盛岡市-01(1/4) 繁華街・街並 (岩手県)
盛岡市-01(1/4) 繁華街・街並 (岩手県)
学生時代は仙台市で過ごしたのですが、首都圏とは逆方向の盛岡市には行かずじまいでした。他の東北各県の県庁所在都市には出掛けた事があるのですが盛岡市は今回が初めてです。日本中、元気の無い特徴が薄れて来ている地方都市が多い中、活力があり、地方色もしっかり出している盛岡市、魅力的な都市でした。なお、訪問時期は2017年 3月下旬です。
概論 (2017年 6月13日)
盛岡市は岩手県の県庁所在地であり、岩手県のほぼ中央に位置している人口30万人程の都市です。名前の由来は諸説あるようですが、江戸時代に南部十万石の藩主となった南部利直が、今の盛岡の地に本拠地を置くこととなり、それまでの名前である不来方は縁起が良くないとして、「城があった小高い岡に木が生い茂っていた」ことをみて、「森岡」と名付けた。そして、「森」と同音で、「さかえる」と言う意味の「盛」に変えた、と言われています。
実際に訪問してみますと岩手県の中心というよりは未だに南部藩の中心都市という印象を受けました。江戸時代南部藩は盛岡藩とも言い面積の大きな藩で北は下北半島から南は北上川付近までが領国で、広大な領国の例えとして「三日月の丸くなるまで南部領」と言われていました。八戸は支藩の八戸藩ということで多少は別物という感覚かも知れませんがそれでも青森県東半分と秋田県鹿角地方は今でも盛岡市の勢力範囲という印象を持ちます、多分方言も一緒なのでしょう。一方で一関市、奥州市などの県南は元々は仙台藩の領地で盛岡の人にとってはこちらは完全に別物という意識があるようです。例えば奥州市出身の大谷翔平選手の事を話題にしても「水沢の人」要するに地元では無いという反応でした。一関市よりは八戸市、鹿角市の方が地元という気分があるように感じます。一関市の人にとっては距離的にも仙台に近くその向こうには東京が在るので何か特別な用事が無い限り盛岡に出て来る事はないのでしょう。
この南部氏に対する敬意は明治の世になっても続き、日露戦争に従軍して戦死した当時の当主である利祥公の騎馬像を盛岡城の本丸跡に建造するほどでした。ただ、第二次世界大戦の際に金属供出のため銅像は撤去されたそうです、むなしく台座だけが残されているのでまた復元して欲しいものです。また、現在の当主である利文氏は2000年に当主として盛岡に戻って来た際には市長を始め300人が迎えたそうで、今でも名前では無く「殿様」と呼ばれているのだそうです。なお、江戸期以降の当主には利の字が付いていますがこれは前田利家が秀吉への取り成しをしてくれた為なのだそうです。
普通ですとこのくらいの規模の都市になりますと駅が都市の顔となり、鉄道開通当初は中心部より遠くに出来ていて余り賑わっていなくても、次第に駅付近が中心が移って行くのが普通だと思うのですが、盛岡市民は盛岡城が街の中心とし、官庁街、ビジネス街、繁華街もこの付近にあり、明治時代には既に存在していた盛岡駅なのですが未だに町外れという位置づけのようです。多分これは北上川の向こうは町外れという意識があるのでしょう。それでも新幹線が開通し駅付近がかなり賑わって来ており今後は駅付近そして反対側の開発も進んで行くのでしょう。特に南西部、矢巾町との市町境にはしっかりとし区画整理が為され産業地域が出来ており今後もこの地域は発展して行く事でしょう。ただ人口が増えていない中でドーナツ化が進みますと中心部の空洞化が起きるのではないかと心配になります。肴町のアーケード街などが何時までも人で賑わう繁華街であり続けて欲しいものです。
また岩手というよりは盛岡に誇りを持っているようで、岩手県民というよりは歴史が在る文化都市・盛岡市民であると思っているのでしょう。この岩手の由来ですが諸説あるようですが、鬼が暴れて岩に括り付けそこに手形を付けたというような言い伝えがあるようで、その岩を祀った神社まであります。でも盛岡の人は何で盛岡県では無かったのか残念に思っている事でしょう、官軍(西軍)が付けたのですから仕方が無いですね。
また、学歴に関しては他の地方では一般的にどこの大学を卒業したかが関心事になりますが盛岡ではどこの高校を卒業したかが重要なようです。その中でも盛岡一高が特別な存在のようで、全県から優秀な学生が集まるようです。なお、、盛岡一高は共学校なのですが、盛岡二高が建前は共学なのだそうですが現在は女子のみになっているのは不思議ですね、戦前は女子校で戦後男女共学となり実際に男子学生も在校したそうですが、また実質女子高に戻ってしまったようです。また、公立志向が強く私学の受験校は無いようです。
食の文化はユニークで有名なのが麺料理です。他の地方で人気がある麺は何と言いましてもラーメンですが盛岡では余りラーメンのお店は見掛けません。盛岡三大麺というのが名物なのだそうで、「わんこそば」「じゃじゃ麺」「冷麺」の3種の麺です。わんこそばは比較的昔から全国的に有名で要するにエンドレスにそばを食べるというもので食べ終わるたびに、給仕がそのお椀に次々とそばを入れ続け、それを客が満腹になりふたを閉めるまで続けるというスタイルが基本のようです。じゃじゃ麺というのは市内でどこの専門店も賑わっているのですが、中国東北地方発祥の麺料理でこれは食べた事が無いのでよく分かりませんが麺にたれを掛けてあるもののようでこれを混ぜていただくのでしょう。冷麺は朝鮮の麺料理が起源で在日朝鮮人の方が始めたようで日本人の口に合わせたものです。何で麺料理がここまで独自に発達したのかは興味深いですね。またパンも独自の発展を遂げており、コッペパンに具材を挟んで食べる福田パンなるものが広く食されていて県民食とまで言われています。じゃじゃ麺と福田パンのコッペパンで大きくなったという盛岡市民が多いのでしょう
盛岡市は地方都市ですが、多くの日本の地方都市が人口減少やシャッター街で苦しんでいる中、街に活力があり若い人の姿も目立ち明るく、元気さを感じました。また、多くの地元の人が盛岡に誇りを持っているようで特に地元の作家、宮沢賢治と石川啄木が相当ご自慢のようです、市内の色々な場所に啄木・賢治ゆかりの場所があります。個人的には武士道の著者であり、国際連盟で活躍し日本の教育にも多大な貢献がある新渡戸稲造や日本初の本格的政党内閣の原敬元総理大臣、そして海軍大臣、総理大臣に就いた反戦主義者として有名な米内光政など開明的で私心なく働いた政治家・軍人などを生んだ風土に感心しますが、これからの人よりもとにかく啄木・賢治のようです。多分、盛岡は文化人の町と思っていて、その代表がこの啄木・賢治なのでしょう。他県人は熱狂的なファンは別にして多くの人はこの二人をそこまで特別な存在とは思っていないでしょうから不思議な気がします。
市内の名所を訪問しましたがどこも素晴らしく、魅力的な観光地でもあると再認識しました。未だに江戸時代の気分が残っている数少ない地方都市だと思います。ある方と話をすると静岡県から引っ越して来たとか、自然があり、スキーも出来る盛岡が気に入ったからだそうです。確かにこれから国内の移住先として有力な候補かも知れません。東京から新幹線で簡単に訪問出来る利点を生かして観光に力を入れて多くの外国人にも訪問して欲しいものですね。


盛岡駅・北上川・大通り (2017年 6月27日)
東京から盛岡まで新幹線で2時間20分、料金は普通自由席で13,710円です。昔は東北と言いますと上野駅から夜行列車に乗って行く遠い所というイメージがありましたが隔世の感があります。

(写真:東北新幹線・盛岡駅)
盛岡駅は明治時代に開業した駅ですがその時代の市街地から北上川を渡った場所にあります。

(写真:盛岡駅-01)

(写真:盛岡駅-02)
盛岡駅と漢字で書かれている他に平仮名で「もりおか」との表記があります、その下に「啄木」の文字、ここにも盛岡市民の啄木愛が・・

(写真:盛岡駅-03)

(写真:盛岡駅から北上川方面)

(写真:駅から北上川を望む)

(写真:北上川の橋の上)
橋からは正面に岩手山が見えます。

(写真:北上川と岩手山)
大通りというのがこの盛岡一番の繁華街とのことです、盛岡駅から盛岡城跡・中の橋に向かう途中にあります、如何にも日本の商店街という雰囲気ですね。元はこの辺りは盛岡城の菜園だったそうです。

(写真:大通り-01)

(写真:大通り-02)

(写真:大通り-03)

(写真:大通り-04)
少し北側に行きますと歓楽街になっています。このような地区は日本全国どこの街にもありますね。

(写真:歓楽街-01)

(写真:歓楽街-02)
中央通り・県庁付近 (2017年 7月 1日)
中央通りには県庁や銀行、大企業の支店などが在りビジネス街になっています。

(写真:中央通り3丁目付近)

(写真:中央通り2丁目付近)

(写真:県庁舎付近-01)

(写真:県庁舎付近-02)

(写真:県庁舎付近-03)

(写真:県庁舎付近-04)

(写真:原敬胸像)

(写真:岩手医大)

(写真:東北銀行本店・テレビ岩手)

(写真:市役所付近)
中津川 (2017年 7月 2日)
盛岡市の中央部を流れる北上川の支流、中津川。秋から初冬にかけて鮭が上って来るのだそうです。

(写真:中の橋付近の繁華街)

(写真:中の橋付近-01)

(写真:中の橋付近-02)

(写真:中の橋付近-03)

(写真:中の橋付近-04)

(写真:中津川沿い-01)

(写真:中津川沿い-02)

(写真:中津川沿い-03)

(写真:中津川沿い-04)

(写真:鮭が上る-01)

(写真:鮭が上る-02)

(写真:笛吹き少年像・舟越保武作)
新渡戸稲造氏の胸像がありました。お札になっている肖像のイメージがありますので随分と違った印象ですね。

(写真:新渡戸稲造胸像)

(写真:ゆとりの街・盛岡)
肴町 (2017年 7月 2日)
江戸時代から続く商店街で、盛岡市内で最も歴史ある商店街の一つ、長さ365mのアーケードがあり、約80店舗が営業しています。アーケードは旧奥州街道の隣の道になります。多くの地方都市で以前からある商店街が寂れてしまうケースが多いのですがここの商店街は元気でした。ただ駅前から大通りの方並びに郊外の大型店に人の流れが移りつつあるようです。

(写真:アーケードが見える)

(写真:アーケード-入口-01)

(写真:アーケード-入口-02)

(写真:アーケード-01)

(写真:アーケード-02)

(写真:アーケード-03)

(写真:アーケード-04)
日曜日に訪問してみますと歩道一杯に商品が並べられていました。色々な工夫をされている事が分かります。

(写真:アーケード-05)
FM局のラジオ盛岡がありました。

(写真:FM局のラジオ盛岡)
アーケード街に平行して奥州街道があります。

(写真:奥州街道)
この肴町から盛岡八幡までの道を行きますと風情の在る商店街になっています。

(写真:肴町から盛岡八幡までの道-01)

(写真:肴町から盛岡八幡までの道-02)

(写真:肴町から盛岡八幡までの道-03)
本町通り (2017年 7月 2日)
元は京町と呼ばれていたのだそうでその後本丁となり、明治以降に現在の本町と呼ばれるになったのだそうです。中津川に架かる上ノ橋は奥州街道に在り重要な橋でしたが、洪水で度々流失したのだそうです。歩いて行きますと何となく昭和やそれ以前の雰囲気があり、歴史を感じる通りです。

(写真:上ノ橋)

(写真:本町通り-01)

(写真:本町通り-02)

(写真:本町通りに在る古い家屋-01)

(写真:本町通りに在る古い家屋-02)
喫茶店として利用されている古い家屋

(写真:本町通りに在る古い家屋-03)
南部藩おもかげの町(2017年 6月19日)
南部藩おもかげの町


(写真:南部藩おもかげの町-01)

(写真:南部藩おもかげの町-02)

(写真:南部藩おもかげの町-03)

(写真:南部藩おもかげの町-04)

(写真:南部藩おもかげの町-05)
米内光政氏の墓がある事で知られている円光寺は寛文年間(1661~72)に創建された浄土宗の寺院なのだそうです。本堂は盛岡市の保存建造物に指定されていて元禄年間中(1688~1703)に再建されたそうです。

(写真:円光寺・門-01)

(写真:円光寺・門-02)

(写真:円光寺・地蔵)

(写真:円光寺)

(写真:円光寺・墓所)

(写真:円光寺・旅立ちの法然)

(写真:円光寺・米内光政氏墓所)
珍しい中国様式の山門をもつ大慈寺は寛文13年(1673)の創建。南部家の庇護があり寺領63石が安堵され末寺10カ寺を擁する大寺院に発展したのだそうですが、明治17年(1884)に火災があり、伽藍の大部分が焼失しましたが、盛岡市出身の原敬の菩提寺という事もあり山門など堂宇が再建されました。山門(楼門)は明治38年(1905)に建てられた竜宮門と呼ばれる形式の楼門なのだそうです。

(写真:大慈寺・山門-01)

(写真:大慈寺・山門-02)

(写真:大慈寺・本堂)
大正10年11月4日に東京駅頭で暗殺された平民宰相・原敬の遺体は盛岡に送られこの大慈寺に埋葬されました。遺言には「死去ノ際位階勲等ノ陛叙ハ余ノ絶対好マラザル所ナレバ死去セハ即刻発表スヘシ」と大正デモクラシーを現出した原敬らしく、一切の叙勲を辞退したそうです。その潔い姿勢は、大慈寺境内の墓石のも現れ墓石に刻まれた文字は「原敬墓」の文字のみ、シンプルですっきりした墓所で人柄が偲ばれます。

(写真:原敬と妻浅の墓)

(写真:原敬の墓)

(写真:妻・浅の墓)
この付近は江戸時代には奥州街道を経て盛岡城下に至る場所で舟橋になっていました。

勿論今は普通の橋が架かっています。

(写真:北上川-01)

(写真:北上川-02)
岩手山が綺麗に見えました。

(写真:北上川-03)

(写真:北上川-04)

(写真:下の橋付近)


(写真:南昌荘)