マスコミへの掲載・出演-01(新聞・雑誌・書籍)




ホームページ開設を機会にこのページを見てマスコミで取り上げてもらう事があります。ここでは雑誌、新聞など活字として取り上げていただいたものを紹介して行きます。



(雑誌等)
1・海外投融資情報財団JOI機関誌「海外投融資」2008年 3月号:ワールドレポート 南米の中央に位置するメルコスール(南米南部共同市場)の中核の国・パラグアイ共和国(3ページ)
2008年 3月に海外投融資にパラグアイの投資経済情報をまとまたもの。

2・(社)ラテン・アメリカ協会『ラテンアメリカ時報』2008年夏号(No.1383):・パラグアイ・61年ぶりの政権交代
6161年ぶりの政権交代に関してここまでの経緯、選挙戦の様子などを記述した。

3・世界の食文化-13・中南米(2007年 3月17日初版)・第三章・各地の食文化・パラグアイ(202ページから209ページまで8ページ)
パラグアイの食文化に関して概要を記述した。

4・「パラグアイを知るための50章」(明石書店:2011年1月15日初版)の中の35章、48章、49章、50章の4章を担当
35章:パラグアイにおける日系社会(3)現状と展望
48章:歴史的な政権交代(2008年大統領選挙を振り返って)
49章:未来の穀物供給国(継続的な食料供給が可能なパラグアイ)
50章:パラグアイと経済援助(最大の援助国は日本)



この本はパラグアイの一般的な紹介、50章の中の4章を担当しました。この本は歴史に関する章が多い中、当方の担当は主に現代そして未来に繋がる章です。



09・『ラテンアメリカ時報』2011年夏号(No.1395) (2011年08月10日)

独立200周年を迎えたパラグアイ


1811年5月15日に独立したパラグアイは今年、建国200年を迎えた。現在、経済は好調で2010年の経済成長率は実に14.5%を記録する等かつてない程の好景気に沸き返る中、今年は特別に三日連続で祝日とする政令が発布され、二百年を祝う行事は盛大に執り行われ、国は祝賀ムード一色となった。首都のアスンシオン市ではこの日に向けて歴史的な建造物の化粧直しが行われ、多くのイベントが実施され、また記念日当日にはメインストリートであるマリスカル・ロペス大通りで大掛かりなパレードを実施された。この独立200年という節目の年に当たりパラグアイの過去と現在そして将来について考えてみる。

まずは独立の経緯を振り返ってみる。独立の前年、ブエノスアイレスにおいてスペインからの独立を宣言した際に当時のラプラタ副王領の一部であったパラグアイは新国家の一地方として独立に参加する事を求められたがブエノスアイレス側の中央集権的な体制をみてこれへの参加を拒んだ。これに対して武力で制圧しようとブエノスアイレス側はアスンシオンに向けて遠征隊を送り込んだがアスンシオン側は途中でこれを迎え討ち、打ち破り属領となる事に対して拒否を貫き、独自の道を歩む事を選択し、その後スペインからの独立も果たした。

独立後、最初の約30年間は執政者ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアの時代で強権的かつ外国人を排斥するなど鎖国的な政策が実施された。これによりパラグアイは周辺国家とは異なる独特の文化、アイデンティティーが育まれた。フランシアの死後、1844年に大統領に就任したカルロス・アントニオ・ロペスは一転して産業の振興、鉄道等のインフレ整備、欧州各国から外国人移住者の受け入る等革新的な政策を実施、この時代パラグアイは急速に近代化、発展し、南米の新興大国として台頭して来た。なお、鉄道は1861年と日本よりも十年以上早く開業している、ちなみにこの鉄道は現在「カルロス・アントニオ・ロペス大統領鉄道」と呼ばれている。

1862年カルロス・アントニオ・ロペス大統領が死去し、その息子のフランシスコ・ソラーノ・ロペスが大統領に就任した。ソラーノ・ロペスは就任前に欧州を訪問しナポレオン3世の元帝政下にあったフランスに強い影響を受けていた。以前からブラジル、アルゼンチンとの国境は確定しておらず両国との関係は不安定であったが、ウルグアイの内政問題にブラジルが干渉した事がきっかけとなり、またフランスのような帝国を南米で実現しようとするソラーノ・ロペスの野心もあり1864年ブラジルとの戦争が始まった。これに加えて翌年にはパラグアイ軍の通過に抗議するアルゼンチンとも交戦状態となり、この結果ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの三ヶ国を相手に戦争をする事となった。パラグアイは緒戦に勝利し短期決戦を目論んだが戦争は5年の長期戦となりパラグアイは少年、老人までも徴兵し国民総動員体制で戦った。しかしながら1870年3月1日ソラーノ・ロペス大統領が北部の山中で戦死し、戦争は終結した。この戦争によってパラグアイは壊滅的な打撃を受け、国土の割譲を余儀無くされ、国土面積は約半分となってしまった。現在パラグアイ川をはさみアスンシオンの向い側はアルゼンチン領となっているが、この時に対岸の領土を失った為である。また、人口は一説によると45万人から15万人にと激減し、特に成人男性の割合は極端に少なくなった。日本は幕末・明治維新の時代、地球の反対側ではこのような凄惨なドラマが起きていた。なお戦死したフランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領は国の為に最後まで戦った国民的な英雄して遺体は市内中心のパンテオンと呼ばれる建物に安置され、また戦死した日は祝日に制定されており、現代においても「マリスカル・ロペス」(ロペス元帥)と呼ばれ国民から篤い尊敬を受けている。

三国戦争の敗戦によって多くの国民と半分近い国土を失い、生産年齢層、特に男子の喪失、賠償金支払いの重圧もあり、疲弊した状況が続きその後長い期間停滞した。政治は混乱し南米の中でも後進的な存在となった。その後、隣国ボリビアとの国境問題が深刻化し、1932年にチャコ地方の領有権を巡る戦争が勃発した。1935年に戦争は終結し、ほぼパラグアイの主張した国境線が確定し、チャコの大部分はパラグアイに帰属する事となった。この時代、日本では満州事変以降大陸に侵攻して行く時代に当たる。

チャコ戦争後も政治は安定を欠き内戦やクーデターが相次ぎ、発展への道筋を示せないでいた。1954年クーデターで政権を奪取したアルフレド・ストロエスネルは大統領に就任して1989年にロドリゲス将軍がクーデターを起こし政権が崩壊するまでの35年間、独裁的かつ鎖国的な政治を行った。現在でも強権的な側面が非難されるなどその評価は定まっていないが国が安定的な発展を遂げる基礎を作った事は評価されている。またこの時代に日本から多く人が移住して来た。その後1993年に本来的な意味において初めて民主的な大統領選挙が行われ初の文民大統領としてワスモシが選出され、以降は5年ごとに大統領選挙が実施され、民主的な方法で大統領が選出されクーデター未遂など多少の混乱はあったものの着実に民主主義が根付いて来ている。

このように歴史を改めて眺めてみると牧歌的なのんびりとした目立たない地味な感じの内陸国という現在の印象とは異なり建国以来200年の歴史は決して平坦ではなく、2度の大戦争、30年を超える独裁を二度経験する等、国民はむしろ苦難の連続であったと言える。建国50年の時は三国戦争のただ中、100年の時は停滞の時代で内政が不安定で区切りの年を祝うような状況には無く特別な式典等は行われなかったと聞く。150年の時には言論や集会などの自由が制限されていた独裁政権下と建国の節目を国民が心から祝えない状況であったのに対して今年の建国200年は国民が平和で国が発展する中で迎える事が出来、全国民で節目の年を初めて真に祝う事が出来る時が来たと言え、今回の独立記念日に対するパラグアイ国民の強い想いが理解出来る。

現在の大統領は2008年に実施された選挙で当選した元司教のフェルナンド・ルゴで当時の野党第一党であった青党など多くの反コロラド勢力が結束し、与党統一候補として推した結果当選した大統領である。60年以上にわたりコロラド党の政権が続き汚職などが多発し腐敗した政治に嫌気をさした国民が支持し当選を果たした。元聖職者という事で清廉な政治が期待されたが聖職者にあるまじき隠し子発覚などスキャンダルが噴出し、また自身の癌が発見されるなど大統領の個人的な話題には事欠かない。また反コロラド党という一点だけで結集した与党内は亀裂を深め有効な政策を打ち出しているという状況には無い。ただ輸出は好調で経済状況が好転しているので国民の中で大きな不満は出ておらず不安定ながら政権を維持している。2010年11月に行われた中間選挙的な意味合いを持つ地方統一選挙ではコロラド党の巻き返しが目立ち、2013年の大統領選挙を睨んで今後連立政権内部での駆け引きが注目されている。

経済に目を転じてみると、ブラジルとの国境のパラナ川で1975年から建設が始まった当時としては世界最大の水力発電ダムであるイタイプダム建設によりパラグアイは空前の好景気となった。1991年に建設は終了し建設特需は終わりを告げ以降は経済的には不安定な時代が続いていた。しかしながら、この数年ブラジル経済等周辺国の経済に影響され、また世界的に食料が高騰しており、パラグアイも大豆、牛肉を中心に輸出が好調で空前の好景気となっている。2008年の統計で大豆の生産高は世界第六位、輸出高は第四位となっている。今後も土地の開発、有効利用が進み、耕作面積、肉牛の頭数も伸びておりしばらくは景気の良い状況が続くと見られている。

多額の外貨が流入しているが一部の軽工業を除き工業が発達しておらず生産設備への投資等には向かわない一方で消費は伸びており自動車販売は絶好調で人気車種に関しては数ヶ月待ちの状況になっている。また首都のアスンシオンでは大型ホテルや高層アパートなどの建設ブームが起きている、特に注目を集めているのは最近計画が発表されたワールド・トレード・センターで大型のオフィスビルが建設される事により将来南米の中央に位置しているアスンシオンが貿易、流通における南米における拠点の一つになる事が期待されている。今後もオフィスビルや高層アパートの建設は続きアスンシオン市の様相は今後数年間で大きく変化して行くものと予想されている。国内の人口も増加し内需も増える中、軽工業などの新産業を如何に育成して行き雇用の機会を増やして行くか、また多くの若年層への教育の質を高めて行く事、空港、道路等のインフラもまだまだ不十分であり、これらの改善などが緊急な課題として挙げられる。

現在は南米の中でサイズも小さく、またブラジル、アルゼンチンという南米の大国に挟まれた内陸国という事で比較優位になるものが無く経済価値の高い地下資源も発見されておらず余り目立たず地味な感じであったが人口も着実に増加し社会が変貌を遂げており、また食料増産の余力は大きく世界の中で安定かつ継続的に食料を供給出来る生産基地として可能性を秘めた国として今後ますます存在感を増して行くものと考える。独立200年を期に更なる発展が期待されている中、欧米、韓国、台湾などが熱い視線を注がれている。これに対して長年にわたり多額の援助を行い、多くの移住者を送り出して来た日本の存在が次第に小さくなるのが気掛かりであり、日本において安定的な食料確保の観点からも再度パラグアイに注目する必要があるものと考える。



09・海外日系人協会雑誌(2007年08月04日)


セントロ日系の話題をという事で日系ベルマーレを取り上げました。

サッカー・プロチーム「日系ベルマーレ」発足

日本人・日系人のクラブとしてパラグアイの首都アスンシオン郊外イタグア市にある「セントロ日系」では色々なスポーツ施設が整い週末には多くの会員が集まり、サッカー、テニス、水泳、パークゴルフなどを楽しんでいます。この隣接地に昨年の末に「日系ベルマーレ」という日系人が経営するプロ・サッカーチームが誕生し、観客席付きのサッカー場そしてクラブハウス、宿舎等が建設されました。オープニングセレモニーには南米サッカー協会のニコラス・レオス会長も姿を見せ日本人の新たな取り組みに期待を寄せて現地のマスコミでは大きく取り上げられました。文字通りチームをゼロから作り上げて行くわけで最初は地方の二部からの出発ですが、将来は一部そして南米クラブ選手権出場(リベルタドレース杯)へと夢は広がっています。「日系」という名称が付いているのでセントロ日系も組織を挙げて応援しています。

「ベルマーレ」と言いますと多くの方はJリーグの「湘南ベルマーレ」を思い起こすでしょうが、実際にこの湘南ベルマーレと提携して誕生したチームであり、湘南ベルマーレ側は強化プログラムの一環としてとらえているようで、外国籍枠のないパラグアイリーグで、若手選手の派遣・育成・強化を図る構想を持っているようです。また当然ですが南米での選手発掘にも活用される事でしょう。チームカラーも青と緑で両チーム共通です。さて、成績の方ですが一月からリーグ戦が始まり激しい戦いが繰り広げられていますが残念ながら今年は昇格には至らなかったそうです。試合観戦に行きますと日本人ばかりでは無く地元の人達も熱い声援を送っていました。来年こそは地方一部リーグに昇格するよう頑張って欲しいものですね。


 



08・NHK情報誌(2005年05月30日)

  南米はベンチャーの夢大陸・パラグアイに来ませんか・〜日系社会70年〜

南米大陸のパラダイス
−− パラグアイは南半球ですから、日本とは季節が逆ですね。
田中 時差も12時間ですから昼と夜も正反対です。季節でいうと、今は長い夏が終わって、ようやく秋風が吹き始めるころです。
−− 秋風が吹くと木々が色づくというのが私たちの季節感ですが、南米には紅葉がないんですってね。20年以上も前のことですが、軽井沢の聖パウロ教会に赴任して来られた南米出身の神父さんが、「初めて紅葉を見たときは、悪魔の仕業かと思った」と言っていました。日本の四季の彩りが恋しくなりませんか。
田中 パラグアイは真っ青な空の下に、ハイビスカスとかブーゲンビリアとか、いろんな花が交代交代に咲き乱れるので一年中カラフルなんです。でも日本人にとっては、やはり“春は桜”の思いが格別強いんですね。おそらく沖縄の桜だろうと思いますが、「日系人が桜の木を植えて花を咲かせた」という話をよく聞きます。
 −− 「さまざまのこと思い出す桜かな」(芭蕉)ですね。
田中 ありがたいことには、『ラパチョ』という街路樹の花が桜によく似ているんですよ。ソメイヨシノよりはずっと鮮やかなピンクですが、花見気分にさせてくれますので、私たちはこれを『南米桜』と呼んでいます。この花には小さなハチドリがやって来ますが、羽を激しく動かしながら器用に蜜を吸う姿が可愛いですよ。
−− ミツバチのようにホバリングして空中に停止できる鳥でしょう。
田中 ホバリングしているときのブーンという羽音がリズミカルなので、英語ではハミングバードといいますが、スペイン語では「Pica(くちばし)Flor(花)」と呼ばれています。花とハチドリを見るだけでもパラグアイに来る価値がありますよ(笑)。
 −− もちろん、一度は行ってみたい国の一つですが、住みつくとなると相当の覚悟がいると思います。まず、どんな国なのですか。
田中 位置的には、南米大陸のほぼ中央にあって、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアの3国に囲まれています。小さな国と思われがちですが、国土は日本よりも一回り大きくて、そこにわずか530万人しか住んでいません。緯度は沖縄くらいですので気候は亜熱帯ですが、内陸国のために寒暖の差が大きくて、7月末の冬場の明け方には気温が0度近くにまで下がることもあります。国名は、国土を東西に分けて流れるパラグアイ川にちなんで名付けられたと聞いています。国民性はラテンの中では非常に穏やかで、治安は南米一良いのではないでしょうか。公用語はスペイン語とグアラニ語で、国民の80%が両方話すことが出来ると言われています。私が住んでいる首都のアスンシオンは、周辺を含めておおよそ人口100万人で、大型のスーパーマーケットやショッピングセンターがありますし、日系の商店やレストランもありますから、日用品や日本の味覚に不自由することはありません。最近はNHKのテレビも衛星で受信可能となりましたし、インターネットのおかげで日本の情報にもこと欠きません。極端に言えば、日本にあってパラグアイに無いのは「個人所得税」くらいかもしれません(笑)。
−− えっ! 所得税がないのですか?
田中 源泉徴収に苦しんでいらっしゃる日本のサラリーマンには、夢のような話だと思いますが、個人の所得には一切税金が掛かりません。もちろん、法人所得税や消費税はありますが、外国企業に対しては税制面での優遇処置があります。それに、非居住の外国人でも不動産の所有が可能ですから、パラグアイに移住して事業を行いたいという方や、パラグアイに投資したいという方にとっては、大きなメリットだと思います。
−− 日系人はどれくらい住んでいるのですか。
田中 現在、およそ7,000人です。農業以外にも商工業、医師、弁護士など多方面でパラグアイ社会に進出しています。日系社会がしっかりと根付いているおかげで、新規に移住した私などもスムーズにパラグアイに溶け込むことができました。永住権も、日本との間に『移住協定』がありますから、受入先を確保したうえで、ごく標準的な条件を満たせば簡単に取得することが出来るんです。
 −− 田中さんの移住は、いつ、どんなきっかけからですか。
田中 私は、今年でちょうど移住15年になります。1990年まで日本企業の駐在員としてブラジルに赴任していたのですが、南米が好きでそのまま居ついてしまいました。南米の中でも、隣のパラグアイの方がのんびりと暮らせそうなので、国際協力事業団を通じて永住査証を取得しました。ブラジルやアルゼンチンなど他の南米諸国への移住は戦前から行われていましたが、パラグアイへの移住は主として戦後からで、20年前くらいまで集団移住が続けられていました。いわば“日本からの最後の移住国”と言えますが、今では日系大農場が生産する大豆が国の主力輸出品に成長していますし、日系人の勤勉さはパラグアイ社会で高い評価を受けています。ここ数年は、毎年数人ずつの移住に止まっていますが、若い方だけでなくシルバー移住もあります。新規移住者は、教師とか企業への勤務といった給与所得者のほかに、自動車修理工場、旅行社、ペットショップ、スーパーの経営、またマッサージ業というような個人で事業をされている方も多くなっています。発展途上のパラグアイ社会は日本よりも新規に事業を展開するのが容易なのかも知れません。何か特技をお持ちであったり、アイデアがある方はパラグアイにチャレンジしてみると面白いのではないでしょうか。それから新しい傾向としては、スペイン語を研修するために私費留学してくる学生の姿も見られるようになって来ています。治安が良いうえに、生活費があまりかからず、よその国と比較すると日本からの留学生が少ないので大事にしてもらえるようです。語学留学には穴場かも知れません(笑)。語学研修だけでなく、正規に大学生となって勉学されている方もいらっしゃるようです。
 −− サッカー留学はどうですか。
田中 日本代表だった武田修宏選手が2000年の6月から1年間、「スポルティボ・ルケーニョ」に在籍しましたし、その後、廣山望選手そして去年は福田健二選手が活躍しました。そんなことから、「オリンピア」とか「セロ・ポルテニオ」など1部リーグのクラブチームをはじめ、2部3部のクラブが受け入れ体制をとっています。
 −− 逆に、教育を日本で受けさせたいという日系の親も多いんじゃないですか。
田中 国際協力機構や外務省が、いろんなプログラムを永住者のために用意してくれていますので、かなり多くの若者が日本に留学しています。
−− 日本から南米に移住するのと反対に、パラグアイ生まれの若い人たちが親の国の日本に定住したいという逆転現象も出てきませんか。
田中 すでに“出稼ぎ”という形で、かなりの数が日本に半分定着しています。残念ながら、パラグアイには適当な働き口がない、能力を活かせる職場が少ないということが、現実問題としてありますので。
−− それは、工場が少ないということですか。
田中 そうです。農業が中心の国ですので、工業は発達していません。農業の次はサービス産業になってしまいます。すると、やはりなかなか収入が伴わないというのが現実です。
−− 理系を勉強しても職場がない。
田中 文系にしても職場が少ないですし、給与水準も低いですから、いきおい日本へ行って日本の水準で仕事をした方が稼ぎがいいということになります。ですから若い人は、どうしても日本の方に目が向いてしまいます。
−− 親の国という憧れもあるでしょうしね。

来年は移住70周年
−− 来年はパラグアイ移住70周年の式典と慰霊祭が予定されているそうですね。田中さんはその式典の広報担当だそうですから、パラグアイ移住の歴史を簡単にレクチャーして下さい。
田中 日本人が最初にパラグアイに移住したのは、1936年(昭和11年)です。首都アスンシオンから南に120キロ程離れたコルメナという所ですが、戦前の日本人移住地はここ1ヶ所だけでした。本格的に移住が始まったのは戦後になってからです。移住事業団(現在の国際協力事業団)が斡旋をして、1955年(昭和30年)から東京オリンピック前年の1963年(昭和38年)まで、チャベス、フラム(現在のラ・パス)、アマンバイ、イグアスなど8つの地域に入植しました。日本がまだ貧しかった時代でしたから、情報もほとんどないまま、テント生活から始めて、密林をこつこつと開墾し農地を広げたそうです。オリンピック以後は日本が高度成長期に入ったために集団移住がなくなりましたが、ほかの南米移住地と違う点は、歴史が浅いので一世の方がまだまだ現役で大いに活躍されている事です。それともう一つ、周辺の国では圧倒的に多い沖縄出身者がパラグアイでは少ないということです。
−− 沖縄が日本に復帰したのは1972年(昭和47年)ですから、それは当然ですね。出身地別に県人会のような組織はあるのですか。
田中 それぞれ活発にやっていますよ。なかでも、北海道、高知、岩手が3大勢力で、北海道人会は『ハマナス・センター』という自前の建物を持っています。1999年にオープンした時には北海道知事がわざわざ出席されましたし、北海道からの移住65年と道人会創立40年を記念する式典が開かれた去年は、副知事や道議会議長が参加されました。北海道出身の皆さんは、故郷との結びつきが格別深いようです。
−− 北海道と聞いて、10年前に初めてモンゴルへ行ったときのことを思い出しました。ウランバートルで会う人が皆、口を揃えたように「私はいつもサッポロで買い物している」と言うんですよ。それなりの立場の人たちだったので、てっきり、北海道までわざわざ行くのかと思っていたら、街の中に日本製品を売っている百貨店があって、そこの名前がサッポロだったんです(笑)。「日本製品の愛用者である」ことを愛想を込めて話してくれたわけですよ。どこでも、北海道強し!ですね(笑)。
田中 パラグアイでは日系の1割が北海道関係者なんです。ありがたいことに、道人会は自分たちの建物を日本人とパラグアイ人が文化交流できる拠点にしたいということで、表の看板を『ハマナス・センター』にしてくれましたので、私たちよその出身者も気軽に利用させてもらっています。
−− 日本食には不自由しないとおっしゃいましたが、輸入品となると味噌汁ひとつにしても随分高上がりなものになるのではありませんか。
田中 いえ、主要農産物が大豆ですから味噌は現地で作っていますし、豆腐もあります。それに、これは周辺の国には見られないことですが、モヤシとか大根とかカブとかの日本の野菜が、スーパーマーケットで現地の人向けに普通に売られています。ですから、味噌汁の具にも困ることはありません。街に出れば、日本の家庭料理を中心としたレストランが2軒と、焼き鳥屋とラーメン屋があります。お寿司、天ぷら、カツ丼、天丼、うどん、そこらへんはいつでも食べることが出来ますし、日本酒だってお隣のブラジルで作ったものが手に入ります。
−− 日本人観光客にとっても心強いですね。
田中 ところが、日本からの観光客が寂しいくらい少ないんですよ。日本のガイドブックに「パラグアイには見る所が無いので、のんびり過ごしましょう」って書いてあるので、南米ツアーが企画されても、パラグアイはコースに入らないんです。確かに世界的に知られた観光地やリゾートはありませんが、実際は地方ごとに特徴があって面白いんですよ。例えば、世界各地からの移住者がモザイク状に住んでいる地方では、「ドイツから日本までクルマでわずか20分」で行けます。これはどういうことかというと、実際に日本からやってきた友人が体験したことでしてね。彼は、南部のエンカルナシオン市の近郊にあるドイツ系ホテルに泊まったんです。そしたら、経営者も宿泊客もドイツ人で、建物や設備もドイツ風、聞こえる会話はすべてドイツ語で、ドイツにいるような錯覚に陥ったそうです。ところが翌日、クルマで20分ほど走ったら、そこには日本と同じ農協があって、組合員も職員も日本人で、当然ながら日本語で話している。これは彼にとって、かなり不思議な体験だったようです。
−− 地球の裏側に行って季節が逆になるだけでも不思議な時空体験なのに、西武遊園地にあったユネスコ村よりずっと本格的なものに出会える(笑)。十分に観光の目玉だと思いますがねぇ。しかし、何としても遠すぎますね。
田中 おっしゃる通りですね。日本からの直行便がないので、北米を経由して近隣の中南米諸国で乗り換えるのが一般的です。一番オーソドックスなのは、サンパウロまでの直行便に乗り、そこからアスンシオンに飛ぶというコースですが、片道28時間から30時間かかりますから、たしかに溜息が出るほど遠いです。
−− 往復だけで3日かかるとなると、駆け足旅行の好きな日本人にはちょっと向いていないかもしれませんね。せっかくなら、足を延ばして南極まで行きたい(笑)。


飢餓も戦争もない大陸
−− 一世の方たちが現役で頑張っておられるそうですから、日本語もまだまだ現役なんでしょうね。
田中 昭和30年代までの日本語教育をかたくなに守っていますから、むしろ言葉の崩れが少ないかもしれません。
 −− そういえば、こんな話を聞いたことがあります。浜松だったと思いますが、南米から日系2世をホームステイさせた家庭があったんですね。2世の子は家で日本式の生活をしているので日本人とは全く変わるところがないのに、受け入れ家庭はカタコトの英語で迎えてくれて、「お箸を使えますか?」「お寿司は食べたことがありますか?」って完全に外国人扱いしたんだそうです。その子は自分が日本語をしゃべると期待を裏切るような気がして、かといってスペイン語ではまったく相手に通じないので、こちらもカタコトの英語で受け応えしているうちに、すっかり疲れ切ってしまったというのです(笑)。ところで、この子の話す日本語は実に几帳面な言い回しで、どこか古臭い言い回しだったんですって(笑)。
田中 それは、よく分かりますね。でも最近は、NHKプレミアムで日本と同時にテレビが見られますから、新しい日本語表現にも遅れずについていけるようになりました。『あなたも挑戦! ことばゲーム』の“ことば一郎”は最高に面白いですね。
−− そうですか。私はまだ見たことがありません。
田中 歌手の鳥羽一郎さんが、“ことば一郎”として日本語の語源を訪ねて歩くんです。彼の人柄と同時に言葉の豊かさが興味深くて、私たちの仲間内では鳥羽さんの人気が急上昇しています。「来年の70周年記念式典に来てくれないかな」という人がいるぐらいです。
−− 地球の裏側に住んでいる人に、日本の今の番組を教わるなんて、とんでもない時代になったものですね(笑)。
田中 日系人の間でのNHKの視聴率は、多分、日本以上だと思います。内容についても、日本国内にいらっしゃる方よりも詳しく、かつ一つ一つ丹念に見ているのではないでしょうか。夜昼逆なので、私の場合は日本の夜7時半の『クローズアップ現代』から6時間を毎日録画をしておいて、帰ってからそれを全部再生して興味のある所をずっと見ていくというようなことをやっています。
−− 視聴率だけでなく、“視聴質” も素晴らしい!
田中 日曜日はオンタイムで見るので、『義経』は朝ですし、大晦日は朝の7時半から『紅白歌合戦』を見ていて、『ゆく年くる年』でお昼を迎えるというのが、私たちパラグアイに住む日系人のテレビ生活です。ですから私たちのところには、日本の情報が十分すぎるほど入ってくるのですが、逆に日本にどれだけ南米の情報が入っているかというと、これは大変心許ないですね。特に普段着の南米が取り上げられることは、ほとんどないと言っても言い過ぎではないと思います。たとえばブラジルを取り上げるときは必ず日本の冬で、炬燵に入りながらリオのカーニバルを見る式のものしかないんですね。日本の夏にブラジルの冬を紹介するといったものがあれば、もっと違った角度でブラジルを見てもらえるはずなんですが…。
−− 田中さんだったら、何を紹介してくれますか。
田中 ブラジルでも、南部ではかなり雪が降るんですよ。それに、リンゴの美味しい地帯もあるんです。「年中夏じゃないのか?」と思われていますが、「いや、夏しか放送されていないんだ」というのが現実なんです。サンパウロでも冬は寒いですし、南に行けばリンゴができるということは、日本でいえば長野とか青森のレベルの気候だということを示しているわけですよね。そういった普通のブラジル、普通の南米が、テレビに登場しないのが不思議なくらいです。「日本人が考えている南米」だけを撮りに来て、そのまま放送しているという番組が多いのは、とても残念なことです。
−− 確かに、南米の普通の情報、季節ネタとか町ネタとかが極端に少ないですね。ひところというより、今でもそうだと思いますが、日本は欧米に対して情報が入超だと批判されます。しかし、南米の日系社会に対してはあまりにも出超だということになりますね。
田中 私はよく「世界にある5つの大陸のなかで、難民も飢餓も戦争もないのは南米だけだ」と言うんです。「北米もアジアもヨーロッパもアフリカも、見て御覧なさい。いま、世界で一番安定していて安全で豊かなのは南米です!」ってね。そういう視点で見て欲しいのですが、ほとんどの方は半信半疑で「ふ〜ん」という話になってしまいます。
−− 南米はゲリラとかテロが多いのではないかという先入観があるんですよね。でも、言われてみれば、今の時点では難民も飢餓も戦争もありませんね。さらに、これからは「BRICSの時代」で、ブラジル、ロシア、インド、中国が経済的に台頭してくると言われていますね。お隣のブラジルの余波を受けて南米全体に脚光が当たるようになる時代も遠くないかもしれません。最後に、母国に望むことを一つだけおっしゃっていただけませんか。
田中 日本では、「次は中国だ、その次はインドだ」と投資家の方も一般の国民もみんな同じ方向に向いてしまっていて、情報化時代と言いながら、日本での南米がどんどん小さくなっています。パラグアイという国名を知っている方すら、以前よりも少なくなっているのではないかと危惧するぐらいです。この現状はすごく悲しいことなので、とにかく、南米そしてパラグアイにもっと関心を持って欲しいというのが、何よりの願いです。
−− 来年の移住70周年のイベントが、その願いがかなう大きなきっかけになればいいですね。一時帰国の貴重な時間をお付き合いいただいたことを感謝します。
中 こちらこそ、ありがとうございました。



07・クロスロード2002年・8月号・9月号(2002年 8月21日)

クロスロードは国際協力事業団発行(社団法人・協力隊を育てる会)の「青年海外協力隊」の雑誌です。隊員の皆さん家族、そして隊員を目指す方、元隊員方等を中心にした雑誌です。実際に読んで見ますと当方のように協力隊と直接は関係無い者にとっても興味深い情報が多いように思います。今回8月号ではサッカーの話題、そして9月号ではハッピー・マンデーに関して掲載していただきました。

サッカー(8月号)
現在の国歌の作詞は、ウルグアイの詩人フランシスコ・アクーニャ・デ・フィゲロアによって作られたもので、ロペス大統領(1844−1862在職)に贈られ、同年ウルグアイ国歌の作曲者でもあるハンガリー人フランシスコ・ホセ・デバリによって作曲された。その後、1934年5月12日、上記作詞と、パラグアイ人音楽家レンベルト・ヒメネスによって再編された曲が国歌であると規定され、現在に至っています。

パラグアイのサッカーに対する思いは格別でワールドカップが始まると自動車に応援の旗を付け、街にはユニフォーム姿の人が多くなります。試合経過に一喜一憂し、勝利を上げると大喜び、負けるとがっくりとしょげ返ってしまいます。
今回のワールドカップは、緒戦の南アフリカ戦は終了間際にPKを取られて惜しくも引き分け、そして第二戦、鍵となるスペイン戦では後半逆転負け、この日は敗戦のショックで皆塞ぎ込んでしまい、多くの学校では半数以上の生徒が登校せず、先生もがっくりして一日授業にならなかったそうです。

グループリーグ最終戦(対スロベニア戦)が行われた6月12日は、チャコ戦争の終戦記念日でもともとは休日。今年始めに決められたハッピーマンデー制度で平日となるはずだったのですが、直前になって政府が試合に合わせてこの日を祝日に戻したのです。もし通常の日であったら、仕事にならずそのまま休みになっていたことでしょう。

試合は後半途中まで1点をリードされる苦しい展開、早朝の試合で、みんなテレビにかじりついており、重苦しい雰囲気の中、街は静まり返っていました。しかし、途中出場のFWクエバスが同点ゴールを決めると、静寂を破る喚声と共に花火がいくつも上がり、3−1と逆転で奇跡的に決勝トーナメント進出を果たした直後には、首都アスンシオン市中心部はユニホーム姿の市民や横断幕を掲げた車であふれ、「アルビローハ(パラグアイ代表の愛称)」の歌を歌う市民らでお祭り騒ぎになりました。小雨混じりの肌寒い天気でしたが、市内は『パラグアイ、パラグアイ』とスタジアムさながらの雰囲気でした。新聞の号外が販売され、テレビは何度も同じ場面を放映するなど、興奮は一日中冷めないままでした。

決勝トーナメント一回戦で惜しくもドイツに試合終了間際にゴールを決められてしまい0-1で負けましたが、チームの活躍はパラグアイの人々に感動と勇気を与えてくれたと思います。

ハッピーマンデー(9月号)
筆者紹介 田中裕一 たなか ゆういち
建設会社(ホテル業)勤務、本社勤務の他、パナマ、ブラジル駐在員、1990年にパラグアイに移住。現在アスンシオン市在住、現地の保険会社に勤務。著者には「南米のパラダイス・パラグアイに住む」(アゴスト社)がある。

(前文)
日本では休日を増やす目的で「ハッピーマンデー」制度が施行され、成人の日や体育の日は月曜日に休むようになり、海の日、敬老の日も月曜になることが決まっていて、連休が増えると喜んでいる人が多い事でしょう。これと似たような制度
がパラグアイにもありますが、少し様子が違うのです。
(本文)
パラグアイは「祝日」が少ないように感じます。年間たったの11日だけで、それも日曜日と重なった場合でも日本のような「振り替え休日」等というな救済処置はありません。要するに土、日と重なると全く意味を為さないのです。また、日本のお盆や正月のような特別な休みも無く、正月も元日が一日休みなだけで1月 2日は平常に戻ります。祝日の内容はカトリックのお国柄、キリスト教の宗教上のお休みが多く、後は建国記念日や終戦記念日のような祝日です。革命以前はもっと休日が多かったそうですが、聞くところに拠りますと訪日した当時の大統領が日本の勤勉さに感動して「我々も生産性を上げて働こう」という事で一気に数を減らしたそうです。増やすのはた易いでしょうが、よく減らせたものだと感心します。

最近、南米の経済状態も停滞し明るいニュースが少ない中、国民を喜ばせる事も必要と考えたのか政府が打ち出した政策が「ハッピーマンデー」です。日本と同様に連休を増やそうと、クリスマスのように宗教的な意義があり、動かせない日以外は出来るだけ翌週の月曜日に廻そうというもので、今年から施行される事になりました。そして最初に移動が実施されることになったのは5月 1日のメーデーです。労働者の日として広く世界で祝日となっていますが、5月の最初の日として休みになっている訳で、動かすのはどうかと首を傾げていましたが、案の定、労働団体を始め各界から反対意見が続出し、寸前になって元に戻すことになりました。連休を当て込んで予定を組んでいた人はスケジュールの調整に大変でした。そして次に実施が予定されたのは6月12日(水)でした。70年ほど前にボリビアとチャコ地方の領有権を巡って戦ったチャコ戦争の終戦記念日であり、大方の人は、今回はハッピーマンデー実施には問題は無いと考え、5月1日のように反対で元に戻る事などないと考えていたようですが、私は元に戻す政令が出ると予想していました。理由は簡単、サッカーワールドカップの一次リーグ最終戦がこの日に予定されており、試合開始が当地の午前7時半だったからです。午前中に試合が終了し、一次リーグ突破となれば仕事などそっちの気でお祭り騒ぎになるのは必定、もし負けたら、お通夜のように悲しみ、これも仕事にならない、いっその事休みにしよう、そうだ、元々休日なのだから元に戻そう・・となると踏んだのです。そして全くその通りになりました。

サッカーを何にもまして大事にしているお国柄、そして予定をきっちり決める日本と違い、南米パラグアイでは予定は変える為にあるものという感じです。このハッピーマンデー、パラグアイにどのような形で根付くか注目しています。




06・アサヒ・パソコン・朝日新聞社(2001年 2月15日)

朝日新聞社のパソコン専門誌である「アサヒ・パソコン」でラテン系特集があり、当方もページも紹介された。

南米旅行記系のページはたくさんあるが、「パラグアイに行こう、イグアスに行こう」は、パラグアイ在住のジャーナリスト(前述の「パラグアイ・サッカー」と同一人物)が作成しているだけあって、記事の質はガイドブック並みで一押し。



05・パークゴルフ・ビュー2000年・6・7月号 :(有)ピー・ジー・ビュー:300円
(2000年 5月25日)

パークゴルフ専門誌であるパークゴルフ・ビューの2000年・6・7月号の18、19ページにパラグアイ・パークゴルフ事情として当方のページが紹介されました。若干の勘違い(イグアスの滝の位置、沖縄出身者など)はありますが、結構長く詳しく解説していただいております。以下にその全文を掲載いたします。

なお、セントロ日系・パーク・ゴルフのページに掲載している写真もほとんどが掲載されています。

(写真)パークゴルフビュー・掲載誌

一気に地球の反対側に飛んでいこうと思ったら、飛行機で一日以上かけて行かなければなりませんが、インターネットなら国内と同じ様に、すぐにパラグアイのホームページへ行けちゃうんですね。ただ、海外のホームページのほどんど英語や現地の言語(パラグアイはスペイン語)で作ってありますから、言葉が分からないとならないんですが、幸いなことに今回紹介するホームページは日系人の方が日本語で作ってくれているのでワタシにもわかったのです。パラグアイといってもどこにあるのかすぐに分かる方は少ないかもしれません。アルゼンチンとブラジルに挟まれた内陸の国でアルゼンチンとの国境には有名な「イグアスの滝」があります。サッカーファンには去年「コパ・アメリカ」が開催された国といえばおわかりでしょう。当時コンサドーレにいた吉原宏太選手が急遽日本代表に呼ばれて掛けつけて試合に出場、レベルの違いに「びっくりコータ」というところです。親日国のようです。

さて、そのパラグアイで日本語によるホームページを作っているのが田中裕一さんという方で、ホームページのタイトルは「セントロ日系」。「セントロ日系」は全米在住の日系人の連帯、交流を目的とした「パン・アメリカン日系」という組織のパラグアイ支部のようなもので、首都アスンシオン郊外の広大な敷地に会館やサッカー場、プール、テニスコートなどがあって、日系人が休暇や週末などにいつでも楽しめるようになっているそうです。ちょっとうらやましいですね。このホームページでは「セントロ日系」のことや、日系人関係のいろいろな話題が田中さんの手によって紹介されているんですが、その中でも今一番チカラが入っているのがパークゴルフのページです。以前は日系の人はゲートボールを楽しんでいたらしいのですが、パークゴルフの登場以来すっかり主役の座におさまり、田中さん曰く「日本の次ぎにパークゴルフの盛んな国はパラグアイです。」というくらい盛り上がっているそうです。セントロ日系の広大は敷地の中に専用コースがあることはいうまでもありません。地球の反対側の異国で苦労を重ねてきた日系人の人達が交流を深めるのに、世代を越えて楽しめるパークゴルフがお役に立っているんですね。

さて、そのホームページをのぞいてみましょう。パラグアイでは年に何回か大会が開かれているようですが、この3月1日にもコンペが行われたそうです。(季節が反対なので残暑で暑かったそうです)。この日はパラグアイの祝日ということもあり、会員一人の快気祝いを兼ねたコンペだったようです。男性が18ホールを二回、女性が一回まわり、ハンディをつけて全員に優勝のチャンスがあるようにしたそうで、栄えある優勝者は、60+61=121で2位に2ストローク差を付けた井沢よしみ・リカルドさんだったそうです。このへんのお名前が日系人らしいですね。またこの日ホールイン・ワンも出たんですが、出した人は栗田ネヌーチャさんという女性でした。

それから、この日のコンペでいかにもパラグアイらしかったのがお昼にごちそうとして豚が丸一頭出たことでしょうか。丸ごとそのまま料理したそうで、頭までちゃんと食べたそうです。沖縄出身の方も多いようですから、いろいろ料理の仕方も知っているんでしょうね。今度、パラグアイの方達が来日して交流コンペなんていうものができるようなら、是非この豚一頭まるまる料理というものを再現していただきたい、とヨダレが出てしまいました。

これだけ詳しく、写真入りでパークゴルフのことが書かれているホームページは日本国内にもそれほどありません。もう拍手喝采ですね。パチパチ。当編集部から、ホームページを作っている田中さんに送ったEメールへも早速ご返事いただき、パラグアイからホットなパークゴルフ情報を送っていただけることになりました。

ちなみに田中裕一さんは最近本を出したそうです。タイトルは「南米のパラダイス・パラグアイに住む」というもので、去年の7月15日に「アゴスト」という出版社から出ています。パラグアイのことが詳しく書かれた本は日本ではおそらく初めてだろうということですが、むずかしいものではなく「寝っころがってペラペラとめくりながら読める本」だそうです。このパークゴルフのホームページでパラグアイに親しみを感じた方、興味を持った方は是非読んでみて下さい。私はパラグアイの宣伝文句にあった「緑の国・サッカーの国・美人の国・治安の良い国・・」の「美人の国」にグッと惹かれてしまいました。梶原編集長、取材行きましょう!!


04・大人のためのパソコン絵画入門(アゴスト社)

99年12月に発売された「大人のためのパソコン絵画入門」(アゴスト社)137〜140ページに作者の書いた「南米シルバー移住最新情報」という文章が掲載されています。本の値段は1,900円で、出版社は作者の本を出版したアゴスト出版です。

内容は一般的なシルバー移住の話で、総論と各国事情を書いています。ブラジル、ウルグアイなども取り扱っていますが勿論中心はパラグアイのことです。

(写真)大人のためのパソコン絵画入門(アゴスト社)



03・アルク・地球人ムック「スペイン語・ポルトガル語をモノにするためのカタログ」

98年12月15日にアルク社が発行した本に当方の投稿記事が掲載されています。この本は副題に「すぐに使えるスペイン語入門/ポルトガル語入門」とあり、両言語を習得する人のための手引書になっています。

この本の「39ページ」にこのホームページの紹介と共に下記の原稿が掲載されています。本の値段は1,500円、雑誌感覚で楽しく読むことが出来る本だと思います。

「パラグアイ・南米の中央に位置するパラダイス」

パラグアイ共和国は南米の中央に位置する日本より一回り大きい国です。そこに人口は僅か5百万人、混沌とする世紀末の世界の中とは別世界、牧歌的で平和でのんびりとした国です。気候は亜熱帯で温暖(沖縄とほぼ同じ)、降水量は日本と同程度、また国民性はラテンの中では非常に穏やかで、心配される「治安」は南米一良いと言われており、安心して暮らすことが出来ます。首都アスンシオンは周辺を含めて人口百万余り、緑に覆われ、森林の中に街が在るといった感じで、環境は最高でしょう。またパラグアイは世界的にも珍しい「個人所得税」が無い国です、こうして並べてみますと南米の「パラダイス」と呼ばれているのもおわかりいただけると思います。

このパラグアイは親日国として知られています。他の南米諸国への移住は戦前から行われていましたが、パラグアイへの移住は主として戦後で、約20年前くらいまで集団移住が続けられ、いわば日本からの最後の移住国と言えるでしょう。当時の移住の主体は農業移住で、現在では日系大農場が生産する大豆が主力輸出品に成長し、勤勉さとあいまって、パラグアイ社会で高い評価を受けています。

現在日系人は7千人、農業以外にも商工業、医師、弁護士など多方面でパラグアイ社会に進出おり、この日系社会の存在のおかげで新規に移住した私などもスムーズに社会に入ることが出来ました。日本--パラグアイ間には「移住協定」が在り、現在でも効力があるそうです。一般の日本人であれば、パラグアイで受入先を確保し、ごく標準的な条件を満たせば基本的には「永住権」を取得することが出来るようです。

私も8年ほど前に縁あってパラグアイで職を得、国際協力事業団を通じて永住査証を取得しました。平成に入りこの数年、日本から来る人人は少なく、数人づつの移住に留まっているは居るようですが、若い方の移住、そしてシルバー移住もあるようです。この新規移住の若い方達は教師、企業への勤務といった給与所得者の他、自動車修理工場、旅行社、ペットショップ、スーパー経営、マッサージ業と個人で事業をされている方も多くなっています。発展途上のパラグアイ社会では日本よりも新規に事業を展開するのが容易なのかも知れません。何か特技もしくはアイデアがある方にはチャレンジしてみれば面白いでしょう。

また最近ではスペイン語を研修する目的の私費留学で来られている学生の姿も見られるようになって来ています。治安が良く、生活費が余りかからず、また他の国と比較すると留学生が少ないので大事にしてもらえるようです。語学留 学には狙い目かも知れませんね。語学だけでなく、正規に大学生となって勉学されている方も居るようです。

生活する面では特に不自由するものは無いと思います。アスンシオンには大きなショッピングセンター、スーパーマーケットが在り、ほぼ生活に必要なものは売られていますし、日本食品店、日本食レストランもあり、日本の味覚も何時でも楽しめます。最近ではNHKの国際放送も受信可能となり、勿論インターネットを利用して日本の情報を得ることも可能です。また、日系人が多方面に進出しており、医師、弁護士、保険、金融、旅行社など日本語で十分用がたせます。シルバー移住の方でも安心して暮らせるわけですね。勿論、パラグアイ社会に溶け込む為にはスペイン語の習得が不可欠ですが。

(写真)アルク・地球人ムック「スペイン語・ポルトガル語をモノにするためのカタログ」



02・日経ゼロワン(1997年11月号)

日本経済新聞社発行の情報関係の雑誌。在外日本人・現地発信のホームページが特集され、神瀬さんの「チリつも」等とともに紹介された、当方のページの手抜き表紙も雑誌に掲載された。確かにこの一ヶ月間は訪問者が通常よりも5割増えた。



01・朝日新聞(1997年10月 2日・木・朝刊・文芸欄・文化二都物語*全国版)

パーティーは娯楽の大様だ。

パラグアイの首都アスンシオン市は、世界でも一、二を争う緑の多い首都だ。丘から見ると屋根が見えないほど。ブラジルのようなキャバレー(ボアッチ)もほとんど無い。非常に健全だ。

そんなパラグアイの娯楽の大様が、友人同士のパーティー、フィエスタた。先日、友人の結婚式に参列した。花嫁が自分のお父さんと一緒に教会に到着。入り口で参列者のキッスでもみくちゃにされる。式が終わり、披露宴が始まったのは午後十時過ぎ。ケーキカットとなることには、既に午前零時を回っている。この後、花嫁が独身女性の太ももにガードルを付けるエロチックな儀式で盛り上がる。スカートをめくり花嫁の手が太ももの上に迫ると大きな喚声が沸く。花嫁の御利益が彼女達にも届くように、という意味があるようた。時計を見ると午前一時。これからダンスタイムで、終了したのは午前四時。これがパラグアイではごく普通だ。

結婚式以外にも、週末にはあちこちでフィエスタがあり、深夜になっても大きな音楽が聞こえる。お互い様という暗黙の了解で、近所から文句は出ない。

ただ最近、客を装う泥棒が入るケースが増えている。招待客が友人を連れて来るのは当たり前で、家主の知らない客がいても誰も疑わない。堂々と女性にキスをし、何か盗んで消えるそうだ。

変なところまでおおらか。そんなパラグアイ人気質に引かれ、気が付いたら、もう移住して六年になっていた。

掲載された朝日新聞

これは朝日新聞全国版に掲載されたもの。写真入りで掲載された。文章は当方が原稿を書いたが大方記者が書き直している。一部話が飛んでいるのでおかしくなっている個所がある。題は記者が付けてくれたもの。



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