
パラグアイのインディオ (先住民族)
写真:インディオの男性達
また、多くの人達は民芸品を作り、またあるグループは観光インディオ村を作り、わざわざ昔の民族衣装を身に付けて観光客からお金を貰い生活をしています。このような人達はカメラを向けると必ずポーズを取り、お金を要求して来ます。また広い国土の奥地には未だに文明社会の侵入を拒み、古来からの生活スタイルを維持している人達が居、政府が保護にあたっているとも聞いています。しかしながら、このような全国民から見ますとごく小数派であり、特に経済活動の側面から見ますとほとんど無視する事が出来るようです。
写真:インディオの女性達
伝統的な衣装は写真でも分かりますように非常にカラフルで目に鮮やかなものです。
このパラグアイに住んでかなりになりますが、たまたま彼らが民族衣装を着て大きなイベントに出るというので撮影したのがこの写真です。盛装した彼らを見たのはここにある写真の1回だけです。イベントに出る直前でかなり緊張していました。
多くの方がイメージされているパラグアイらしい写真を撮影出来満足しております。
普段、街を歩いていて見掛けるインディオは下の写真のような路上の土産物売りです。手製の土産物を並べて観光客相手に売っています。セントロを歩けばこのような光景を見る事が出来ます。

写真:インディオの路上土産物屋
メールでいただいた情報を掲載します。
01・マカ族に関して、グアラニー族の習慣*A氏よりの情報 マカ族はグァラニー族に属していない。彼らはアルゼンチンとボリビアの国境の地域から、やってきました。 多くのマカ人はグァラニー語が話せるが、本来の言葉と文化も違います。皆さんが御存知のように多くのパラグアイ人はグアラニー族とスペイン人の混血の結果です。いわゆる「mestizo」ですね。スペイン人がmestizoという言葉を差別用語と して、使ったので、あまり使ってほしくないです。そいうわけで、たくさんのグアラニー族の習慣が残っています。例えば:
a) マテ茶(科学名:illex paraguayensis). マテ茶は色々な形で飲まれていますが
、多分、一番昔ながらの飲み方は「テレレ」です。テレレとは冷たいマテ茶のことで
す。
b)科学者を驚かせるほどの漢方薬の使用と知識
c)パンの代わりに「マンディオカ」という熱帯産のトウダイグサ科イモノキ属の植物を食べること。マンディオカは他の国ではタピオカ、カッサバ、ジュカという名義も
あります。
その他にも色々なグアラニー族の習慣がありますが、やはり一番著しなのは、グアラ ニー語を話すことだと思います。
02・グァラニーの分布に関する私見、マカの村*M氏よりの情報
一つ目の疑問ですが、単なる数字上の問題ではないでしょうか。16世紀には数十万のグァラニーがいたと言われていますし、他の非グァラニーも同じトゥピ・グァラニー語族である可能性も高いので、元々グァラニー系言語を話す人々のの勢力範囲だったとことろにスペイン系の人間が入って来たと思われます。パラグアイは独立後、まもなく鎖国政策をとりますが、これは、父親=スペイン系、母親=グァラニー系(あるいは他のトゥピ・グァラニー系)という組み合わせになり、子供は母親の言語を習得していったのではないでしょうか。だから、グァラニーは元々一大勢力であり、トゥピ・グァラニー語が基本だったパラグアイ東部で、グァラニー語(現在のものと大きく違う可能性はあります)が、現在の標準グァラニー語の基本を作ったのではないかと思うのです。二つ目の疑問ですが、グァラニーは大西洋からラプラタ河を北上してきたといわれていますし、ブラジル側にも6,500〜8,000人のグァラニーがいるといわれていることも併せて考えると彼らはラプラタ河流域で、生活しやすい場所を選んで各々の地にとどまったのであり、チャコで分断されているのではなく、チャコを迂回して移動していったのではないかと思うのですが、いかがでしょう。グァラニー(個人的見解から「族」はつけません)の神話をまとめた本があります。ピエール・クラストル著『大いなる語り−グアラニ族インディオの神話と聖歌−』 松(しょう)らい社(「らい」は変換できませんでした)クラストル独特の、というかフランス人独特の持って回った解説は少々難解ですが、彼があちらこちらのグァラニーから得た、<悪>を一つのキーワードとして語られる神話は、なかなか興味深いものです。現在、都市部のグァラニーがどんな暮らしをしているのか。私にもよくわかりませんが、確かにパラグアイ人は「グァラニー」を誇りに思っています。通貨もグァラニーだし、田舎では
グァラニー語が日常的によく使われています。通貨もグァラニーだし、サッカーチームにもグァラニーというチームがあるし(黄色と黒の縦縞が往年のタイガースを思い起こさせ。つい応援してしうまいます)。国歌にグァラニー・バージョンがあるくらいです。では、混血の方から見ると、グァラニーの人々はそう賛歌されていないような気がします(例えば公式的はインディヘナと呼ばれる先住民族がインディオと呼ばれたりする)。ここで、マカといわれる先住民の村の話を少ししたいと思います。マカの村は首都アスンシオン郊外にあります。周りを針金で囲ってあります。ちゃんとガイドがいて、村というかリザベーションみたいなところを紹介してくれます。村の入り口で、お年寄りがゲームに熱中しています。それは洋風の着物の上に、わざとらしく頭に羽根飾りをしていて、観光客には目もくれず、ゲームを楽しんでいます。ガイドがルールを教えてくれましたが、「見られる側の論理」がどこにあるのか、さっぱりわからず、戸惑ってしまいます。村の人は愛想をふるまくでもなく、網で作った民芸品を売りつけようとしまいます。写真もねだられましたが、無駄な金を使うのがばからしくて(当然写真は有料です)、断りました。ガイドに何が一番必要なのかと聞いたところ、外国人観光客にもっと来てもらいたいことだと語っていたが、はっきりいって面白くもなんともないこんな村に観光客が来るとは思えない。大体、何を見せたいというのだろう。何を見せたいというのだろう・動物園の一種ではないか。ご婦人たちは村にはいない。都市部に出て、手編みの鞄を作っている。はっきり言ってセンスが悪い。これでは買ってくれないだろうな、と思う。村の中では、いい年した若者がバレーボールに享受している。昼間っから。仕事がないんだろう。さっき言ったように、公園へ行くとおばさんたちが鞄を売っています。中にはグァラニーもいるかもしれません。キリスト宣教師によって理想郷を作ろうとしたグァラニーの夢は資本経済化した今、ほこりうるべきグァラニー像というのはいったい何でしょう。「チャコ地方、未接触部族、見つかる」
03・チャコ少数民族最新情報 アジョレオ族 (2004年 Oさん)
4ヶ月前の2004年3月5日、このニュースは世界中に衝撃を与えた。姿を現した場所は、Filadelfiaから125km北東にあるAlto
Paraguay県San Antonio村(アジョレオ族Totobiegosode居住地)で、男女共に9人の計18人だった。ABC
color、Ultima Hola新聞などによると、彼らはアジョレオ(Ayoreo)族Totobiegosodeの一つの小クランだった。3月3日、そこに調査に来た人類学者(GAT)にコンタクトを求めてきたらしい。新聞に載っていた写真の男性達は、褌のような物一枚で、体にはそれと同じCaraguataの繊維でできた帯のようにしたバッグをクロスさせていた。食料を運ぶときや木に登るときなどに利用するらしい。女性達はやはりCaraguata繊維の、長いスカートを穿いていた。近年、その地域で農場にする為の森林破壊が活発になり、彼らが住める環境がなくなってしまったため、出てきたという。これを受けて、アジョレオ族Totobiegosode援助団体「GAT」は、パラグアイ政府から76.000haの土地(以前から住んでいた地域)を彼らのために購入したようだ。また、その他に100.000haの土地も保証するよう、要求している(3月7日ABC
color新聞)。アジョレオ族はZamuco家族言語に属する。DGEEC2002統計によると、パラグアイには2016人が登録されている。以前はAlto
Paraguay県全域からボリビア、ブラジルにかけて生活していたようだ。現在パラグアイ内にはFiladelfia北東Alto
Paraguay県パラグアイ川付近、ボリビア国境付近など、合わせて9つの居住地がある。パラグアイの19部族の中でも最も伝統、文化が残っている部族といわれる。また、最も危険な部族ということでも知られ、様々な言い伝えがある。(「Los
indigenas del Paraguay」Jose Zanardini)。容姿は、オーストラリアのアボリジーニによく似ているといわれる。彼らには大きく3つのグループ(Guidaigosode,
Garaigosode, Totobiegosode)と4つのサブグループがある。そして、その下に7つのクランがある。今回現れたのは、そのクランのさらに下の小クランだ。Totobiegosodeは“イノシシが豊富にいる地域”に住んでいたらしく、それが名前の由来となっている。彼らは遊動型アジョレオ族らしい。漁業や狩猟、採集をしながら、それらの活動がし易いような、伝統的な土地管理を行っていたようだ(「Los
sueno del monte」GAT)。2004年5月18〜20日ボリビアで開かれたCOPICHAS(注)のグランチャコ会議の際、3日間共にしたパラグアイ・アジョレオ族代表「D」氏は、グァラニー語を話せず、アジョレオ語と片言のスペインを話した。また、パラグアイ・西グァラニー族が、ボリビアに住む彼らの親戚と同じグァラニー語で通じ合えなくなっているのに対し、アジョレオ族はボリビアに住む仲間と、彼らの言葉でコミュニケーションを取っていた。そして、驚くことに食事時、肉にはほとんど手をつけず、辛いものを好んだ。彼は定着型アジョレオ族「Guidaigosode」である。話を聞くと、現在の食事は米やトウモロコシなど炭水化物が中心だという。彼らは以前からあまり肉を食べない、少狩猟多採集型・半農耕部族だったのかもしれない。パラグアイに残る、いわゆる“未接触部族”は残り一つといわれ、それはやはりTotobiegosodeの小クランのようだ。チャコ地方の“ある地域”に住んでいるといわれている。(注)
ボリビア、アルゼンチン、パラグアイのグランチャコ地域に住むインディヘナ組織。パラグアイ・チャコ地方インディヘナ組織「CPI
py」には14部族が参加する。
04・西グァラニー族(2004年 Oさん)
パラグアイでは、未だに少数民族が自分達の故郷で暮らす権利が十分に認められていないと私は思う。それに対し、最近、パラグアイ少数民族の中で法人格取得のため、各部族の組織作りが活発に行なわれている。先導をきっているのは西グァラニー族(Guarani
Occidental)だ。彼らの組織「OPG(Organizacion Pueblo del Guarani) 」は、各居住地で、憲章の同意を得、今年7月にパラグアイ政府に紹介し、今年中には法人格を取得できるだろうといわれている。西グァラニー族はチャコ少数民族の中で最も権力を持っている部族だ。最近ではパラグアイ初のインディヘナ神父(西グァラニー族)誕生として話題を浚った。自己名称はただの“グァラニー族”だが、東方に住んでいるいくつかのグァラニー族と識別する為、“西グァラニー族(Guarani
Occidental)”と呼ばれる。彼らの大多数は1932−35年のチャコ戦争後、ボリビアから移住してきたAva
Guarani族、またはIsoso Guarani族のようだ。現在は、パラグアイで2つの部族の区別はない。2002年DGEEC統計によると、パラグアイには2155人が住んでいるとされる。パラグアイに5つの居住地(Boqeuron県4箇所、San
Pedro県1箇所)が点々とある中で、伝統文化や生活が最も残っている居住地は、Pilco
Mayo河沿いにあるPedro P.Pena村だろう。ここはパラグアイ全土の共通したグァラニー語ではなく、ボリビアで使われていたグァラニー語が今でも話されている(注1)。また、パラグアイ東方グァラニー族がキャッサバ(マンディオカ)を主食とするのに対し、西グァラニー族はトウモロコシを主食とする。グァラニー語で「Abati
Puta」という種は何にでも利用できる為、主面積を栽培するが、他にロクロ(スープに入っているトウモロコシ)用、Chicha(チチャ)用など、人によっては7種類のトウモロコシを栽培する。この地域は、南回帰線より少し北にあり、夏は最高気温50℃近くまで上がる。また、年間降雨量500mmと、ほとんど雨が降らない。しかし、西グァラニー族は川の増水や氾濫を利用し、トウモロコシを栽培してきたようだ。雨季、水量が増し、そして水が引き始めたところに種を播いていく。トウモロコシの播種は男性の仕事だ。近所の人や親戚の人を呼び、笑い、歌いながら播種する。播種、収穫後は祭りが行なわれる。収穫後の祭り(時期は異なる)が最も大きく、Arete
Guazuと呼ばれる。言い伝えによると、以前はグァラニー族に祭りがなかった。狐の神が、神に何度も志願し、出来たのが、このArete
Guazuの始まりといわれている(「Los indigenas del Paraguay」Jose Zanardini)。この西グァラニー族の祭りはインディヘナのカーニバルとも呼ばれ、今やパラグアイでは最も大きなインディヘナ祭りとなっている。しかし、Arete
Guazuが毎年華やかになる一方で、トウモロコシが栽培されなくなり、祭りだけが一人歩きしている傾向もある。西グァラニー族は、パラグアイ少数民族の中で最も伝統文化の消失が激しい部族としても名が知られる。本来の生業が失われている背景には、移住地の土地が栽培に適さなかったことが第一に挙げられる。また、毎年水不足になり、他に依存せざるを得ない状態になること、移住後、ボリビアに住む仲間とほとんどコンタクトが取れなかったこと、パラグアイ人との接触によるインパクト、さらには政党や宗教の違いによる派閥闘争の影響等が考えられる。法人格を取得し、自分達の権利が認められようとしている今、西グァラニー族はどのような方向へ歩き出そうとしているのか。注1
小学3年生まで、ボリビア・Ava Guarani族のグァラニー語を習う。テキストはボリビアから購入。
〜パラグアイ・西グァラニー族を理解する上で〜
2004年6月25日、ボリビア・Santa Cruz市にグァラニー族資料館(Museo Guarani)が開館した。ここは、グァラニー族の伝統文化、生活、歴史、宗教、祭りなどについての展示がされている。広さは小部屋が2つで今のところそれほど広くないが、興味ある学生や研究者、そして一般人にとっても、この上ない資料館となることは間違いない。http://www.museoguarani.comここでいう「グァラニー族」とは、ボリビア・グランチャコ地域に住む、本物のグァラニー族と呼ばれる3部族(Isoso
Guarani族、Ava Guarani族、Simba Guarani族)のことだ。しかし、他にTupi-Guarani語族言語集団はボリビア東方部の広範囲に広がっているようだ。Santa
Cruz市も元々はグァラニー族が住んでいたらしく、市内には2つの彼らの銅像(Chiriguano)が建っている。ボリビア・グァラニー族の起源はパラグアイ東方部とされる。15世紀、一部の近代化したグァラニー族が“悪なき土地”を求めて北上していったのがきっかけとされる(「Los
Guarani-Chiriguano 2 Historia de un pueblo」Francisco Pifarre)。いくつかの部族の村を交差し、ジュパンク(Yupanqui
1471-1476)時代のインカ帝国まで到達したようだ。この移動で、宗教から戦闘や政治まで強烈な混雑化が生じた。インカ東部地域とグァラニー西部間に商業上でたくさんの道があったという。ケチュア族からは野蛮人とされ、ケチュア語で「Chiri(寒い)」「Guano(排泄物)」と差別言葉で呼ばれたのが「Chiriguano」の名の由来のようだ。(アンドレス・バルベロ民族資料館)http://www.museobarbero.org.py/resena_biografica_del_dr.htm
ボリビア領グァラニー族(3部族)は、カシケ(首長)が政治のリーダーであり、家父長制構造の土台を作っている。シャーマンも存在する。以前は二タイプのシャーマンが存在していたようだが、現在は一つである。宗教や生活の精神と緊密な繋がりがあるようだ。雨を予期したり、病気を治したりもする(全ての地域ではない)。生業はトウモロコシを始め、米、マンディオカなどを栽培している。場所によっては二毛作で、最大の祭り「Arete
Guazu」は2~3月のトウモロコシの収穫後に行なわれるようだ。一般人には祭りの告知はない。祭りの日数は、トウモロコシの収量、つまりChicha(チチャ)を作れる量により左右される。少ない時は祭りは行なわれず、多い時は3~4日もするという。それこそが本当の意味での「Arete(祭り)」「Guazu(大きい)」となる。そう、この日は太陽や空、母なる大地に感謝する日なのだ。ここでは、様々な儀式や神話に纏わる劇、踊りが行われるようだ。祭りは共同体意識を高め、彼らの伝統や経験、アイデンティティを伝達する大切な場でもあるらしい。音楽は各村によって、様々のようだが、楽器は同じケーナとボンボを使うようだ。Arete
Guazuで最も特徴的なのは、様々な意味の込められた仮面だろう。亡くなった家族も一緒に祭りに参加できるため、また、その霊魂が新しく生まれ変われるように、という意味などが込められているらしい。(Isoso
Guarani族大首長B氏談)1892年、ボリビアに対して戦争(グァラニー戦争)を起こすが敗れる。また、チャコ戦争時、パラグアイ側に荷担したということでさらに迫害を受けた。大虐殺を恐れ、パラグアイに移住したグァラニー族も少なくない。しかし、ボリビア革命(1952~1964)により、劣悪な状況に明るい兆しが見えた。パラグアイとボリビアは現在の所、まだあまりよい関係とはいえない。しかし、CABI、APCOB、COPICHAS、APG、TEKO-Guarani、UNICEF、IWGIA、カトリック団体など、たくさんのNGO団体や先住民機関が関わり、国を超えた民族ネットワークが出来始めている。