東大門付近・鍾路・清渓川(大韓民国ソウル市 )

東大門付近・鍾路・清渓川(大韓民国ソウル市)
昔からの市街地であった江北の中で昔からの風情が一番残っているのが東大門付近です。東大門とその周辺、そして朝鮮王朝時代から賑わいを見せていた鍾路、下水のようになり一旦は道路なりその後復活した清渓川などを紹介して行きます。
東大門付近の地図 (2012年 9月17日)
東大門付近の地図を現在ものと1930年の京城時代のものとを並べてみました。現在は市場があり繁華街として賑わっている街の中心という感じですが当時はしっかりと城壁があり街の外れであった事が分かります。現在は地下鉄一号線が走っている鍾路には市電が走っていたのですね。

(地図:東大門付近・鍾路・清渓川)

(地図:東大門付近・鍾路・清渓川:1930年)
東大門とその付近 (2012年 9月21日)
東大門の正式名称は「興仁之門」とおいうのだそうです。朝鮮王朝の成立当初、東西南北に四大門が創建され、それぞれの名前は儒学の徳目である儒教の徳目である「仁義礼智」から取ったのだそうです。東西南北の順に一字づつが割り当てられ東大門には最初の文字である「仁」が使用されたのだそうです。当初は興仁門と三文字であったのだそうですが運気が足りないという事で一文字を足して「興仁之門」という名前になったのだそうです。秀吉の朝鮮出兵の際にはこの門から小西行長の軍が漢城に入城したのだそうです。どのような思いで小西軍はこの門を見ていたのでしょうね。その後数回修理し、また戦火で焼け落ちるなどし、現在の門は1969年建て直しされたものなのだそうです。日本の統治時代崇礼門を宝物第1号に、興仁之門を宝物第2号に指定し南大門と東大門を同格に扱ったのですが、韓国の時代となり南大門は国宝にそしてこの東大門は新しく再建されたという事で格下の宝物に指定されたのだそうで、多くの人達はこれを知らず南大門が焼け落ちた時に東大門が国宝一号に昇格すると思っていたのでそうです。また鍾路に市電を通す時には土台の一部を削ったそうです。実際に見ますと南大門のような荘厳な雰囲気は無く埋もれていて何となくくすんだ印象がありイマイチという印象でした。
東大門の付近には市場と呼ばれる小さな店舗が密集した商店街が多くありますが最近は再開発が進み大きなビルが次々と建設されています。伝統的な市場も様相が一変しモダンな大型商業施設に模様替えになるのかも知れませんね。それでも江南の繁華街などと比較しますと何となく野暮ったい印象があり、歩いている人も年配の方が多いように見えます。街を近代的にして若い人を呼び込みたいとの思惑があるのでしょうが、市場として問屋として長い付き合いの客も大切にして長年続けて来たやり方で商売を行いたいと考えている人も多い事でしょう。時代が変化し競争相手の繁華街もそれぞれ発展しており将来向けてどのような戦略を取って行くのか楽しみです。

(写真:東大門-01)

(写真:東大門-02)

(写真:東大門付近-01)

(写真:東大門付近-02)
大きなビルが建設されている。

(写真:東大門付近-03)

(写真:東大門付近-04)

(写真:東大門付近-05)

(写真:東大門付近-06)

(写真:東大門付近-07)

(写真:東大門付近-08)

(写真:東大門付近-09)

(写真:東大門付近-10)

(写真:東大門付近-11)

(写真:東大門付近-12)
伝統的なスタイルでは無く小奇麗な屋台風の店が増えて来ています、今後はこのような店が増えて来るのでしょうね。

(写真:東大門付近-13)

(写真:東大門付近-14)

(写真:東大門付近-15)
東大門の周辺 (2012年 9月21日)
東大門の周辺は日本の繁華街の裏道に似た雰囲気です。

(写真:東大門周辺-01)

(写真:東大門周辺-02)

(写真:東大門周辺-03)

(写真:東大門周辺-04)

(写真:東大門周辺-05)

(写真:東大門周辺-06)

(写真:東大門周辺-07)

(写真:東大門周辺-08)

(写真:東大門周辺-09)

(写真:東大門周辺-10)

(写真:東大門周辺-11)

(写真:東大門周辺-12)

(写真:東大門周辺-13)
鍾路(2012年 9月21日)
鍾路は漢城が出来た当時東西を結ぶ幹線道路して造られました。19世紀の終わりにはここに韓国最初の市電が施設され、その後繁華街に発展し日本統治時代には現在の明洞である明治町が主に日本人の街であったのに対してこちらは朝鮮の地元の人達の街であったそうです。現在でもソウル江北の東西を結ぶ幹線道路で途中に多くの観光地があるので市内観光をする際にもここをよく通行します。市電は廃止され現在は地下鉄一号線が走っています。
朝鮮王朝の時代には漢城の中は全て国有地であり、自由に家を建てる事、高い建物は禁じられていました。オンドルの効果を上げる必要もあり低い平屋が連なる街でした。道路に仮の家として家が建てられて道幅が狭くなっています。下水設備も無く相当汚い街であったようです。日本の統治となり鍾路は近代的な通りとなり市電も走り綺麗な通りに変わりました。

(写真:鍾路・1895年)

(写真:鍾路・1920年)

(写真:鍾路-01)

(写真:鍾路-02)

(写真:鍾路-03)

(写真:鍾路-04)

(写真:鍾路-05)

(写真:鍾路-06)

(写真:鍾路-07)

(写真:鍾路-08)

(写真:鍾路-09)

(写真:鍾路-10)

(写真:鍾路-11)

(写真:鍾路-12)

(写真:鍾路-13)

(写真:鍾路-14)

(写真:鍾路-15)

(写真:鍾路-16)

(写真:鍾路-17)

(写真:鍾路-18:鍾路5街停留所)

(写真:鍾路-19)

(写真:鍾路-20)
清渓川 (2012年 9月21日)
東西の幹線道路である鍾路の直ぐ南側を並行して流れているのが清渓川です。名前からしますと当初は綺麗な流れであったのでしょう、朝鮮王朝の時代、首都となり当初から街の中央を東西に流れるこの川は生活に使われ街の下水の役割を担っていたようです。特に朝鮮戦争の後は北からの避難民等がスラムを作り衛生状態は劣悪になっていたそうです。この程度の幅の川ですと多分相当汚染されかなりの悪臭が漂っていて住むには余り良い環境では無かったものと想像します。対策として採られたのが「臭いものに蓋」という事で川を暗渠にしてその上に高速道路を作る事で1971年に完成しました。以前ソウルに来た時にはここは道路で高架の道路が走り薄暗く排気ガスが溜まり雰囲気は余り良くはありませんでした。
韓国が偉いと思うのはここから川に復元する事を計画、実行した事で、2005年に完成したのだそうです。現代は下水が整備され、水質は良好でここで水遊びをする事が出来るレベルなのだそうです。東大門近くには噴水も作られ、両側は歩道となっており散策出来るようになっています。河岸も単にコンクリートで固めるだけでは無く植物も植えより自然に近い状態にしています。川に戻していますが決して復元では無く新しく清流を作ったという印象で、ようやく都市化が進む前の名前の通りの川になったのだと思います、多分人が住むようになって以降これ程綺麗であった事は無かった事でしょう。大きな幹線道路が一本無くなったので交通渋滞が増えたのでは無いかと思っていましたが近くの道路の拡張する等の対策をしっかり行ったそうで交通事情が悪化する事は無かったようです。この川が汚染されていたのでこの付近は余り良い場所では無かった為にこの付近が今でも何となく場末的な雰囲気があります。清流となり綺麗な場所に変身し最新のウォーターフロントとなり評価も一変したのでこれからこの付近は人気のスポットして変貌を遂げる事でしょう。

(写真:清渓川・1965年)

(写真:工事前の清渓川)

(写真:清渓川-01)

(写真:清渓川-02)

(写真:清渓川-03)

(写真:清渓川-04)

(写真:清渓川-05)

(写真:清渓川-06)

(写真:清渓川-07)

(写真:清渓川-08)

(写真:清渓川-09)

(写真:清渓川-10)

(写真:清渓川-11)

(写真:清渓川-12)

(写真:清渓川-13)

(写真:清渓川-14)

(写真:清渓川-15)

(写真:清渓川-16)

(写真:清渓川-17)
清渓川に沿っている商店 (2012年 9月21日)
清渓川に沿って三階建ての建物がずっと続いています。見事に並んでいるのですが中に入りますと衣類の店がぎっしりと入っていました。

(写真:清渓川に沿った建物-01)

(写真:清渓川に沿った建物-02)

(写真:清渓川に沿った建物-03)

(写真:清渓川に沿った建物の中-01)

(写真:清渓川に沿った建物の中-02)

(写真:清渓川に沿った建物の中-03)

(写真:清渓川に沿った建物の中-04)

(写真:清渓川に沿った建物の中-05)

(写真:清渓川に沿った建物の外)