ブダペスト-01・ブダ王宮・漁夫の砦・ブダ市街地(ブダペスト・ハンガリー)

ブダペスト-01・ブダ王宮・漁夫の砦・ブダ市街地(ブダペスト・ハンガリー)
ブダペストの象徴ははやりブダ王宮でしょう。王宮と並びに在る漁夫の砦を紹介します。
概論 (2017年 1月)
ハンガリーというのは英語の名称でスペイン語ではウングリア、現地の言葉では国名をマジャルと呼んでいるのだそうです。多分ジャパンと日本みたいな関係でしょう。ハンガリーという国の名前はよく知っていて学校の社会科でハンガリーは特殊な言語であると習い、歴史ではオーストリア=ハンガリー帝国、ハンガリー動乱等と欧州史の中でも結構出て来ます。音楽の世界でもハンガリー出身の有名な作曲家としてはリスト、バルトークなどが挙げられます、またブラームス作曲の「ハンガリー舞曲」はお馴染みの曲です。
ただ人口約1千万人のこの国は観光に出掛ける人はそこそこ居ても余り深くは知られていないように思います。調べてみますと日本でハンガリー語の専攻がある大学は大阪大学外国語学部のみそれも定員僅か15名、また外務省のページをみますとハンガリー語の専門家の紹介があり、入省の際に第五志望にも入っていない言語だったと書かれていました。名前を知っている、観光に行く人は結構いて「ドナウの真珠」と称される景色を見る人は多いのでしょうが、実は余りよく分からない国というのが実情のようです。
ハンガリーの歴史は複雑で理解するのが大変です。まずは国旗について調べてみますと色々なものが出て来ます。時代順に並べようと思いましたがよく分かりません。現在はシンプルな三色旗ですが、旧国旗で調べますと色々と出て来ます。赤白緑の後ろの配色は変わりませんが中の紋章はかなり変化しています。


二重帝国成立から、帝国崩壊まで用いられた国旗

(国旗:1867年 - 1918年)

(国旗:1867年 - 1918年・二重帝国)

(国旗:1918年から1919年)
1949年から56年の「ハンガリー動乱」までのハンガリーの国旗
(国旗:1949年から56年)
マジャル人は、ウラル山脈~アゾフ海(クリミア半島の北東にある海。黒海の一部)あたりからやってきたといわれている民族なのだそうです。当時は遊牧を営んでいたといわれています。ハンガリーの建国は896年とされています。
その後、君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)を建国し、その後国土を広げ大国に発展しました。ブダペストの街を歩いていると建国の王であるイシュトヴァーン1世の名前を目にします。王国はその後も「聖イシュトヴァーンの王冠の地」とされていて、その後の他国による支配の際にも栄光の時代があった事を心の拠り所にしていたのかも知れません。1241年にモンゴル軍が侵攻しハンガリーは占領され多大な損害が生じました。モンゴル軍は次の目標であるウイーンを目指す時にオゴタイが亡くなり、ハンガリーを放棄して引き上げて行きました、やられ損でした。
1526年にはオスマンが侵攻し国王が戦死する敗北を喫し、国土の大部分はオスマンの直轄地となり、国土の内、西側の一部はハプスブルク家の管轄、ブラチスラヴァを首都とする王領ハンガリーとなり分割されてしまいました。分裂は約150年続き、ブダペストはイスラム教徒が増えキリスト教徒は数える程になったそうです。今でもブダペストの街を歩きますとプラハ、ウイーン、ブラチスラヴァとは異なる雰囲気、スペインと同様に何となくイスラムの影響を感じます。オスマンによる第二次ウイーン包囲でオスマンが敗戦した事によりハンガリーのほぼ全域がハプスブルク領となり、それに不満を持つハンガリー貴族が抵抗を試みるも1711年までに鎮圧されてしまい、ハプスブルク領となりました。

(地図:1530年から1541年の攻防)
19世紀も末になるとオーストリア帝国内部で民族紛争が起き、ハプスブルク家はハンガリー貴族と結び150年前の日本では幕末明治維新の時代、パラグアイが三国戦争に負けてブラジルにアスンシオンを占領された年、1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立しました。ハンガリーでは独自の内閣や議会も出来、1896年にはハンガリー建国千年記念行事が盛大に開催され、記念博覧会も行われました。現在市民公園となっている場所で市内中心部から地下鉄も敷設され、美しい国会議事堂も建設されるなど現在でもその栄光の時代を窺い知る事が出来ます。日本の昭和15年に盛大に開催された皇紀二千年祝賀のようなものなのでしょう、なお、建国の年、896年といのは日本では平安時代、中国は唐代で驚くほど昔ではありませんね。
第一次世界大戦後1918年に帝国は解体され、、カーロイ・ミハーイの主導によりハンガリー民主共和国が二重帝国から独立しました(第一共和制)。しかし軍事力は弱体であり、東部のトランシルヴァニアをルーマニアに、北ハンガリー(スロバキア・カルパティア・ルテニア)は突如出て来た「チェコスロバキア主義」の旗印の元、チェコスロバキアとして占領されてしまいました。共和制は間もなく崩壊し、これに代わりハンガリー社会主義連邦評議会共和国が誕生、これはロシア革命後に欧州で初めて出来た共産主義国家でしたがハンガリー・ルーマニア戦争が起き、ルーマニア軍がブダペストを占領し崩壊、1920年にはハンガリー王国が成立、、ハプスブルク家の者は王位に就けず、王の居ない王国としてずっと空位で摂政が統治する形でした。
第二次世界大戦ではドイツ側で参戦、ソビエトと交戦するも敗退し、連合国側と交渉するも逆にドイツに占領されてしまいました。その後もソビエトと戦うも1945年にブダペストは陥落、ソビエトはハンガリー全土を占領しました。ハンガリーは戦災とソ連軍の略奪によって40%の国家資産を失い、その上でソ連軍の駐留費用と賠償を支払わなければなりませんでした、また戦時中にはハンガリーは完全にドイツの経済圏に組み込まれていたため、ドイツの経済はハンガリーの経済をも崩壊させました。
第二次世界大戦後、1946年にハンガリー第二共和国となり、自由選挙が行われ小地主党が過半数の得票を獲得、共産党は17%の得票に過ぎませんでした。しかしながら次第にソビエトの影響が強まり、小地主党を壊滅させられ、次に有力政党であった社会民主党を事実上吸収し共産党の一党独裁が確立しました。そして民主化は封じ込まれ1949年にスターリン率いるソビエトの衛星国であるハンガリー人民共和国が成立し、ライバルの粛清そして秘密警察の暗躍があり、ラーコシ・マーチャーシュがミニ・スターリンとして君臨し、個人崇拝を推し進め恐怖政治で人々を抑え付けました。
スターリンの死後、ポーランドでの民主化運動に連動し1956年にソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起が起きました。(ハンガリー動乱)ナジ首相は中立化を宣言し共産圏からの離脱を目指しますが逆にソビエト軍の介入を招き、数千人の市民が殺害され、ナジ首相など500人を超える人がが処刑され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡する事態となりました。動乱の後は徹底的な調査が行われ多くの市民が粛清され、その後30年にわたりこの事件について語る事は禁じされ、多分この時代、ソビエトの衛星国の中でも特に重苦しい雰囲気であった事でしょう。
それでも1961年にはカーダール政権は融和的新路線を打ち出し穏健な政治路線を踏み出し、プラハの春の影響もあったのでしょう、1968年には新経済メカニズムと称する経済改革が行われ、市場経済が導入されました。これ以降のハンガリーの政治体制はグヤーシュ共産主義(グヤーシュとはハンガリーの代表的な煮込み料理)であると呼ばれ、他の東欧諸国に比べて経済状態は良好であったのですが、それも次第に停滞して行きました。
なお、現在ではハンガリー動乱の際にハンガリーの市民が政府に対して蜂起した10月23日は祝日になっています。
1989年にソビエトの変化にいち早く反応し、ハンガリーは改革に着手し、オーストリアとの間の「鉄のカーテン」を撤去し、いわゆる「汎ヨーロッパ・ピクニック事件」を起こし東欧の共産主義諸国にも大きな影響を与え、東欧革命を急速に促し、ベルリンの壁崩壊およびドイツ再統一、ソ連崩壊など一連の冷戦終焉に向かう流れを生みました、ただ他の国に先行して改革を進め先着の利益を得ようと考えていたようですが、その目論見は外れたようです。
1996年にはOECD・経済協力開発機構、1999年にNATO・北大西洋条約機構、2004年にEU・ヨーロッパ連合に加盟し、2007年にはシェンゲン条約を施行し名実ともにヨーロッパの一員になっています。モンゴル、オスマン、オーストリア、ルーマニア、ドイツ、そしてソビエトと色々な国外の勢力による侵攻、占領、支配を受けて来ましたがようやく本来の独立国家として歩み出したところというのが今の姿なのでしょう。
この数年、シリア等の西アジアからの難民が押し寄せ、EUは各国で難民を分担する案を出し理解を求めましたが、国民投票を行い圧倒的な多数で反対の意志を示しました、これはマジャール人による国民国家の様相が濃いことと、EUという外の勢力に決められる事への反発もあるのでしょう、自分達の事は自分達で決めるという意志を示したかったのだと思います。1699年までと割合近い時代までオスマンに占領されていて、近くのバルカンでは宗教対立から内戦に陥りまだ完全には解決していない現状からイスラムに対して強い拒否感があるのでしょう。最近ではロシアのプーチン大統領が訪問しロシアとの関係強化を模索する等、独自の路線を歩んでおり、今後どのような方向に進むのか注目しています。
150年間の年表
1867年 オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立、ハンガリーの自治が大幅に拡大
1896年 建国千年記念行事が盛大に執り行われる。
1918年 第一次世界大戦の終結、オーストリア=ハンガリー二重帝国の解体、ハンガリー民主共和国の成立(第一共和制)
1919年 共産主義国家、ハンガリー社会主義連邦評議会共和国の成立、ハンガリー・ルーマニア戦争で敗戦
1920年 ハンガリー王国成立、王は決まらず空位
1941年 ドイツ側に付きユーゴスラビア侵攻、以降第二次世界大戦ではドイツなどの枢軸側として参戦
1944年 ソビエトによる占領
1946年 ハンガリー共和国(第二共和制)が成立
1949年 ソビエトの衛星国であるハンガリー人民共和国が成立、スターリン主義国家
1956年 ハンガリー動乱
1968年 プラハの春の年、経済改革が行われ、市場経済が導入。これ以降のハンガリーの政治体制はグヤーシュ共産主義と呼ばれる
1989年 ハンガリー共和国(第三共和制)が成立、共産主義の終焉
1996年 OECD・経済協力開発機構に加盟
1999年 NATO・北大西洋条約機構に加盟
2004年 EU・ヨーロッパ連合に加盟
2007年 シェンゲン条約を施行し名実ともにヨーロッパの一員に

(地図:12世紀のハンガリー王国)

(地図:オーストリア・ハンガリー二重帝国)
ハンガリー語(マジャル語)ですが、ハンガリー全土とスロバキアそしてルーマニアの一部に話者がいます。他の欧州諸国のほとんどはラテン、スラブ、ゲルマン等の語族に別れていますが、インド・ヨーロッパ語族の言語の場合、旅行してもまだ何となく見当が付きますがハンガリー語はウラル語族の言語で全く異質で看板も電車の案内も全く分からずお手上げです。元々マジャル人はウラル山脈を起源とし、フィンランド語、エストニア語等と同様にウラル語族の言語になっているとの事ですが中央ヨーロッパの国家で周囲のインドヨーロッパ語族の言語に吸収されず残ったのは不思議な気がします。周辺の国家はスラブ系もしくはゲルマン系の言語ですが近隣諸国と言語が近いので親近感も湧くでしょうがマジャル人は多分よりかなり閉鎖的であった事でしょう。現在でもスロバキアの国民の10%はハンガリー系でマジャル語話者ですが、現在の政権はスロバキア語の国語化を図り反発が広がっています。今後はハンガリー国外のマジャル語話者は少なくなって行くのでしょうね。

(地図:ハンガリー語(マジャル語)話者)
ブダペストから200キロ、400キロ、600キロの円を描いてみます。200キロ以内にハンガリーとスロバキアのほぼ全域が入ります。ブダペストの中心部からスロバキア国境まで僅か37キロの距離で、スロバキアは第一次世界大戦前までは北ハンガリーという位置付けであったのが納得出来ます。国土の面積は北海道より少し大きい程度、韓国とほぼ同じですが7ヶ国と国境を接しています。オーストリア、スロバキア、ウクライナ、ルーマニア、セルビア、クロアチア、スロベニアです。バルカン諸国と国境を接しており、トルコやシリア等の西アジアにも近い位置にあります。

(地図:ブダペストから 200キロ、400キロ 600キロ)
1000キロでイスタンブール、1500キロでロンドン、モスクワ、チェニスなどがあり、欧州のほぼ全域に行く事が出来ます。

(地図:ブダペストから 500キロ、1000キロ 1500キロ)
比較する為にアスンシオンからも同様に円を描いてみました。1000キロでブエノスアイレス、サンパウロ、サンタクルスなど、1500キロでようやく隣国の首都、ラパス、ブラジリア、そしてサンティアゴに達します。某欧州の国はアスンシオンでの領事業務を全てブエノスアイレスに移管しましたが欧州での隣国の距離感で簡単に考えているのではないかと疑っています。

(地図:アスンシオンから 500キロ、1000キロ 1500キロ)
1848年にハンガリーの首都はブラチスラヴァからペストに移され、1867年アウスグライヒ政策、丁度明治維新の年にハンガリーはオーストリアと二重帝国となり、1873年にブダと古いブダを意味するオーブダそして対岸のペストが合併してブダペストとなり、首都になったのだそうです。現在でも、ハンガリーでは、ブダペストを単にペストと呼ぶことが多いそうでブダの方はおまけ的な位置づけのようです。元の政治の中心のブダと商業が発達したペストの合併、福岡と博多の合併みたいですね。大都市圏人口は330万人となっています。ハンガリーの人口が大体1千万ですので約1/3が都市圏に住んでいる事になります。
ブダペストを観光してみて感じたのはハプスブルク帝国のハンガリーの存在が大きくなり1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国となりウイーンと共にブダペストが帝国の中で中心的な都市となり、1896年に挙行された建国千年記念行事に合わせて多くの建造物、地下鉄の建設、市民公園等の整備が進みました。現在観光地となっているのはほとんどこの時代の遺産と言えます。ただその後1918年の第一世界大戦の敗戦からは良い事が無く1989年にソビエトの衛星国から解放されるまで暗黒の歴史を歩んで来ています。過去の素晴らしい栄光の遺産だけを見てブダペストは綺麗な都市と言うのは簡単ですが、百年間苦労を重ねて来ている事を感じながら街を散策しました。過去の栄光の都市から未来に向かう発展性の高い街への変身はまだこれからという印象を抱きました。
ブダ王宮 (2017年 1月)
1241年に建造されて以来、破壊と再建の歴史を繰り返してきたブダ王宮、最初に築かれた王宮は14世紀にゴシック様式へと改築。しかし17世紀に入り、オスマン帝国軍の攻撃で王宮は跡形もなく破壊され、その後ハプスブルク家の下でバロック様式で再建されたものの、19世紀に大火災でほぼ焼失、再び建て直したのも束の間、今度は第一次世界大戦、第二次世界大戦と立てつづけに大戦が起こり、またもや甚大な被害を受け、大規模な修復が必要な事態になり、現在の建物は1950年代になって完成したものなのだそうです、それでももう50年以上経過している訳で新しいという感じではありません。なお、相次ぐ戦乱で中の調度品は散逸してしまい、装飾品などは無くなっています。

(写真:ペスト側から見たブダ王宮)

(写真:ブダ王宮-01)
ドナウ川沿いの道で王宮の下に豪華な入口があります。

(写真:ブダ王宮-02)

(写真:ブダ王宮-03)

(写真:ブダ王宮-04)

(写真:ブダ王宮-05)

(写真:ブダ王宮-06)
王宮の横に土産物店があります。

(写真:ブダ王宮-07)

(写真:ブダ王宮-08)

(写真:ブダ王宮-09)

(写真:ブダ王宮-10)

(写真:ブダ王宮-11)

(写真:ブダ王宮-12)
ブダ王宮内 (2017年 1月)
歴代の王が居城として使ってきた王宮内部はブダペスト歴史博物館となっています。中は王宮という感じは無いですね。

(写真:館内入り口付近)

(写真:館内-01)

(写真:館内-02)

(写真:館内-03)

(写真:館内-04)

(写真:館内-05)

(写真:館内-06)

(写真:館内-07)
古い楽譜です。

(写真:館内-08)

(写真:館内-09)
監視をする人が座っています。来た人への案内をするサービス担当ではないようです。

(写真:館内-10)

(写真:館内-11)

(写真:館内-12)

(写真:館内-13)

(写真:館内-14)
昔のブダペストですね。

(写真:館内-15)

(写真:館内-16)
オーストリア=ハンガリー帝国末期のポスターですね。

(写真:館内-17)
ハンガリー王国の時代ですね。

(写真:館内-18)

(写真:館内-19)
共産主義の時代ですね。

(写真:館内-20)

(写真:館内-21)

(写真:館内-22)
スターリンです。

(写真:館内-23)
ブダ王宮からドナウ川の景色 (2017年 1月)
ドナウ川の両岸に広がるブダペストの街はその美しさからドナウの真珠と呼ばれています。ドナウ川はドイツを源流とし、東に向かって黒海まで10ヶ国を流れる欧州第二の大河です。ウイーン、ブラチスラヴァ等を通りこの辺りは中流域になります。

(写真:ブダ王宮からの景色-01)
ブダペストと言いますとこの景色がよく出て来ます。川が青いですね、本当に美しき青きドナウですね。

(写真:ブダ王宮からの景色-02)
セーチェニー鎖橋です。

(写真:ブダ王宮からの景色-03)

(写真:ブダ王宮からの景色-04)
白く見えるのは氷です。

(写真:ブダ王宮からの景色-05)

(写真:ブダ王宮からの景色-06)

(写真:ブダ側河岸から-01)

(写真:ブダ側河岸から-02)

(写真:ブダ王宮の下河岸の様子)
ブダ王宮から漁夫の砦へ (2017年 1月)
王宮から漁夫の砦に向かう道は昔の雰囲気が良く残っています。この地域に自動車で入る時にはゲートがあり、制限をかけているようです。

(写真:ブダの丘・街並み-01)

(写真:ブダの丘・街並み-02)

(写真:ブダの丘・街並み-03)

(写真:ブダの丘・街並み-04)

(写真:ブダの丘・街並み-05)

(写真:ブダの丘・街並み-06)

(写真:ブダの丘・街並み-07)

(写真:ブダの丘・街並み-08)
漁夫の砦付近 (2017年 1月)
王宮からしばらく歩くと漁夫の砦、そしてマーチャーシュ聖堂があります。
マーチャーシュ聖堂は14世紀後半に華麗な後期ゴシック様式で建造されたのだそうですが、その後オスマンの時代にはモスクに改造されオスマン駆逐後にはバロック様式にしようとするも上手く行かず改めて元のゴシック様式に改装され、その後第二次世界太戦で被害を受け、1960年代に修復され現在に至っているそうです。

(写真:マーチャーシュ聖堂-01)

(写真:マーチャーシュ聖堂-02)

(写真:三位一体広場-01)

(写真:三位一体広場-02)
漁夫の砦は、1895年から1902年にかけて、建国千年祭における市街美化計画の一環として建てられたものなのだそうです、ハプスブルクの栄光の時代ですね。ユニークな名前の由来は中世にドナウの漁師組合がこの場所を守っていたからとか、なお聖イシュトヴァーンの騎馬像が中央に建っています。

(写真:聖イシュトヴァーン-01)

(写真:聖イシュトヴァーン-02)

(写真:漁夫の砦-01)

(写真:漁夫の砦-02)

(写真:漁夫の砦-03)

(写真:漁夫の砦-04)

(写真:漁夫の砦-05)

(写真:漁夫の砦-06)

(写真:漁夫の砦-07)
漁夫の砦からドナウ川の景色 (2017年 1月)
この砦の目的は時代から考えても戦争ではなく展望台でしょう。ここからの眺めは素晴らしいものです。王宮から眺めるのとまた多少違うのが良いですね。

(写真:漁夫の砦からの景色-01)

(写真:漁夫の砦からの景色-02)
国会議事堂が目の前に見えます。

(写真:漁夫の砦からの景色-03)

(写真:漁夫の砦からの景色-04)

(写真:漁夫の砦からの景色-05)

(写真:漁夫の砦からの景色-06)
自由橋(Szabadsag hid サバチャーク・ヒード)付近 (2017年 1月)
街に架かる4本の橋は世界遺産に指定されています。マルギット橋(Margit hid マルギット・ヒード)、くさり橋(Szechenyi Lanchid セーチェーニ・ランチヒード)、エルジェーベト橋(Erzsebet
hid エルジェーベト・ヒード)、自由橋(Szabadsag hid サバチャーク・ヒード)です。その内一番南に在るのがこの自由橋です。自由橋は帝国時代の1896年に建設され、当初はフランツ・ヨーゼフ橋と呼ばれていたのだそうですが、二重帝国が終焉すると名前はさっさと自由橋に変えられてしまったのだとか、王妃エルジェーベトはハンガリーで人気があったので橋も広場の名もそのまま残っています。自由橋の柱にはハンガリーの建国に関わる伝説の鳥トゥルルが飾られています。

(写真:橋の前の丘-01)

(写真:橋の前の丘-02)

(写真:自由橋(Szabadsag hid サバチャーク・ヒード)-01)

(写真:自由橋(Szabadsag hid サバチャーク・ヒード)-02)

(写真:自由橋(Szabadsag hid サバチャーク・ヒード)-03)

(写真:自由橋(Szabadsag hid サバチャーク・ヒード)-04)

(写真:自由橋(Szabadsag hid サバチャーク・ヒード)-05)

(写真:自由橋(Szabadsag hid サバチャーク・ヒード)-06)

(写真:自由橋(Szabadsag hid サバチャーク・ヒード)-07)
エルジェーベト橋(Erzsebet hid エルジェーベト・ヒード)が見えます。こちらも世界遺産に指定されている4つの橋の一つです。

(写真:エルジェーベト橋(Erzsebet hid エルジェーベト・ヒード))

(写真:自由橋(Szabadsag hid サバチャーク・ヒード)ペスト側)
ブダの風景 (2017年 1月)
ブダの街の様子を紹介して行きます。ドナウ川に沿ってブダを散策します。ペスト側の壮麗な建物が見えます。
セーチェニー鎖橋の近くです。

(写真:ドナウ川沿い-01)
エルジェーベト橋が見えます。

(写真:ドナウ川沿い-02)
対岸にはペスト市街地の重厚な建造物が見えます。

(写真:ドナウ川沿い・向かい側の景色)
世界遺産に指定されている4つの橋の一つ、一番北に位置しているマルギット橋付近です。

(写真:マルギット橋付近-01)

(写真:マルギット橋付近-02)

(写真:マルギット橋付近-03)

(写真:マルギット橋付近-04)

(写真:マルギット橋付近-05)

(写真:バルトーク・ベーラ通り-01)

(写真:バルトーク・ベーラ通り-02)

(写真:バルトーク・ベーラ通り-03)

(写真:バルトーク・ベーラ通り-04)
地下鉄シェルカルマン駅前

(写真:地下鉄シェルカルマン駅前-01)

(写真:地下鉄シェルカルマン駅前-02)

(写真:路面電車の終着駅付近-01)

(写真:路面電車の終着駅付近-02)