会津若松城
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■会津若松城を撮る 〜会津若松城をぶらりと歩きながら、気ままに撮った写真を紹介します〜
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| 会津若松城ひとくちメモ | |||||||
| ■所在地:福島県会津若松市追手町1-1 ■城郭様式:平山城 ■別名:鶴ヶ城、小田垣の城、黒川館、黒川城 ■築城主:蘆名氏 ■城主:蘆名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、松平氏・保科氏 ■築城年代:南北朝時代 ■遺構:天守台、石垣、曲輪、水堀、麟閣 |
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■歴史 至徳元年(1384)、蘆名直盛によって築城された黒川城がこの城の発祥とされる。天正17年(1589)に伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし、黒川城に入城するが、豊臣秀吉の攻勢に屈する。伊達氏に代わって、天正18年(1590)、秀吉配下の蒲生氏郷が移封され、地名を若松に改称。城郭の整備が行われる。氏郷の後、蒲生秀行の時、家中騒動を理由に92万石から宇都宮18万石に移封。上杉景勝が120万石で春日山から入城した。しかし、関ヶ原の戦いで石田三成方についたため、米沢30万石に移封。再び蒲生秀行が入城した。その後、蒲生氏は忠知の時に伊予松山城に移封。入れ替わりで松山から加藤嘉明が入封し、その子の明成によって、現在見られる城郭へと改変した。寛永20年(1643)に加藤氏は改易され、保科正之が、23万石で山形から入城。これ以後、明治維新まで保科氏の居城となり、戊辰戦争では徹底抗戦。新政府軍と1カ月に及ぶ籠城戦を繰り広げた末に降伏した。 ■現在 天守は外観復元ではあるが、見事な石垣水堀が現存している。このほか、干飯櫓と南走長屋などが木造で復元されている。 |
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| 会津若松城大天守。蒲生氏郷時代の石垣がそのまま残るが、野面積でも特に堅固な牛蒡(ごぼう)積といわれる積み方である。現在の天守は昭和45年に外観復元されたものである。 |
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