大阪からパラグアイへやって参りました




日本の大阪から来て当地パラグアイに暮らしている高島さんからの投稿です。パラグアイを独自の視点で鋭く見ていらっしゃると思います。


01・キンセのお祝い(Una fiesta de 15 an~os de una chica)(2003年 9月)
先週末は9月29日の月曜日が、祭日で土日とあわせ3連休になり、ゆっくり休ませてもらいました。その中で、土曜日の夜のあるイベントについて書いてみましょう。

アスンシオンゴルフクラブのキャディににイタリア系のルシオという男がいて、45歳のなかなかの好男子です。昔はプロゴルファーを目指していたそうだが、交通事故にあって、肩か腕を負傷して以来ゴルファーになる夢は断念した由。そのルシオの今年15歳になる4番目の娘の“quince an〜os”(15歳)という名のイヴェントに私と友人が招待され、参加したのです。ここパラグアイでは女の子が15になると一人前とみなされるようで、近隣の親戚友人知人を多数招いて、教会でセレモニーを行い、その後、自宅などで、お披露目のパーティを夜遅くまでやるようです。我々は、教会でのセレモニーは省略させていただいて、夜、9時半ころからぼちぼち始まり、10時半ころまでにほぼ全員がそろったパーティに参加しました。観察していてわかったことですが、集まったのは、会場となったルシオの自宅の近所の住人が大半という感じでした。全員歩いてやってきており、車で来たのは我々だけのようでした。ルシオの自宅は、ゴルフ場のすぐ近くで、その地区には、同じゴルフ場のキャディ仲間も多く住んでいるようです。15歳は未だ義務教育中で、彼女(Giuriano ジュリアーノ。さすがにイタリア風の名前だ)も未だ学生だが、学校関係の人たちとは、多分教会でのセレモニーでおしまいにしたと思われます。

我々は慣習を知らないので、ワインを1本、大きなケーキ(表面にFelicidades! (おめでとう)と生クリームで書いてあるもの)に、アイスクリームを1キロ(此処のアイスクリームはキロ売りが一般的)添えて、未だ数人しか来ていない時刻に行った。どうやら我々は、参加者の中では一番の来賓のようで、一番良い席を与えられた。こんなことなら、スーツにネクタイで来てあげるんだったと二人は思ったが、まあ、普段着でも、恥はかかなかった。一応スーツを着込んだルシオと比較的着飾った女性と女の子供をのぞいてほとんどの客は普段着だったから。会場は、ルシオの自宅で、ごく普通のサイズのむしろ質素な感じの家だが、たまたま家の前庭と、勝手口に通ずる通路部分が比較的にスペースあり、このスペースをフルに利用してテーブルクロスつきの丸テーブルといすを、沢山並べられるだけ並べていました。 テーブルひとつにいすが4〜5脚で、合計20テーブル、100人分近くを用意し、最後にはほぼ満席になっていました。

主人公ジュリアーノ嬢は背が高く、小顔の愛嬌ある美人です。父母と、今日集まった3人の姉たちの顔を見ていると、よく似ており納得させられます。純白の、肩を露出したタイトなイブニングドレスで身を包むと、もう立派な成人女性です。子供を除く、来た人全員と左右のほほをくっつけ会う儀式(besoと言っていましたので、一応接吻ということになります)で、お迎えし、参加者は、プレゼントとして、何かちょっとしたものを贈ります。この贈り物を入れる容器が用意されていました。我々のように、その日に必要となる消耗品をという考えは無いようです。もっとも、来た人たちも、心得ているのか、ほとんどの連中が、子供と同じコーラなどの炭酸飲料しか飲んでおらず、我々のようにビールや他のアルコール飲料を飲んでいた人は少なかった。 女性が多かったこともありますが。結局4時間近くいたが、もって行ったワインやケーキがあけられる様子は全く見えず、出されたのはビールのほかは、つまみ一種類と、11時ころになって出てきた薄いビーフステーキ三枚濃いソース付と、油いため米(もちろん外米)の付け合せ一皿だけでした。

飲食はごく質素簡潔でしたが、豪華だったのは、撮影班と音楽係り。撮影のほうは、ビデオカメラが主力で、スティール写真は少しだけ。係りは2人いて、一人が、モデルを撮影するときに、場所やポーズを指示し、シャッターを押す係りでもう一人は、照明など雑用をこなす撮影助手、もちろん今夜のモデルは芳紀15歳のジュリアーノ嬢です。事前に景色のきれいなところで、今日の服装とは違う、普段着に近い, といっても一張羅を着て、モデルよろしく撮影済のテープを会場にセットされたモニターで流して見せ、新たな客が来てホステスが迎えるときには、その場面を、映して見せたり、客全員がテーブルごとに、会場中央のテーブルに出て、ホステスと乾杯するときや、ホステスが、全部のテーブルを回って、歓談する, イベントが最高に盛り上がったときには、撮影班は大忙しで、ビデオとスティール写真機を駆使し続けておりました。このテープや写真は、後で、客の手元に配布されるのかどうかは知りませんが彼女のお嫁入り道具(道具ではないから嫁入りの品)の一つになるのは間違いないでしょう。

次は、音楽係り。会場は狭いのに、大きなスピーカーのセットを、持ち込み、常時テープかCDの音楽を流す一方、盛り上がるときには、オルガンのようなキーボード楽器を彼が演奏しておりました。ルシオが気を遣って、我々の話し相手となってくれる傍ら、3人の姉たちを一人一人紹介してくれたりで、退屈する暇も無く楽しく過ごしておりました。国が若いだけあって子供が沢山来ており、私は子供と始めてスペイン語で喋ったり、どこかの赤ちゃんを抱かせてもらったり、ジュリアーノの姉の一人とダンスをしたり・・・・。 ダンスといえば、パーティが盛り上がって、音楽がダンス音楽に変わり、会場メインテーブル脇に設けられた狭いスペースで踊りが始まると、ホステスは、今日来た成人男性客全員と短い時間とはいえ、踊らねばならず、客は変われど主代わらずだから、ホステスも大変です。けれども若くて、接客サービス精神に満ちた今夜のホステスは、会を盛り上げた一番の、功労者でした。参加者も気さくな人たちで、家は近所で、明日は日曜日ということもあるのでしょうが、根っからの宵っ張りで、その上、踊りと音楽大好きと来ているから、何時になっても終わる気配はありません。子供まで、12時を回ったというのに、眠ったり、帰ったりする様子はありません。深夜マイクを使って住宅街で騒ぐなど、日本では、考えられない事態ですが、何処からも文句を言ってくる気配などありません。

われわれも、後二日休みだからとの安心感もあり、興味もあって、ゆったりした気持ちで、楽しいときをすごしておりましたが、さすがに、午前1時も回ったころルシオとジュリアーノに別れを告げ、帰宅しました。このときにも会場には未だ、7〜8割の人数が残っていたようでした。



02・日パ物価比較
つれづれなるままに両国の物価を比較して見ました。ものによっては筆者の独断と偏見が入っています。(消費税込み。1円は50グアラニで計算)
*公営バス パラグアイG1,500(グアラニ)日本¥200 6.67倍 (以下この要領で表示)
*タクシー初乗り料金G3,950¥660 8.35倍
*日刊新聞 G4,000 ¥140 1.75倍
*ガソリンレギュラーリッター G3,900¥90 1.15倍
*理髪オール込みG50,000¥3、800(最近は1,500円や1,000円のも出現していますが) 3.8倍
*クリーニング ズボン G15,000 ¥1,000 3.33倍
*サウナ風呂(サウナ付き公衆浴場入場料)G17,000¥800 2.35倍
*卵(大)1ダース G5,000¥180 1.8倍
*牛乳リッターG3,000¥180 3.0倍
*ミネラルウオーター2リッターG2,850¥150 2.63倍
*缶ビール350mlX1打(最高級)G27,400¥3,900/2打 3.56倍
*スタンダードスコッチウイスキー750ml G80,000¥1,800 1.125倍
*昼食大衆中華料理一人前G15,000¥750 2.5倍
*都心一流ホテルシングル一泊 G615,000¥25,000 2.03倍
*都心路上駐車料金60分G2,000¥400 10.0倍
*ゴルフビジターフィー1R G150,000(キャディ謝礼込み)¥15,000 5.0倍
*高級アパート家賃(複数寝室、80〜100平米、都心所在)G1,600,000¥200,000 6.25倍
*家庭用電話基本月額料金 G50,000¥3,000 3.0倍
*労務者最低賃金月額G1,000,000 ¥100,000(日額5,000X20日) 5.00倍

乖離幅が大きいのは、家賃やゴルフは予想通りだとしても、公共交通機関の交通費が日本は非常に高い。
鉄道はパラグアイにはありませんが、日本のJR私鉄地下鉄運賃は、世界比較非常に高いはずです。ガソリンやウイスキーが他の品目比あまり差がないのは、パラグアイの輸入税が非常に高いからでしょう。食品、サービス料金は大体2〜3倍の範囲に収まっていると言える。筆者の生活実感から言って、日本の物価の3分の1くらいと言う感じです。ここアスンシオンでの今の生活と同じレベルの生活を東京とは言わず大阪でするとしたら、と考えて一ヶ月の生活費を計算すると、やはり、3くらいの係数が出てくると言うこと。

そこで、今日本で年金をもらっているいわゆる「年金生活者」の方がこちらに来て生活すれば、その年金が3倍くらい価値を増すと言うことになりましょう。それも、都心ではなく、思い切って地方都市に住めばもっと住居費が安くなるからさらに可処分所得が増えるでしょう。 もっとも、それは、現在の為替レートがこのまま維持されるという前提であることはいうまでもありません。(一例:ほんの2年前2002年当時は、1米ドル=4,700グアラニであったのが、今は6,000グアラニ前後で2年間で約20%グアラニの価値が下落していますが、物価はそんなには上がっていないはずです。 不況のせいもあって)まあ、日本の年金でこちらで生活をするというのもひとつの選択肢ではありましょう。その場合気になることといえば「言葉」「治安」「医療」でしょうが、それについてはまた別の機会に譲ることとしましょう。



03・スペイン語あれこれ
作家(脚本家)の「なだいなだ」氏の名前の由来は、nada y nada と言うスペイン語だということは、ここに来てから初めて知った次第。意味は、全然、全然、(そんなことはない)もしくは、どういたしましてくらいの意味。英語に直訳すると、Nothing! And Nothing! となります。他に日本人に親しいスペイン語は、車に多く見られ、クレスタ、セリカ、ファミリア、ドミンゴ、アバンテ、エスクード、グランデ、セフィーロ、シーマなど。

スペイン語は、英語やフランス語などと違って、つづり字に忠実で、まさに、ローマ字式につづってある文字を原則として全部発音する。日本人は学校で英語を何年も習っているので、つい無意識に英語読みしてしまうことが多い。たとえばAutobusはローマ字に忠実にアウトブスと発音しなければならない。それさえ気をつければ、発音に関しては、母音の多い日本語をもつ日本人には一番なじめる言葉です。正統派スペイン語では今でもsi とci の発音の区別があるといいますが、少なくともここ南米にスペイン語が伝わってきて、何世紀も経った今では、発音も進化(退化?)した結果、どちらも日本語式の「シ」で通るし、B と Vの発音上の区別はなくなっています。 要するにスペイン語はその発音をカタカナで表記でき、そのまま発音すれば十分通用すると言うわけです。英語はその点、子音が多い言語で日本人には発音しにくい単語が多く、たとえば、station, school,president, publicは スペイン語では、estacion, escuela, presidente, publicoです。 U を発音してはいけないSで始まる言葉は、発音しにくいので、頭にeをつけてやって、エスタシオン、エスクエラとつづりと発音を改造するし、子音の語尾で終わる単語も発音しにくいので、プレシデンテやプブリコのように母音をくっつけてやって改造しています。もしかしたら、改造したのは英語のほうであって、スペイン語のほうが言語としては先輩なのかもしれない。日本人にとっては発音するにも、聞き取るにも、誠に心地よい言語と思います。発音が長くなる分、歌うような、時にはお経のようなメロディをつけて話す人が多いようです。 死ぬときに人の言葉を聞くとすれば私なら、日本語かスペイン語を選びたい。間違っても英語はごめんだ。 What happened?  なんて破裂音の多い子音だらけの早口の大声を枕元で出されたら、それだけで滅入ってしまいそうになりませんか? スペイン語のゆっくりとしたリズムで話す女性の声を聞きながらなら、心落ち着けてこの世から旅立てるような気がします。

このように発音に関しては、日本人には誠になじみやすいスペイン語ですが、文法は、さすがにラテン語の血を濃く引いているだけあって、超難解です。男性名詞と女性名詞の単数形、複数形の組み合わせ、それに応じてその数だけある定冠詞、不定冠詞に形容詞の語尾変化あたりまでは、許せても動詞の語尾変化の文字ひとつで大きく意味が違ってくる、しかもその種類がひとつの動詞で59通りもあるに到ってはまさにお手上げです。何故そんなに多いかと言うと、一人称単数の直説法現在形、同不完了過去、同過去、同未来、同可能、同接続法現在形、・・・・・二人称単数直説法現在形・・・・・・・。語幹は同じで、語尾の形が微妙に変化したり、時には語幹の一部が発音の都合上変化したり・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

動詞の語尾変化は、規則変化もあるが、重要な動詞で使用頻度の高いものは不規則変化が多く60の手習いでは、はじめからあきらめの境地と言うところです。 かように文法は、発音と違って、超難解です。そうはいっても子供でも乞食もみんな話しているのですから、慣れればどうということはないのでしょう。

初のスペイン語圏に来て、10ヶ月が経ちましたが、英語と共通する部分にスポットライトを当てれば、この二つの言語は、こんなに似ていますよ、だから習得するのも楽ですよと言える。一方、否定的な面を強調すると、そのような方向の主張が簡単にできるということです。正直なところ聞き取りが(ゆっくりとローマ字式発音なので)楽で、英語と共通する単語(特に概念上の名詞)が多いので、会話でも会議でも相手が何について喋っているのか見当がつくようになった、そうすれば、何とか流れについてはいけるが、自分の意見を表明するについては、イエスかノーははっきりできても、理由や状況などほんの少し立ち入った表現がもう難しいというところ。 自分からの表現は、人の言ったことや、辞書に出ている決まり文句をやはり、ひとつづつ覚えて、何回か使ったらやっと自分のモノになると言うところでしょうか。



04・スポーツの話題(2004年 4月)
南米のスポーツといえばサッカー抜きには語れない。

数多くのチャンネルで四六時中サッカー中継がある。我々外国人の素人でも見て面白いのはスペインやイタリーのプロサッカーリーグの試合や、国民が一体となって熱狂する2006年西ドイツワールドカップやアテネ五輪の南米予選でしょう。 中でもスペインリーグのレアルマドリッドにはデイビッドベッカム、ジダン、フィーゴ、ロナウド、ロベルトカルロスなど世界の超一流選手が綺羅星のごとく11人揃っており、しかも今リーグのトップを走っているから面白い。(2004年4月末当時。このシーズンは結局4位に終わった。)イタリアリーグセリエAのローマから中田は去ったが帝王のような顔をしたトッティの技はやはり素人にもすごいとわかる。それに加えて感心するのは、主審の動きの良いことと、選手の一瞬の動きを正確に見極めて、瞬時にファウルかそうでないプレイかを判断し笛を吹くことです。 ビデオのスロープレイバックを見るといつも主審の判断の正しさに感心するばかり。 あの韓国―スペイン戦の歴史に残る誤審《主審ではなく線審の誤審だった》のようなこともたまにはあるのだろうが、総じて審判の技術水準が高く、またそれだけに権威もあります。 

パラグアイにもクラブチームが有名なものだけでも3つほどあり、少年たちの憧れの的になっている。筆者の少年時代のプロ野球人気チームのような存在であろう。しかしやはり国民が熱狂するのはナショナルチームがライバル国と対戦するW杯や五輪の南米予選です。南米諸国の中でもエクアドル、ボリビア、ウルグアイと並んでの小国パラグアイ(人口約5百万)ですがサッカーは強く、本大会に4.5チーム(南米予選5位のチームはオセアニア代表とのプレイオフに勝てば出場できる)出場できる南米予選で現在(2004年4月末)2位と大健闘中。先日も隣の大国(国力もサッカーも)ブラジルとホームで引き分けた。大きなホームゲームで勝つと花火が揚げられるのでテレビを見ていないときでもああパラグアイが勝ったとわかる。この試合の直後も用意していた花火の処理に困ったのか引き分けだったのに打ち上げていた。

W杯南米予選は2003年9月から2005年10月まで18次日程で参加全10カ国が総当り各2戦《ホームアンドアウェイ方式》を戦うのは、FIFAのルールだから世界共通なのでしょう。アテネ五輪の予選は終わっておりパラグアイは南米2位になって出場権を獲得済み。それも強敵ブラジルを撃破しての2位だから価値がある。つい先日は韓国に遠征したパラグアイのナショナルチームが敵地で韓国と0−0引き分け。そういえば日本も欧州の強国チェコに1−0で勝ったしかもアウェイで。とりあえず五輪のほうがW杯より先にやって来るから注目です。

最近日本でもミニサッカーという競技が普及しつつあるようですが、その別名である「フットサル」は広間を意味するSALONという言葉の頭の部分とフットボールの頭をつなぎ合わせた新造語のようです。 事実室内でやるのがどうも正式のようで、少し前にパラグアイ国内で行われたフットサル南米選手権大会も屋内体育館で行われていました《新聞の写真により判明》 わがアパートが隣接する敷地の一角はフットサルの有料屋外練習場で、コート《フィールドというべきか?》が二面あり、コート面にはウレタンを、サイドと頭上にはネットを張り巡らせています。 大きなキックをするとすぐネットにつかえてしまうので、ちまちましていていかにも面白くないと我々には映るのだが、パラグアイ人のマニアには抜群の人気で、若いのから腹の出たいい歳をしたおっさんまでひきもきらずやっています。窓を開けると真下に見えるし、閉めていても声が聞こえるので、夜遅くまでやっているのがわかります。ウィークデーでも大抵午前0時頃までやるし、突然降り出した夕立の中でもコート使用料金が惜しいのか、あるいは好きなのかしらないが、ようやるわ・・・。

休日など時々クラブチームや学校の大会もやっており、女学生のチームもあります。彼らの楽しみはフットサルでたっぷり汗を流した後バーベキュー風に屋外で焼いた牛肉ソーセージなどをコカコーラなど炭酸飲料とともに仲間で飲み食いすることにあるようです。日本人が見ると、いい歳をした大人が、ビールではなく、ガス飲料なのかといぶかりますが、ビールは高すぎるからなのか、アルコールを飲みなれていないのか、不味いからなのか判りません。ここの地場のビールは最高級ブランドなら十分日本人ののどに叶うし値段もパラグアイ人にはかなり高いかも知れないがとても手が出せないというほどではない。350ml缶でスーパーの小売値50円、飲食店などで633mlの大瓶なら180円くらい出せば飲める。セカンドブランドならもう少し安くなるが、多分、やはり、お値段が高いという経済的理由からではないかと思われます。

先の日韓共催W杯でパラグアイのゴールキーパー兼プレースキッカーで人気者だったチラベルトはあのあとウルグアイのプロチームに行ったがもう引退がささやかれている。一時パラグアイの大統領候補に立つとの話もあったが年齢とともにサッカーの実力が落ちてくるとともに立ち消えになってしまったようだ。隣国アルゼンチンの神話にまでなった名手マラドーナも現役を退いて太りすぎた身体に刺青を身体各所に施し、不様な姿をさらしているうえ、最近は麻薬コカをやったとかで、入院する騒ぎもありかつての名選手も語るに落ちる。その点サッカーの神様ペレはいつまでも少年たちのアイドルとして君臨し続けてもらいたいものだ。

TVの中継でサッカー以外のスポーツで目立つのは、米メジャーリーグの野球だ。これには中南米出身でスペイン語を話す選手が大量にMLBで活躍していることと関係がある。去年の秋は松井秀喜のヤンキースとダイヤモンドバックスのワールドシリーズの全試合を中継していた。米国東部時間より1時間先行しているので試合が終わるまで見ると午前1時を回ったこともある。 それから、バスケットボールやアメリカンフットボールも結構人気があり、時々試合の模様を放映している。野球、バスケット、アメフットすべて100%アメリカ生まれのゲームだからルールなどの用語をどのようにスペイン語に訳しているのか、あるいは原語をそのまま使っているのか興味があったが、なにせ、源流は同じラテン語同士だから興味を持つほうが間違いだった? 専門用語はそのまま米語を使い(発音をスペイン語風にする場合あり)つなぎの一般言語はスペイン語でという具合。beisbol がスペイン語でbaseballが英語だがどちらも通用する。それは当たり前で、baseballをベースボールと日本人向けに読み直したと同じようにスペイン語の発音に直して綴っただけのこと。つまり、スペイン語でbeisに「塁」の意味は無い。それを思うと「野球」や「塁」と訳した明治人(正岡子規?)の名訳振りには感心する。Outを「死」と訳したのは納得だが、safeにはさすがに困ったに違いない。ストライクとボールにも困った。もっと困ったのは、バントであったろう。訳し様が無いからそのまま「ブント」と言ったと何かの本で読んだことがある。その逆に英語⇔スペイン語は語源が同じだから面白みが無い。 Football⇔futbol   Basketball⇔basquetbol  

けれども普通なら訳しようの無い固有名詞も、時には訳されるからかえってややこしくなる。例:New York
のスペイン語訳はNueva Yorkその他TVで放映されることのあるスポーツは、テニス、ボクシング、ホッケー(陸上ホッケー、アイスホッケーともに) それに、ラグビー、クリケット、競馬、F-1レースなどなど。 8月のアテネオリンピックはどんな放映スケジュールになるのか今から気になるところです。 しかしどう転んでも日本選手日本チームの活躍の詳細は報道されることは無いから、せいぜいパソコンで一生懸命日本の新聞報道を追いかけることと、日系ホテルとレストランの2箇所に設置されているTVでNHKの衛星放送をみることになるでしょう。



05・復活祭(2004年 4月)
4月8日(木)から11日(日)までの4日間は聖週間休日だった。欧米では復活祭として知られている。

宗教的には、大変意義のある神話ないし伝説にもとづく一連の行事です。人類の原罪を一身に背負わされたキリストが金曜日に処刑され、その後仮死状態のまま聖なる時間が流れ、土曜日と日曜日の間の午前零時に復活するのですが、その後母と子の出会いがあったようです。聖母マリア(あるいは聖処女マリアというべきか)が復活した息子キリストと出会うのです。日曜日に教会ではこの出会いを、マリアとキリストの偶像を使って宗教行事を演じるようで、これは翌日の新聞で知りました。その前の金曜日に私がたまたま町で見かけたのは数人の男が黒いドレスを着た童顔のマリアの立像(人形)をちょうど日本の祭に使うおみこしのように台座に据え、頭上高く掲げて自分たちの町内を練り歩く、そのあとから女子供がぞろぞろ従いてゆくという光景です。そのときは母と子の出会いというストーリーを知らなかったから、日本の祭を連想して、人類は古今東西似たようなことをやるもんだ、位にしか思っていませんでした。今思うと、その後町のどこかで、マリアは息子キリストと出会うことになっていたのでしょう。その後どういうストーリーが展開するのか勉強不足ですが、小説「山椒大夫」の偉くなった厨子王丸が苦労して生母を探し出し、盲になった母と感動の再会をするというような流れではないかと思います。

この母と子の出会いというスペイン語 enquentro de la madre con su hijo に相当するグアラニー語が古くからあると新聞に出ていました。ということは、スペインポルトガルなどによる中南米侵略が始まってすぐに開始されたキリスト教布教活動によってこうした宗教行事が原住民たちに伝播し、今に伝わっている、といえるのでしょう。この行事が復活祭のフィナーレを飾るヤマ場に位置付けられており異教徒たちに布教する際に大きな武器にしたであろうと想像できます。

宗教的に大きな行事ではあっても庶民の生活感覚からは、「長い休日」で、生活に余裕のある市民は郊外や外国に遊びに行く週であるようです。季節的にもまだまだ暑く、ちょうど日本の盆の帰省シーズンのような感覚です。もともと活気に乏しい町は眠ったように静かで、人通り交通量が極端に少なくなりもともと路上駐車がほとんど無い街路は広々しています。スーパーマーケットレストランなど商店も金曜日を中心に閉店日数は長短あるものの店を閉じておりキリスト教に無縁の我々は旅行にでも出ない限り暇をもてあますという状況でした。休暇の後半土曜日あたりから町に少しづつ活気が戻り、日曜日には、郊外海外に出ていた車が1万台アスンシオンに帰って来たので交通渋滞が発生したと新聞が報じていました。また同じ月曜日の新聞に出ていた記事ですが、この4日間の休暇期間中全パラグアイで警察が関与した死者つまり病死を除く死が30件(30人)あってその原因内訳が事故11名、殺人10名、自殺4名、感電死3名、溺死2名とのこと。この休暇時期には毎年死者が平常時に比べてピークに達するそうですが、何故なのでしょうか。一覧表が出ているので見ると、殺人発生地域は圧倒的に地方なので、治安が悪くなっての都会型犯罪ではなく、怨恨口論などが原因の昔型の殺人のにおいがします。殺人の原因タイプ別に統計が取られたらもっと興味深いものになるかも知れません。

連休最終日の日曜日に先週買ったマウンテンバイクで植物園に行って大きな木の下で本を読んだり昼寝をしたりし、帰りに汽車の駅に立ち寄ったら15時発の観光列車がほぼ満員の2輌分の乗客を乗せて出発するのを見送ることができました。乗客の中に知った顔のパラグアイ人がいて列車の窓越しに話をしたり、前回自分が乗客だったときは良くは見えなかった機関車の様子などを観察できました。機関車の先端に何と係員が二人座って前を見ています。安全確認のためと思いますが、時速15kmくらいだからできることで、なんとものんびりしたものです。それにしても熱くないのだろうかと余計な心配もしたくなりました。




06・お遍路歩き (2003年 12月)
一時帰国を2週間後に控えた12月 7日の日曜日にパラグアイ版お遍路歩きをしてきました。パラグアイは熱心なキリスト教国で国民の大部分はカトリック、憲法によりこの国の大統領はカトリック教徒でなければならないとも定められています。そのカトリックのパラグアイにおける大本山がアスンシオンの南東約50kmのところにあるコルディジェーラ県の県都カアクペという町にあり、その立派な大聖堂を目指して年に一度熱心なカトリックたちが何万人も(延べにすると何十万人?)巡礼者となって、歩いて集まってくるのです。その日が、12月 8日に終わる9日間で、この一大イベントを「カアクペの聖女」とか「奇跡の聖女」と呼んで国民的大行事になっているようです。聖母マリアの処女懐胎にこの伝説(神話?)の起源があるようですが、詳しくは研究不足です。日本で言うと、さしずめ四国88箇所などのお札めぐりのお遍路歩きか、あるいは、半分観光旅行である伊勢詣といったところでしょう。実際、新聞などによるとパラグアイ国民の何割かが、この9日間に歩いたり、あるいはバスに乗って「巡礼者」になると書かれています。9日間毎日司教や大司教がミサを行ったり、いろいろな宗教的行事があるようですが、とにかく多くの人が集まるイベントですから、現地までの沿道で飲食物を売ったり、みやげ物を売ったりする売り子たちのほか、宗教団体を含む市民団体などが、いろいろな目的で集まってきて、にぎわう、国民的年中行事なのです。

我々は歩くことと、物見遊山を二つの目的として、計画しました。U氏が、パラグアイ生活15年くらいになるので、彼が指南役で私と二人で歩こうと当初は言っていたのですが、実施前日と当日になって、I氏とU氏の次女が参加し、4人道中となりました。Novenarioといって9日間の会期の最終日は月曜日ですが、祝日なのでこの日にしようと当初は予定していましたが、翌日は出勤だから疲れるからということで、前日の日曜日にしたというわけです。 結果、これが正解で、日曜日は大晴天、月曜日は、ちょっとした嵐のような大夕立があったのです。

歩くコースは決まったものがあるわけではなく、昔、巡礼者たちが、歩いたり、馬に乗ったりしてパラグアイ各地からカアクペの大聖堂目指して集まってきたということです。まあしかし、首都アスンシオンからの標準コースがいくつかあり、そのうちのひとつであるイパカライという町までバスで行って、そこからカアクペまで約17kmを歩くことにしました。その日は朝から真夏のかんかん照り。頭のてっぺんから足先まで、準備万端抜かりなく、帽子、サングラス、t−シャツ(着替え持参)山歩き用の綿パンにスニーカーといういでたちに、大き目のウエストポーチにタオルと、前日冷凍庫で凍らせたミネラルウオーターを入れてです。

バスを乗り継いでイパカライに着いたのは11時。バスのほとんど全部の乗客が、この巡礼者たちか、その関係者と見受けられました。歩く道路は、高速道路の路肩で、歩くにはあまり適当でないともいえますが、沢山の警察軍隊が出て、歩行者が危なくないよう、ロープを張ったりしてくれており、また、すぐ横はのどかな田園風景で、まあまあの環境です。U氏の次女は12歳で、中学1年生。お母さんがパラグアイの人と言うことですがお父さん似の黒髪少女です。U氏は、襟付き長袖のシャツを着用していましたが、これが正解でした。t−シャツの私は、腕と首筋が陽焼けして、Yシャツのような硬いシャツはひりひり痛くて・・・・。I氏は、趣味のひとつが囲碁ということで、あまり活動的でないというイメージがあると自他ともに認めていましたが、日本では山歩きをするようで、リュックに山歩き用の帽子それに、トレッキングシューズといういでたちでした。脚力もそれなりに仲々の実力をお持ちのようでした。 

4人それぞれのいでたちで、歩くこと、結局、たっぷり、4時間。 その間食事もしましたが、3時間半はテクテク・・・・・。それにしても、人口たった5百万人の国とは信じられないほどの巡礼者たちが歩いています。 もっと驚いたのは、我々が、見物を終えて、アスンシオン行きの直通バスに乗った帰りの車窓から、見た光景です。このまま歩くと向こうに着くのは夜の9時や10時になるのは確実という地点を、相変わらず沢山の人がぞろぞろぞろぞろ・・・・。きっと夜を聖地で過ごすのでしょう。

カアクペという町は、アスンシオンのある県(セントラル県)を出て、隣の県に入ったすぐのところにある旧都で、歩きの行程の中間くらいのところに標高50mくらいのなだらかな丘があり、この丘のちょうど峠ともいえる地点が県境になっています。コースはずっと高速道路の路肩で沿線に民家はほとんどなく、多くの物売りたちが、黒や水色のビニールシートを日よけにした掘立小屋を作って、飲み物やチーパ(パラグアイ名産マンジオカとチーズ入りパン)などを売っています。最初はこれで商売になるのかと思うほど店の数が過剰と思えたのですが、だんだんと判ってきました。そうです。会期は9日間もある上、昼といわず夜といわず、客足の絶えることはないから、案外捨てたものではない?そんな掘っ立て小屋の後ろには、つっかい棒を建てその周りを薄いビニールで覆っただけのトイレが用意されており,使用料500グアラニと出ています。どこも皆同じ料金ですが、中に、民家やたまにある店屋のトイレは、Ban^o Moderno (近代トイレ)1,000グアラニと出ています。納得納得の料金です。市か慈善団体か誰が用意したのか知りませんが、日本で言う移動式トイレをもっとみすぼらしくしたような、木製トイレがところどころに4,5台(単位は何と表現するべきや)ずつ用意されていました。 このトイレは無料です。 その木製無料トイレのすぐ横に500グアラニのビニールトイレがあったのには皆大笑いしたことです。I氏はあるとき尿意を催したのですが、どれも利用せず、畑の中に入っていって、トマト畑の陰で用を足されましたが、男の小用の場合これが一番快適と思われました。

さて、丘の峠付近に差し掛かったころ、私のすぐ後ろを歩いていたI氏に新聞記者から突然声がかかりました。見るとこの国の代表紙ABCの腕章を巻いた記者と女性の助手です。私は2〜3mはなれてしばらく眺めていましたが、少々難儀しているようで、助け舟を出そうと、寄っていったら、私のほうにインタビューの矛先が向けられました。これも何かの縁と、受けて立ったのですが、中々スムースに会話は進まず、それでも一応終わり、記者と握手をして、別れたのですが、この間ほんの、1〜2分という短い時間であったように思います。帽子を取ってサングラスは取らず話したのですが、写真を撮られていたことは気づきませんでした。翌朝の新聞に写真つきで載っていた記事は、次の通りです。(訳者:U氏)

「仏教徒がイパカライからカアクペに歩く」

太陽が強く照りつけ気温も30度以上。カテドラルに向かう群衆の中にクルス・ペレグリノ(巡礼者十字路)の近くで、顔は汗にまみれているがしっかりした歩調で静かにビジャセラーナに向かう二人のアジア人を見つけた。パラグアイで8ヶ月前から仕事で滞在する二人の日本人であった。東京出身のイチロータカシマは取材に丁寧に応えてくれた。スペイン語は上手ではなかったが彼の言うところによれば彼は仏教徒であるがパラグアイの大衆と一緒にビルヘン(カトリック本山カアクペの守護聖人、聖処女マリアのこと)の足元まで歩くことは感動的な体験であると。ABC新聞の記事でNovenario(12月 8日前の 9日間)の行事を身近に感じたと付け加えた。彼は商業に従事し、パラグアイが気に入っているとも語った。


感想。「彼の下手なスペイン語」は事実だから仕方ないが、少しだけ言い訳させてもらうと、東京から来て8ヶ月になるとされているが、私は、大阪から来て10ヶ月になる、この人(Iさん)は東京で9ヶ月になると間違いなく言ったつもりだが、私の名前だけメモして、そのほかのことは会話中はメモしていなかったので、記者が間違えた可能性がある。しかし、まあそんなことはよし。良い記念になりました。

いよいよカアクペの町に入って、道中唯一のちゃんとしたレストランを見つけ、遅い昼食を3時前後にとり、再出発。そこからは、すぐに大聖堂の尖塔の先が木立の梢越しに見えてきました。大きな公園のようなつくりの広い敷地に立派な大聖堂が鎮座しています。ここ数日新聞のカラー写真で見ていたのですぐにそれと判りましたが、本物の迫力というより、威厳はさすがです。大聖堂の中では、4,6時中ミサなどが行われているようで、中々スムーズに前のほうには進めません。 教会のはずなのに、回廊は、びっしり人が横になっており、ホテル代わりに使う人と見受けられました。 中には、不具の子供を横たわらせて物乞いをする人もいて、足の踏み場もない感あり。 仏教徒の我々としては、中はチラッと眺めただけで、外の階段の上や下で大聖堂をバックに写真を撮ってこの観光はお終いにしました。



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