汽車 (薪で走る蒸気機関車)-01・復活まで
パラグアイには歴史ある鉄道があり一時運行を止めていましたが、2004年2月20日より動物公園前駅からルケまで観光用として汽車が復活しました。世界にも稀な薪で走る汽車、乗る価値は大いにあります。
実際に乗った際の記録はこちら
汽車 (2004年09月19日)
汽車が運行されるようになり、毎週土曜日と日曜日ルケまで観光用に一往復が運行されています。完全に観光用としての運行であり、午後3時に動植物公園駅を出て、ルケまで30分余り、約一時間後に今度はルケを出発し午後5時には出発駅の動植物公園駅に戻ります。駅の横の空き地に自動車を停めてしばしの鉄道の旅を楽しむ事が出来ます。
なお、この10月からはアレグアまでの運行になるそうです。

(写真:蒸気機関車)

(写真:動植物公園駅)

(写真:改札口と駅員)

(写真:乗客)
パラグアイの鉄道に関して:高島一郎さん (2004年 7月14日)
歴史編:南米の鉄道の歴史は古く、まず、蒸気機関車が引っ張る列車が大陸で一番最初に開通したのが、パラグアイで、1844年のこと。1844年というと当時日本は幕末で、坂本竜馬高杉晋作など薩長の志士たちが活躍する未だ少し前か?とにかく明治初年(1868年)の24年前のことです。最初は、多分アスンシオンとアレグア(イパカライ湖)区間からスタートしたのではないかと思われます。当時アスンシオンに次いで大きな町であった南部のエンカルナシオンという町まで開通したのが1911年との事。両都市間の距離約400km。ちなみに日本から「移民」が始まって、ブラジルが来年で85年、パラグアイが来年で65年になるというから、それ以前にもう汽車が走っていたというわけだ。
地下鉄も鉄道の一種だが、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに、南米大陸初の地下鉄が開通したのは、1913年、大正2年だ。世界で最初の地下鉄は多分ニューヨークかパリだろうが、大正2年というと、東京の地下鉄銀座線開通より早いと思う。聞くところによると当時アルゼンチンは牛肉のヨーロッパ向けの輸出で外貨を稼ぎ、首都ブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれて好景気を謳歌したという。余談ですが、ブエノスアイレスという名前はBuenos Airesとつづり、スペイン語の普通名詞と形容詞で、「良い空気」という意味であることを、恥ずかしながら、こちらに来てはじめて気づいた次第。
技術編:これも聞くところによると、パラグアイの汽車は、蒸気機関は蒸気機関でも、石炭ではなく、まきを燃やして走るタイプという。これを聞いて、私が思ったことは、罐焚きが大変だろうということ。 蒸気機関は動力機の中でも多分一番熱効率が悪いはずで、石炭やまきをたいて得たエネルギーの大半が、空中に発散するなどして、失われ、機関車を実際に動かす力となって残るのは確か、ほんの10%程度と覚えている。昔々、日本で未だ蒸気機関車が走っていたころある寒―い寒―い夜明けに始発駅で罐焚き係りが一生懸命石炭をくべてもくべても(ところで「くべる」を漢字変換しようとしても変換してくれませんが方言なのでしょうか、知らないが、関西から西のほうの人なら判ってくれると思います)罐の中の湯と蒸気の温度が、十分に上がらず到頭その日のその列車は運行中止になったという、小さな事件を新聞で読んだ記憶があります。ここパラグアイは、そんなに寒い日は絶対に無いからその点では大丈夫でしょうが、石炭ではなく薪となると、石炭に比べ薪ではなかなか温度が上がらないと思うから、罐焚き係りは汗だくで、それはそれは大変なのではないかと心配してしまう。 せめて、備長炭のような硬質の品質の高い木炭でも使えばと思うのは、余計なおせっかい?とにかく、パラグアイの汽車は薪をくべて走るんだそうです。戦後の日本で木炭か薪を蒸し焼きにして、そのガスを燃料として走るバスが一時出現したと聞いていますが、アイデアは違うとはいえ、薪を積んで走るところは同じ。
文化編:今回パラグアイで鉄道を復活させることを報じた新聞記事を改めて読んでみると、面白いことが書いてある。この鉄道が走り始めた1850年ころの文化を満載して走るというのだ。鉄道を再開通させても、交通機関として利用する人はほとんどおらず、走る列車の中で景色を楽しみながら食事をしたり、酒を飲んだり、パーティを開いたりであろう。それなら、そのついでに、鉄道文化華やかなりし頃を懐かしみ、楽しんでもらおうとのアイデアで、乗客には、1850年ころの服装をしてもらい、料理も酒も、流す音楽もすべて当時のもの、客車内や駅の建物もレトロなデザインにして・・・・・・。この話を、M氏としていたら、彼もそのレトロ観光列車にはぜひ乗りたいと二人で盛り上がったのでした。そのためには我々がここにいるうちに再開通してもらわねばならず、このプロジェクトの今後の進捗が大いに気になりだした次第です。
レトロ観光列車試乗記:高島一郎さん
前号で紹介した新聞記事によると3月13日土曜日からレトロ観光列車の運行が始まりましたが、その日は朝から土砂降り。もともと予定は日曜日の午後の便にしようと思っていたので、土曜日は最初からパス。翌日曜日は幸い晴天に恵まれ、相棒のM氏と午後2時半頃植物園駅に行ってみた。乗客はまだぱらぱらとしかいなかったが出発時刻の3時頃までには100人を少し超えるほど集まり、主催者側は最初、最初は客車1輌だけで運行するつもりだったようだが、直前に変更し、2輌目を連結した。詳しく言うと、低いプラットフォームがある単線上に、客車2両を真ん中に、そして両端に機関車を配置していた。 客車と客車の間は最初離していたが、後で後ろから機関車で押してきて連結した。
切符売り場で切符を買う。記事予告の通り運賃というより料金は一人2万グアラニ(約400円)ちなみにバスで同じ区間を往復すると三千Gで済む。切符購入時に何故か身分証明書の提示を求められ、切符の通し番号と乗客氏名を控えたようだ。出発時刻が近づくと客車のデッキのところで改札して、切符の番号と乗客名簿のチェックをしていた。客車は木造で天井についていた電灯がなかったら、19世紀当時のものと言われても判らないほどのクラシックさであった。天井は高く窓は小さく、走行中はそこらじゅうがみしみしと音を立てる。まさに乗り心地もレトロというところ。一見して付け髭や貸衣装をつけたと判る数名の乗客役が、手にガス等を持った車掌役といろいろ茶番劇を演じている。昔の自転車で、前輪と後輪が大きく異なるタイプに二人乗りしてホームまで来た二人組みがそのまま自転車も汽車に乗せようとするのを車掌が制止したり、昔風の服装をして手に生きた鶏を入れたバスケットをもった年配の婦人がなにか盛んに車掌に文句をいい、車掌が、平身低頭したり・・・。車内の片隅には干し草が積まれていたが、途中何に利用するのか注目していたが、何もなかった。ということは、当時は家畜を乗せることもあったのか、そのための敷き藁かかいばにでもに使ったのか。
いよいよ出発。かわいい汽笛を何度も鳴らしてゴトンと動き出す。なるほど薪でも走るものだ。せいぜい時速10km程度で、筆者のジョギングのスピードといい勝負かと思っていたが、片道8kmを所要時間30分で走行したから、時速16kmということになる。そういえば沿線を汽車を追いかけて走る子供の自転車の速度より汽車の方がすこし速かった。列車は、筆者の良く歩いたルートをたどり、ガタンゴトン、みしみしとまことにのんびりムード満点で走る(歩む)。大丈夫かなと少し心配だった鉄橋も無事通過。
目的地ルケ駅に向かう往路は普通に機関車が2両の客車を引っ張って行ったが、帰りはそのままバックした形つまり、後ろに配置した機関車が客車を押して帰った。スピードでも出したら運転士には前が見えていないのだから、危険なはずだが、時速15km前後のスピードで、ゆっくりと走った上、しょっちゅう汽笛を鳴らしながら走ったため、何事もなかった。途中何箇所かある踏み切りも、前に筆者が予測したとおり、係員が出て、列車が近づいたら、車バスなどを待機させ、安全確保に努める人海戦術。その踏み切り係員に列車が近づいていることを知らせるためにもしょっちゅう警笛を鳴らす必要があったと思われる。無論観光目的で乗っている乗客サービスのためでもあろう。ちなみに、警笛の音色はポーポッポという感じでどこか安心と郷愁を感じさせた。蒸気を利用して鳴らす警笛は古今東西似たような音色を出すものらしい。もともと休日などは家の前の木陰などに出した椅子に座って時間をすごす習慣のある住人に加えて、この警笛に引き寄せられた通行人や走行中の車の人たちが走る列車に向かって手を振り、車内のほうからも答礼するからまさに汽車によるパレードというべきか。
車内では清涼飲料とごくごく簡単なパラグアイの軽食のサービスがあった。我々二人は、家から、よく冷やした缶ビールを数缶持込み楽しんだ。演劇学校の学生かどうか正体は知らないが、鉄道会社にアルバイトで雇われたと見られる道化師たちは、車内の各所に席を占めていたが、ほんの数分技を披露した手品師と、手にバイオリンを一丁持ったドイツ人らしい音楽家がバイオリンと自前ののどで2曲ほど披露したほかは、ほとんど仕事をせず、期待はずれだった。もともとこの手のエンターテインメントに期待していたわけではないが、3~5人くらいの楽団(マリアッチ)が乗り込んでラテン音楽を披露するのかと想像していた。しかし、客車のつくりは普通のものだから、楽団といえるほどのもののスペースはない。まあこんなものか。それにしても土曜日の第一便食事つきお一人様大枚18万Gの車内サービスは如何ばかりのものなのか二人して想像してもし切れなかった。
午後3時半ルケ駅着。帰りの列車は午後5時に出るからそれまでに必ず帰って来いとの車内放送。駅構内ではみやげ物や飲食物を売る売り子がいたり、誰が始動したのか知らないが駅構内で即席のど自慢会のごとき余興もあったにせよ、乗客は時間のつぶし方に困ったに違いない。我々は、駅の近くの中央公園に行き、缶ビールを飲み、屋根つきの日本の昔の床机のような涼み台に陣取って昼寝をしたりしてすごす。
帰りの30分間の特記事項はなく、例の道化師たちは、仕事をしようとはせず、鶏一羽を持ったご婦人役もこれといったパフォーマンスもなく期待していた人にはがっかりの結果だったかも知れない。それでも、17時半に無事植物園駅に帰り着いたとき小旅行から帰ったという実感はあった。この先このレトロ観光列車が盛況を呈するようになるかどうかわからないが、少なくとも今の状態では、乗客が時代がかった衣装を着けてパフォーマンスを楽しむ雰囲気にはまだ遠い。
レトロ観光列車―その2:高島一郎さん
「観光列車湖号」試乗から1週間経った3月20日土曜日に、次の週にパラグアイを離れ、日本に帰国する知り合いのI氏の送別会をかねて、レトロ観光列車に乗る計画でした。前回の試乗経験もあり、当日出発の30分も前に駅に行けば二人くらい何とでもなると考え、氏と14時半に駅で落ち合う約束でした。囲碁好きの同氏とルケ駅での1時間半の待ち合わせ時間に碁を打つべく碁盤碁石に缶ビールを用意して2時20分頃植物園駅に行った。天気は抜群に良いのに、何故か閑散とした感じだ。I氏はすでに来ており、私の顔を見るなり今日は汽車はないそうですと。今日午前中駅の近くにあるアスンシオンゴルフ場でゴルフをした私の相棒M氏の情報では、午前の便は客車1輌で、確かに出発したのを見たという。第1便を運行しておいて第2便を突然取りやめるのは解せなかったが、とにかく今日はもう運行しないというので、仕方なく、急遽予定変更して、わがアパートで碁を打つなどした。
それにしても、本日の一件で思い出すことがある。それは、ここアスンシオンで、旅行代理店を経営する、N氏の言っていた言葉だ。市内某カラオケバーのカウンターで同氏と隣り合わせたある夜、私から「Nさんこの観光列車の企画は旅行業界にとっていい呼び水になりませんか? パ国の観光省もプロジェクトに絡んでいるし、鉄道会社も観光客誘致に大いに期待している様子だし」と持ちかけた。これに対して、彼は「そうでもないんですよ、高島さん。私どもが苦労して準備し、遠路はるばる日本からやってきていただいた観光客の皆さんには、予定の変更は許されず、確実に、予定通りの日程をこなしていただく必要があるのです。もし、このレトロ観光列車を予定に組み入れ、それもメインの予定にして、いざ、というときに、鉄道側の都合で、簡単に予定変更などされた暁には「穴」をどうやって埋めるか。ただでさえ、観光資源の少ないこの国で、直ちにお客様の満足の行く対応をすることは不可能です。だからと言って、予定変更があることを想定した上の、日程を組むことは、困難だし、第一、レトロ観光列車に乗車するという目玉商品を、あらかじめ打ち出せない。そうでなくても、しょっちゅうある、航空便の遅延に苦労させられている身には、観光列車など、リスクが多すぎて、とても手を出す気にはならないですよ」
そういえば、以前に、一緒に遍路徒歩旅行をしたことのあるU氏が言っていたことを思い出す。小学生の娘の遠足で、当時まだ動いていた汽車に乗る予定だったが、雨だったか、なにか鉄道会社側の都合により、運行されず、やむを得ず遠足は延期された。さて、延期された遠足の当日、今度は、無事出発したが、途中坂のところで出力不足で、バックしても、勢いをつけるための助走をしても、どうやっても、その坂(といってもアスンシオン周辺には、たいした坂などないはずだが・・・)を超えられず、この日もまた、汽車旅行は中止に相成った由。また、ほかにも、汽車が何度も、行ったり来たりしているので、何をやっているのかと見ていたら、どうやら、少しの傾斜が乗り越えられない様子を、何度か目撃したことがある、という話も聞いた。汽車とはそういうものだから、それでも良かったら、乗ってください、しかし、大事なお客様の日程消化を保障するものではありません、ということだ。 そう考えるとN氏の話はよく理解できる。
それにしても、今回の一件は新聞で一般に公表して、まだ1週間しか経っていないのに、事前の、理由付き釈明なしで突然中止(翌日日曜日の便は運行されるといっていた由)されるのは、ひどい。I氏は、これが最後のチャンスで翌日曜日は他に予定ありで、結局期待していた汽車に乗れないまま、帰国することになる。乗客全員が、駅まで出向いて初めて知らされたはずで、何とかできなかったのかという声を聞いた。しかし、私の周辺の日本人の意見だから、パラグアイ人はどう考えるのかわからない。一度チャンスがあったら訊ねてみたいものだ。
レトロ観光列車 − その3:高島一郎さん
欧米の宗教行事のひとつに復活祭がありますが熱心なキリスト教国であるパラグアイでは、聖週間semana santaと呼んで今年の場合は来週の木曜日(4/8 jueves santo) と金曜日(4/9 viernes santo)が休日になります。春分のあとの最初の満月の後の金曜日がキリスト処刑の日にあたり、これを聖金曜日と呼んでここパラグアイでは、一番重視し、前後の日を休日にしている。土日をあわせて4日間のセマーナサンタの休日には国民がこぞって休み、静かにすごすのが伝統でした。 そしてその時期はスーパーマーケット商店も皆店を閉じるから、うっかり買い物漏れがないように気をつけなさいと去年の同じ時期に人から注意されましたが、スーパーが閉店していたのは、聖金曜日だけで、その前後は、ほとんどのスーパーが開店していた。日本でも今日日正月でも2日には初売りを行うのが常識化しているのと同じです。
で、来週はその聖週間にあたるので、この週末からスーパーなどが前景気をつける広告を載せたり、新聞は家族が参加できる行事や観光地案内記事を載せたりします。その一環でしょうが、週末案内特集記事の一部に、また、あの観光汽車の記事が載っています。短く小さな記事ですが、見出しは「蒸気汽車が観光客を乗せて植物園駅から発車」で、今までの愛称「湖号列車」は今回から使用されず、変わりにグアラニ語の”TATA PIRIRI” という名前が付けられています。会社の若者で、スペイン語、グアラニ語、英語ができる社員に訊いて見たら「煙モクモク汽車ポッポ」とでもいうべきか、視覚と音感に由来するネーミングという。
ちなみに、グアラニとは、16世紀にスペインの征服者たちが中南米を次々に植民地化していったときパラグアイを中心とする地域に住んでいた原住民グアラニ族に由来し、今もその言葉が継承されパラグアイの第二公用語として残っています。義務教育でグアラニ語は必須とされているので、国民のほとんどがこの言葉を解し、国民のごく少数ではあるが、グアラニ語しか解さないひともいる。またこの国の通貨の名称としても、またサッカーのクラブチーム名でも残っています。考えてみるとマヤインカ文明を始め、中南米固有の文化と言葉はほとんど今に継承されておらず、征服者たちが破壊しつくした感があり、その中で例外的に残っているのがグアラニ文化といわれています。グアラニ族は従順でおとなしい民族だったそうでスペイン人と同化順応し、今日まで末裔がごく少数ですが、純血で、混血なら、多数その血を伝えてきています。
われわれ日本人がここ南米に来るとほとんどの人が感じることのひとつは南米大陸に一応10カ国があるが文化的には多様性国際性を感じないということ。 パラグアイなどはその中でも小国のせいもあって隣国アルゼンチンのTV放送が何局も入るし、TVコマーシャルは、それを良くわきまえ、CMに映る商品注文問合せ先電話番号は、各国別にずらりと一覧表になっている。ポルトガル語を話すブラジルを除き、中南米諸国はメキシコからアルゼンチンまで全てスペイン語を話す。住んでいる人たちは圧倒的多数がスペイン人またはスペイン系人か、原住民との混血。 ということは、文化的にも一色であり、多少の地方性は何処の国にでもあるから、日本人の目には、政治経済的にはとにかく、文化人類学的見地からは一国にみえる。それが乱暴というなら、中南米文化連邦とでも言うべきか。
話が大きくわき道にそれましたが、その汽車には今回からグアラニ語の名前が付けられました。営業成績が悪かったためか、前の名前が変更されたのでしょう。今週末から毎土日に、日に二回前と同じ時刻表で、ルケまでの往復運転を前と同じ料金2万グアラニで行う、と出ています。今までと違うのは、旧アスンシオン市内の旧ターミナル駅(これは植物園駅とは違って、歴史を十分に感じさせる立派な駅舎がそのまま残っており、観光名所のひとつでもある)の窓口でも切符を前売りするという。
まあ、これだけの話ですが、今回はどういう展開となるのか。 主催者が最初に打ち上げたように、運転区間が Aregua, Ypacaraiそして Sapucaiと順調に延長されてゆくことになるのか、はたまた、鉄道なんぞは、国民の支持を得ることができないのか。鉄道なんぞはと言う前に、客が少ないときでも定時に運行し、土日のこの時間帯には定期便としての観光列車があるということを繰り返し実績を積み、利用者の信頼を得るのがまず肝要と筆者は思うのだが・・・・。
この鉄道運営会社が、現在保有している現存の軌道敷の権利を、上記Sapucai駅以遠の使用予定のない区間について競売し、観光列車などの運営資金に充てたいといっているのが、報道されたことがあります。それに対しては、国の文化的遺産保護の見地から批判がある一方、鉄道網を電化再整備して産業振興をとの意見もあると新聞は報じていました。
汽車復活 (2004年02月20日)
鉄道事故以降線路も消え、アスンシオン駅も駅としての機能が無くなる中で、動物公園前駅からイパカライ駅まで観光用として汽車が復活することになりました。

(写真:汽車復活:ナシオン紙)
SLの復活:高島一郎さん
日本はまだ幕末の1844年にここパラグアイで開通した南米初の鉄道(蒸気機関車)は20世紀の末頃に長い歴史をいったん閉じましたが、廃止ではなく休止だったということが最近明らかにされました。というのも観光列車として復活させると言う案が出ていることは、以前の便りで書いたので、すでにご存知の読者もおられます。その日取りが今週の金曜日2月9日になると言う。今回再赴任したときから、事情通に聞いてはいましたがなにぶんパラグアイのことでもあり、旧駅舎や踏み切り跡、レール付近にも何の変化も見られないから眉唾でした。しかし、一昨日通勤の往復途上で見た旧植物園駅付近のスペースが、雑草が刈り取られ、その跡にかなりの台数の車が駐車していたこと、そして、昨日通勤の帰途、何と、客車一両が構内にすでに安置され、薪(燃料は石炭ではなく薪なのが此処のSLの特徴)と水の補給車(テンダー車)が降ろされつつあった光景をこの目で見たのです。そして、本日の朝刊には、客車テンダー車を最大クラスの重量物専用トレーラートラックでアスンシオン旧市内の終着駅から苦労して搬出運搬する写真入の記事が出ています。旧市内の終着駅から植物園駅は5KMくらいの距離で、レールも残っているのだから、機関車を始め全ての鉄道車両をそのレールを使って運べばよいではないかと思われるでしょうが(新聞にもそう出ていました)そうはいかない理由があるのです。この区間の線路跡は、スラムの不法占拠の巣窟となっており、膨大な件数の立ち退きを実施しなければならない超難問が問題解決を阻んでいるのです。
写真は多いが、短い記事によると、本日はいよいよ300トンの機関車を搬入して、13日の金曜日(キリスト教国にしては避けたい日と思うが、案外気にせず、別の日―どんな日か忘れた―のほうを気にする由)に、いよいよ復旧開通させる区間は、とりあえず植物園駅―LUQUE約5km。そして、その後さらにAREGUA,YPACARAIへと延伸し、今年中には、SAPCAIと言う町まで開通させる予定と出ています。
筆者は、旧市内終着駅からAREGUA駅跡まで線路沿いに歩いた経験がありますが、途中、少し危なっかしい橋があったり、枕木の下の土砂がえぐられている部分があったり、逆に土や雑草がレールを覆い尽くしている部分もあり、立ち木の枝が進路を邪魔している部分ありこれらみんなクリアしたのだろうか大いに気になる事柄は多い。ともあれ、復活に際してどのようなイヴェントが計画されているのか、鉄道ファンとしては興味津々で、金曜日の夜と、土曜日曜は、レールに沿って、列車を追いかけて暮れることになりそうです。
2月13日の金曜日に試運転をするといっていたパラグアイの薪蒸気機関車は、その日、一部の多分内部関係者を乗せて、再開業ではなく、試運転を行ったようだが、平日だったこともあり、筆者は現場を見ておらず、新聞にもほとんど報道されなかったようで、鳴り物入りで話題になった割りには、盛り上がらなかった。その翌日の土曜日に植物園駅に行って見ると、機関車+テンダー車+客車1両の編成の列車(列車というには客車が1両だけでまことにさびしい)が2本、単線の上に載っており、片方の列車は、昨日試運転をした気配があった。客車を覗いてみると古いものをそのまま引っ張り出してきたのが丸判りで、車両の内外ともにリフォームするなりしたらどうかと思われるような古さであった。この日は列車を動かす気配はなかったので、がっかりして、そのまま帰宅してしまった。
1週間後の日曜日に、植物園―ルケ間(前回約5kmといったが、約8kmに訂正します)を、何ヶ月ぶりかで、歩いて見たが、それまで道路を横切る部分では、アスファルトに覆われていた部分、野原を走る部分では、土や雑草に覆われていた箇所や、付近の立ち木が邪魔になるところなど、全て、手作業によって、障害物が取り除かれてはいた。しかし、レールは1回や2回の試運転では、ピカピカ光るところまではとても行かず、赤黒くさびたまま。ほんとにこれで大丈夫なんだろうかと思わせるような状態と見受けたが、彼らに言わせると、そのために、試運転をして軌道の安全を確認しているというのだろうか。この日は、その区間で、何か作業らしきものをしているかと見てみたが何もなし。ルケの駅構内は、邪魔になる放置貨車や客車を側線に移動させてあったのが、目に付いた程度。全体に静かで動きなく、あまりこちらが騒ぎ立てるのが場違いな感じでもある。
ところで、線路は途中数箇所、道路を横切るのだが、踏み切りにあるべき遮断機の姿が影も形もない。そこで多分こういうことであろうと推測した。
@ 日に一度か二度の、週に一度か二度のことであるし、汽車のスピードもスローである。
A 人件費は自慢じゃないが、安いことでは自信がある。
以上二つの理由で、アルバイトの遮断機係りを用意して、汽車の姿が見えたら、さお竹などで、車に合図し、ストップさせる。多分これに間違いないであろう。「鉄道復活」という大きなアドバルーンにしては甚だ盛り上がりにかける現状です。しかし、この国のことでもあり、今後気長に注目し続けたいと思います。
エンカルナシオンでの貨物列車を押す蒸気機関車(2003年05月10日)
鉄道事故以降線路も消え、アスンシオン駅も駅としての機能が無くなる中で、エンカルナシオンの一部で蒸気機関車が現在でも現役で動いています。

(写真:貨車を押して走る蒸気機関車)
蒸気機関車は長く連結されている貨車を押してアルゼンチン国境まで運ぶのだそうです。貨車はそのままアルゼンチンのディーゼル機関車でブエノスアイレス方向に運ぶのだそうです。

(写真:まきを満載している)
機関車の中を覗きますと3名の方が働いていました。旧式の機関車ですが、きちんと手入れされていました。

(写真:汽車は3名のチームで操作されています)
機関車の周囲を見ますと多くの貨車があり、中には大豆が満載されて輸出の為にアルゼンチンまで運ぶのだそうです。

(写真:長い貨車を運びます)
汽車(現在は運休になっています)
パラグアイでは汽車があります。パラグアイでは、日本よりも早く、南米でも一番早い時期に鉄道を建設して汽車を走らせました。その後、余り進歩が無いようで薪で走る汽車は時代に取り残されて実用的とは言い難い存在となっています。路線はアスンシオンからエンカルナシオンまでの1路線、エンカルナシオンでは橋を経てアルゼンチンへ線路は通じています。(現在は運休)
現在旅客を乗せて運行する客車は週に2回、土曜日と日曜日だけ観光用として動いているだけです。近郊のイパカライ湖畔まで朝09:00時の出発です。保線作業が上手に為されているとは言えず、スピードは遅く、人が走れば追い付くような速度で運行されています。それでも最近、踏み切りでバスと接触事故を起こしたそうです。週に2便では線路など無視して横断する自動車がいても不思議ではありませんね。
保線の状態が悪く、従ってスピードも出せず、完全なお荷物になってしまいました。もっと早い時期に民営化しておけば良かったのかも知れません。今後国鉄をどのように処理するのか注目しています。
アスンシオン発 09:00-12:00 イパカライ着
イパカライ発 15:00-17:40 アスンシオン着
運賃:均一 4,000グアラニ(約180円)
土曜日・日曜日運行(なお、祝日は運行しない)
話を聞きますと、主に観光用に運行しているが、行きは途中で下車する人も多いのですが、帰途はほとんどの乗客がイパカライから戻る乗客で余り途中で降りる客も居ないので20分ほど速いそうです。
運賃は均一で途中で降りても往復してアスンシオンに戻る場合でも同じ料金で約180円となっています。これははっきり言って安いです。土曜日・日曜日にアスンシオンに滞在する方にはお勧めです。ただし保線の状態が余り良くないので大雨が降ると運休になるそうです。天気の良い日を選びましょう。
(写真)汽車-1
(写真)汽車-2
薪を炊き、煙を吐く姿は絵になります。蒸気機関車のファンにはたまらない姿なのでは?と思います。石炭で走る近代型?の蒸気機関車ですら最近は余り見かけないのに100年前くらいの前時代的、他の国では博物館でしかお目に掛かれないないような汽車を観る事が出来ます。アスンシオン駅はセントロの比較的行き易い場所にあります。土曜日・日曜日にアスンシオンに滞在する方は乗らないまでも駅までこの蒸気機関車の勇姿を見に行きましょう。お子さんが喜ぶのは間違いありません。
(写真)ターンテーブルは人力でゆっくりと廻します
いよいよ機関車を動かしますが、ターンテーブルは今でも人力で廻します。その為非常にゆっくりと作業を行います。
(写真)薪をくべます
出発にあたり沢山の薪を積み込みます。全部手作業で行います。
(写真)走行する機関車
走行する機関車を見ていますと蒸気機関車ファンの気持ちがよく理解出来ます。電気機関車がデジタル的な感じに対してアナログ的、見ていても絵になる光景です。
(写真)客車の中の様子
3輌ある客車は乗客で一杯です。家族連れ、外国人の姿も多く見る事が出来ます。
(写真)出発直前の駅の様子
駅では綿飴、お菓子、アイスクリーム等の売り子の姿が多く見られます。お菓子をたくさん買い込んで家族揃ってのハイキングというのが一番オーソドックスなようです。
(写真)車掌さんです
車掌さんは非常にまじめで律儀な青年でした。この仕事に誇りを持っているように見えます。「写真を写すだけ」と説明したら、「どうして乗らないのか、是非一度体験して欲しいですね」と話をしていました。
(写真)終点・イパカライ駅で待機する汽車
終点のイパカライ駅で待機している汽車。夕刻ここからまた出発しアスンシオンに向かいます。
廃線歩き:高島一郎さん
昔、といっても、つい最近まで(数年前と聞いている)、パラグアイには昔懐かしい蒸気機関車が走っていた。この廃線敷きをたどって歩くようになって、下見も予行演習も含めて、4,5回の歩きで、アスンシオン旧市内の終着駅から、最初の郊外の町であるLUQUEというところまで、踏破したことは前に書きました。ごく一部の区間は歩けないのですが、ちょうどその部分にJARDIN
BOTANICO 「植物園」駅があり、駅名表示まで残っていることをつい最近、通勤の車中から、発見したのです。いままで踏破した区間の主要な駅は、アスンシオン終着駅―植物園前−ルケということになります。それぞれの駅間が約5kmで合計10km。線路はまだまだ先に延びています。
そこでこの前の日曜日にルケまでバスで行って、そこから先のAREGUAという町まで線路沿いに歩いてアレグアからバスで帰ってくる計画で、出かけたのです。ところがこの計画というのがいい加減で、肝心のルケーアレグア間の距離が不明のまま決行したのですが、案の定、途中引き返さざるを得なかった結果に終わりました。会社や身近にある地図はアスンシオン市内とその周辺、せいぜいルケあたりまでしか出ておらず、それ以遠は粗い地図しかなく、正確な距離を知らないまま、唯一手がかりになったのは、Uさんが仕事で、アレグアの養魚場まで行ったとき、アスンシオンからバスで1時間かかった、その養魚場は鉄道廃線のすぐ脇にあった、ということでした。で、その養魚場を目指し、アスンシオンからバスで1時間なら、ルケからアレグアマで2時間も歩けば何とかなるだろうくらいに考え気楽な気分で出発したのです。
暑い日盛りの中、1時間半7kmは歩いたと思いますが、農家と林が続くばかりで、町に着くという気配が全くありません。誰か人に聞こうにも、近くに住む人が生活通路として、この廃線跡を歩くことがあっても利用する距離はほんの僅かなので、適当な人もいません。鉄道線路に沿う未舗装の道路を時々バスが往復しており、これがルケとアレグアを結ぶバスのはずなのでしんどくなったらいつでも乗ればいいとの安心感はありましたが。結局、7kmくらい行ったところでU-ターン。 バスにも乗らずにまた、ルケまで戻ったのでした。
しかし、収穫もありました。前にルケまで歩いたときにちっぽけな停留所跡があり、これがルケ駅跡と思っていましたが、違っていました。もう少し先まで行ったところに立派な駅跡が残っていました。駅名表示板も残っており、おまけに、大きなサイズの客車が2両駅構内の廃線に乗ったまま放置されていました。車内は座席などの鉄枠部分だけが残っているだけの残骸ではありましたが、外見は立派で、よき時代を思い出させるに十分なノスタルジアを醸していました。
ルケは、かつてパラグアイの首都が置かれていたこともある古都で、駅もそれにふさわしい雰囲気を醸しています。この駅付近が中心街のようで、前にうろついて楽器工房があったところはむしろ町外れだとわかった。ちょうどこの日(9・21)は、春分の日も近い(日本では秋分)とあってパラグアイ各地では春の到来を祝う催し物が多く、駅近くの公園に作られた舞台でパラグアイの芸能人歌手のグループがパフォーマンスしており、テント張りの飲み物食べ物屋(日本で言うとテキヤの屋台)が沢山集まって、観衆も沢山集まっておりました。私もそれまで、休憩と飲み物にありつくことだけを楽しみにして、ほとんど休みもせず約3時間歩いたあとだったので、座ってビールをゆっくり飲ませていただいた。うまかった。
このルケーアレグア間をいかに踏破するか、研究課題(たいそうな!)として残っている。
ところで、本日知った面白いニュースがある。それは、世界でも珍しい古いタイプの蒸気機関車を惜しみ懐かしむ声が多く、このたび、関係者間で、この鉄道を観光資源として復活させる動きがあることだ。新聞によると年内にでも廃線を整備復活させ、機関車や車両も買うのか古いものを整備復活させるのか知らないが、とにかく、年内にでも汽車が走ることが決まったという。予算は50万ドルという。少し安すぎるような気がするし、パラグアイの話だから、全面100%は信じにくいが、復活区間は、植物園前―アレグア(イパカライ湖)という。多分途中駅は、ルケになるだろう。アレグアは、イパカライ湖という美しい湖をひかえた観光都市だから観光列車が走るにはふさわしい。年内にでも復活が実現したら、もう廃線廃駅ではなくなる。今のうちに急いで、写真にでも撮っておかないと、など、急にあわただしい感じになってきた。
この国には、アスンシオンでも前に行ったことのあるシウダデルエステという町でもだが、なぜか建設途中で完成しないまま、工事が放置された建物が多い。聞くと、途中で、お金(予算)がなくなったのでという理由だそうだ・・・そんな国だから、復活するにしても時間がかかる可能性は十分ある。 いずれにせよ面白くなってきた。
金土日と三連休となった週末。3日間ともすばらしく晴れ上がった天気で、朝晩はひんやりするが、日中は、日光の下では暑くなるくらい。
楽しみにしていた、鉄道廃線に沿っての探訪をすべく、金曜日に下見と、一部予行演習。土曜日に、本番実施。鉄道がいよいよアスンシオン市を離れ、郊外のLUQUEという町に向かう部分を歩きました。この区間は、市内の部分とは趣が異なり、広い草原や湿地帯などを走り、自然が一杯です。レールと枕木は残っているものの、雑草に覆われて獣道程度の幅しかないところもところどころあり、幅10メーターくらいの川をわたる部分は一部枕木がかけていて、下の水面まで3−4メーターあるところを慎重にわたるなど市内とは違う面白さも味わえます。家を出てから2時間丁度で、隣町に到着。かつての駅跡も残っています。長さ10メーターも無いプラットホームとホームを覆う小さな屋根の鉄骨が残っているのでそれと判ります。駅は、町の中心から少し外れていたようなので、中心まで散歩して見ましたが、立ち寄れるような店が少ない静かな町でした。昔一時パラグアイの首都だったとか、金銀細工や楽器の工作所が多いとかガイドブックに出ています。一軒だけ、楽器の製造元のアトリエのようなところがあったので、入って見ました。ギターと大き目のウクレレそれに、アルパというパラグアイ名物の竪琴(ハープ)が並べられていました。すべて手作りで、ギターは日本円で4,5千円くらいから買えますが興味は無いので見ただけ。好きな人は、安いといって買って、大きな竪琴を日本向けにお土産として送る人もあるそうです。(別に店の人に聞いたわけではなく、ガイドブックにそう出ているだけ)
鉄道は、未だ郊外へと続いており、風情がある線路が延びていましたが、ここから先はどの地点まで行ってどうやって帰ってくるかを研究しないといけないので、今日はここまで。帰りは、方向だけ間違わなかったら、すべてアスンシオン方面に向かうバスが頻繁に走っているので、来たのに乗ったら都合よくアパートの近くを通るバスで、万事順調だった。この区間はもう一度歩いて見たい。できれば金銀細工の加工現場を見学できれば記念になるだろう。
鉄道廃線敷き歩き-1:高島一郎さん
先週末は、土日ともに良い天気で、日本の冬の小春日和のような天気でした。トレーナー用の長パンツに上は重ね着をして、暑くなったら脱いで調整できるようにして両日ともに散歩を楽しみました。靴はもちろんスニーカー。ウェストポーチにキャップも忘れず、これが、私の散歩用定番スタイルになっています。
最近の散歩先は、アスンシオン市内の廃線となった鉄道線路歩きです。以前何年か前までパラグアイには鉄道が走っており市内近郊路線のほか、長距離国際路線まであり、ウルグアイまで通じていたようです。少し古い地図には鉄道路線が描かれています。この線路の上を、蒸気機関車で引っ張るいわゆるSLが走っていました。部品をすっかり取り除かれた(盗まれた?)機関車や貨車がところどころに放置されているし、水と石炭を補給する設備が木造で残っているのを発見したのでSLとわかります。 セントロと呼ばれるアスンシオン旧市街に中心駅(終着駅)があり、その建物が今も残っています。線路とプラットホームがそれぞれ2本(この鉄道は単線です)だけの小さな駅で、ホームの長さも機関車に客車を2両もつないだら一杯になってしまう程度の規模で、駅舎はレンガ造りながら、ホームの屋根などは木製で素朴な感じがとてもよい。この駅は廃屋でこの前行ったときは学生か若い人たちが演劇の舞台練習をやっていました。昨日の日曜日は、この駅までバスで行き、そこから線路に沿って自宅最寄の地点まで約6kmを散策してきました。この間線路はほぼ全部残っており、一部閉鎖された部分を除き、全部たどって歩けます。線路敷きは近所の人たちの生活道路に利用されているほか、単線だから幅が狭い僅かなスペースをバラックつくりの不法占拠住宅が集中している箇所もある。夜などは歩かないほうが良い、第一暗くて歩けないと思うが、太陽がさんさんと輝いている下を子供が遊んだり、鶏が走り回ってミミズをつついていたり、ときどき、馬糞を落としながら小型の馬車が通ったりして、とてものんびりする風情です。
途中、小さな小さな駅があって、長さ10メーターも無いプラットホームとおもちゃのような駅舎が残っていたり、放棄された機関車や貨車があったり、カメラがあったら絶好の対象が沢山あり、今度帰国したら、デジカメを買ってまたここに戻り、記録に残したいと思ったことです。線路は郊外に向かって延びており、未だ踏破していない部分は沢山残っているようでこの先楽しみです。 生瀬―武田尾の旧国鉄福知山線の廃線敷きは、清流武庫川の眺めがすばらしいのと、鉄橋やトンネルが面白いのに比べると、山もすばらしい景色も無い代わりにスラム街を通り抜けないといけないここは、何処が面白いのと人に聞かれそうですが、どこかに郷愁というかノスタルジアが感じられます。とんでもない比喩をさせてもらえば、有機野菜のよさとでも言いましょうか。
この週末は廃線歩きで、心と身体が元気になったようです。
鉄道廃線敷き歩き-2:高島一郎さん
快晴となった10月11日の土曜日また、廃線敷歩きをしました。前に一度挑戦して、情報不足から、途中引き返しとなったルケーアレグア間です。ルケまでバスで行って、ちょうど正午ころにルケ駅跡を出発。初夏のさわやかな光と風を受けて、快調に進んでゆきます。気温はぐんぐん上がっているようですが、湿度が少ないので
ほとんど汗はかかず、快適です。しかし、強い光のため首筋と半そでから出た腕が日焼けし、シャワーを浴びるとひりひりするほど日焼けしたことが後でわかりました。線路は、郊外を走り、ところどころ草深く、木々の枝が茂って行く手をさえぎる地点があるのが市内周辺とは違っているところです。単線標準軌(目測では、ゲージは1350mm前後あり、JRの狭軌(1067mm?)に比べたら広く、大陸的です。この二本のレールの間か、その外側に一本か二本の獣道のような草の無い踏み跡小道が続いています。
日本の鉄道では、線路に沿って鉄道電話用の電線が片側か両側に必ず設けられていたように思いますが、ここではそれは無く、また、雨の多い日本では、岩石を砕いて作った小石(川にある砂利より、角が鋭く、石同士が滑らないようにしてある)を30〜50CM積み上げてその上に枕木とレールを敷きますが、それも無く、ただレールと枕木が、唯一の頼りで線路敷から遠くに離れてしまうとまた戻るのに、苦労することもあります。帰りにバスに乗ったことで判ったことですが、この区間は、鉄道線路に沿って走る旧道(未舗装)と後になって出来た舗装新道とがあり、旧道と線路は曲線的で、直線的な新道に比べて、少し距離が多くなっています。その関係か、地図で10km余と見たのは過少で、結局15km近くあったようです。前に、U-ターンした地点も過ぎ、二時間あまり歩いても、中くらいの大きさの駅がひとつあっただけで、なかなか町につくという気配はありません。線路と平行して走る旧道には、両方向へのバスが頻度高く走っており不安感は全くありませんでしたが。 結局2時間40分で、アレグアの町外れに入り、話に聞いていた養魚場(釣堀でもある)のゲート前を通過。やれやれ着いたと思ったら、町並みなど全く見えず、逆に線路の周りの草や木の枝は深くなってきて、歩けないので、何度か旧道のほうにコースを変えざるを得なかったくらいでした。
結局ちょうど3時間で、アレグアの駅跡に到着。駅は、広くて、駅舎も残っており、レストランとして今も利用されておりました。情緒もあって鉄道全盛のころのロマンも感じられましたが、町は、駅のそばでも町並みといえるほどのものは無く、まあよく言えば、静かな町とでもいうのでしょう。この町はパラグアイでも風光明媚で有名なイパカライ湖という湖を控えた観光地と聞いていましたが、その湖は未だ少し離れているようでホテルなども全く見かけません。私はそんなものを見に来たのではないので普通の民家でBARと看板の出ているところの庭の木陰でビールの一番大きな1リッタービンと軽食を楽しみました。
帰りは、BARのすぐ前の道路から出るバスで帰ったのですが、アスンシオン直行バスが出ており、ルケ経由で、約1時間1,500グアラニ(30円)はありがたいくらいにお値打ちでした。先に発表された鉄道復活区間は市内の植物園前からアレグアのもうひとつ先の町イパカライまで推定約40kmです。今朝の朝刊によるとパラグアイの鉄道が世界100遺産のひとつに指定されたということです。アメリカに本部がある World
Monuments Fund (主なスポンサーはアメリカンエクスプレス社) という団体が、いま絶滅の危機に瀕している有形無形の世界的遺産で保護すべき事物を毎年発表するようで、パラグアイの旧鉄道システム全体が2004年度の世界100遺産に指定されたとのこと。この指定が貧乏国パラグアイにとって鉄道復活の経済的支えになることを希って。