ひとつ手前の駅で用意しておかないと乗り過ごしてしまう。そばに立っているイタリア人に
「ポンペイのひとつ手前の駅はなんといいますか?」と聞くと
「ポンペイには2つ駅があります。どちらですか?」
「観光に行くのですけども」
「ああそれなら ポンペ・イスカビです。ひとつ手前の駅はトーレ・アヌンシアーダです。」といいながら紙に書いてくれた。やがて列車は左手にベスビオス火山を見ながら、その火山に沿って回り込むような形で進んでゆく。ナポリから10駅も過ぎだろうか、近くにいたイタリア人が
「次の駅ですよ。」と教えてくれる。駅を降りたものの、どうしてよいものか分からず思案していると、観光案内所らしきものがあり外国人が並んでいる。Kさんが英語で聞くとすぐ近く、駅から50メートル程のところに入り口があるとのことだ。ナポリでスパゲティ・ナポリターナ食べそびれたので駅前の食堂で昼食をとることにする。昼食後遺跡に入ると、かなり大きな遺跡でありすべて見て回るのはほぼ困難であろうと思われる。遺跡の中は当然火山灰に埋まっていた為か火山灰が風に舞い、Nさんは灰が目に入って難儀をしていた。それになぜかやたらと犬が多い。遺跡の中のある家の床に犬のモザイクがあった。また方々に水道があり観光客はその水を飲んでいる。ローマ到着以来ミネラルウオーターしか飲んでいなかったのであるが、私も見習って飲んでみる。
ポンペイの遺跡は1709年に発見され、1748年からナポリにより発掘が始められる。1860年ころから組織的な発掘が行われ、舗装した道路、神殿、円形劇場や、民家、商店などが掘り出され、壁画やモザイク、家具、陶器など、古代の美術工芸や生活様式を知る貴重な資料が豊富にある。約5メートルの火山灰や土砂を除去して、現在8割ほどが発掘ずみだそうだ。
ポンペイからの帰りはインターシティーの急行に乗ることにする。途中4駅ばかり停車しながらの列車であるが、買った切符にはワゴンの指定も座席の指定も書いていない。ローマは途中停車の駅となるため掲示板にはローマの字はなく最終到着駅しか書いていない。心配なので誰かに聞こうとするがホームに駅員が見当たらない。本当にローマに行くのか心配しながら乗ったワゴンはすごく乗り心地の良さそうなシートが広いコンパートメントに6人分ある。
「もしかしたらこれは一等車かもしれませんね。」
「違っていても車掌が来たら追い出されるだけですよ。」そのうちアナウンスが始まり、ローマテルミニの名前が出たので一安心してシートで居眠りを始める。途中から2人ほど乗客が増え、2時間弱ほど居眠りをしたしたところで車掌が改札にきた。予想通りこれは一等車ということで、4人ともすべて2等切符しか持っていない。差額を支払ったら良いとのことであるが、すでに道中の3分の2を過ぎている。2等車に移ることにした。2等車もやはり6人部屋のコンパートメントであるが、1等よりもやや小さいだけの結構居心地の良い車両であった。

ポンペイ ポンペイ 犬のモザイク
7月20日 ローマ最後の日
朝食後買い物の下見を兼ねナシオナル通りにいく。しばらく歩くが買い物に興味のない私はNさんと別れ、表通りを外れて歩きながらホテルに向かう。下町の細い道は住宅街の建物にさえぎられて日もささない。建物の1階部分は小さな店が並び家具の修理や表札屋やカフェテリアが並び、中で働いている人や、画廊では絵を描いている人など、表通りでは見られない生活臭がある。ホテルに到着後12時にチェックアウトしてバチカンに行く。荷物はホテルに預けたままとする。まずバチカン博物館に行き入場料13ユーロを払って入る。内部は広大なもので、真面目に見て歩いていると2−3日はかかるほどの展示物がある。コロッセオでの迷子騒動を反省して待ち合わせ場所を決めて、それぞれのペースで見ることにする。最初しばらくは感心しながら見ていたが数時間もすると、脚も疲れ目も疲れ、天井画が多いため首も疲れてきたがなかなか終わらない。最後は早足で歩き、やっと出口に着いたときには暑さでのどもカラカラ。急いでカフェテリアに飛び込んで水を買い、待ち合わせ場所に着くと、しばらくしてNさんが現れた。やはり脱水症状のため先ほどのカフェテリアに行きテーブルに座って休む。もうしばらくは歩きたくないが、ほどなく閉館時間ということで追い出される。せっかくだからと隣接のサンピエトロ広場の日陰に座り込んで2人でおしゃべりをする。問題は列車の出る11時までどう時間潰しをするかということである。

延々と続くバチカンの天井画 なぞの球体
「ミーハーはすまいと思っていましたが、スペイン広場とトレビの泉に行きましょう。」
「そうですねぇスペイン広場でアイスクリームを食べて写真を撮りましょう。(オードリーヘプバーン・ローマの休日)トレビの泉では、もう来たくないのでコインは入れないことにしましょう。後ろ向きでコインを入れるともう一度来れるというジンクスがあります。」サンピエトロ広場からの帰り、寺院前の通りでピザを頼むが、支払いの時に私はうっかりといわれる通りの金額を払ってしまった。ピザ2枚とコーラ2杯、ホウレンソウの料理一皿、これで34ユーロを払ってしまった。邦貨で約5,000円の金額である。どう考えてもおかしいが冷静さを欠いていたのであろう、言われる通りに払ってしまい、後からだんだんと腹が立ってきた。

サンピエトロ広場 市内にたくさんある水道

午後10時30分駅のスーパーで非常食として、パン、水やピザを切るカッターなど不必要な買い物をしてホームに向かう。HISが発行してくれた切符には座席番号しか書いていない。車両番号がないのでどの車両に乗って良いか分からず、とりあえず先頭車の車掌に聞こうと思い列車に飛び乗って車掌を捕まえて切符を示し、どの車両に乗ればよいのかと切符を示して聞くと、その車掌は突然
「この車両の切符ではないじゃないか」と怒りだした。
「分からないから聞いているのじゃないか」と悪態をつきながら車両を降り見渡すと、ずっと先の方の車両で人だかりがしている。私たちもそこに向かい、そこにいた車掌に切符を見せるとこの車両ですと言って教えてくれた。指定された番号のコンパートメントに入ると1部屋3ベツトの寝台車である。下から1番目と2番目のベツトが我々の席である。後から到着した老人のベツトは1番上である。列車が発車するまでの時間その老人と話をする。
「どこに行くのですか?」
「ニースに行きます」
「そうですか。私たちもニースへ行くのです。ニースは仕事で行くのですか?」
「いいえ検査入院のために行きます。」
私はNさんの計らいで1番下のベッドに寝る予定になっていたのだが、その老人の検査入院という言葉を聞いたとたんに、その老人を1番上のベッドに上げるわけにもいかず「じゃあ私がベッドを変わってあげましょう。あなたは下の方がいいのでしょう?」と言うと老人は満面に笑みを浮かべ
「ありがとう。ありがとう。」と言って1番下のベッドに潜り込んで行った。コンパートメントの中は冷房がまだ利いておらずとても暑い。まして1番上のベッドは余計に暑い。眠りつけないままウトウトしていると、今度は冷房が効いてきて寒くなった。結局一晩中よく眠れず夜明けごろトイレに行き外を見ると薄明かりの中、列車は先ほどから停車している。駅名を見るとジェノバと書いている。ベッドに上がっても眠れないのでそのまま通路に立って外を1時間ほど眺めていたが、そのうちみんなも起きてきたので部屋に戻ると、老人がベッドを畳んでいた。われわれも手伝ったが、彼は慣れたものでてきぱきとやっている。私たちだけだったらできないだろう。しばらくすると車掌が朝食を持ってきた。パン、クラッカー、ジャム、バターの簡単なものだが食器も1セットそろっている。やがて列車はイタリア最後の街ベンチミージャ(20マイル)を出てフランスの最初の街メントンに到着。車内にフランスの入国審査官(ただの警官?)が入ってきて、皆のパスポートをチェックする。しかしスタンプも何も押さずに入国審査は10秒ほどで終了した。
老人の名前はビンセンソといい、我々が先日行ったポンペイに住んでいる。
「Sr.ビンセンソ ニースには何の検査をしに行くのですか?」
「肝臓の検査をしに行きます。」
「入院するのですか?」
「いや入院はイタリアでする。手術は前にやって2年間入院していた。」
日本人の中にも自分の手術痕を見せたがる人がいるが、ビンセンソもそうである。突然立ち上がってTシャツをまくると左腹部上から右下にかけて大きな傷跡があった。話もはずみワインの話になると
「ワインはわしの家のワインが1番だ。」と言って鞄の中から小瓶を取り出し、私たちに少しごちそうしてくれる。自家製のワインである。次にコーヒーの話になると
「コーヒーはうちのコーヒーが1番おいしい。」またまたカバンの中から小さい瓶を取り出すとなんとコーヒーが入っている。これも私たちにごちそうしてくれる。やがて列車は次の宿泊地ニースに到着する。ビンセンソはニースの街に詳しいらしく、私たちを無事タクシーに乗せるためにしばらく駅前で待っていたが、タクシーがなかなか現れないので
「ビンセンソ 私たちは大丈夫です。写真ができたら送りますよ。」と言って駅前で別れた。

Vincenzo Pacella コートダジュール ニース
「梅木さん ホテルまでそんなに遠い距離やないので歩きましょうか?」と言うので、海岸の方向を目指して歩き始める。といってもかなりの距離があるので途中念のために通り掛かったフランス人に道を聞いてみると、そのフランス人は
「私は英語ができない」と言いながら去っていく。とすぐ近くに英語の分かるフランス人がいて
「私が教えてあげましょう。」と言い地図を描きながらホテルまでの道を教えてくれた。その地図に従い道を歩いて行くとやがて海岸に出た。コートダジュールである。ホテルは海岸から50メートルも離れているだろうか海岸のすぐそばである。ホテルでチェックインを済ませ、ホテルを出てバス停に向かう。これからNさんお勧めのエズ村に行くのである。バス停では偶然エズ行きのバスが出る瞬間であった。飛び乗った私たちは運転手に料金を払いバスに乗る。バスは約30分ほどの道のりを走ってエズ村の下にたどりついた。他の外人観光客が歩いていく方向に一緒についていくと、山道を上へ上へと登っていく。やがて山の斜面によりそうように小型の店舗が現れ始める。登っていくにつれて道は山肌の間を縫うように続きその両側に、土産物屋やレストランやホテルなどが現れる。
「何なのだろうこの美しさは。」私はこれを調和と表現したい。では何と何の調和であるのか? それは南仏の空の青さ、海の緑、山肌の色、建物の外壁の塗装と乾燥した空気そしてその隙間を飾るかのような植物や花の色。これらすべての調和である。
日本のような高温多湿の環境の中では表現されない色が表れている。私たちは10メートル進んでは立ち止まり、自分の周囲を十分に時間をかけて観察し、さらにまた10メートル進んでは同じことを繰り返す。これらのすべてがおとぎの国の創作物であるかのような雰囲気である。

エズビレッジ ニース エズ
「Nさん生まれ変わったら結婚したい人をここに連れてきて、告白すると100%の成功率ですね。男2人ではもったいない雰囲気です。」1-2時間ほどもエズ村の小道を歩き回っただろうか、かなり遅くなったが昼食を取りたいと思い、村の中にあるレストランに席を取った。屋内屋外かなりのテーブルのあるレストランだ。しかし働いている従業員は少ない。そのためか注文をするにも時間がかかるし、また料理を運んでくるのも時間がかかる。しかしこの雰囲気の中、何も急ぐことはない、テーブルに座って話をしているだけでも十分に楽しく時間潰しができる。食事は申し分なくおいしく、前に映画で見た食事の習慣すなわちメインディッシュとコーヒーの間にチーズが入るというメニューがここでもあったので、私はメインディッシュの後にチーズを注文した。
「チーズをメインディッシュの後に食べるなんて変わったコースですねぇ」
「だいぶ前にイタリアの映画でそういう食事の仕方を見ていたので興味があったのです。」食事が終わったので登ってきた道を下り、バス停がある広場についた。トイレに行く必要があったので広場の前にあるレストランに座りコーヒーを注文する。テーブルからバス停が見えるので帰りのバスの時間を確認しに行くと、アメリカ人の親子がバス停で待っていた。ニース行きの時刻を調べるとあと30分ほど時間がある、ただ待っている場所が気になったのでその親子に
「ニース行きはここでいいのですか?」と聞くと
「時刻表もここにあるのでいいと思いますよ。」と答えが返ってきた。テーブルに戻りコーヒーを飲んで支払いを済ませ、バス停の方に歩いて行くと先ほどのアメリカ人が私を探している。
「あ いたいた 待つのはここではなくてあちらです」と言って反対側の車線の小さなバス停の標識を指さしてくれた。
「ありがとう」と言って道を渡り、まだ時間があるので近くの雑貨屋に入り孫の土産のドレスを1着購入。バス停に戻り待っていると、別のアメリカ人の親子がバス停に向かって歩いてきて
「ニース行きはここでいいのですか?」と聞くので私は
「May be」と答えた。すると彼女は
「May be」と軽く笑い
「どこから来たの?」と聞いてくる
「日本からです。」とまあこの程度の英語は私の中学1年生の実力でもどうにかなる。

エズ ニースの朝市
ニースのバス停に到着したので、ホテルの方向に向かって歩きながらNさんと両替について話し始める。私は日本出国の時点でユーロに交換していたので、今まで両替をしなくてすんだが、もうそろそろ両替をしなくてはならない。Nさんは
「両替のレートが店によってえらく違うのですよ。両替をしなくてはならないのですがもうこの時間では銀行も閉っているでしょうねぇ」
「ホテルの横にカジノがあったけどもカジノの両替所だったら良いレートで換えられるのではないでしょうか」
「そうですねカジノに入ってみましょう。」やがて宿泊しているホテルの隣のカジノに到着したので中に入ろうとすると
「もしもし帽子を取ってください。」といわれる。さらに奥に進むと、所持品を預けるクロークがあり
「持ち物をここに預けてください」といわれる。まさか両替だけに来たなんて言えないので、すぐに踵を返し出口に向かって歩き始め、外に出たところで、Nさんが
「だめですね。そううまくはいきません。あす列車に乗る前にアメリカン・エキスプレスの事務所で両替をしましょう。」と言ってホテルのフロントにアメリカン・エキスプレスの事務所を聞くと、ホテルから500メートル程の距離だということが分かった。いったん部屋に戻りしばしの休憩の後夕食に出かける。この辺一帯は外国人観光客のたまり場であるのでどこに行っても同じことだろうが、なんとか変わったものを食べたいと思い店を探しまわるが、どこの店もかなりの満席状態であった。仕方なくあまり混んでいない店を選んで座るが、なんとなく胡散臭い。ワインを1本と料理を頼むがマズイ。支払いは70ユーロ(約1万円)と食事の質に比べるとかなり高い。
「イタリアもフランスもなかなか良い食事に当たらない。これじゃあ家の食事の方が美味しい。」と言って愚痴をこぼす。
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