闘病記 2
2002年4月14日(日) 手術21日前 妻にガンを知らせる。
朝 いい天気 気分が大分良い 智子が気晴らしにどこかに出かけようかというので、瞬間今なら明るく言えそうだと感じた。
「お母さん、俺な- ガンになっちゃた」「え-」絶句。
いづれ智子にまず最初に言わねばならぬ事だし、もうそれも明日に迫っていた。
1月から出血があった事、金曜日に医者に確認した事等を説明し、自分はもう割り切れた事、だから心配しないでほしい等と、一気に言ったところ、智子は
「今時ガンは死ぬ病気じゃない、私がちゃんと看病してやる」と言う。
手術する病院は、Y医院の場合T病院を指定されるだろう。
また智子の看護の事も考えて、T病院にすると言うと智子は
「ガンと本人が解っているのだから、専門のガンセンターに行くべきだ。小倉のガンセンターなら車で往復できる」と言う。
私自身も、十分転移が考えられるので近くの病院で良いと思っていたが、どうもすぐに死にそうでもない。
人工肛門も術例の多い慣れた病院のほうがスムースにいくかもしれないし、また病後のケアの指導なんかもあるのでと思い、小倉の医療センターのホームページで確認すると、なんと末期ガンの緩和ケア病棟も設備の充実したものがある事がわかった。
従兄弟の末期を知っているだけに、痛みを和らげてくれる設備がある病院という事が大きな魅力になった。
早速智子に言うと
「そんなことはあんたが心配する事じゃ無い。もしそうなったら私がちゃんと手配してやる」と笑われた。
そういう事で手術は北九州医療センター(小倉のガンセンター)の外科ということに決めておいた。
あとはY先生に話して協力してもらうつもりだ。
それからしばらく皆に言う時期、会社の事等を話し合って、まず明日の検査は智子も同行し、帰ってから子供に説明、同時に取引会社に連絡し、社員には夕方と翌日に分けて話す事にした。
智子に言ったことで気が楽になった。
今日は朝から食事は出来ず、明日の透視検査用の流動食を3食摂る。
夜8時の薬は下剤だったんだろう、9時前に大便がたくさん出る。
しかし夜9時の座薬を入れて30分後に大量の出血をした。
ほとばしるような出血、便器いっぱい真っ赤になる。
びっくりした。出血は夜中2度ほどやはり大量に出る。
朝方徐々に納まっていく。
智子は心配そうでトイレに立つ度に大丈夫かと聞くので、下剤を飲んだからだと答える。
結論はわかっているので動揺も大きくはない。
この数日のことは、幸いなことにインターネットで読んだ闘病記、特に根橋平良さんの闘病記が非常に参考になった。
それには症状等が詳しく書いてあったので、大量の出血も ああこれかというような感じで受け止めることができる。
前知識無しにこういう事が起きると本当に狼狽するだろう。
それでも数時間ずつの睡眠は取れた。
2002年4月15日(月) 手術20日前 大腸透視検査
朝10時の指定でY医院に行く。
今日は智子がついてきてくれる。
1時間ばかり待たされた後でやっと検査が始まる。
口からバリウムを飲むとばかり思っていたが、お尻から入れると聞いて、昨日の大出血のことを話し、気をつけて頂くようお願いした。
先日の内視鏡挿入で慣れているとはいえやはり少し痛い。
バリウム注入後、機械式ベッドの上でおなかを上下左右前後にゆすり、バリウムが腸内に均一に行き渡るようにする。
後レントゲン撮影。
よかった、今日はあまり痛まなかった。
検査後待たされる。
誰も居なくなった頃、やっとY先生に呼ばれ診察室に入る。
智子も入っていいかと聞くと、「いいですよ」 というので一緒に入ってもらう。
念のため昨日の確認のようなもの、しかし先生の口からはガンという言葉は出ない。
私のガンという言葉にうなずく程度。
やはり告知をするということに、世間一般の抵抗があるのだろうと思う。
話が入院のことに及ぶ直前、私のほうから手術は小倉の医療センターでしたいこと、その理由は第一にその病院が緩和ケアの施設を持っていること。
私が従兄弟の死を見届け、その経過を十分に承知している事等を告げると、Y先生は
「わかりました。そういうことならば、医療センターに提出する資料をそろえてあげま しょう。いつ行きますか?」
「できたら明日にでも行こうと思っています」
「じゃあ 明日朝取りに来て下さい」
ふと診察室内を見ると、もう患者は誰も居らず、数人の看護婦が私とY先生のやり取りを聞いていた。
一人の患者に突然降りかかった災難に立ち会う真剣なまなざしがあった。
病院を出たのは午後1時頃であった。
今日は子供たちが二人共家にいるように仕事の段取りをしていたので、帰宅後すぐに長男と次男を呼び状況を説明した。
当人たちはあまりピンときてないみたいだ。
まあ 見かけの私は健康そのものであるから仕方のないことであるが、当の私とそして智子はそれどころではないものがある。
特に智子は悲しみを表に出さずに皆の前で明るく振舞ってくれるのにはありがたく思う。
電話で取引先に連絡する。その他はそのうち話が伝わっていくだろう。
終日気が付くままに子供たちに私の入院中の事、また不幸にも私が死亡した場合の将来の事等について話をする。
大阪の妹にも電話をし、手術の日は来てもらうように頼んだ。
相変わらず「これからは智子を大事にせなあかんで」といわれる。
わかっとるわい、頼りになるのは智子だけやと思う。
前の家に住んでいる両親にも話した。
年老いた両親には出来るならば話したく無いがいつまでも隠しおおせるものではない。
できるだけ明るく話をするが、落胆はかなりのもので、「嘆いてもどうなるものではない。それよりも自分達の事を気を付けてくれ」としか言いようが無い。
皆に話をし気持ちが落ち着いたのか熟睡できた。
2002年4月16日(火) 手術21日前 医療センターに転医
今日も行けば何か検査をされるかもしれないと思い、朝食抜きで家を出る。
朝8時半にY医院に立ち寄り、検査データと紹介状をもらう。
その足で北九州医療センターに行き、受付を済まし診察カードをもらって、2階の外科外来に行くと、待合室に50人程の患者が待っていた。
先日にすることは済ませ、もう仕事のことは心配しないことに決めたので気持も楽で少々冗談もいい、智子と談笑しながら順番を待つ。
やがてA先生の診察室に入り、Y医院の紹介状と検査データを読んでもらう。
簡単な触診の後、この病院での検査日程を説明される。
看護婦が朝食のことを聞いたので摂ってない旨を告げると、「早速今日から検査を始めましょう。」言う。
検査指示書をもらい、言われた順番に回ることにする。
まず内科外来で内科医の問診を受ける。
次に上半身のレントゲン撮影、検尿、採血、肺活量、心電図の検査をされる。
再度元の外科外来に行き、入院までの検査日程と検査指示書をもらって本日の予定は終了した。
帰宅してしばらくすると父が心配して来た。
夕べ眠れなかったらしい。
再度昨日言ったことと同じ、体に気を付けるように言った。
眠れなかったのは父母だけではない、智子もそうだったらしい。
智子にはこれからが大変なんだから、今のうちはあまり気を使わずに、できるだけ体を休めて置くように頼んだ。
夜皆が仕事から帰ってから、社員を全員集め状況を説明する。
出来るだけ平常心で説明をしようと、事前に話すことを考えていたものの、やはり心の動揺はかくしきれない。
聞いている社員のほうも、突然の話に戸惑っている。長居は無用と
「仕事のことは任せる、宜しく頼むと。」 と言って私は家に入る。
全員残って作業打ち合わせをやっていた。
もう安心だ。
先日電話をしておいた従兄弟の和己が来る。飲んで来たが「今日は酒なしやで」と言って話し始める。
飲みたそうだったが飲むわけにはいかない。
今まで二人でよく飲み歩いたが、もうそんなことは出来ないだろうと少し悲しくなる。
2002年4月17-21日
検査も何もなく家で気楽に過ごす。
20代はじめのあまり責任のない仕事をしていた時以来30数年ぶりのストレスの無い毎日、昼間からゆっくりテレビを見、読書をする。
食欲もある、睡眠も十分、こんないい生活止められんと公言する。
智子も父母も疲れただろうと気を使ってくれるけれど、現在の病状ではまだ何も感じない、排便後少し痛みがあるだけである。
大阪の姪たちからの見舞いの電話。
昨年大腸癌で手術をした叔父が心配してきて叔父の話を聞く。
当時はあまり病気のことを聞くのは悪いと思い、よく話を聞いていなかったが今回は自分のことでもあるので熱心さが違う。
参考にさせてもらった。